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少彦名神社
大阪市中央区道修町2-1-8
祭神--少彦名命・神農炎帝
                                                   2020.05.30参詣

 京阪電鉄・北浜駅(大阪メトロ堺筋線・北浜駅)の南約400m、駅を上がって堺筋線を南下、5本目の通り(道修町通り)を西へ入ってすぐの北側、ビルに挟まれて当社への入口・〆鳥居が立つ。
 地元では、少彦名社というより神農さんの呼称が通りやすい。

※由緒
 くすりの道修町資料館HPによれば、
 「ここ大阪道修町(ドショウマチ)は、豊臣時代頃から薬種取引の場として、薬種業者が集まるようになっていました。
 江戸時代になると、幕府は道修町の薬種屋124軒を株仲間として、唐薬種や和薬種の適正検査をし、全国へ売りさばく特権を与えました。
 薬は、人命に関わるものであり、その吟味は大変難しいものがあります。
 そこで、神の加護によって職務を正しく遂行しようと、安永9年(1780)、京都の五条天神から少彦名命を仲間の寄合所にお招きし、神農炎帝とともにお祀りしたのが始まりです」
とある。

 その後の沿革として、
 ・天保8年(1837)の大塩平八郎の乱で仲間寄合所が焼失、同11年寄合所内に祠堂を設けて祭神を遷座
 ・明治39年(1906)、独立した神社として境内地を拡充し、社殿・社務所等を新築、同43年(1910)正遷宮
 ・昭和20年の大阪大空襲には被災を免れ、同55年(1980)拝殿・本殿を修復、社務所新築、二百年祭を斎行
 という。

 また、大阪府全志(1922)には、
 「少彦名神社は道修町2丁目にあり。少彦名命を祀る。
 社記に依れば八代将軍徳川吉宗薬種商124軒に株を許可したる為め、同町に薬種市場として確認せらる。
 然るに、薬品の取扱いは人命に関する商売なるを以て、其の過なきを期すると共に報本反始の誠を致さんとの旨意に基き、享保7年京都松原通り五条天神の分霊を勧請して、寄合所に鎮座せり。是れ当社の起原にして、俗に神農様と称するは、以前同会所に漢土の薬師神たる神農氏を祭りしことあるに依れり。
 天保8年大塩の乱に建物一切烏有に帰せしわ以て、同11年新築し、明治42年社地を買収して更に社殿を改築せり(以下略)
とある。


※祭神
   少彦名命(スクナヒコナ)・神農炎帝(シンノウ エンテイ)

◎少彦名命
 出雲の大神・大国主神(大己貴命)とともに国造りをなした神で、
 古事記に
 「オオクニヌシが出雲の美保の岬に居られた時、波頭かの上から、カガイモの実の舟に乗って娥の皮の衣服を着た小さな神がやってきた。
 その名を尋ねても応えず、お供の神々も知らなかったが、クエビコ(案山子の神)が『この神はカミムスヒ神の御子のスクナヒコナの神です」と伝えた。
 そこでカミムスヒ神に尋ねると、『それは吾が手の間からこぼれ落ちた子である。お前(スクナヒコナ)はアハラシコオ命(オオクニヌシ)と兄弟になって、この国を造り固めよ』と仰せられた。それからこの二柱の神は協力してこの国を造り固められた。
 そのスクナヒコナの神は海の彼方の常世の国にお渡りになった」
とあり、
 書紀・神代紀8段一書6には
 「オオナムチ命とスクナヒコナ命は力を合わせ、心を一つにして天下を造られた。
 また現世の人民と家畜のためには病気治療の方法を定め、また鳥獣や昆虫の災いを除くためには、マジナイの法を定めた」
とあり、ここからスクナヒコナは病気治療・医薬の神とされる。

◎神農炎帝
 神農炎帝は、中国神話上の三皇(伏羲・神農・女媧)の一人で、中国の古典・史記(平凡社版・1972)には
 「炎帝神農氏は姜(キョウ)姓である。母は女登(ジョトウ)といい、神竜の徳に感応して炎帝を生んだ。炎帝は人身牛頭で・・・
 木を切って鋤をつくり、木をたわめて鋤の柄をつくり、鋤鍬の使用法を万人に示して、はじめて耕作を教えた。その故に号を神農氏という。その後、蜡祭(ササイ、収穫祭の一種)をさだめた。
 赤色の鞭で草木をむち打ち、百草を嘗めてみて医薬を発見し、また八卦をかさねて六十四卦をつくった。
 人々に市をひらき、物々交換して夕方帰ることを教えた。人々は安んじて生活できるようになった。
 はじめ陳に都し、のちに曲阜(キョクフ)に居住した。王位について百二十年で崩じた。長沙に埋葬された」
とあり、当社HPには、
 「中国医薬の祖神  商売の神 百草を嘗めて効能を確かめ、医薬と農耕を諸人に教えた」
とあり、大阪では、当社のことを「道修町の神農さん」あるいは単に「神農さん」として親しまれている。

※社殿等
 堺筋線から道修町通りに入ったすぐの右側に入口の〆鳥居が立ち、二つのビルに挟まれた狭い通路を入って境内に至る。左側のビル1階に当社社務所がある。

 
少彦名神社・社
 
同・〆鳥居(入口)
 
同・通路

 通路の奥、境内に入る手前に鳥居が立ち、狭い境内の正面に唐破風向拝を有する入母屋造の拝殿が鎮座する。
 拝殿の背後に本殿が鎮座するが、境内いっぱいに拝殿・社務所等が建ち、実見不能。

 拝殿内陣に、当社の象徴でもある「張子の虎」が鎮座し、頂いた由緒書きには
 「江戸末期の文政5年(1822)大阪でコレラが流行した際、道修町の薬種商が虎の頭骨などの和漢薬を配合して作ったのが『虎頭殺鬼雄黄圓』です。
 病名と薬名に“虎”の字が当てられていたことから「張子の虎」がお守りとして、薬とともに人々に配られました。
 明治時代に入り、薬の配布が廃止されましたが、張子の虎は家内安全無病息災のお守りとして全国に広まりました」
とある。
 今でも当社の例祭・神農祭(11月22・23日)には、笹につけた張子の虎が施与されている。

 
同・鳥居

同・拝殿 

同・内陣 

 狭い境内に注連縄を張ったご神木が聳え(狭い空間を上へ上へと延びている)、通路入ってすぐに谷崎潤一郎作「春琴抄」(昭和8年・1933)の記念碑が立ち、案内には
 「谷崎潤一郎が、道修町を舞台に借りて、松子夫人に対する思慕を、架空の人物--幼時に失明した琴三弦の天才・春琴と、彼女に献身的に仕える佐助に託して創作した、日本文学史上屈指の名作である」
とある(未読)

 
ご神木
 
春琴抄記念碑 

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