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大隈神社
大阪市東淀川区大桐 5-14-81
祭神--応神天皇・別雷神
                                                       2021.06.21参詣

 大阪メトロ今里線・だいどう豊里駅の北東約1km、駅を出て大阪内環状線を北西に、大桐2丁目交差点を右折(東へ)、道なりに進んで大桐中学校横を西から北に回り込んだ右手(北側)に鎮座する。

※由緒
 頂いた参詣の栞・『大隈神社略記』には、
 「当社の氏地は、もとの大隈島、即ち上中島にあたり、後の西成郡中島・大道の両村の範囲である。
 応神天皇22年(西暦291年)春三月、帝難波の地にみゆきしたまい、この大隈島に離宮を営んで宮居せられ、これを大隈宮と称した。
 その後安閑天皇(525年)秋九月、勅してここに牛を放牧せられた。後鳥羽天皇御悩の時、このちから黄牛の乳を薬料として献進したので、御平癒の後、乳牛牧の地名をたまわつた。

 応神天皇の崩御の後、里人帝の御徳をしたい、宮址に神祠を建てて帝を奉祀したのが当社の起源であるといわれている。

 爾來、当社はこの地の産土神として崇敬せられて来たが、一とせ淀川がはんらんした際、賀茂明神の御神体が漂着して霊光を放った。里人はろこび迎えて、これを産土神祠に合祀したものと思われる。
 これより社名を賀茂神祠(カモノミヤシロ)と改め、社殿を二つにわけて、一つには別雷大神を奉祀し、一つには従来の応神天皇のほかに、伊邪那美神・天照皇大神・素盞鳴尊・豊受毘売神・天児屋根命・大山咋命および菅原道真公の八柱の神を合祀し、その名を伊邪那美神社外七座社と称した。すなわち前記境内八座社である。
   (中略)
 明治4年(1871)、旧に復して応神天皇を主祭神とし、社名も大隈神社と改められ、明治37年(1904)には弊殿を設け、拝殿を再興改築した」
とあり、

 摂津国名所図会(1798)には
 *賀茂神祠
  西大道村にあり。南大道・北大道・別所等の生土神とし、曹洞宗の禅刹これを守る
 *大祖皇神祠
  同村にあり。伝云祭神応神天皇
として、賀茂明神を祀る賀茂神祠と、応神天皇を祀る大祖皇神祠との2社があるという。

 また、大阪府全志(1922)には、
 「大隈神社は大道村大字南大道字宮東にあり。別雷大神を祀れり。
 摂津志及び摂津名所図会に賀茂神祠と記せるは即ち当社にして、本地及び大字西大道・同北大道の産土神なり。
 創建の年代は詳ならず。往昔は大道寺の兼帯たりしといふ。(以下略)
とあり、ここでは応神天皇を祀る大祖皇神祠は記されていない。


 東淀川区HPに「応神天皇の離宮・大隈宮」とあるのは、応神紀22年条に
 「春3月5日、天皇は難波においでになり、大隈宮に居られた。14日、高台に登って遠くを眺められた・・・」
とあるのに対応し、
 摂津名所図会(1798)にも
 「大隈宮  旧趾西大道村なり。日本紀に云く、応神天皇22年春3月、帝難波に幸ましまして大隈宮に居し給ふ」
とある。 

 応神天皇の離宮があったという大隈島とは、太古の難波八十島の一つで、現大阪・上町台地の東側に広がる河内湖の東北部にあった島で、今の東淀川区東部がこれにあたるとされている。
 応神時代(5世紀)の大隈島は、下図(左)にみるように、西を河内潟・南を旧淀川・北を旧中津川に囲まれた島(砂洲の高まりか)だったといわれるが、天皇離宮跡の調査等はなされておらず、離宮の所在地は不明。
 なお、7・8世紀になると河内湖が縮小し、周囲は干潟化・陸地化しかけている(下図・右)


5世紀頃の難波
(右上に大隈島とある) 
 
7・8世紀頃の難波
(右上に大隈とある)

