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三 光 神 社
大阪市天王寺区玉造本町14-90
祭神--天照大神・月読尊・素盞鳴尊
                                                    2020.07.01参詣

 JR大阪環状線・玉造駅の東約330m、駅北改札を出て東西道路の玉造交差点を西へ、最初の辻を左(南)へ入った先に北の鳥居が立ち、その南、通称・真田山に鎮座する。
 なお、玉造交差点を南下、3っ目の辻を左(西)へ入ると、東側入口の石段下に出る。

 当社は市街地の中にある丘陵(宰相山・真田山ともいう)の高部に鎮座し、社域全体が樹木に覆われ且つ社殿が散在しているため、社殿配置等の全体像を掴むのは難しい。
 

三光神社・付近略図

※由緒
 北鳥居脇に立つ由緒略記(石版)
 「創建は第18代反正天皇の御宇にして、以後、神職として武内宿禰の末裔たる武川氏が86代に渉って奉仕された。
 当社は、古来より日本全国で唯一中風病除の神として知られ、崇敬者は全国に存在し、6月1日から7日まで祈願大祭あり。
 又、七福神の一つ寿老神(武内宿禰)を祀り、毎月7日は大阪七福神巡りが盛んなり。

 此地はもと大阪城の出城(偃月城・エンゲツジョウ、通称・真田丸)の在りし処にして、慶長元和の大坂合戦の頃、真田幸村茲に陣し、本城より此処に至るまで地下に暗道を設け、今尚其の痕跡を本殿地下に止むるより、世俗に真田山の三光と称するに至れり。 
 境内をはじめ宰相山公園一帯は桜の名所にて、春は宰相山愛護会による三光さくら祭りあり。昭和56年5月吉日

 当社公式HP
 「当神社は、大阪城東南の丘陵(上町台)真田山に鎮座し、昔は姫山神社(大昔の姫の松原の遺跡)と称したが、全国的には真田山の三光神社となった。
 創立は仁徳天皇から三代後の人皇18代反正天皇の御宇と伝えられ、創建以後、神職として奉仕された武内宿禰の末裔・武川氏(86代)にして今に至ると言う」


 宰相山(真田山)に鎮座する当社は、江戸時代には稲荷社として知られていたようで、
*摂津名所図会(巻3・1798)
 「嬪山稲荷祠(ヒメヤマイナリノホコラ)
  玉造の南にあり。世に真田山といふ。元和の頃、真田の塁ここにありしとぞ。
  社説には宰相山といふ。加賀宰相侯の陣屋、此辺にありしより斯くいふなり。媛山は旧名なり。
  本殿仁徳天皇、これを本社とす。 稲荷神 本社の側に祭る。
  此丘にも狐穴多し。又奇なり。其外末社多し。
  此地は一堆の丘山にして、東の方を見渡せば、山州比叡山より峯続きて、次第に南につらなり、志貴・生駒・二上山・金剛山まだ一眼の中にありて風景斜ならず」

*大阪名所独案内(1889)にも
 「嬪山稲荷祠  神社は稲荷祠といへども本社祭神は仁徳天皇にて、稲荷祠は本社の側らにあり」
とある。

 名所図会の絵図をみると、本社とおぼしき社殿(拝殿・弊殿・本殿あり)の右にも社殿があり『稲荷社』と記してある(下図)
 ただ、今の当社に稲荷社を称する独立した社はなく、末社合祀殿の一社として「主守稲荷社」があり、是が嬪山稲荷祠の後継らしい(下記)


真田山稲荷社(摂津名所図会) 
 
同左・社殿部分拡大 

 また、明治以降の資料によれば
*大阪府誌(1903)
 「姫山神社は三柱神社と共に宰相山に在り。仁徳天皇を祀り日月山神社と号し、中頃姫山神社と改めしが維新後また宰相山神社となり、後また更に姫山神社とに復せり。
  三柱神社は創建以来三光宮と称せしが明治4年三柱神社と改称し以て今日に至れり。

  前社(姫山神社)は人皇18代反正天皇の御宇の創建にして、寛文元年(1661)現今の御旅所所在地に移ししが宝永3年(1706)現在の地即ち創建地に復旧せり。
  創建以後神職として奉仕せるは武内宿禰の苗裔たる武川氏にて、今に至るまで86代連綿たりと云ふ。

