トップページへ戻る

大阪天満宮
大阪市北区
祭神--菅原道真
                                                   2020.10.07参詣

 大阪のキタを東西に貫通するJR東西線(JR学研都市線の西に続く線)・大阪天満宮駅の南約200m(大阪メトロ谷町線および堺筋線の南森町駅も略同位置)、駅上の天神橋筋商店街を南下した左側(東)に鎮座する。

※由緒
 頂いた参詣の栞には、
 「奈良時代・白雉元年(650)、孝徳天皇が難波長柄豊﨑宮をお造りになりました時、都の西北を守る神として大将軍社という神社をこの地にお祀りされました。
 以来、この地を大将軍の森と称し、又後には天神の森ともいわれ、現在も南森町としてその名を残しております。

 平安時代・延喜元年(901)、後に当宮の御祭神でなる菅原道真公は太宰府に向かう途中この大将軍社をお参りになり、旅の無事を御祈願なさました。
 その後、道真公は太宰府においてお亡くなりになり、その50年あまり後の天暦3年(949)になって、この大将軍社の前に一夜にして七本の松が生え、夜毎にその梢を光らせたといわれています。
 これをお聞きになった村上天皇は、勅命によって、神社を創建され、道真公の御霊を厚くおまつりされました。
 以来、一千有余年、正直の神・学問の神として氏子大阪市民はもとより広く全国より崇敬を集めて降ります」
とある。


 これによれば、当社は
 ・孝徳天皇の難波長柄豊﨑宮遷都の頃、都の西北方の守護神として大将軍社が創建された-白雉元年(飛鳥時代)
 ・菅原道真が太宰府配流の途上、この大将軍社に参拝した-延喜元年(平安中期)
 ・道真逝去の50年ほど後に、大将軍社の前に一夜にして7本の松が生え光を放った
 ・これを聞いた村上天皇が社を建てて道真の霊を祀った-天暦3年(平安中期)
となる。

 しかし、「大阪天満宮の創祀伝承〔天神信仰と松〕(大阪天満宮史の研究・1991所収)には、当社の創祀に関する以下の伝承が記されている。
*伝承A(日本歴史地名大系・2004所収)
 社伝によれば、孝徳天皇が長柄豊﨑宮に遷都した際、皇城鎮護の神として奉斎したのが境内社の大将軍社で、当地は大将軍の森とよばれた。
 水路の要衝の地でもあったことから、延喜元年(901)道真が太宰府に向かう途中、同社に参拝したこともあり、天暦7年(953)村上天皇の勅願で道真を祀る天満宮が当社境内に創祀され、大将軍の森は天神の森と称されるようになった

*伝承B(摂州西成郡南中島惣社天満宮略縁起・1680)
 当社は人王62代村上天皇の御時、天暦年中に御建立の所なり。
 其の昔、此地の鎮守・大将軍の社の前に松7本一夜に生へ出たり。人々見て怪しみたるに、夜な夜な其梢に金色の光り射したれば、大将軍の神主いよいよ不思議に思ひ、帝へ奏聞申したるに、勅使を立て見せしめ給ふに神主の云ふに違はず、剰へ御神託あらた也。
 勅使此由を奏聞申されたれば、帝も有がたく思しめして、宮殿楼閣軒を連ねて造営ましましたる。
 其御社領として七ヶ村をそへられ、四季の祭礼おこたりなし。しかれ共、其の社領絶えにけり。
 され共、神徳あらたに今の代迄も天満大自在天神と万民崇め奉りしは有難かりし事也。

*伝承C(摂陽群談・1701)
 社家説に云、天満宮の権輿(発端)は、人皇62代村上天皇御宇天暦年中、此地〔往昔天満山と云、大なる松原なり〕に於て一夜に生たる松樹あり、其梢に霊光赫々たり。
 人之を怪しみ、帝都に告げて奏聞、即日勅使を下賜するに、将に然り。
 其夕 神託に曰、難波梅を慕て 筑紫より爰に来りと也。驚きて洛に帰り、其由を奏して終に菅原の神霊を鎮め祭るの処なり。

*伝承D(難波天満聖廟之図・1845)
 人皇62代村上天皇の御宇天暦年中、一夜に生じたる松ありて其梢に霊光あり。帝都に奏す、即日勅使を下し賜ふ。
 其夕神託ありて、難波の梅を慕ひて筑紫より爰に来けりと。驚きさめて都へかへり其由を奏して、終に神霊を鎮め祭るの処なり。

*伝承E(宮司・寺井家家事記録・年代不明)
 (大将軍社創建由緒-下記-につづいて)
 其後延喜元辛酉年、菅公筑紫国へ遷り給ふの時、右大将軍社の処に御立寄り之有り。
 村上天皇御代天暦年中に当り、菅公お立寄り御休憩之有りし大将軍社の森に、日々怪しき光り指し候ゆへ、右の趣き帝へ奏し奉るに、帝の御夢に府合いたし候由にて、即刻、御勅使を立て、天満宮の御社御造営之あり。


