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摂津(住吉郡)の式内社/住吉大社
大阪市住吉区住吉2丁目
祭神--表筒男命(ウワツツノオ)・中筒男命(ナカツツノオ)
            ・底筒男命
(ソコツツノオ)・息長足姫命(オキナガタラシヒメ)

                                                   2009.5.13参詣 2017.05.11再訪改定

 住吉大社は、延喜式神名帳(927撰上)に、
   『摂津国住吉郡  住吉坐神社四座 並名神大 月次相嘗新嘗』
とあるように、月次祭・相嘗祭・新嘗祭などに当たって最高の奉幣を受けた名神大社で、摂津国一宮。

 南海本線・住吉大社駅から東へ商店街を抜け、阪堺電鉄が走る道路を越えた東にに住吉大社の神域が広がり、道路脇に一の鳥居が立つ。鳥居をくぐり反橋(通称-太鼓橋)を渡ると本宮境内に入る。
 なお、駅から大社の反対側(西側)、住吉公園を抜けた先に「高燈台」がある。

 今、住吉はスミヨシと読むが、平安時代までは“スミノエ”と読まれ(平安時代には両方の読みがあったという)、住江・清江・墨江・墨之江・須美乃江などとも書かれた。
 摂津国風土記・逸文に、
 「住吉というわけは、昔、息長足比売(オキナガタラシヒメ)の天皇(=神功皇后)の御代に住吉の大神が出現なされて天の下を巡行し、住むべき国を探し求められた。その時、沼名椋(ヌナクラ)の長岡の前(サキ)においでになった。
 そこで「これはまことに住むべきよい土地だ」と仰せられて、『真住吉(マスミエ)し住吉(スミノエ)の国』と褒めたたえて、神の社をお定めになった。
 今の人は略して『須美乃叡』(スミノエ)と称する」
とあり、“住むに好い土地”という意味で“スミノエ”と呼んだとある。

 今の住吉大社は海から遠く距たっているが、古代の大阪湾に南から北へと突出していた上町台地の基部西麓に位置する住吉の地は、古事記・仁徳条(5世紀前半頃)に『墨江の津を定めた』、日本書紀・雄略14年条(5世紀後半)に『呉に使いした牟狭村主青(ムサノスグリアオ)が、連れ帰った機織女と共に住吉の津に泊まった』とあるように、“スミノエの津”と呼ばれる港があり、その住吉の津(墨江の津)に面して鎮座していたのが住吉大社である。
 ただ、住吉津の盛期は5世紀までであって、6世紀にはいると、その繁栄は北方にあった難波津(現大阪市中央区三津寺付近ともいう)に移ったという。

※由緒
 社頭に掲げる案内には、
 「底筒男命・中筒男命・表筒男命の三神を総称して住吉大神と申しあげます。
  住吉大神の『吾が和魂(ニギタマ・穏やかな神霊)をば、宜しく大津渟中倉長峡(オオツノヌナクラノナガオ)に居くべし。便(スナワ)ち因りて往来ふ船を看む』との御神託により、神功皇后が此の地に御鎮座になりましたのが、皇后の摂政11年辛卯の歳(西暦211年と伝えられています」
とあり、

 頂いた「住吉大社の由緒」(以下「参詣の栞」という)には、
 「神功皇后は、新羅御出兵に当たって、住吉大神の御加護を得て大いに国威を輝かされ、凱旋の後、大神の御神託によって此の地に御鎮祭になりました。皇后摂政11年卯年のことで、今から約1,800年前のことであります。(中略)
 後、皇后をも併せお祀り申しあげ、住吉四社大明神と崇められ、延喜の制では名神大社に列せられ、朝廷奉弊の二十二社の一つ、由緒深い摂津国一宮として聞こえ高く、昭和21年まで官幣大社でありまして、全国二千社に及ぶ住吉神社の総本社です」
とある。

