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塞の神社
大阪市東住吉区矢田6-4
祭神--八衢比古神・八衢比売神・来名戸神
                                            2020.09.14参詣

 近鉄南大阪線・矢田駅の南南西約550m、駅南から、高架線路下に設けられた遊歩道を南下、東側(左側)にある矢田公園(矢田グランド)の南側辻を西へ入った北側に鎮座する。
 社名は“サイノ神社”ではなく、“サイノカミノヤシロ”と読むのであろう。

 なお、サイノカミの“サイ”には塞・賽・幸・妻などの表記があるが、その神格からみて“遮る”との意がある“塞”と記すのが本来であろう。

 なお、グーグルマップには「宝神神社」とあるが、現地にはそのような表示は見当たらない。

※由緒
 拝殿の軒先に2枚の案内が掲げられている。
*塞の神社
   祭神 八衢比古神(ヤチマタヒコ)・八衢比売神(ヤチマタヒメ)・来名戸神(クナト)
 この神は、他界より侵入して災厄をもたらす悪魔等を防ぎ止め追い返すことを掌っています。
 呼び名を「さいの神」と申しあげることから、「幸神・妻神」として幸運をもたらす神様です。
 トンド焼き・道祖神・左義長もこの神様の御神徳をいただくお祭りです。

*道祖神

 集落のはずれや、街道の境に祀られる代表的な民間信仰における神。「道陸神」(ドウリクシン)・「道禄神」(ドウロクシン)とも。
 その形象はさまざまで、たとえば山梨県のごく一部の地域にあるような丸石形のものや、石に直接祠や天狗を刻んだものがあるが、もっとも多い形は男女の神が一対となって身体を寄せ合うものだろう。
 これは性神的・田の神的な豊饒神、夫婦和合の神としての一形態であると考えられる。

 いずれにしても道祖神が石神(シャクシン)として祀られることは共通している。その根源にもいろいろな説があるが、古事記における黄泉国と現世の境を護るとされる「道反し(チカヘシ)の神・塞坐黄泉戸大神(サイニマスヨミド)」か゜そのはじめとされる。 

肩を抱き合う道祖神像

 このため、道祖神を「さえのかみ」と訓み(宇治拾遺物語)、防災守護の「賽の神」と同神とする説や、天孫を導いた猿田彦命と天鈿女命との夫婦神とするもの、旅神である「手向け(タムケ)の神」とするものなど多くの説がある。
 が、実際にはこれらの神が複合的に習合していったものと考えられる。
 いずれにしても、道祖神が石神として祀られることは共通している。その根源にもいろいろ説があるが、古事記における黄泉国(ヨミノクニ)と現世との境を護るとされる『道反しの神』・『賽坐黄泉戸大神』がそのはじめとされる。
 このため、道祖神を“さえのかみ”と訓み(宇治拾遺物語)、防災守護の“賽の神”と同神とする説や、天孫を導いた猿田彦命と天鈿女命(アメノウズメ)との夫婦神とするもの、旅神である“手向けの神"(タムケノカミ)とするものなど多くの説がある。
 が実際には、これらの神が複合的に習合していったものと考えられる。

 こうした道祖神の祭りは、毎年旧暦1月14日の夜、小正月の晦日に火祭りとして行われ、身体健全・家運隆盛を祈る」
とある。
として、右のような道祖神像が描かれている。

 当社に関する資料は少ないが、東住吉区HP(東住吉100物語)には
 「賽の神社と『とんど行事』
*賽の神社
 馬街道と呼ばれた下高野街道[四天王寺-田辺-天美ー八下(堺市)-狭山]が南北に貫いていく矢田の一角に道祖神があります。
 村に疫病が入らぬように、また旅人の安全を祈願して祀られています。