 伝承A・Bいずれも、大将軍社の森(天神の森)に天満宮が創建されたとするのは同じだが、
 伝承Aは、菅原道真が大将軍社を参詣したということに重点を置き、
 伝承Bは、一夜にして7本の松の木が生えたということに重点を置く
という違いがあり、
 伝承C・Dは、伝承Bに筑紫より梅が飛来したというが付加され、伝承Eは伝承C・Dに天皇の夢が付加されている。

 これらからみて、参詣の栞にいう当社由緒は、伝承A・Bを基にして作られたものと思われる。

 菅原道真・天満宮といえば“梅”というのが一般の理解だが、これは菅公が梅を愛したという伝承からのもので、この伝承は鎌倉時代の頃に始まるともいう。

 上記由緒は何れも、その創建に至る経緯として「一夜にして7本の松が生えたから」という。
 資料によれば、江戸後期頃の天神の森周囲には松林があったというから、当社周辺に松があったのは確かなようで、七本松伝承もこれを受けたものと思われ、
 また、江戸時代の境内図にも、大将軍社の正面に7本の松が描かれ『七本松 古へより爰に有』との注記があり、七本松伝承は江戸時代にも生きていたことを示唆している。

 天満宮と松との関係は当社だけでなく、
 ・北野天満宮の創祀を伝える皇代記には、『天暦元年6月9日 天神西京より北野に移る 一夜松生じ林と成る』とあり
北野の地に数千本の松が一夜にして生じ、これを奇瑞として北野天満宮が創祀されたという。

 今の天満宮では七本松伝承の痕跡は皆無といっていいが、江戸時代までは残っており、そこには梅ではなく松を以て道真の化身とする理解があったものと思われる。

※社殿等

 
大阪天満宮・境内図(資料転写、左上が北)
 
同・摂津名所図会(1798)・大阪天満宮

*表大門
 天神橋筋商店街から東へ入って少し進んだ左(北側)に「表大門」が南面して建つ。

 
大阪天満宮・表大門・全景

同・表大門 

同・表大門2
 

*十二支方位盤
 表大門の天井(境内側)に、彩色された「十二支方位盤」が吊されている。
 十二支方位盤とは、干支の十二支をもって方位を示すもので、方位北を“子”(鼠)で南を“丑”(牛)で表しその間を残る10箇の干支で振り分け、それらを動物の絵を以て表したものをいう。

 ただ当社のそれは、方位西に当たる“酉”(鳥)の絵柄として、鶏ではなく鳳凰が浮き彫りされており、当社では
 「天神様(菅公)が、道明寺の伯母さまとの早朝の別れを惜しまれて、『鳴けばこそ 別れをいそげ 鶏の音の聞こえぬ里の 暁もがな』と詠まれたという故事によって、その神慮を憚った由縁である。
 当宮では、現在でも雉や鴨はお供えするが、鶏は勿論 鶏卵さえもお供えには用いない」
と説明しているそうで、菅公の太宰府左遷の折、河内道明寺(現藤井寺市)の伯母・覚寿尼を訪れた際、朝早く鶏の鳴き声に出立を促されたという故事にもとずくものという。


十二支方位盤 (下が北)
 
同・酉(鳳凰)拡大 

 この鶏が鳳凰とされていることについて、資料・「天神信仰と鶏と鳳凰」(大阪天満宮史の研究所収)には、
 ・日本伝説大系には、鶏を忌避する『鶏飼わず』伝承は16話収められており、そのうち4話が道真に関わる伝承である
 ・今、鶏は早朝の暁を告げる鳥と認識されているが、かつては忌避すべき鳥ともいわれ、そこには
 「鶏が不吉を告げる妖鳥だとされるのは、この鳥が特別の霊力を有し冥界にも通じた存在であって、この世とあの世の境目に現れる神聖な鳥であるとともに、魑魅魍魎の跳梁する夜と人間が活動する境目を告げる境界的な鳥」
という共通の認識があった
 ・一方、鶏は雷に関係するとされ、中国には『雷神が捕らえられ鳥籠に伏せられたが、あけてみると雷神は雄鳥に変じていた」との説話があり、わが国でも、『雷雨の中、北野の稲荷社の空中で二羽の赤鶏が闘っていた』(文徳実録天安2年6月条)とか、『御所の豊楽院に、白鶏に似た雷神が落ちた』(日本紀略万寿4年条)等の説話があり、雷神は鶏であるとの認識があったらしい

 ・天神信仰の始まりは雷神信仰といわれ(道真は雷神を使役して災厄をもたらしたという)、それが怨霊信仰へと変化するに際して、避けるべき怨霊即ち雷神に似た鶏が、天神信仰で忌諱されたのは当然の成り行きであったといえる

 ・一方、鳳凰は麟・亀・龍とともに四瑞の一つに数えられる瑞鳥で、陰陽道では太白星神、そこから派生した星辰信仰では女神・西王母の乗り物として描かれることが多く、また、当社の前身である大将軍社の祭神・大将軍神の乗り物でもあった

 ・これらからみて、当社方位盤に、鶏の代わりに鳳凰が描かれているのは、大阪天満宮の創祀伝承(大将軍伝承)に仮託した選択であって、鳥なら何でもよかったのではなく、方位盤の酉は鳳凰でなくてはならなかった
とある。(大意)

