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摂津(住吉郡)の式内社/住吉大社
大阪市住吉区住吉2丁目
祭神--表筒男命(ウワツツノオ)・中筒男命(ナカツツノオ)
            ・底筒男命
(ソコツツノオ)・息長足姫命(オキナガタラシヒメ)

                                                               2009.5.13参詣

 住吉大社は、延喜式神名帳(927撰上)に、
   『摂津国住吉郡  住吉坐神社四座 並名神大 月次相嘗新嘗』
とある式内社で、摂津一の宮として、月次祭・相嘗祭・新嘗祭などに当たって最高の待遇を受けた古社。
 なお、大社境内には、本宮4社の他に摂社4社・末社21社が鎮座し、そのうち『大海神社』(ダイカイ)・『船玉神社』(フナタマ)の2摂社及び末社の『種貸社』(タネカシ、多米神社)は式内社である。

住吉大社/境内略図
住吉大社・境内略図(由緒略記より転写)
住吉大社/摂津名所図会
摂津名所図会(1798江戸中期)


 南海本線・住吉大社駅から東へ、商店街を抜けるた先に住吉大社の神域が広がり、一の鳥居をくぐり反橋(通称-太鼓橋)を渡ると本宮境内に入る。駅から大社の反対側に出て、住吉公園を抜けた先に所謂「高燈台」がある。

住吉大社/一の鳥居
住吉大社・一の鳥居
住吉大社/高燈台
同・高燈台


 今、住吉はスミヨシと読むが、平安時代以前までは“スミノエ”と読まれ(平安時代には両方の読みがあったという)、住江・清江・墨江・墨之江・須美乃江などとも書かれた。
 摂津国風土記・逸文に、
 『住吉というわけは、昔、息長足比売(オキナガタラシヒメ)の天皇(=神功皇后)の御代に住吉の大神が出現なされて天の下を巡行し、住むべき国を探し求められた。その時、沼名椋(ヌナクラ)の長岡の前(サキ)においでになった。そこで「これはまことに住むべきよい土地だ」と仰せられて、「真住吉(マスミエ)し住吉(スミノエ)の国」と褒めたたえて、神の社をお定めになった。今の人は略して「須美乃叡」(スミノエ)と称する』
とあり、“住むに好い土地”という意味で“スミノエ”と呼んだとある。

 今の住吉大社は海から遠く距たっているが、古代の大阪湾に南から北へと突出していた上町台地の基部西麓に位置する住吉の地は、古事記・仁徳条(5世紀前半頃)に『墨江の津を定めた』、日本書紀・雄略14年条(5世紀後半)に『呉に使いした牟狭村主青(ムサノスグリアオ)が、連れ帰った機織女と共に住吉の津に泊まった』とあるように、“スミノエの津”と呼ばれる港があった。その住吉津に面して鎮座していたのが住吉大社である。ただ、住吉津の盛期は5世紀までであって、6世紀にはいると、その繁栄は北方にあった難波津(現中央区三津寺付近ともいう)に移っていったという。

※祭神
 ・第一本宮(東)--底筒男命(ソコツツノオ)
 ・第二本宮(中)--中筒男命(ナカツツノオ)
 ・第三本宮(西)--表筒男命(ウワツツノオ)

 祭神のツツノオ三神は、
 「(黄泉国から戻ったイザナギが、黄泉の穢れを祓い浄めるために、筑紫の小戸の橘のアワキ原で禊ぎをしたとき、)海底で濯いだとき底津綿津見神(ソコツワタツミ)とともに“ソコツツノオ”が生まれ、海の中ほどで濯いだときナカツワタツミ神とともに“ナカツツノオ命”が生まれ、海の表面で濯いだときウワツワタツミ神とともに“ウワツツノオ命”が生まれた。・・・、この三柱のワタツミ神は阿墨連等が祖神として齋く神で、・・・、三柱のツツノオ神は、墨江の三前の大神である」(古事記・大意)
とある三神だが、
 仲哀天皇記には、
 「仲哀天皇が熊襲征討のために神託を乞うたとき、名のわからぬ神が神功皇后に神かがりして新羅を討てと告げたが、天皇は神託を信じなかったので神罰を被って死んでしまった。そこで皇后が、改めて神託を乞い神名を問うたところ、『これはアマテラス大御神の御心であり、またソコツツノオ・ナカツツノオ・ウワツツノオの三柱の大神である』と名乗った」
とあり、「この時、その三柱の大神の御名は顕れた」と注記している(古事記・大意)
 これからみると、ツツノオ神の顕現伝承が二つあることになるが、神代記から仲哀記までの間にツツノオ神に関する記事がないことからみて、イザナギのミソギによって出生し一旦隠れていた神(あるいは祭祀をうけてなかった神)が、改めて神功皇后の前に顕れたとも解されるが、ツツノオ神本来の顕現伝承は仲哀記のそれであって、神代記の伝承は、元々ワタツミ神の顕現伝承だったものにツツノオ神を付加したものか、海神顕現にかかわる同じような伝承をもつ二つの祭祀集団(阿墨系と住吉系)の主張を重ねあわせて並記したとの説もある。