*とんど行事
 昔、近くの川を流れてきた石が、ブクブクと泡を吹いていました。
 村人が拾い上げると、石が言うには『我は火の神であり、寒いからドンドン火を炊いて欲しい。供養してくれる人には一年間息災のご利益を与える』とのことです。
 この伝承は人によって少しずつ異なるものの、矢田聚落では、この賽の神を『火除けと家内安全の神』として大切にしています。
 毎年1月15日が“とんどの日”で、火の中に差し入れた“書き初め”が高く燃え上がるほど、学校の成績が上がるとの古老の話が伝わっています。
 戦前のとんど行事は、大和川の辺で1月14日の夜から15日の明け方まで、徹夜で行われていましたが、現在では“賽の神の石”は通常祠に納められ、とんど焼きの際に持ち出して火に掛け、とんど焼きが済めば、その石に晒し布を巻き付け、酒をかけて、元に納める神事が続けられています。
 このご利益は、“戦争中にこの地域に爆弾が落とされなかった”と信じられ、現在も灯明絶えず、この信仰が継続しています」
とある。



◎塞の神(サイノカミ・サエノカミ)
 記紀神話には次のようにある。
 ・亡くなった妻・イザナミを連れ戻そうと訪れた黄泉国(ヨミノクニ)から逃げ帰ったイザナギは、黄泉国と現世の境界である黄泉比良坂(ヨモツヒコサカ)に千引(チビキ)の大岩を据えて塞ぎり
 ・追ってきたイザナミに縁切りの呪言を告げ、「此所より入ってはならぬ」として持っていた杖を投げられた
 ・この杖から成りでた神を「岐神」(フナトノカミ)という。元の名は「来名戸の祖神」(クナトノサエノカミ)である
 ・また、坂道を塞ぎった千引きの大岩を、追ってきたイザナミを追い返したことから「道反大神」(チカヘシノオオカミ)とも、黄泉国の入口を塞いでいるから「黄泉戸大神」(ヨミトノオオカミ)ともいう

 ここでいうフナトノカミ(クナトノサエノカミ)がサイノカミの原点ともいえる神で、本居宣長(1730--1801)は古事記伝(巻6、1798)で、
 ・師(賀茂馬淵)説に、布那斗(フナト)とは、物を衝き立(ツキタテ)て、是より莫(ナ)(コ)そと留むる意の御名なり、
 ・此より来るなと障留る(サヘトドムル)処に坐す神と云意なるべしとある。
 ・口决■疏などに、此神を道祖神なりといひ、和名抄に、道祖は和名・佐倍乃加美(サヘノカミ)とあり。
 ・サヘノカミとは、かの祝詞(道饗祭祝詞)に大八衢(オオヤチマタ)に湯津磐村(霊力をもつ神聖な岩)の如く塞坐(サエギリマス)とある意にて、塞の神なり
 ・後に幸の神と云は佐倍(サヘ)を訛れる語にて、幸を祈る意とするき付会なり。
 ・さて道祖と云文字は、漢国(カラクニ)にて行ノ神(タビノカミ)と云ひ、又その神を旅立ちに祭ることを祖と云故に、此の佐倍ノ神に当て書くのみなり。神の名の意はいたく異なり。字に惑ふことなかれ。
 ・又和名抄に、道祖は多無介乃加美(タムケノカミ)とあるも、同じ此神なるべし。こは旅ゆく人の手向する神なれば名づくるなり
として、フナトノカミとはサイノカミであり道祖神でもあるという。

 サイノカミは、村境・四つ辻・橋の袂・峠の上など此方(現世)と彼方(異界)の境界にあって、外から侵入して疫病や災厄をもたらす邪神・悪神などを遮り追い返す辟邪の神をいい、一般には、同じような神格をもつ道祖神として祀られることが多い。

◎道祖神
 道祖神とは、塞の神と同じく、集落内に外から侵入してくる邪霊・悪神などを防ぐために村境や辻・峠などの境界に祀られる神で、一般には路傍に立つ石像や石祠で、石に道祖神(又は道祖・塞神)と文字のみを刻したもの、神像1体を刻したものもあるが、男女2体が並立した双体道祖神が多い(中には肩を抱き合った像・もっと露骨な像などもある)

 この双体道祖神について、柳田国男が
 「境の通路には、男神女神などの名をもって、二つの丘または岩のある例は水陸ともに極めて多く、・・・かくのごとき路を造った昔の人の考えは簡単であった。
 すなわち男と女と二人並んでいるところは、最も他人を近寄せたくない処、即ち古い意味の『人ねたき』(妬ましい)境である故に、もしその男女が神霊であったならば、必ず偉い力をもって侵入者を突き飛ばすであろうと信じたからである」
というように(橋姫・1918)、男女2体の像には邪霊を排除する強い霊力があると信じられて、そこから性神信仰と習合して夫婦和合の神とも呼ばれ、陰陽石を以て道祖神とするという。。