*蛭子門(エビスモン)
 表大門の少し西に建ち、側らの案内には
 「当宮には6っの門があり、それぞれに毒死の用途と由来を持っている。
 当門は、入ってすぐ左手に『戎社(蛭子社)(エビスシャ)が祀られていたことから『戎門』と呼ばれてきた。
 江戸時代の戎社では、毎年正月・五月・九月の十日に『蛭子尊遷殿神事』を斎行しており、この年3回の『十日戎』には数多くの参拝者が当門を利用した。
 その後、戎社は境内西北に移されたが(現蛭子遷殿)、戎門の名は変わらずに今に伝えられています。
 昨年正月に『十日戎』を復興したのを記念して、その由来をここに記す。 平成20年正月吉日
とあり、
 門の向かって左に酒杯をもって笑い顔のエビス像が鎮座し、『御神酒笑姿』(オミキエビス)との碑が立っている。


 
 
 

*拝殿
 境内中央に一間向拝を有する入母屋造の拝殿が南面して建ち、側面から左右に翼廊が突き出しているのが特徴。


 同・拝殿(正面) 

同・拝殿(側面) 

同・内陣 

*本殿
 拝殿背後の透塀の中に、弊殿を介して大きな向拝を有する入母屋造の堂々たる本殿が南面して鎮座するが、遠くて詳細は見えない。


同・本殿 
 
同・本殿(右背後より、左の屋根は拝殿)

*登龍門
 拝殿と本殿を繫ぐ弊殿の両側に唐破風を有する唐門があり、東登龍門・西登龍門と称する。
 側らの案内には、
 「当宮は天保8年(1837)の大塩の乱で本殿及び多くの社殿が焼失し、その後弘化2年(1845)に再建され現在に廃っております。
 その当時から東・西唐門両側に龍の図柄の金燈籠がありましたが、戦前の金属供出でなくなり台座を残すのみとなっています。
 屋根の部分は威勢よく跳ね上がる鯉胴体には龍が巻き上がり、逆巻く水面から天空を舞い上がろうとしている雄姿は一見奇異のように見えますが、この唐門こそ登龍門そのものであるというのも、この龍門は中国の黄河上流で鯉などがその下に集まり、多くは登り得ないが登れば龍となるという故事に基づいています。
 それが転じて、そこを通り抜ければ必ず出世するといわれる関門の意となります。平成壬午歳初春
とある。

 門前の両側に「青銅製の燈籠」一対が立ち、台座には『登龍門金燈籠 平成14年』とあり、昇天する龍が巻き上がっているが鯉らしきものは見えない。
 戦時中に供出された金燈籠を模して再建したものであろう。


東登龍門(右の屋根が本殿) 
 
同 左

金燈籠 
 
同・胴部拡大

◎境内社
 当社には十数社の境内社が鎮座する。

【境内北側】(社殿背後)
 社殿背後に攝末社14社が東西に鎮座し、境外にも2社がある。
 左より
*蛭子遷殿
   祭神--蛭子大神(エビス)
 本殿北側に鎮座する境内社の最西端に鎮座する。
 かつて蛭子門の側にあった社を此処に遷したものといわれ、唐破風向拝・千鳥破風を有する社殿は、ちょっとした神社の拝殿といってもおかしくない規模を持っている。
 案内には、
 「常は本社相殿に奉斎されている。
 1月10日には遷座の後十日戎祭が斎行される。(遷殿とは十日戎の時だけエビス神がここに遷られるためか)
 御祭神蛭子大神は、戎・恵比須とも書く。福の神、漁民・商家の守護神として崇敬される」
とある。


蛭子遷殿 
 
同・正面 

*神明社
   祭神--天照皇大神・豊受皇大神
 蛭子遷殿の右にある小社。
 案内には天照・豊受両皇大神について簡単に記してあるが、省略。
 素木鳥居の奥に拝殿・本殿と鎮座するが、周りの樹木に邪魔されて全容は見づらい。

 
神明社・鳥居(奥に拝殿が見える)
 
 
同・本殿

*大将軍社
   祭神--八衢比古神(ヤチマタヒコ)・八衢比売神(ヤチマタヒコ・意富加牟豆見神(オオカムツミ))・久那斗神(クナト)
 神明社の右に鎮座する摂社。

 天満宮の前身とされ、延喜元年に菅原道真が参拝したという大将軍社について、社頭の案内には、
 「菅原道真公御足跡 摂社 大将軍社
  白雉3年難波長柄豊﨑宮(現難波宮跡公園)に遷都されると、その西北を護るための道饗祭が毎年6月・12月の晦日に斎行されることになった。
  のち同地に大将軍社が創祀されると、道饗祭の故事にちなんで石畳は西北方向に並べられた。
  昌泰4年(901)に菅原道真公が太宰府への途次に同社に参拝された由縁から、天暦3年(949)ここに大阪天満宮が創建された」

