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大 宮
(通称:大宮神社)
大阪市東淀川区大道南 3-2-2
祭神--安閑天皇
付記--乳牛牧跡
                                                        2021.06.21参詣

 大阪メトロ今里線・だいどう豊里駅の南東約300m、駅から大阪内環状線を南東へ行った左にある公園の隣り、大宮神社前交差点の南西角に鎮座する。

※由緒
 頂いた参詣の栞・『豊里鎮守 大宮略記』には
 「本社は、第27代安閑天皇を主祭神として奉斎し、明治43年10月村社豊国神社御祭神天手力男命を、大正8年6月村社橋多賀神社御祭神大己貴命を夫々合祀し、相殿に奉斎している。

 本社の起源は、安閑天皇しばしばこの地に行幸あそばされ、天皇即位の2年秋、勅して牛を放牧せしめられ、土地の発展を計らしめ給うたのを、後、その御徳を慕って祭祀奉ったのであるが、その創立は詳らかでない。
 しかし、この地は聖徳太子の伝承が多く、主祭神・御神体の御木像は聖徳太子直作と言われている」
とある。

 大阪府全志(1922)には
 「大宮神社は(豊里村大字天王寺庄)南方字長澤にあり。安閑天皇を祀れり。
 もと淀川堤の側なる字宮浦にありしが、淀川改良工事の為、明治33年5月25日当所に移転せり。

 境内に聖徳太子社あり。曾て四天王寺を建立せんとし給ひし所なるの故を以て、太子42歳のとき自ら其の像を書きて留め給ひし所なりといふ。
 明治5年(1872)村社に列し、同43年(1910)大字三番字上の島の村社・豊国神社(天手力男命)を合祀す。(以下略)
とある。


 第27代安閑天皇(在位531--35)は、継体天皇の後を受けて66歳で即位されたが、わずか5年で崩御されたという。
 その事蹟として、書紀に「筑紫国から駿河国に至る各地に屯倉を設置した」とあるのみで他に特段の記述はないが、即位2年の9月13日条に
 「大連(オオムラジ)に勅して、『牛を難波の大隅島と姫島の松原に放って、名を後世に残そう』と仰せられた」
とあり、栞がいう「勅して牛を放牧せしめられ・・・」とはこの故事をいう。(古事記は、宮名・崩御年・陵のみで、事蹟についての記述はない)
 栞は「この地に屡々行幸あさばされ・・・」というが、安閑紀に行幸を示唆する記述はない。

 安閑天皇(27代、在位:531--35)・宣化天皇(28代、535--39))は父・継体天皇の即位前(男大迹王時代)に生まれた皇子(母:尾張連の娘・目子媛)で、即位後に生まれた欽明天皇(29代、539--71)とは生母を異にし、書紀・継体元年3月条に
 「手白香皇女(24代仁賢天皇皇女)を立てて皇后とした。やがて一人の男子が生まれた、これが後の欽明天皇である。
 この方が嫡妻の子であるが、まだ幼かったので二人の兄が国政を執られた後に、天下を治められた。二人の兄は安閑天皇と宣化天皇である」
とあり、これによれば、安閑・宣化天皇は正統な皇位継承に至る中継ぎの天皇ともいえ、
 また、この時代、安閑・宣化天皇朝廷と、欽明天皇の朝廷とが並立していて、両朝廷間で抗争があったとの説もある。

◎旧社地
 当社は、明治の新淀川開削までは現在地の南東・旧淀川北岸近く(天王寺庄字長澤)にあり、栞には、
 「社殿はもと改修前の旧淀川の堤に面してあり、千年に余る楠の大樹・杉松の大樹数本・2丁余の竹藪とともに、千古を語る鬱蒼とした森嚴なる境内であった。
 当時、淀川を上る船は、この森を目標にして西風を帆一杯にはらませて逆航し、当宮の正面に到って帆を一旦下ろし、舵を北にとって帆を巻き上げて北進し、辻堂の浜にかかって舵を東し帆を元にもどして江口・鳥飼へと東進し、川を上っていったもので、徳川時代の30石船も、この森が燈台の役をして大宮大明神・大宮大権現と親しみ崇められていた。

 明治33年5月、淀川改修工事施行にあたり、境内は新淀川の河川敷となったため、現在地に遷座した。
 改修工事で、本流の流れは緩やかとなり川幅も広くなって逆巻の難所も、洪水の恐れもなくなったが、氏地は真っ二つに分断され農地の大半は河底に沈み、氏子の人々は北岸と南岸に分かれて住むようになった」
とあり(一部略)、新淀川改修前と後の地図が載せられている(下図、印:鎮座地)