 ここでいう大神の御神託とは、日本書紀・神功皇后条にいう、
 「新羅遠征から帰還した神功皇后は、紀伊水門から難波に向かうが、船が進まなくなった。そこで武庫の港に入って占ったところ、・・・、表筒男・中筒男・底筒男の三神が
 『わが和魂を大津の渟名倉の長峡(ナガオ)に居さしむべし。すれば往き交う船を見守ろう』
と告げた。そこで神の教えのままに鎮座し頂いた。それで平穏に海を渡ることができるようになった」(大意)
との記述の指し、
 住吉大社神代記(伝・天平3年-731、異論あり、以下「神代記」という)には
 「表筒男・中筒男・底筒男の三軍神、誨(オシ)へて曰く、『吾が和魂をば宜しく大御栄(オホミサカエ)の大津の渟中倉の長岡峡国に居さしむべし。便(スナハ)ち往来(ユキカ)ふ船を看護(ミソナハ)さむ』。(中略)
 大神、重ねて宣りたまはく、『吾が住居(スマ)はむと欲ふ地は、渟名椋(ヌナクラ)の長岡の玉出の峡(ヲ)ぞ』と」
とある。

 このように、当社の創建は、記紀にいう神功皇后の新羅遠征にかかわった住吉大神が、皇后の帰還後、当地に鎮まりたいと神託したことによるという。
 神功皇后が実在したかどうかについては従前から議論があるが、当社編の冊子・住吉大社は、中国吉林省に残る高句麗国王・好大王の碑(414年建立)に、4世紀後半頃の朝鮮半島に倭人が何度も侵入し、高句麗がこれを駆逐したとあるのを根拠に、碑文がいう倭人の侵入とはヤマト朝廷に主導されたもので、その魁となったのが神功皇后による新羅遠征だとして、皇后の実在を主張している(大意)

 しかし、好大王碑文がいう倭人とヤマト朝廷、特に神功皇后とを繋ぐ古資料はなく、上記主張は、記紀の記述をすべて史実とする歴史観によるもので、現在の古代史知見によれば神功皇后の実在は疑問視され、新羅遠征は作られた神話とするのが一般の理解といえる。

◎創建年次
 当社の創建年次について、参詣の栞には
 「皇后摂政11年辛卯年(カノトウノトシ)のことで、今から約1,800年前のことであります」
とある(住吉大社畧記には“辛卯歳の卯月の上の卯日”とある)

 この辛卯年が西暦何年を指すのかはっきりしないが、今から約1800年前とすれば紀元2世紀末から3世紀にかけての頃で、その頃の辛卯年としては西暦151・211・271年があり、社頭の案内には辛卯年とは西暦211年のことという。
 しかし、2世紀から3世紀のわが国は、魏志倭人伝にいう邪馬台国の女王・卑弥呼に象徴されるように(卑弥呼は西暦239年に魏国へ使節派遣)、未だ統一国家の呈をなしていなかったというのが定説で(倭国大乱といわれる騒乱の時代が続いたという)、神功皇后の存在を含めて、その頃に当社が創建されたというのはあり得ない(記紀が、神功皇后を3世紀代に実在したとするのは、皇后を女王・卑弥呼に擬したためともいう)

 ただ、皇后の御子とされる応神天皇の在位が4世紀末から5世紀初頭ということからみると、皇后は4世紀の人物となり、とすれば辛卯年は西暦331または391年となる。
 しかし、古墳時代前期とされる4世紀に今みるような恒常的な神社があったとは思えず(必要の都度、神籬などを設けての神マツリはあったかもしれない)、当社創建を4世紀末とするのにも疑問がある。
 なお、古事記・仁徳天皇(5世紀前半頃)段の始めに「墨江の津を定めたまひき」との記述があり、その真偽のほどは定かではないが、この墨江の津(住吉の津)造営(450年頃との説もある)に伴って、港の守護神を祀る神マツリがの場が設けられ、それが当社の前身とみることもできるが、確証はない。

