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三郷橋稲荷社
大阪市城東区今福西1-14
祭神--三郷橋稲荷大明神
                                               2020.06.27参詣

 大阪メトロ長堀鶴見緑地線・蒲生4丁目駅の南東約300m、蒲生4丁目交差点から今里筋を南下、新喜多大橋手前の辻を東へ、次の信号を北へ入ったすぐ東側に鎮座する。

※由緒
 案内なく創建由緒・時期等は不明。
 管見した資料をまとめると次のようになる。

*鯰江川
 曾て当地を流れていた鯰江川は、寝屋川にほぼ平行して流れ、城東区・鶴見区など大阪市東北部の悪水排除を目的とする川で、三郷橋の下で三郷井路と合流し、今福から蒲生を通り京橋付近で野江方面から来る榎並川を合わせて、天満橋上手で大川に流れ込んでいた。
 当社の南、道路の反対側にある今福交番の辺りに三郷橋があり、そこには水害防御・増水調節のための三郷閘門が設けられていた。

*今福の丸木舟出土跡
 当社社頭に立つ案内(城東区役所)には、
 「大正6年(1917)5月、今福村(現在の今福西1丁目)の鯰江川(現在は埋め立てられて道路)の三郷閘門樋工事のとき、当地の川底から楠の大木を半分に割って刳り抜いた大きな丸木舟(くり舟)が掘り出されました。
 この丸木舟は複材式の構造で、長さ13.45m、幅1.8m、深さ0.81mと大型のものであり、古墳時代から奈良時代のものと推定されます。
 この出土した丸木舟は、昔この辺りが大阪湾の海水が流入する海(河内湾)から淀川・大和川の沖積作用により次第に湖沼(河内湖)へと変わり池や沼が点在していた頃、古代人が水上交通に用いていたものとおもわれます。

 発掘された当初、舟は三郷橋(この地から南東約30mの地点にあったとおもわれる)の近くに置かれ、各地から弁当持参で見物に来る人もあったそうです。
 その後、昭和になって大坂城内に展示されましたが、昭和20年の空襲で残念ながら焼失しました」
とあり、下写真のような資料が添えられている。


発掘された丸木舟 
 
丸木舟・寸法図 

 なお、この三郷閘門樋工事により廃材となったと思われる石柱2本が、今、皇大神宮境内に移されている(別稿・皇大神宮参照)

 これらからみると、当稲荷社は、鯰江川が埋め立てられ三郷橋が廃橋となったのちに、三郷橋及び閘門の旧蹟を記念して建立されたかと思われるが、創建に関する資料なく詳細は不明。

※社殿等
 信号交差点を北へ入ってすぐの東側、赤い柵に囲まれた狭い境内に鎮座し、道路に面して鳥居が立つ。

 
三郷橋稲荷・社頭
(交差点南より)
 
同・鳥居
 

 鳥居を入って左に四方吹き放しの拝所があり、その奥に一間社流造の社殿が南面して鎮座する。
 社殿背後に祭神名を刻した石柱が立つが、社殿との間隔が狭くよく見えない。

 
同・拝所(正面)
 
同・社殿 

※祭神
 正面鳥居の神額には「三郷橋稲荷大明神」とあるが、
 拝所に掲げる朱色の小さな鳥居には「中央:白龍大明神、左:福丸大明神、右:岩国大明神」とあり、社殿背後の石柱も同じと思われる。

[付記]

この辺りは慶長19年(1614)の大坂冬の陣での激戦地で、稲荷社横には
 正面--大阪冬の陣古戦場 今福・蒲生の戦いの跡
 側面--後藤基次・木村重成 奮戦の地跡
と刻した石碑が立ち(右写真)

 側らの「今福・蒲生激戦地の跡」との案内には、
 「慶長19年、大坂城攻撃のため、現在の天王寺・茶臼山に本陣を置いた徳川家康の命により、今福・蒲生には秋田城主・佐竹義宣、鴫野には米沢城主・上杉景勝が大軍の陣を置いた。
 今福・蒲生と鴫野は大坂城の東北に位置し、旧大和川をはさんで、佐竹軍は北側の今福・蒲生に、上杉軍は南側の鴫野と南北に布陣した。
 豊臣秀頼は大野治長に命じて、三重の柵を設けてこの地域を守っていた。

 11月26日未明、佐竹軍は今福・蒲生方面を攻め、上杉軍は鴫野の豊臣方の砦に向かった。
 双方共に豊臣方と激突し、大阪冬の陣最大の激戦となった。 

 初戦は徳川方が優勢で砦を攻め落とそうとしていた時、大坂城内より木村重成・後藤又兵衛基次が旗下の兵を指揮して駆けつけ、両勇将は先頭切って反撃し、破られた砦を取り返して勇敢に戦った結果、佐竹軍は死傷者続出、ついて鴫野の上杉景勝に応援を求め、佐竹・上杉両軍が合流、ようやく豊臣方の追撃を食い止めた。
 この今福・蒲生の合戦では、両軍とも死傷者数知れずであった。合掌

 当寺、今福・蒲生一帯は水田や沼地で、戦いは堤や街道筋で行われたと考えられる」
とある。

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