なお、古事記にワタツミ神とツツノオ命と“神”と“命”とが使い分けられていることについて、「“神”とは宗教的意義での神であり、“命”とは宗教的意義を含まない、人としての称である」という(田中卓「住吉大社史」に引く津田左右吉説)。とすれば、ツツノオ命は人的性格の強い神ということになり、そこから住吉大神の現人神的神格が生まれたともいえる。ただ、この説が一般に是認されたものかどうかは不明。

 このツツノオ三神については、以前から
①ツツは津路の意味で、海路を司る神説(岡吉胤)
②筒之男をツ(~の)+ツノオ:津之男と解し、“津之男”とは津(港)を司る長神(オサガミ)とする説(山田孝雄)
③船の中央に立てる帆柱の基部(ご神体を納める部分を「筒・ツツ」といった)に納めた“船霊”(守護霊)とする説(岡田米夫)
④対馬の豆酘(ツツ)を本拠とする阿墨系海人の“ツツの男”の意とする説(田中卓)
⑤ツツを“ユウヅツ”(金星)のツツとして、“星の神”とする説(吉田東伍)
⑥同じ星の神でも、方位(東西)の目印ともなるオリオン座の“三つ星”(カラスキ星)とする説(大和岩雄)
といった諸説がある。

 ①“津路説”--ツツノオ神の航海守護神という神格から導いた単純な説。
 ②“津之男説”--“~の津之男”ということで、例えばソコツツノオとは“底の津之男”となる。住吉の津之男というのならわかるが、底の津之男とは解せない。
 ③“船霊説”--船霊(フナタマ)を納める中央帆柱基部の空洞を“ツツ”と呼ぶことからの説で、帆柱は船霊が降臨する神木でもある。この船霊説は境内摂社・船玉神社に関係する。
 ④“豆酘説”--対朝鮮航路の要衝であった対馬の南西端に位置する豆酘は、皇后の新羅遠征時に行宮が置かれ、諸神を祀り祈ったという。この豆酘を支配し、皇后の遠征に功があった“豆酘の男”がツツノオ神とする説。ただ、今、豆酘に住吉神社はなく、鎮座する多久頭魂神社(タクヅダマ)の祭神はアマテラス以下(本来はツツノオであろうとはいう)で、対馬全島をみてもツツノオ神を祀る神社がないことが、この説の弱点だという。
 ⑤“星神説”--ツツが星の古語であることから、ツツノオを星の神と見たもの。特に金星は、一年を通じて夕方の西の空に現れ(宵の明星)、明け方には東に見える(明けの明星)ことから、海上で方向を知る指標とされた。古く、金星は“ユウツツ”(ユウヅツ・ユウツヅ)と呼ばれ親しまれ(枕草子にも「星はスバル、ヒコホシ、ユウツツ・・・」とある)、同じツツを名乗ることから、ツツノオ神を方位を知る当て星・金星とする説。
 ⑥“三つ星説”--オリオン座は代表的な冬の星座だが、その中心に見えるミツボシ(カラスキともいう)は、天の赤道に位置し真東から真西へと巡る星で、特に、初冬から暮春にかけての夕方、真東の空に縦になって昇り、斜めになって南の中空を巡り、明け方、真西の地平線に横一文字になって沈む(昇ってくる時間は季節により異なる、例えば夏には明け方に昇る)
 そこから、古代の海人たちにとっての三つ星は方角を知る当て星であり、これを神格化して、同じ航海の守護神とされるツツノオ三神とする説。
 金星・三つ星いずれにしろ、ツツノオ三神は鎮座の際に「行き交う船を見守る」と告げたとあるように、航海の安全な道しるべ、燈台のように役目をはたす神格をもつことから、その具象化がオリオン座の三つ星であり金星であろう。