 HPには
 「菅公が太宰府に向かう前に参拝してという大将軍社は、境内の西北に鎮座しています。
  天満宮の御鎮座よりも250年遡った650年に創建されたといいます。大将軍社があった場所に、大阪天満宮が創建されたことになります。
  現在では、摂社として祀られており、大阪天満宮では元旦の歳旦祭の前に、大将軍社にて『沸暁祭』(フツギョウサイ)というお祭りを行い、神事の中で『租』(ソ)という、いわゆる借地料をお納めする習わしとなっています」
とある。


 大将軍社とは、天満宮創建以前から当地にあった社で、「大阪天満宮と大将軍信仰」(大阪天満宮史の研究・第2集・1993所収)によれば、
 ・大阪天満宮宮司家に伝わる由緒には、大将軍社の創祀に関連して、
 「往古御社地と申すは樹木多く生え茂り、小池なども所々に之有り、何となく物淋しき所なり。
  然るに白雉元庚戌年 長柄豊﨑宮へ長門国より或人白雉を奉る処に、何の故にか、右鳥を御放し有り之に飛び来て、右森の樹木に止る処、未だ森内に宮社も之無く、殊に物すごき場所なれば白雉止りたるこそ幸いの旨、宣旨ありて大将軍之社を御造営之有り」(以下、上記の天満宮由緒に続く)
とあり、大将軍社は、孝徳天皇・白雉元年(650)、それまでは社祠などなかった天神の森に白雉が飛来したことを瑞兆として創祀されたという。
 (孝徳紀・白雉元年2月9日条に「長門国司某が白雉を奉って・・・、白雉を園に放たれた」とあり、この白雉が当地の森に飛来した雉か)

 ・また、「天満の三大池」(1924)との資料には
 「大将軍社の祠は、むかし天神の森の中にあって、陰陽道の祠として天満山の長吏が其の祭祀を司ったもので、その社は夏越・師走両度の御禊の斎場であった」
とあり、当地には長吏と称する陰陽師が住んでいて、彼らが奉祀していたのが大将軍社(あるいはその前身)であって、毎年6月・12月の晦日に行われ半年間の穢れを祓う道饗祭(ミチアエノマツリ)の祭場だっという。


 大将軍神とは、
 ・陰陽道で方位を司る八将神(ハチショウガミ)の一・太白星(金星)の精で、殺伐を司る八将神の中で最も恐ろしい神という
 ・この神は、同じ方位に3年間留まり、3年毎に方位を移し12年をもって四方を循環するとされ、此の神のいる方位は万事に凶だという
 ただ、凶神は祀られることによって吉神に変わるとされ、大将軍神も祀られることで万民に吉をもたらす方除けの神となり、その方位からやってくる邪霊・悪神の侵入を遮り追い返すという

 当社が難波長柄豊﨑宮の西北方に位置することは、この方位から都に侵入しようとする邪霊を遮り追い返すことを期待してのことで、摂津名所図会に、
  「大将軍祠  上古浪花に皇居ありし時 四隅に鎮守し給ふ其一なり」
とあることからみて、あるいは当社とともに残る三方にも大将軍祠が祀られたかもしれない。
 (京都・平安宮では、都の四方に八将軍社が配置され、今もってその後継と称する4社が残っている)

*祭神
   八衢比古神(ヤチマタヒコ)・八衢比売神(ヤチマタヒメ)・意富加牟豆見神(オオカムヅミ)・久奈斗神(クナト)

・八衢比古・比売神は記紀等に見えないが、古事記にいう
  「黄泉国から逃げ帰った伊弉諾が筑紫の日向のアハギハラで禊ぎをしたとき、投げ捨てた褌から成りでた神・道俣神(チマタノカミ)
の異名同神で、道饗祭の祝詞には久奈斗神とともに邪霊・悪霊の都への侵入を遮り追い返す辟邪の神として登場する。
・意富加牟豆見神とは、古事記には
  「黄泉国から逃げ帰った伊弉諾が、現世と黄泉国の境に生っていた桃の実3っを、追ってきた黄泉国の鬼共に投げつけたら鬼共は退散した。そこで伊弉諾は『吾を助けてくれたように、葦原中国の人々が苦しんでいるときには助けてくれ』と仰せられて、桃の実にオオカムヅミ命の神名を与えられた」
とある。
・久奈斗神とは、書紀5段一書4にいう
  「黄泉国から逃げ帰った伊弉諾が、現世と黄泉国の境である黄泉比良坂で、追ってきた伊弉冉に『此所から来るな』といって投げた杖から生った岐神(フナトノカミ)
と異名同神で、後に塞の神(サイノカミ)・道祖神と習合している。

 いずれにしても、この4神は邪霊・悪霊の侵入を遮り追い返す辟邪の神であって、当社では、大将軍神がもつ辟邪の神格を同じ神格をもつ天つ神を祀ったものであろう。

 当社は拝殿・本殿の区別なく、前面通路から少し奥まった所に、玉垣に囲まれて唐破風向拝を有する春日造社殿1棟が南面して鎮座する。


大将軍社・社殿
 
同・社殿(側面)