 古代の大隈島がどのような島だったかははっきりしないが、森浩一氏(1928--2013、考古学者)は網野善彦氏(1928--2004、歴史学者・中世史)との対談集『馬 舟 常民』(1992)のなかで、
 「淀川いちばん出口の、今の新大阪駅の近くに、古代には大隈島というのがありました。
 現在は地続きですが、明治18年(1885)の大洪水の時には2km四方ほどは水没しなかった。もとの大隈島ですね。
 その真ん中に大隈神社がある。そして河岸に有名な江口があるところです。あそこは銅鐸がでたり、九州的な銅矛がでたりしている。それから、弥生時代の段階で、鉄製の環状の頭がついた素環頭の刀がでたりする。
 小さな島なのですが、早くからいろいろな地域の文化や、当然人々の集まるところです。
 ここが、日本書紀でいう応神天皇の大隈宮のあったところだということになっている。
 大隈という地名から思うのですが、近畿地方には近江や河内やあちこちに隼人が分住しているし、・・・」
として、大隈島は弥生時代以前から人々が住みついていたところで、有力な首長もいて各地と交流していたらしいと語り、また大隈という地名から九州の大隈隼人との関係を推測している。


 上記HPによれば、当社はまず応神天皇崩御後に神祠を作って御霊を祀ったというが、5世紀頃の神マツリが如何なる形態だったかは不明で、何らかの祭祀がおこなわれたとしても、祭祀の都度、仮設の祭壇を作ってのそれであって、現在のような社殿を擁してのそれではなかったと思われる。
 また、別雷神の勧請時期が不明のため何ともいえないが、これとても同様な神マツリ形態だったと思われる。

 ただ、摂津名所図会に
 ・賀茂神祠(カモノヤシロ) 西大道村にあり。南大道・北大道・別所等の生土神とす。曹洞宗の禅刹これを守る
 ・大祖神祠(ミオヤノヤシロ)  同村にあり。伝へ云ふ、祭神応神天皇
とあり、江戸時代には、別雷神と応神天皇とが別々の社殿をもって祀られていたらしい。

 なお、当社御旅所として高井田と瑞光寺境内にあるが不参詣。


※祭神
   応神天皇・別雷大神(ワケイカツチ)

 応神天皇は、天皇の離宮・大隈宮が当地にあったとの伝承によるもの。
 なお上記略記は、応神22年を西暦291としているが、これは神武天皇即位年を紀元前660年とし、その後の歴代天皇治世年を割り振った架空の年次で(書紀年次)、応神天皇の治世は5世紀前半頃というのが通説。

 別雷大神とは京都・賀茂別雷神社(上賀茂神社)の祭神・賀茂別雷神を指し、淀川の洪水によってそのご神体が当地に漂着したとの伝承によるもので、江戸時代には祭神・応神天皇は忘れられ、賀茂の神・別雷神を祀る社として知られていたらしい。

 なお略記によれば、当社祭神として上記以外に、
 ・天児屋根命・伊邪那美神・天照る皇大神・素盞鳴尊・豊受毘売神・大山咋神・菅原道真の7座を挙げ、この7座に応神天皇を加えて“元の境内八座社”というとあり、
 また、その他に市杵島姫神・宇賀御魂神を祀るとあり、これによれば当社祭神は合計11座となる。

※社殿等
 略記には、当社創建以来の経緯として
 「むかしは境内が広く、老杉古松繁茂して森厳なる神域をなし、社殿もまた壮麗を極めたが、天文18年(1549)の江口合戦、さらに元亀・天正の騒乱を経て慶長・元和の大阪陣に至るまで、幾多の戦を経過する間に、当社も兵火に焼かれて頽廃し、多くの貴重な古記録や社宝も失われた。
 加うるに、元禄年間には神木が濫伐さて社頭荒涼の観を呈するに至ったが、宝永4年(1707)宮寺曹洞宗大道寺の社僧大順これをなげき、強く村人達の協力を得て漸く拝殿を再興した。
 其後文政0年(1827)には更に本殿の補修が行われたが、その頃東西52間、南北63間(3276坪)あった境内地は、明治初年に行われた境内地の払下げによって、四囲ことごとく民有地となり、今はただ昔日の面影を留めるのみとなった」
とある。