 因みに、当社の正史上での初見は
 ・天武天皇14年(686)7月5日条--幣帛を紀伊国の国懸神・飛鳥四社(飛鳥神社)・住吉大社に奉った
との記録であり、続いて
 ・持統天皇6年(692)5月26日条--使者を遣わし、幣帛を伊勢・大倭・住吉・紀伊の四ヶ所の大神に奉らせ、新京のこと(藤原京造営)を報告させた
とあり、これらからみて7世紀後半(天武・持統朝時代)に当社があったことは確かといえる。

◎渟名倉の長峡
 ツツノオ三神が祀られた渟名倉の長峡の場所については、現在の鎮座地以外に
 ・摂津国菟原郡住吉郷を充て、仁徳天皇の御代の頃に現在地に移ったという説(本居宣長)
   今、本住吉神社が鎮座する神戸市東灘区住吉宮町の辺りを指すもので、神代記にいう「播磨国賀茂郡 住吉酒見社(三座)」を元住吉神社とする説らしい。
 ・坐摩神社(イカスリ)の旧鎮座地という現大阪市中央区天満橋付近(山根徳太郎)
   今、大阪市中央区石町(天満橋の南)にある“坐摩神社行宮”(旧鎮座地)を指し、ここには神功皇后が新羅からの帰路当地にて休息されたとの伝承がある。
との説などがあるが、
 摂津国風土記(逸文)住吉条にいう“沼名椋の長岡の前”に
  「前(サキ)は今の神宮の南の辺が、すなわちその地である」
との注記があり、これを承けて 住吉大社神代記の研究(1971・以下「神代記研究」という)
 ・(本居宣長がいう)菟原住吉の地形をみるに山坡(土手)に在り、斜面にして長峡に非ず。本居氏の説は誤りと為すべし
 ・渟中倉の長峡は難波東成区の阿倍野より南に引きたる(連なる)卑丘の謂にして(上町台地から伸びる南の先端部の意か)、住吉大社は正に其の尾に在り、と考えねばならない
として、現鎮座地を以て渟中倉の長岡とすべきという(ただ、今の地形は一面平坦地であって、上町台地から続く低い丘という面影はない)
 因みに、渟名倉(淳名椋)・ヌナクラの“クラ”とは“神が降りたまうべき処”(柳田国男)の意で、“ヌナ”は“場所に冠する美称”、そこから“ヌナクラ”とは“神が坐す聖地”を意味し“海に面した小高い場所”の意も含むという。

◎祭祀氏族
 住吉大社の祭祀は津守氏が携わったというが、その由縁について神代記は、
  (ツツノオ三神が“吾が住みたい地は渟名椋の長岡の玉出の峡ぞ”と告げた時)

 ・皇后が「此の地は誰の地だ」と問われると、「此処は手搓足尼(タモミノスクネ・田裳見宿弥とも記す)の居住地なり」との答えた。
 ・皇后が「そうであれば、手搓足尼には替地を与えて、此の地は大神にさし上げよう」といわれた。
 ・その時、手搓足尼が進み出て、「替地を賜らなくとも、大神のいわれるままに己の家処を大神にお渡し奉りましょう」と申しあげた。
 ・そこで、此の地を大神に奉って大社の地と定め、その名を住吉国と改められた。
 ・これを承けて大神が、「皇后が神主と為って吾を斎祀しなくとも、手搓足尼に拜(イツ)かれて、天皇君を夜の護り昼の護りと護り奉り、同じく天の下の国家人民を護り奉ろう」と告げられた。
 ・そこで皇后は自らが神主と為ることを止めて、「吾の代わりに手搓足尼を神主と為して、斎祀(イツキイハヒ)奉ろう」と勅された。
とある(大意)