 なお、双体道祖神の男女の神を猿田彦命・鈿女命とする場合が多いが、これは天孫降臨に際し、猿田彦が天の八街に現れて皇孫の道案内をしたという伝承によるもので、猿田彦は案内の後鈿女を伴って伊勢に帰ったということから、双体道祖神に比定されたのであろう。


 道祖神とは、一義的には邪霊・悪神の侵入を遮る塞の神だが、後になると民俗信仰と習合し、幾つかの神格が加わっている。
 その一つが、其処を通る旅人の安全を守るという神格で(行路の神)、道祖神(塞の神)の前を通って旅する人は、その辺りの草花や小石などを供えて旅の安全・無事の帰還を祈ったといわれ、そこから「手向けの神」とも呼ばれた。

 数年前、記紀にいう黄泉比良坂の伝承地(松江市東出雲町揖屋平賀地区)を訪問したとき、比良坂伝承地から西方へ抜ける細い峠道(伊賦夜坂伝承地)の頂き附近に、小石を積んだ塚があり、側らの案内には『塞の神(道祖神)』とあった。
 この塞の神は、単に路傍に小石を積み上げただけのもので、曾て、この峠を通った人々が小石を供えて(草花なども供えたと思われるが残っていない)旅の安全を願った「手向けの神」の跡であろう。(別稿・黄泉比良坂参照)


伊賦夜坂の塞ノ神 
 
同・拡大

同・案内表示 

 道祖神は、大阪近傍では殆ど見ることはないが全国的なもので、特に長野県・山梨県・群馬県などには双体道祖神が多く、長野県安曇野市では路傍に幾つも見ることができるという。

*道祖神諸像(「安曇野の道祖神」他から転写)


文字道祖神 

並立道祖神 
 
手を取りあう道祖神
 
同 左
 
肩を抱く道祖神
 
同 左
 
酒盃をもつ道祖神(婚礼か)

同 左



※祭神
   八衢比古神(ヤチマタヒコ)・八衢比売神(ヤチマタヒメ)・来名戸神(クナト)

 ヤチマタヒコ・ヤチマタヒメ神は記紀には見えない神だが、古事記にみえる『道俣神』(チマタノカミ、黄泉国から戻ったイザナギが日向の橘小門で禊祓いをしたとき、投げ捨てた褌から生じた神)の異名同神といわれ、本居宣長は
 「道俣神 かの道饗ノ祝詞にいはゆる八衢比古八衢比売は、此の神なるべし。一神を比古比売と分けて申し、又其二神を合わせて申す例多し
という(古事記伝)


 また、延喜式にみる道饗祭(ミチアヘノマツリ、6月・12月の晦日に宮城四隅の道上で行われた祭事)の祝詞には、
 「八衢比古・八衢比売・久那斗と御名は申してお祭り申し上げます理由は、黄泉国から荒れすさび親しみ和せずしてくる物に、互いに交わり会い口裏をあわせあうことなくて、下から侵入しようとして行くなら下を守り、上から侵入しようとして行くなら上を守り、昼夜の守りとして始終皇御孫命をお守り申し上げ災禍を免れしめよというためでありまして・・・」
とあり(延喜式祝詞教本・口語訳、1959)、外からやってくる邪霊・悪神を遮り、天皇を守護し災禍を防止する神、即ちサイノカミの異名同神という。

 なお八衢とは、道が幾つにも分かれている処(交差点)をいい、人・物は勿論、邪霊・悪神もまたこれらの道を通ってやってくるとされる。

 クナト神とは、記紀にいうフナトの神(上記)


※社殿等
 玉垣に囲まれた境内の南側道路に面して鳥居が立ち、狭い境外には本殿以下幾つかの境内社が軒を接するように建っている。

 なお、当社は塞の神社と称するものの、境内に塞の神あるいは道祖神関連の社殿はなく、地蔵菩薩関連のものが多い。
 地蔵とは、釈迦没後、弥勒出世までの無仏の世における救済を受け持つ菩薩だが、六道の辻にあって普く衆生の苦しみを救うことから(賽の河原和讃では、この世とあの世の境である賽の河原に現れて、鬼にいじめられる幼時を助けるという)、境界にあって衆生を導くという塞の神・道祖神と習合しているから、当社では地蔵菩薩=道祖神として祀られたのかもしれない。