  後社(三光神社)は、今を去る七代前武川伊賀守と称する者、昔陸奥国青麻三光宮(現宮城県仙台市宮城野区)の分霊を其の廷内に勧請し、以来信徒諸国に増加し燈籠・鳥居・手水鉢其の他の物件を寄附し、今なお多くは其の社前に供えたりといふ。
  斯くの如くなるを以て、世人は三光宮の在るを知りて姫山神社のあるを知るものすくなし。

  この地はもと大坂城の出城の在りし処にして、慶長元和の大阪合戦の頃(1614・15)真田幸村茲に陣し、本城より此処に至るまで地下に暗道を設けたりなどと言ひ伝へ、今尚其の痕跡の如きものを三光宮鎮座の階下に止むるより、世俗に真田山の三光と称するに至れり。
  又加賀宰相の陣屋の此の辺に在りしを以て一に宰相山の名あり。 
  然れども皆新名にして、其の旧名は姫山なり」

*大阪府全志(1922)
 「三光神社は宰相山の姫山にあり、姫山は一に嬪山とも作る。祭神は仁徳天皇なり。
  もと日月山神社と号せしを、中頃姫山神社と改め、明治維新後一時宰相山神社と称せしが、後また姫山神社に復し、明治5年村社に列し、同41年4月境内にありし三光神社を合祀して今の社名に改む。
 社は反正天皇の御宇に創建せられ、寛文元年現今の御旅所所在地に移りしが、宝永3年旧地即ち現在地に複座せり。

 合祀せられたる旧三光神社は、今を去る七代前の宮司武川伊賀守の、陸奥国青麻三光宮の分霊を勧請して三光神社と称せしより、信徒諸国に増加し、燈籠・鳥居・手洗鉢其の他の寄附多く、賽者群衆しければ、世人は三光宮のあるを知りて姫山神社のあるを知るもの少なかりしが、此に至りて合祀せらる」
という。

 これによれば、
 ・反正天皇の御宇に、父・仁徳天皇を偲んで建立したのが姫山神社と思われる
 ・ただ、反正天皇は5世紀中頃(古墳時代中期)の天皇といわれ(西暦438年、中国・宋に遣使した倭王・珍を反正天皇とする説が有力)、その頃の神マツリが今のような社殿を擁しての神マツリだったとは思えず、姫山神社創建を反正天皇の御宇というのには疑問がある。
 ・資料は、“寛文元年に御旅所所在地に移り”とあるが、その地は、当社の北西約500mの空清町にある圓珠庵といわれ、浪花の梅(1799)
 「ゑさし町圓珠庵に契沖翁塚あり。此所に仁徳天皇の社(姫山神社)有りしを真田山稲荷の社地へ遷し奉る。今は稲荷の社有り」
とある。

 なお、圓珠庵とは、今、天王寺区空清町の東南角にある寺で(餌差町の西隣り)
 ・古く、当寺の東を南北に通る三韓坂に榎のご神木と祠があり、このご神木に向かって「鎌八幡大菩薩」と唱えながら鎌を突き刺すという風習があり、ご神木は「鎌八幡」と呼ばれるていた
 ・慶長19年の大阪冬の陣で、真田丸を築いた真田幸村がご神木を参詣して鎌を刺したところ、真田丸の戦いで徳川方に大勝利したので、ご神木の祠を建て替えた
 ・元禄3年(1690)、真言宗の僧で国学者だった契沖(1640--1701)がこの地にやってきて、ご神木の傍らに円珠庵を建てて住持となった(51歳から没した62歳まで)
 ・円珠庵は「鎌八幡」・「祈祷寺」ともよばれた(今、寺の塀に「悪縁を断つ寺 鎌八幡」との案内看板が掛かってているという、不参詣)
というが(Wikipedia、大意)、ネットでみる円珠庵関係資料は縁切り・悪縁断ちの話ばかりで、仁徳天皇に関する記述は見えない。

 三光神社の勧請時期を府誌・全志ともに“七代前の宮司の時”というが、それが何時頃かははっきりしない。
 ただ、摂陽奇観(1833)
  「文政3年(1820)4月1日より真田山(天照皇大神宮・青麻三光社)正遷宮(14日まで)、中風除けの守りけちえん」
とあることから、江戸後期(文政3年頃)の勧請かと思われる。