 住吉大社の神主・津守氏は、新撰姓氏禄に
 「摂津国神別(天孫) 津守宿禰 火明命(ホアカリ・天孫ニニギの子)八世孫大御日(田か)足尼(オオミタのスクネ)後裔也 尾張宿禰同祖」
とある氏族で、上記のタモミスクネは火明命17世の孫とされる。
 その後裔である津守氏は、住吉大社の祭祀を司った氏族として知られるが、単なる祭祀氏族ではなく、摂津国住吉郡の郡司などの官職にも任ぜられた在地の有力氏族で、遣百済使・遣高麗使・遣唐使などに津守系の名が残っているように外交にも係わったという。
 また姓氏録では神別(神の後裔)となっているが、それは加飾であって、本来の出自は海人族で航海術に長けていたからであろう。
 ただ、古代の祭祀氏族は阿墨氏がワタツミ神を祖神として祀るように、その神の後裔氏族によって祀られることが多いが、ツツノオ三神は津守氏の祖神ではない(ツツノオ三神は国家祭祀の対象であって、これを祖神とする特定氏族はない)

※祭神
 参詣の栞には
 ・第一本宮--底筒男命(ソコツツノオ)
 ・第二本宮--中筒男命(ナカツツノオ)
 ・第三本宮--表筒男命(ウワツツノオ) 以上住吉大神
 ・第四本宮--息長足姫命(オキナガタラシヒメ) 神功皇后
とあり、その社殿は
 東に鎮座する第一本宮から西へ第二・第三と東西一直線に並び、第三本宮の南隣に第四本宮が鎮座する。

 一方、神代記には、
  御神殿 四宮
   第一宮 表筒男  第二宮 中筒男  第三宮 底筒男
    右の三前(ミマエ)は、三軍(ミタムラノイクサ)に令(ノリゴ)ちたまふ大明神(オオアキツカミ)
   第四宮 姫神宮 御名・気長帯長足姫(オキナガタラシヒメ)皇后の宮 
    奉斎祀る(イツキツカヘマツル)神主・津守宿弥の氏人は、元手搓足尼(タモミノスクネ)の後なり
とあり、第一本宮と第三本宮の祭神(底筒男・表筒男)が入れ替わっており、第四宮の祭神は姫神であって、その名がオキナガタラシヒメ則ち神功皇后だという。

 この祭神名の違いについて、神代記研究は、ツツノオ三神の表記順についての古資料を検証したうえで、
 ・書紀神代巻--底筒男・中筒男・表筒男
 ・書紀神功皇后摂政前記--表筒男・中筒男・底筒男
と2様の記載があることから、現在の祭神配置は神代巻に、神代記のそれは摂政前記によるもので、
 ・底筒男命を第一とする順序は鎌倉末期まで遡れるが、それ以前は表筒男命を第一としたのではないか
 とし、その変更は、
 ・鎌倉時代以降盛んとなった日本書紀神代巻の研究に従事した学者らによって提唱され世上に広まったが
 ・神代記は神宝として大社内に秘蔵せられていたため、その内容が知られることなく経過したため
 ・何時しか世上慣用の神代巻の順序を採用したのではなかろうか
という(大意)
 なお、最東の社殿を第一本宮とするのは、神代記(奉幣時御歌本記条)に、軽皇子が歌を奉ったとのに対して
  「時に、東の一大殿より扉を押し開いて大神が出現し云々」
とあり、ここでいう東の一大殿が第一本宮を指すことから、東から第一・第二・第三と数えるのは古くからのことだろうという。

 祭神のツツノオ三神は、記紀神代巻に
 「(黄泉国から戻ったイザナギが、黄泉の穢れを祓い浄めるために、筑紫の小戸の橘のアワキ原で禊ぎをしたとき、)海底で濯いだとき底津綿津見神(ソコツワタツミ)とともに“ソコツツノオ”が生まれ、海の中ほどで濯いだときナカツワタツミ神とともに“ナカツツノオ命”が生まれ、海の表面で濯いだときウワツワタツミ神とともに“ウワツツノオ命”が生まれた。・・・、この三柱のワタツミ神は阿墨連等が祖神として齋く神で、・・・、三柱のツツノオ神は、墨江の三前の大神である」(古事記・大意)
とあるが、
 仲哀天皇記には、
 「仲哀天皇が熊襲征討のために神託を乞うたとき、名のわからぬ神が神功皇后に神かがりして新羅を討てと告げたが、天皇は神託を信じなかったので神罰を被って死んでしまった。
 そこで皇后が、改めて神託を乞い神名を問うたところ、『これはアマテラス大御神の御心であり、またソコツツノオ・ナカツツノオ・ウワツツノオの三柱の大神である』と名乗った」
とあり、「この時、その三柱の大神の御名は顕れた」と注記している(古事記・大意)