 大隈中学校を西から北に回り込んだ北側に鳥居が立ち、傍らに大隈神社との石柱が立つ。
 鳥居を入り、やや長めの石畳の参道を進んだ突き当たりに拝殿が南面(やや西に振っている)して建つ。


大隈神社・社頭 
 
同・鳥居

同・境内 

◎本殿・拝殿
 境内正面に、唐破風向拝と千鳥破風を有する大屋根に覆われた切妻造平入り・朱塗りの拝殿が建ち、
 その背後、弊殿を介して朱塗りの本殿が鎮座する。
 本殿は外から見るかぎり二重屋根を有する社殿のようだが、側面のみしか見えず、その建築様式は不明。

 
同・拝殿(正面)

同・拝殿(側面) 

同・本殿 

◎境内社
*天満宮
 境内右側(東側)拝殿の右、玉垣に囲まれたなかに鳥居と社殿を有する小社が南面して鎮座する。

 
天満宮・全景
 
同・鳥居
 
同・社殿

*稲荷社
 境内右奥に鎮座する小社で、朱塗りの鳥居の奥に南面して鎮座する。
 内陣奥を覗くと、奥の小祠に扉が3枚みえることが、市杵島姫神は此処に合祀されているのかもしれない。

     


◎乳牛山大道寺跡

 境内右奥の塀際に、「禅宗曹洞派 乳牛山大道寺跡」との石碑が立ち(右写真)、下の銅板には、
 「摂州西成郡中嶋之内、乳牛牧の荘と呼ばれたこの地域に、大道村・辻堂村・三宝寺村があり、これら3村の氏神として、賀茂大明神・稲荷神・山王神を三社相殿〔本社〕に、祇園・伊勢・春日・八幡・天神を五社相殿〔末社〕に祀り、賀茂大明神社の境内にあってた真言宗無本寺の僧が祭祀を兼帯し、上記3村は南大道村・北大道村・西大道村とも呼ばれ、まとめて三大道と称されました。
 慶長12年、無本寺は三大院と改め、真言・禅宗の社僧は法裕から全良和尚まで8代続きました。
 貞享3年、玄光和尚は大道寺と改め、三世雲門和尚は竹涼菴を起こし、修行僧は100人を超すときもあり、禅修行と神社の維持・祭礼を受けついできました。
 大道寺13世のとき明治維新を迎え、大道寺・竹涼菴を廃し、明治6年、賀茂大明神は大隈神社と改められました。
 此碑より北50mの飛地に大道寺の墓地が現存します」
とある。 

 これについて大阪府全志には、
 「旧大道寺   
 大道寺は名刹たりしも、明治維新の際廃寺となりて今はなし。
 寺は三大院乳牛山と号し、高僧玄光の開山せし真言宗にして、慶長年間には僧道祐住持たりしが、後全良代わりて住持となる。
 今の大字南大道の大隈神社は当寺の兼帯たりしも、貞享3年11月23日長崎皓寺の玄光来りて曹洞宗に転じ、学寮を設け座禅堂を置きて、専ら子弟の薫陶に努め、爾後は常に百名に近き子弟を収め、堂宇も壮麗なりしといふ」
とある。

 これらによれば、大道寺とは江戸時代まで大隈神社の境内にあった曹洞宗の寺院で、神仏混合時代のこととて社僧が大隈神社の祭祀・経営に携わっていたが、明治初年の神仏分離により廃されたという。
 名所図会に「賀茂神祠 曹洞宗の禅刹これを守る」とあるのは是を指す。

 なお、大道寺が山号を“乳牛山”と称したのは、安閑天皇(27代、在位:531--35)が大隈島に牛を放牧し、後鳥羽天皇から『乳牛牧』の地名を賜ったという故事に因むものと思われ、
 これに関連する史蹟として、当社の西南約300mにある大桐中学校西角(東淀川区大桐5丁目)の道路脇に『乳牛牧跡』との石碑が立っている。(別稿・大宮-東淀川区参照)

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