 
明治18年頃(淀川改修前)
 
昭和25年頃(淀川改修後)


※祭神
   主祭神--安閑天皇
   相殿神--天手力男命・大己貴命

 ・安閑天皇--上記の通り
 ・天手力尾命--明治43年(1910)上の島の豊国神社から合祀
 ・大己貴命--大正8年(1919)橋多賀神社から合祀


※社殿等
 大阪内環状線に面して立つ鳥居を入り、参道を進んだ先か境内で、拝殿・弊殿・本殿が直線上に鎮座する(西南方向き)


大宮神社・鳥居 
 
同・参道
 
同・社殿(東より)

 当社拝殿は、唐破風向拝を有し、千鳥破風を頂く入母屋造・亙葺きの社殿で堂々としている。
 拝殿背後、弊殿を介して切妻造・平入り・亙葺きの本殿が鎮座する。
 ただ、この社殿は覆屋で、中に本殿の社殿が鎮座していると思われるが、拝殿内陣からも見えない。

 
同・拝殿(正面)

同・拝殿(側面) 
 
同・本殿(覆屋)

◎境内社
*聖徳太子社--祭神:聖徳太子
 本殿の右に鎮座する小社で、栞には、
 「聖徳太子は、この地に四天王寺を建立せんとし給いしが、洪水が多く、結局、今の天王寺に建立されたが、一旦この地に定められし故から、御年42才の時、自ら自画像を描き、本宮に留め給いしを今に伝えて奉祀している。
 又、その旧跡で西成郡天王寺庄と称していた。
 又、この時太子の別称・豊聡耳皇子から豊里町と名づけたという。又、太子縁の採家跡(サイカシ)の地名も、この時まで残っていた。現在の竹間の南西・堤防下あたりと言われている」

 大阪府全志(1922)には
 「大字天王寺庄
 本地は古来西成郡に属し、上中島の内にして天王寺庄と称す。
 摂津志村里の条に『天王寺荘属邑四』と記せるは、此の字地を指せるものならん。
 村名を天王寺庄といへるは、聖徳太子の四天王寺を建立せんとして、此の地に敷地を相し給ひしに、浪速の江口にして水害多かりしかば、此の地を捨てて玉造の岸に伽藍を創建し給ひしも、一旦相し給ひし古蹟なるより此の称起れりといふ」
とあり、当地の旧地名・天王寺庄とは、この伝承によるものという。
 ただ、当地が四天王寺の建立予定地だっとことを証する史料はなく、この伝承の出所は不明。
 なお、JR大阪環状線・森の宮駅の西前にある鵲森神社(カササギモリ)も、四天王寺が現在地に建立される以前に一時この地にあったと称しており、こちらの方が信憑性がありそう。(別稿・鵲森神社参照)

 
聖徳太子社(正面)
 
同・側面

*八幡社--祭神:応神天皇
 境内右手(北東側)、聖徳太子社の右前に鎮座する一間社流造・亙葺き小社で、栞には、
 「応神天皇は、治水治山に務められ、文化移入にも殊の外力を盡され、論語の渡来もこの時である。もともと弓矢の神であり武道の髪として全国的に信仰があつい。
 また、この社は古くより歯神さんと称へられ、歯痛を静める神としても信仰されている(歯神さんと呼ばれる所以は不明)
とある。


八幡社 
 
同 左

 拝殿の左に小振りの鳥居が立ち、その奥に境内社3社が鎮座する。
*日天社(ニッテン)--祭神:天照皇大神
 本殿(覆屋)に接するように建つ一間向拝を有する切妻造妻入り・亙葺きの小社で、中には一間社流造らしい小祠が鎮座する。
 栞には、
  「この社は安産守護の日天さんとして親しまれ、鈴の緒を腹帯に頂く人が多い」
とあるが、天照大神と安産守護との関係は不明。

 
境内社への鳥居
 
日天社
 
日天社・内陣

*楠稲荷社--祭神:宇賀御魂神
 日天社の左に鎮座する稲荷社で、栞には
  「この祠は楠(クスノキ)さんと称えて、楠の大樹の霊をも祀っている」
とある。
*豊光社(トヨミツ・祖霊社)--氏子の祖霊を祀る。
  末社への鳥居を入ったすぐ左にある小祠。