*十二社
   祭神--吉備聖霊・早良親王・藤夫人・伊予親王・火霊神・火産霊神・埴山比売神・天吉葛神・川菜神
         ・藤原広嗣霊・橘逸勢霊・文太夫霊合祀殿右から)

 大将軍社の右、北鳥居への通路を挟んだ右に鎮座する横長の合祀殿で、上記12柱の神々を祀る。

 祭神12柱のうち、吉備聖霊(吉備真備又は吉備内親王)・早良親王(光仁天皇皇子、後に贈崇道天皇)・藤夫人(藤原大夫人・早良親王の母)
            ・伊予親王(桓武天皇皇子) ・火霊神(雷神・菅原道真)・藤原広嗣霊・橘逸勢霊・文太夫霊(文室宮田麻呂)の8柱は、
 何れも無実の罪あるいは政争の犠牲となって非業の死を遂げた人々の御霊(怨霊)で“八所御霊”と総称される。
 ただ吉備聖霊は吉備真備(キビノマキビ)とされるが、真備には御霊的神格はみえず、国を傾ける呪詛を行ったとして死に追い込まれた長屋王と共に亡くなった、妃・吉備内親王とみるのが妥当かもしれない。

 残る4柱は
 ・火産霊神(ホムスヒ)--伊邪那美死亡の原因ともなった火の神・軻遇突智(カグツチ)を指す
 ・埴山比売神(ハニヤマヒメ)・天吉葛神(アメノヨサツラ)--伊邪那美が亡くなろうとするときに生まれた神で(書紀5段一書3)、埴山比売神は土の神、天吉葛神は葛草の神というが水を入れる匏(ヒサゴ)の神との説もありはっきりしない
 ・川菜神(カワナノカミ)--鎮火祭の祝詞に「(伊佐奈御命が)水神・匏(ヒサゴ)・川菜・埴山姫4種の物を生み給ひて・・・」とある4座の一で、水苔の神という。
 この4神は、火の神と、それを鎮める3神を祀ったもので、埴山比売は土を以て、天吉葛神・川菜神は水を含ませた葛草或いは水苔を以て火を鎮めるとされる(鎮火の神)

 ただ、当社に怨霊神・御霊神8座に、神格を異にする4座が一緒に祀られている所以は不明。


十二社・社殿(正面)
 
同左(側面)

同・社前

*八坂社
    祭神--素盞鳴命
 大将軍社の右(東)、御輿藏2棟(鳳御輿藏・玉御輿藏)の右に南面して鎮座する小社。
 案内には
 「もと北区天神西町にあったお社を天満宮に移築奉祀した。御祭神の素盞鳴命は災厄除けの神として崇敬されている」
とある。
 災厄除けの神として奉祀されていることから、本来の祭神は防疫神・牛頭天王であったのが明治の神仏分離によって素盞鳴命に変わったと思われる。

*妻社
   祭神--大己貴大神(大国主命の別名)
 八坂社の北側に東面して鎮座する小社。
 案内には、
 「浪速古図によれば、渡辺橋北詰に鎮座ありしを、当宮にては、この社の廃れしを再興せんと昭和22年9月社殿を遷宮し鎮座す」
とあるが、社名・妻社と祭神・大己貴神とは結びつかず、当社が如何なる由緒をもつ社かは不明。

 
八坂神社・社頭
 
同・社殿
 
妻社・社殿

*白米社(シラヨネ)
    祭神--白米大神
 八坂神社の右、通路を挟んで鎮座する社。
 案内には、
 「水社 白米神社
 創祀・伝承等は不詳なれども、文政7年刊神仏霊験記絵図に記され、往古より民庶の尊崇厚かりき」
とある。

 南側の鳥居から続く短い参道の奥に、白米大神との提灯を吊り下げた大きな社殿が南面して鎮座し、社殿内にも同じ提灯が数多く下がっている。


白米社・鳥居 

同・社殿 
 
同・社殿頭

 祭神・白米大神についての案内はないが、隣接する稲荷奥宮の案内に“白米稲荷社”とあること、社殿左右の側廊に小型の朱塗り鳥居が数多く奉納されていることから稲荷神かと思われる。

 社殿の左奥に「狐・天狗の爪研ぎ石」と称する自然石があり、案内には「古代に勾玉・管玉を磨いた石である」とあるが、牽強付会の話である。


奉納鳥居(社殿西側にもある) 
 
狐・天狗の爪研ぎ石

*稲荷奥社
    祭神--稲荷大神
 白米社右横の細長い敷地に鎮座する小祠。
 案内には、
 「昭和63年師走25日、伏見稲荷大社より神霊奉斎。白米稲荷社の奥宮と称し奉る」
とある。
 朱塗り鳥居をくぐり、参道に立つ朱塗り鳥居列の奥に一間社流造の社殿が南面して鎮座する。
 社殿は別々だが、祭祀は白米社と一緒におこなわれているらしい。