 なお、三光神宮勧請元である宮城県仙台市の青麻神社(アオソ)の由緒には
 ・文徳天皇・仁寿2年(852)、現社家の遠祖・穂積保昌が山城国から当地に来て、日月星の三光神即ち天照大御神・天之御中主神・月読神の三神を奉祀したのがはじまり
 ・保昌が里人に麻の栽培を教えたことから青麻神社と称するが、青麻三光神社・青麻権現社・嵯峨神社とも称した
 ・古来より中風病退治(常陸坊海尊の霊験による)・海上安全等の特殊信仰があり、「三度詣でれば生涯中風の難をのがれる」と伝えられる
とあり、
 常陸坊海尊の霊験について、Wikipediaには
 「天和2年(1682)、源義経の家臣であった常陸坊海尊(清悦仙人)と称する老人が当地を訪れ、中風を治す霊験を顕した」
とある。
 常陸坊海尊とは義経記・源平盛衰記には見えるが、平家物語や吾妻鏡(鎌倉幕府の公的記録)には見えない人物で、伝承では、義経最後の衣川合戦に際して物詣でに出ていて間にあわず、その場から行方不明になったといわれ、その後、不老不死となり各地を巡廻して源平合戦の有様を語ったといわれる伝説上の人物で、この地に残る海尊霊験もその類いであろう。


※祭神
   天照大神・月読尊・素盞鳴尊

 この三神は黄泉の国から帰った伊弉諾尊が、筑紫は日向の阿波岐原で禊ぎをしたとき最後に成りでた“三柱の貴い神”を指すが、如何なる所以でこの三貴神を祀るのかは不祥。
 あるいは、宮城の三光宮を勧請したとき、その祭神(三光神)三座の一柱・天之御中主神を素盞鳴尊に変えて、三貴神として祀ったかとも思われる。

 ただ、三光神社勧請以前の姫山神社の祭神は仁徳天皇で、姫山神社を創建した反正天皇が父帝を偲んで祀ったものだろうが、三光神社勧請に伴って主祭神の座を降りたと思われ、今社域の東側に小祠があり、これがその後継かもしれない(下記)


※社殿等
 北側の東西道路から南西行った先に「北の鳥居」が、側らに「三光神社」との社標柱が立ち、石段を上って境内に入る。

 鳥居の左前に石柱の基部があり、当社では「片柱の鳥居」と称し、参詣の栞には、
 「遠く生駒・金剛の連山を見はるかす景勝のこの地に永く由緒ある三光神社の御門として誇っていた大鳥居も、過ぐる第二次世界大戦の戦火を被り、その片柱のみをとどめた。
 戦後、この鳥居の復興に際して、あの悲惨な戦争を二度とくりかえすことのないよう、悠久の平和と国家の安泰を祈願して、此の方柱を後世に残すこととした。・・・」
とある。

 
三光神社・鳥居
 
片柱の鳥居 

 東側玉造筋から西へ入った突き当たりに境内へ上る石段があり、その上に「東の鳥居」が立ち、その先に本殿への石段がみえる。

 
東側入口の石段
 
石段上の鳥居


 北からの参道を南へ進んだ右側に“本殿への石段”があり、上った正面に唐破風を有する拝殿が建つ。
 拝殿背後に本殿が東面して鎮座するが、拝殿右手から樹木越しに屋根の先端部がみえるだけで(暗くて写真にならない)、本殿全体は実見できない。
 ただ、この本殿は覆屋で、中に本殿となる社殿が鎮座するらしいが、暗くてはっきりしない。


本殿への石段 
 
同・拝殿
 
同・本殿(屋根の一部)