楠稲荷社・鳥居 
 
豊光社 


【乳牛牧跡】(チチウシマキアト)
 栞がいう安閑天皇の牛放牧に関連して、当社の北東約800mの大桐中学校前道路(西南角)の反対側大桐5丁目)に『乳牛牧跡』との石碑が建つ。
 ただ、石碑は道路沿いに設けられた金網柵の反対側にある遊歩道の中にあり、金網と灌木に遮られて道路からは見えない。

 石碑横の案内(大阪市教育委員会)には、
 「乳牛牧跡とは、平安時代に此の辺りに置かれていた牧場で、味原牧(アジフノマキ)とも呼ばれました。
 朝廷の薬などを司る典薬寮という役所の領地で、その名のとおり乳牛を放牧し、牛乳などの乳製品を朝廷に納めていました。

 日本書紀・安閑2年(532)9月条には『牛を難波大隈嶋と媛嶋松原に放て』という記事があり、古くから淀川流域が牛の放牧に適した土地柄であったことがわかります。
 大隈嶋・媛嶋は、現在の東淀川区・淀川区・西淀川区のあたりと推定されています。

 乳牛牧が何時ごろまで続いたかはわかりませんが、その名前は乳牛牧村や乳牛牧小学校など、最近まで残っていました。
 近くにあった乳牛山教照寺という浄土真宗のお寺には、大阪本願寺内の土で作ったという亙製の牛の像が伝えられていました。
 牛に対する厚い信仰を示すもので、この地域と牛との深い繋がりを今に伝えています」
とある。


乳牛牧跡・遊歩道入口 
(石碑は入ってすぐの右に立つ)
 
乳牛牧跡・石碑全景

石碑 

 わが国での牛乳の飲用について、資料によれば
 ・欽明天皇の御世(539--71)、百済からの渡来人・知聡が持参した医薬書の中に牛乳の薬効・乳牛の飼育法などがあった
 ・孝徳天皇の御世(645-54)、知聡の子・善那が天皇に牛乳を献上し、和薬使主(クスリノオミ)の姓を賜った(姓氏録・左京諸蕃)
というのが初見のようで、大宝律令(701)によれば、典薬寮に乳牛院との役所が設置され、
 ・そこには、「乳の戸(酪農家)から毎日三升余りの牛乳を朝廷に納め、余りは煮詰めて酥(ソ)などの乳製品が作れ」とあるという。

 これによれば、わが国での乳牛の飼育・牛乳の飲用は安閑天皇より数代後のこととも思われ、安閑天皇の御世に乳牛の放牧が行われたかどうかは不祥。

 ただ上記資料では、乳牛牧では牛乳の生産と貢納のために牛を飼っていたといっているが、森浩一氏(考古学者)は網野善彦氏(歴史学者)との対談集『馬・舟・常民』(1992)のなかで、
 「牧のことを少し説明しますと、信濃や甲斐に牧が多いということは延喜式にも記載がありますが、関東の武蔵野の台地にも牧がたくさんある。
 それを参考しにして近畿地方の牧を考えようとしたら間違っていたのです。

 大阪には古代に河内湖という大きな湖があって、大和川が何本もの川筋になって河内湖に流れ込む。それから大阪湾へ流れ出るそれらの川の両側、湖のほとりのような低湿地に河内の牧あるいは摂津の牧が集中しているのです。
 長野県や山梨県にあるような原野の地形ではなく、むしろ低湿地そして川の横・湖のほとりなのです。
 平安時代の類聚三代格に、船を漕いでいる連中と牧の人間がトラブルを起こすと書いています。
 つまり、そういう小さな川船が通るような所に馬を放していたのでしょう。

 大隈島に牛を放つという記事が日本書紀の安閑天皇2年条にあります。
 その段階には大隈島は原野のようになって利用価値がなくなったから馬を放ったのだという人がいるけれども、違うと思います。やはり淀川水系と海の交通手段との接点に、意識的に馬を飼育していた。
 たとえば、河川交通の場合は、下りはゆっくり自力で行けても、遡っていく場合は、小さな船は人間が引っ張っていますが、大きな船なら人間だけではどうにもできないので、川の横にある道を利用して馬でひきあげざるを得ないと思うのです。
 だから、そういう意味で、信濃や甲斐の大きな牧とは別に、交通の拠点にある小さな牧の役割というのは、意外に大きいのではないかと思います」
と語り、乳牛牧は単に牛乳の生産だけでなく、淀川を遡る船を引き上げるための馬の提供という役割も果たしていたのではないかという。(すぐ近くに江口という川港があり、海も航行できるような大船が遡ってきていたという)

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