 第四本宮に祀られるオキナガタラシヒメとは神功皇后のことで、住吉大社神代記(伝・天平3年-731、異論があって9世紀末頃ともいう、以下「神代記」という)には、
 『(神功皇后が、住吉の地にツツノオ三神を祀ったのち)「吾は御大神(ツツノオ三神)と共に相住まむ」と詔り賜ひて、御宮を定め賜ひき』
とあるが、これは付会であって、住吉大社における皇后の実像はツツノオ三神を祀る巫女であって、日の神を祀る日女(ヒルメ・巫女)だったオオヒルメがアマテラスとして祀られるようになったのと同じく、ツツノオ三神を祀る日女だった皇后が、祀る側から祀られる側へ移ったのであろう。
 奈良時代以前から祀られていたようだが、その時期は不明。

※鎮座由緒
 日本書紀・神功皇后2年条に、
 『新羅遠征から帰還した神功皇后は、紀伊水門から難波に向かうが、船が進まなくなった。そこで武庫の港に入って占ったところ、・・・、ツツノオ三神が
 「わが和魂(ニギタマ)を大津の淳名倉(ヌナクラ)の長峡(ナガヲ)に居さしむべし。すれば往き交う船を見守るもできる」
と告げた。そこで神の教えのままに鎮め据えた』(大意)
とあり、神代記には
 『ツツノオ三神が
  「吾が住はむと欲ふ地は淳名椋の長岡の玉出の峡(ヲ)ぞ」
と告げたので、その地に住んでいた手搓足尼(タモミスクネ)を神主として祀らせた』(大意)
とあり、これ以降、タモミノスクネ(田裳見宿禰)の後裔とされる津守氏が住吉大社の祭祀を司ることになる。
 なおツツノオ三神は、当地への鎮座に先立って、難波への帰還の途中、
 「吾が荒魂をば、穴門(アナト)の山田邑に祭(イホ)はしめよ」」
と託宣して祀られている。今、山口県下関市にある住吉神社がそれという。

 ツツノオ三神が祀られた淳名倉の長峡の場所について、
 ・摂津国菟原郡住吉郷(現神戸市東灘区住吉)を充て、そこから現在地に移ったという説(本居宣長)
 ・坐摩神社が鎮座していたという現大阪市天満橋付近(山根徳太郎)
との説などがあるが、地形などからみて、最初から現在地にあったというのが多数説となっている。
 因みに、淳名倉(淳名椋)・ヌナクラの“クラ”とは“神が降りたまうべき処”(柳田国男)の意で“ヌナ”は“場所に冠する美称”、そこから“ヌナクラ”とは“神が坐す聖地”を意味し“海に面した小高い場所”の意も含むという。

 住吉大社の神主・津守氏は、新撰姓氏禄に
 「摂津国神別(天孫) 津守宿禰 火明命(ホアカリ・天孫ニニギの子)八世孫大御日(田)足尼(オオミタのスクネ)後裔也  尾張宿禰同祖」
とある氏族で、上記のタモミスクネは火明命17世の孫とされる。その後裔である津守氏は、住吉大社の祭祀を司った氏族として知られるが、単なる祭祀氏族ではなく、摂津国住吉郡の郡司などの官職にも任ぜられた在地の有力氏族で、遣百済使・遣高麗使・遣唐使などに津守系の名が残っているように外交にも係わったという。神別(神の後裔)とはいうものの、それは加飾であって、本来の出自が海人族で航海術に長けていたからであろう。
 ただ古代の祭祀氏族は、阿墨氏がその祖神・ワタツミ神を祀るように、その神を祖先とあおぐ氏族によって祀られることが多いが、ツツノオ神は津守氏の祖神ではない。(ツツノオ神を祖神とする特定氏族はない)

※社殿
 ツツノオ神を祀る第一から第三本宮の社殿は、それぞれ独立した社殿が西面して縦(東西)に並び、第三本宮の横(南側)に神功皇后を祀る第四本宮が建つ。天平時代(729--49)には、現在と同じ並びであったと推定されている。
 通常の神社本殿は南面して建ち、複数の場合には横一列に並ぶのが普通だが、当社のように西に向いて縦に並ぶのは異例である。住吉大神は航海の神であるから海=西に面するのは解せるが、それが縦列する理由にはならない。また西面といっても真西ではなく西北西に当たるという。これを逆にいえば、東南東すにわち立春頃の朝日の昇る方角である。