◎境内社他
*末社合祀殿
 北の鳥居から参道を南に進んだ右手に鳥居が立ち、その奥に『末社合祀殿』(3社合祀)が東面して鎮座する。
 参詣の栞には、
  ・左:野見宿禰社(相撲の神)
    安政6年7月、天満砂原屋敷の相撲場に勧請し、その後同相撲場の難波新地六番町に移ると共に移され、同所にあったのを明治19年3月2日当社境内に移転す。(以下略)
  ・中:武内宿禰社(長寿の神)
    武内宿禰の後裔たる武川氏が三光宮の創建以後神職として奉仕し、長寿の神として祀る。(中略)
    日本で一番長寿された神で、七福神の寿老神として祭られ、戦前は浪速七福神の起点として1月7日は浪速の有名な行事で非常に賑わい、大坂バスも七福神巡りのバスを運行した程です。
  武内宿禰が超長寿であったことから、宿禰を七福神の一柱・寿老人(当社では寿老神という)として祀っているが、本来の寿老人は道教の神であり、これを同体とするのはおかしい。
  ・右:主守稲荷社
    加賀宰相侯(前田家)の陣屋が此辺りにあり、宰相山という。此丘は狐の穴が多く、本社の脇に稲荷社を祀る。
とある。

 ただ、当社では武内宿禰を七福神の一・寿老人(ジュロウジン・当社では寿老神と記す、読みは同じ)として祀っているが、寿老人は元々道教の神であって武内宿禰とは無関係(下記)

 また、主守稲荷社の説明に「宰相山は狐穴多く・・・」とあるが、これは摂津名所図会の記述と同じで、この稲荷社は江戸時代に繁盛した嬪山稲荷祠の後継社と思われる。
 当地に加賀宰相侯の陣屋があったというが、それが何時のことかは不明で、大坂夏の陣の時かもしれない。

*仁徳天皇社
  社域東側にある空き地の隅に鎮座する小祠が是だと思われるが、社名・祭神等の案内はない。
  ただ、参詣の栞に、
   「餌差町円珠庵に仁徳天皇の社あり、当時西の方地形低く真田山に遷し奉る」
とあることから、反正天皇が父帝・仁徳天皇を祀ったという社(姫山神社)の後継社で、三光神社勧請により、仁徳天皇が本社祭神から末社祭神へと貶められたのかもしれない。
 いま、当社境内に姫山神社の痕跡はみえない。


末社合祀殿・鳥居 

末社合祀殿 
 
仁徳天皇社?

*寿老神像

 拝殿の右前に、右手に杖を突き、左手に亀をもつ福与かな笑顔の老人像が立ち、案内の石柱には『寿老神』とある。

 参詣の栞には、
 「大坂七福神
 大坂七福神のはじまりは“摂陽奇観”享和3年(1803)条に、『今年七福神順拝発起』とあり、その4番目に『寿老神真田山いなり社(現三光神社)』とある。
 しかし、いつのまにか途絶え、大正3年に“浪速七福会”を復興し、その後大坂七福神社会により現在にいたる」とあり、当社以下七福神を祀る七社寺の名が列記してある。

 当社に祀られる寿老神とは道教の神仙・寿老人のことで、南極老人星を人格化したとされる伝説上の人物をいう(生まれは中国)
 左手に長寿の象徴・亀をもつことから長寿延命・富貴長寿の神として祀られたのであろうが、当社では末社祭神の一で超長寿であったという武内宿禰と習合しているが、牽強付会としかいいようがない。

寿老神像

*真田幸村像と真田の抜け穴
 北からの参道を南に進んだ右に鎧・冑姿で采配を振るう武将像が立ち、「真田幸村公之像」とある。
 参詣の栞には、
 「真田の抜け穴脇に真田幸村公の陣中指揮姿の銅像を建立(昭和62年5月5日)・・・」
とある。

 大阪冬の陣(1614)で、幸村が当地一帯に大坂城の出城・真田丸を築き徳川方と対峙したことに基づいて建立されたものだろうが、真田丸が当地にあったとの確証はなく、当社の西・餌差町にある明星学園付近とする説が有力という。

 幸村像左の石垣の下に、真田丸から大坂城に至るという「真田の抜け穴」の入口が口を開け、参詣の栞には、
 「大坂城の出城のあった処で、慶長元和の大阪合戦の頃、真田幸村が此の地に偃月城と名付ける塁を定め、本城よりここ至るまで地下に暗道を設けたと言い伝えられ、今なおその痕跡を三光宮鎮座の階下にあり」
とある。

 ただ、この穴が大坂城まで続いていたとの確証はなく、大坂夏の陣(1615)で徳川方、特に真田丸を攻めた加賀宰相軍が掘った坑道との説もあり、この真田の抜け穴は真田丸当地説にともなって作られた伝承であろう。

 
真田幸村像
 
伝・真田の抜け穴 

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