 
稲荷奥社・鳥居
 
同・社殿 

*亀吉・鶴姫大明神社
   祭神--天満辨財天・亀吉大明神・鶴姫大明神

 白米社の背後、境内北側の塀に接して鎮座する小社で、朱塗り鳥居の奥に切妻造妻入りの社殿が南面して鎮座し、社殿扁額に(中)天満辨財天・(右)亀吉大明神・(左)鶴姫大明神とあるだけで、鎮座由緒等は不明。
 辨財天を挟んで鶴・亀の2神が祀られていることから、商売繁昌・長寿祈願の社かとも思われるが、朱塗り鳥居が立ち、内陣に白狐像2躰が見えるから稲荷社であろう。


亀吉・鶴姫大明神社・鳥居

同・社殿 


 白米稲荷社の右(境内北東部)、叢林の中に末社5社が東西に並んでいる。
 西側(左)から
*住吉社
    祭神--底筒之男命・中筒之男命・上筒之男命(宗像三神)
 案内には
 「御祭神3座は、それぞれ海や川の底部・中程・表面の支配者ということで、記紀の神話によれば、伊邪那岐命が亡くなられた伊邪那美命に逢うため黄泉の国に行かれたとき、そこで受けられた穢れを筑紫の日向の阿波岐原で禊祓いをされた際に、多くの神のうまれられたその中にこの三神がある」
とある。
 他の4社は南面しているが当社のみは西面し、簡単な門の奥に住吉造社殿が鎮座する。


末社5社(左が住吉社、右奥が霊符社) 
 
住吉社・正面

同・社殿 

*吉備社
    祭神ーー吉備真備(キビノマキビ、693--775)
 案内には
 「吉備真備(本名:下道真吉備)は吉備地方出身の奈良時代の貴族で、学者従二位右大臣に上がった。
  霊亀2年(714)に遣唐留学生として入唐した際、刺繍裁縫の業を持ち帰ったといわれる故事により、2月8日社前で針供養が執行され、大阪刺繍商工業者が参列して例祭が斎行される」
とある。


吉備社・正面 
 
同・社殿 

*八幡社
    祭神--応神天皇
 案内には、
 「御祭神応神天皇は、仲哀天皇と神功皇后との間に生まれられた人皇第15代に当たられる天皇で、この天皇の御代は大和朝廷の勢力が飛躍的に発展した時期である」
とある。


八幡社・正面 
 
同・社殿
*松尾社
    祭神--大山咋神(オオヤマクヒ・山の神)

 案内には、
 「由緒不詳であるが、御祭神・大山祇神は大津市坂本の日吉大社・京都市嵐山の松尾大社に奉祀されている神と同じである」
とある。




 

*霊符社
   祭神--天御中主神
 末社5社の最東端、境内北東隅に鎮座する。
 案内には、
 「御祭神の天御中主神は、天地の初め高天原に成りませる天地創造の神である。
 節分当日には、願主の延命・長寿の鎮魂祈祷を奉祀する」
とある。

 拝殿・本殿を有するのは当社のみで、鳥居の奥に、飾り気のない入母屋造の割拝殿が建つが(中央が通路となっている拝殿だが、柵で止められていて通り抜けはできない)、内陣には「霊符社」との扁額があるだけで他には何もない。
 その背後に一間社流造の本殿が南面して鎮座する。

 
霊符社・鳥居
 
同・拝殿
 
同・拝殿(側面、左に本殿が見える)

同・内陣から本殿を望む 
 
同・本殿

 今は天御中主神(アメノミナカヌシ、造化三神の中心神)を祭神とするが、霊符社と称することからみて、元は鎮宅霊符神(チンタクレイフ)を祀っていたと思われる。

 霊符とは、道教において強力な霊力をもつとされる護符で、神社等で頒布される“お札・お守り”の原点ともいう。
 その霊力を信じて奉祀すれば、天災人災を除き、妖魔を退散させ、難病死病を治癒し、人生長寿の福寿を得さしめ、ひいては国家泰平をもたらすという。
 当社が、節分の日に願主の延命・長寿を祈祷するというのも、この霊力によるものであろう。

 霊符には、ご利益に応じて多くの種類があるが、そのひとつ“鎮宅霊符”は最強の霊力をもつとされ、中国では漢の時代から朝野にわたって広く信仰され、わが国には推古天皇の御代に百済から伝来したというが、確たることは分からない。
 
 鎮宅霊符神とは、道教において北辰(北極星)・北斗七星を神格化したもので、霊符の中央に神仙と童子2躰が、その上に八卦図が描かれ、左右と下部に72枚の霊符が配されており、この72枚の霊符を並べるところに最強の霊力の根源があるのであろう。

 その霊力について、
 「漢の頃、貧しくて災厄が続いていた一家に、ある日二人の童子が訪れて鎮宅霊符を授け、『これを朝夕礼拝祈念すれば、10年にして家おおいに富み、20年にして子孫繁栄、30年にして天子がその家を訪れるであろう』と告げた。
 奇しきことと思いながらも礼拝していたら、お告げの通りに富み栄え、天子が訪れるまでになった」
との伝承があるという。 

太上神仙鎮宅霊符
(星田妙見宮頒布)

 その後(たぶん奈良時代以降)、仏教において北辰・北斗七星を神格化した妙見信仰と習合して北辰妙見菩薩=鎮宅霊符神とされ、中世になると、神道で宇宙の中心に坐すという天御中主神と習合するなど信仰の対象が広がったという。