 住吉大社の本宮が縦列する理由は不明だが、ツツノオ三神をオリオンの三つ星とみる説では、三つ星は縦に並んで昇ってくる、特に夏の土用のころの三つ星は、明け方の東の空に3日間にわたって一つずつ増えながら昇ってくる(土用一郎・二郎・三郎ともいう)。そこから、住吉大神が表・中・底と一神ずつ顕れた姿は、三つ星が一つずつ直立して顕れる様を表し、それを視覚化したのが縦列した社殿列だという(日本の神々3)

 住吉大社本殿の建築様式は“住吉造”と呼ばれ、4殿共に国宝となっている。間口二間・奥行四間の社殿は檜皮葺・切妻造・正面妻側に昇殿のための階段があり、基本形は古代の穀倉を写したものという。内部は内陣・下陣の二部屋のみで簡素な造りとなっている。屋根には置千木と5本の四角形堅魚木が乗っている。周囲を板玉垣と朱塗りの荒板垣で囲い、板玉垣の正面には住吉鳥居が立つが、本殿に近接して拝殿が建つためよく見えない。
 今でも21年毎に式年遷宮がおこなわれているが、現在の本殿は文化7年(1810)建造(昭和28年-1953-国宝指定)というから、伊勢神宮のように場所を変えて建て替えるものではないらしい。最近の遷宮は平成3年(1991)(2009・5現在、第一・第二本宮は修復工事がなされている。次回の遷宮-平成24年頃か-に係わる工事かもしれない)

 本殿前の拝殿は近世になって増築されたものという。摂津名所図会(1798刊)には拝殿が描かれているから、18世紀末にはあったらしい。正面は、第一本宮のみ五間で他は三間、側面二間。檜皮葺・切妻造で、正面に千鳥破風・軒唐破風をつけ、割拝殿形式(中央部が通り抜けできる形式)をとる。

住吉大社/拝殿
住吉大社・拝殿(第三本宮)
住吉大社/拝殿と本殿
同・右:拝殿・左:本殿(第三本宮)
住吉造/構造図
住吉造
(この前に拝殿がある)

※境内摂末社
 境内には多くの摂末社を有する。社名・祭神のみ略記する。
 ・大海神社(摂社)--豊玉彦命・豊玉姫命--式内社・別項・大海神社参照
 ・船玉神社(摂社)--天鳥船命・猿田彦神--式内社・別項・船玉神社参照
 ・志賀神社(摂社)--底津少童命(ソコツワタツミ)・中津少童命・表津少童命
 ・若宮八幡宮(摂社)--応神天皇・武内宿禰
 ・種貸社(タネカシ・末社)--倉稲魂命(ウカノミタマ)--式内社(多米神社)・別項・多米神社参照
 ・南珺社(ナンクン・末社)--宇迦魂命(ウカノミタマ)
 ・侍者社(オモト・末社)--田裳見宿禰(タモミスクネ-津守氏の祖)・市姫命(イチヒメ)
 ・楯社(タテ・末社)--武甕槌命(タケミカツチ)
 ・鉾社(ホコ・末社)--経津主命(フツヌシ)
 ・后土社(ゴウド・末社)--土御祖神(ツチノミオヤ)
 ・市戎・大黒社(末社)--事代主命(コトシロヌシ)・大黒主神(オオクニヌシ)
 ・児安社(コヤス・末社)--興台産霊神(コゴトムスヒ)
 ・海士子社(アマゴ・末社)--鵜茅葺不合尊(ウガヤフキアエズ)
 ・龍社(御井社・末社)--水波野女神(ミズハノメ-水神)
 ・八所社(末社)--素盞鳴尊(スサノヲ)
 ・新宮社(末社)--伊邪那美尊(イザナミ)・事解男命(コトサカオ)・速玉男命(ハヤタマオ)熊野関連の神
 ・立聞社(長岡社・末社)--天児屋根命(アメノコヤネ)
 ・貴船社(末社)--高龗神(タカオカミ-水神)
 ・星社(末社)--国常立命(クニノトコタチ)
 ・五社(末社)--大領・板屋・狛・津・大宅・神奴らの祖神--大社祭事に与る津守氏の支族
 ・薄墨社(末社)--国基霊神(クニモトノミタマ)
 ・斯主社(コノヌシ・末社)--国盛霊神(クニモリノミタマ)
 ・今主社(イマヌシ・末社)--国助霊神(クニスケノミタマ)

◎境外末社
 ・大歳社--大歳神--式内社・別項・大歳神社参照
 ・浅沢社--市杵嶋姫--住吉区上住吉2丁目
 ・港住吉神社--住吉大神--港区築港1丁目
 ・宿院頓宮--住吉大神・神功皇后・大鳥大神--堺市堺区宿院町東

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