 
塞の神社・社頭
 
同・鳥居 

 鳥居を入った正面に春日造を模した銅板葺きの本殿が南面して鎮座する。
 正面の扉が閉まっていて中の様子は見られないが、上記東住吉区HPによれば、塞の神としての石神が納まっているという。


同・本殿(正面) 
 
同・本殿(側面)

◎境内社
 境内東側、本殿の右に接して祠一基が南面して鎮座する。
 社名表示はないが、中に地蔵菩薩石像らしきものがみえ、地蔵堂と思われる。

 その右、岩を組みあげた石盤の中央に刻された不動明王像が西面して立つ。

 
境内東側

境内社・地蔵堂 
 
同・不動明王像

 境内西側、本殿左側に横長の覆屋があり、中に赤いヨダレ掛けをかけた小さな地蔵尊座像が10躰並んでいる。


同・地蔵堂2 
 
堂内の地蔵尊像

同 左 

 また、鳥居を入ってすぐ左に鳥居が東面して立ち、その奥、地蔵堂2の南側に黒龍社(祭神:黒龍大神)が南面して鎮座し、その左に社名不明の石祠がある。
 石祠の扉に「三つウロコ紋」一対がみえることから、この祠も龍神(水神)に関係する祠と思われ、二つの龍神関連の祠があることは、当社に地蔵信仰と共に龍神(水神)信仰が入っていたことを示唆する。


黒龍社・鳥居 

黒龍社(左背後は地蔵堂2) 
 
社名不明の石祠

 さらに、境内西側玉垣の外にある覆屋の中に、赤い帽子を被りヨダレ掛けをつけた地蔵菩薩像が6躰並んでいる(六地蔵)
 見たところ地蔵像はまだ新しく、近年になっての造立かと思われるが、造立由緒等は不明。

 六地蔵とは地蔵信仰の一形態で、人が死んた後に輪廻転生するという六道(地獄・畜生・餓鬼・修羅・人・天)にあって人々を救済するという6躰の地蔵菩薩の総称で、墓地の入口などによく見かける。
 ここの六地蔵は、右から地獄界・餓鬼界・畜生界・修羅界・人間界・天上界それぞれにあって人々を救済するという地蔵が並び、それぞれ両手の組み方・持ち物が異なっていて(人間界地蔵は合掌形)、なんらかの意味があると思われるが詳細不明。


六地蔵堂 
 
人間界地蔵菩薩像

[付記]
 トンド祭り(トンド焼き)
 旧暦1月14日又は15日に夜を徹して行われた火祭りで、円錐状に組んだ青竹に役目を終えた門松や正月飾りなどの縁起物、旧年の注連縄やお札などを括りつけて火を掛け、その火で以て旧年の穢れを祓い、新しい一年の五穀豊穣や無病息災・家内安泰を祈る小正月の祭りで、一般には左義長(サギチョウ、三毬杖・三鞠打とも記す)という。

 左義長は平安時代から宮中行事として行われたといわれ、宮中・清涼院の庭に青竹を束ねて円錐状に立て、これに毬杖(ギチョウ・ギッチョウ、飾りをつけた槌形の杖で、之を以て木製の毬を打ち合う遊び)や扇子・短冊などを結びつけ、陰陽師が謡い囃しながらこれを焼いたといわれ、徒然草(14世紀中葉・南北朝時代)にも
  「左義長は、正月に打ちたる毬杖を真言院より神泉苑へ出だして、焼き上ぐるなり」(180段)
とあり、この頃には宮中以外でも行われていたことが知られる。

 これが民間に広まったのが“トンド焼き”(地方により呼称が異なる)で、この火で餅を焼いて食べると病気しないとか、書き初めをかざしてそれが高く上がるほど書道が上達するといわれる。
 以前は殆どの神社で行われていたが、今は、周囲に住宅等が密集したことから廃止するとか、穴の中で焼くなど火の粉が飛ばないように工夫して行われることが多い(近く神社では消防車が配置されていた)

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