 明治に入って、神仏分離の波の中で鎮宅霊符神信仰が邪教として排斥されたことから、河内名所図会(1801)・妙見神祠項に、
 「妙見尊は、神道家には天御中主尊と称し、陰陽家には北辰星といひ、日蓮宗徒には妙見菩薩と仰ぎて、近年、大ひに尊信す」
とあるように、妙見神は、神道では天御中主神、仏教では北辰妙見菩薩として祀られるようになり、当社の祭神が天御中主神となったのは明治以降であろう。

 今の当社は天満宮の末社に位置づけられているが、元は神主家の鎮守社だったといわれ、資料(大阪天満宮内鎮宅霊符社史序説)によれば、摂津名所図会大成(1855)の大阪天満宮境内社殿項に
 「霊符神祠 神主家の鎮守なり 本社の艮(ウシトラ)にあり、稲荷祠・吉備公祠等 其左右に列す」
とあり、神主・滋岡家が当社神主に補任された時(元禄年間という)、京都から持ちきて家の鎮守として祀ったといわれ、
 また、天満旧蹟巡り解説(昭和初年頃らしい)との文書にも
 「延宝年間(1673--81)に京都より滋岡氏が神主として補任来住の際、彼地より移転鎮座した天満宮の末社霊符社云々
とあるという。

 延宝年間・元禄年間と鎮座時期は多少異なるが、いずれにしても当社は17世紀中頃(江戸中期)に京都・滋岡氏が神主に補任された時、京都から移転鎮座した小祠らしい。

 また、この霊符社の鎮座に関連して、
 ・鎮宅霊符神は元京都付近に鎮座していたが、応永頃(1394--1427)の乱世にあたり社殿荒廃し、それを見かねた京都寺町付近の商人が、その神像を自宅にて祀った
 ・その後、それを聞いた遠州浜松城の城主・西尾隠岐守が銀三百文で譲り受けて、元禄9年(1696)、大阪天満宮の神主に寄進した
との伝承があり、その領収書的な文書が滋岡家に残っているという。(前掲資料)

*祖霊社
    祭神--大阪天満宮祀官祀職・氏子崇敬者の祖霊
 境内東北部から境外へ出た先にある星合池の左(西)に東面して鎮座する。
 案内には
 「当社は、菅公御神退1080年(昭和57年)を記念して、ご神縁の深い祖霊の生前の業績を顕彰し、子孫の繁栄を祈念するために建立奉祀した」
とある。

*宇賀社
    祭神--宇賀御魂神
 祖霊社の右に鎮座する小祠。
 案内なく詳細不明だが、隣接する星合池の案内に「昭和の初めまで、池には宇賀の社があり云々」とあることから、一旦消滅した小祠を近年になった再建したものと思われる。

 なお、大阪天満宮との関係はないが、祖霊社の左に『高座招魂社』との小祠があり、側らの案内には
 「上方落語の嚆矢は江戸期に遡り、明治に隆盛を極めるも昭和初期から存亡の危機を重ねる。
 苦難を乗り越え歩み始めた昭和32年4月1日に上方落語協会は設立された。
 今日の姿に導きし先達の高座とお支え頂いた諸氏の功績を偲び御魂をお祀りし、報恩感謝の誠を捧げるとともに技芸上達を願い之を建つ。 平成29年9月」
とある。
 隣りにある上方落語の寄席・「天満天神繁昌亭」(平成16年開業)の繁昌を祈って落語協会が建立した小祠であろう。


祖霊社 
 
宇賀社

高座招魂社 

*星合池(亀の池ともいう)
 境内北東の門を出た先にある小さな池で、星合橋の畔に鳥居(祖霊社鳥居か)が立ち(側らに星合之池との石柱が立つ)、橋を挟んで池がある。
 側らの案内には、
 「天暦3年(949)に天満宮が御鎮座になった時、この池水に霊光が映ったと伝承されている。 
 天正2年(1574)の石山軍記に『天満山の北、明星池・星合池の間、少し北に属し、織田信長本陣を布き』と記されているから、少なくとも千年以上の歴史を持つ古池である。
 なお、附近に七夕池・明星池・夫婦池等が明治年間まで現存していたことは、昔、難波碕の附近に残った沼沢の名残であると思われる。

 昭和の初めまで、池には『宇賀の社』があり、紅梅紫藤が咲き乱れ、附近には歌舞伎を常打とした天満八千代座、浪花節の国光座、吉本興業発祥の地となった天満花月吉川館などの寄席が隣接していた歓楽街であり、極めて賑やかであった。

 池に架かっている星合橋は一名『愛嬌橋』とも言う。当時適齢者の“お見合い”がおこなわれていたからである。
 また池畔にあった白米稲荷に因んだ“いなりずし”は参詣者に賞味され、有名であった」
とある。

 当地附近に星合・七夕・明星・夫婦などの池があったことは、当地に七夕信仰があったこと、南にある霊符社とも何らかの関係があったことを示唆するといえる。

 橋を渡った右に『天神橋』との銘板が見える。
 江戸時代まで木橋であった天神橋が、明治になって鉄橋に掛け替えられた時の銘板というが、詳細不明。

 
星合池脇の鳥居
 
星合池(東部分)
 
天神橋・古橋銘板

 江戸時代、この辺りは“霊符”と呼ばれる歓楽街で、霊符茶屋に代表される遊郭街があったといわれ、庶民(特に若者)にとっては手軽な遊里・遊郭だったという。
 古く、著名な神社仏閣の門前町に遊郭があるのは当たり前のことで、当所にも、浪華色八卦(江戸中期)との古書に
 「此所は碁盤屋町より這入る門あって、それより細き辻子に暖簾を連ね、婦人は曾て素人めかさず・・・腰をのばすと頭を打つ二階を座敷にも寝間にも使い・・・血気の若者は朝参のついで、空腹で遊ぶもあり、好色の修行所なり」
とあるように、あまり上品ではない遊び場があったという。

 なお、池の畔に立つ案内には
 「願い玉 
 お賽銭は、古代にお供え物として米を神前に撒いた『撒米』を起源とし、そこから派生した『撒銭』が語源だといいます。
 星合池では、古くから『撒銭』が行われていましたが、この故事にちなんだ銭形の『願い玉』を奉納致しました。
 池中の“的”(五色に塗りわけられた梅形の的)または周辺に撒き、願い事の成就を祈願して頂きたく存じます。
 的に載りました願い玉は神前にお供えして御祈祷いたします」
とあり、願い玉がうまく的に載れば良縁に恵まれるとして、若い娘さん方が橋の上から挑戦していた。


【境内南側】
 境内西南部・蛭子門を入った左右に末社3社が鎮座する。

※老松神社
    祭神--住吉大神・神功皇后
 蛭子門を入ってすぐ右(東側)に鎮座する小祠。
 案内には、 
 「古く神功皇后九州筑紫より帰航の折、巨松に風波の難を避け、樹下に社を建てたのが始まりと伝う。
 のち貞観2年(860)白砂青松の地(現老松町3丁目)を卜し、老松神社を建立す。
 平成2年6月吉日、大阪天満宮境内に遷座す」
とある。

 案内は、当社の始まりを神功皇后に付会しているが、これは伝承であって、そのまま信用はできず、当社の創建由緒・時期等は不明。

 今、老松町との地名はなくなっているが、現西天満4丁目に老松町通りとの名が残っている。 

*老松社紅梅殿・白大夫社
 蛭子門を入って左(境内西南隅)の疎林の下に、左に老松紅梅殿・右に白大夫社の2社が並び鎮座する。
・老松社紅梅殿
   祭神--御愛樹の霊
   菅公が愛でられた紅梅の霊を祀るのであろうが、案内には由緒不詳とある。
   自然石を積んだ台座の上に一間社流造の社殿が東面して鎮座する。

・白大夫社
   祭神--度会春彦
  案内には、
  「勧請年月は詳かでないが、御祭神は太宰府の配所で道真公の側近に仕えたという」
  とあり、自然石を積んだ台座の上に、唐破風向拝を有する一間社流造の社殿が東面して鎮座する。

 白大夫とは、伊勢外宮の神官・度会春彦(生没年不詳)のことといわれ、春彦は若い頃から白髪であったことから白大夫と呼ばれたという。
 道真の父・菅原是善が白大夫に託して世継ぎの誕生を豊受大神に祈願され、生まれたのが道真公で、この縁で、長年に亘って守り役として道真公に仕え、公左遷後も太宰府まで赴いて忠誠を尽くしたといわれ種々の伝承が残っているが、何処までが事実なのかは不祥。

 
左:老松社紅梅殿、右:白大夫社
 
老松社紅梅殿

白大夫社 

 境内東南部、表大門を這入ったすぐ右に『天満天神の水』との舎屋がある。
 案内には、
 「江戸時代の大阪商人は、生活用水を河川や井戸からとっていましたか、その井戸水は良水とはいえなかった。
 然し、当宮の井戸水は千日前の福井の水、道頓堀の秋田屋の水、聚楽町の愛宕の水とともに、『大阪四箇所の水』と賞され、評判の美味でした。
 そのため、中之島の諸藩蔵屋敷では、藩主の滞在中は、わざわざ当宮の井戸水を運び込み、飲食用に供する慣習があったほどです。
 このたび、現状の飲料水の紀角基準などを勘案したうえで、再び天満天神の水を取水することにいたしました。 
 往時の美味をご賞味いただければ幸甚に存じます。 平成26年7月25日
とある。

 資料によれば、注連縄を張った舎屋の中には井戸もしくは手水糟らしきものがあるようだが、外からは見えない。

 また、その右に接して小祠があり、社殿には『黒土祠』との扁額があがり、柱には『御井神』との木札がかかっている。
 黒土祠が何を指すのかは不明だが、御井神とあることから天満天神の井戸を守る水神を祀る祠かと思われる。

 
左:天満天神の水舎、右:水神舎か
 
天満天神の水舎

黒土祠 

トップページへ戻る