 これからみると、ツツノオ神の顕現伝承は二つあることになるが、神代巻から仲哀記までの間にツツノオ神に関する記事がないことからみて、イザナギのミソギによって出生し一旦隠れていた神(あるいは祭祀をうけてなかった神)が、改めて神功皇后の前に顕れたとも解され、ツツノオ神本来の顕現伝承は仲哀記のそれであって、神代巻の伝承は、元々ワタツミ神の顕現伝承だったものにツツノオ神を付加したものか、海神顕現にかかわる同じような伝承をもつ二つの祭祀集団(阿墨系と住吉系)の主張を重ねあわせて並記したとの説もある。

 なお、古事記にワタツミ神とツツノオ命と“神”と“命”とが使い分けられていることについて、「“神”とは宗教的意義での神であり、“命”とは宗教的意義を含まない、人としての称である」という(田中卓「住吉大社史」に引く津田左右吉説)
 とすれば、ツツノオ命は人的性格の強い神ということになり、そこから住吉大神の現人神的神格が生まれたともいえる(住吉大神は老翁の姿で描かれることが多い)

 このツツノオ三神については、以前から
①ツツは津路の意味で、海路を司る神説(岡吉胤)
②筒之男をツ(~の)+ツノオ:津の男と解し、“津之男”とは津(港)を司る長神(オサガミ)とする説(山田孝雄)
③船の中央に立てる帆柱の基部(ご神体を納める部分を「筒・ツツ」といった)に納めた“船霊”(守護霊)とする説(岡田米夫)
④対馬の豆酘(ツツ)を本拠とする阿墨系海人の“ツツの男”の意とする説(田中卓)
⑤ツツを“ユウヅツ”(金星)のツツとして、“星の神”とする説(吉田東伍)
⑥同じ星の神でも、方位(東西)の目印ともなるオリオン座の“三つ星”(カラスキ星)とする説(大和岩雄)
といった諸説がある。

 ①“津路説”--ツツノオ神の航海守護神という神格から導いた単純な説。
 ②“津之男説”--“~の津の男”ということで、ツツノオ三神とは“住吉の津の男”の意で、それを出自の状況から3柱に分けて底・中・表の名を付けたものという説
 ③“船霊説”--船霊(フナタマ)を納める中央帆柱基部の空洞を“ツツ”と呼ぶことからの説で、帆柱は船霊が降臨する神木でもある。この船霊説は境内摂社・船玉神社に関係する。
 ④“豆酘説”--対朝鮮航路の要衝であった対馬の南西端に位置する豆酘の地は、皇后の新羅遠征時に行宮が置かれ、諸神を祀り祈ったとの伝承があり、この豆酘を支配し、皇后の遠征に功があった“豆酘の男”がツツノオ神とする説。
 ただ、今の豆酘に住吉神社はなく、鎮座する多久頭魂神社(タクヅダマ)の祭神はアマテラス以下であって(本来はツツノオであろうとの説もある)、対馬全島をみてもツツノオ神を祀る神社がないことが、この説の弱点だという。
 ⑤“星神説”--ツツが星の古語であることから、ツツノオを星の神と見たもの。特に金星は、一年を通じて夕方の西の空に現れ(宵の明星)、明け方には東に見える(明けの明星)ことから、海上で方向を知る指標とされた。
 古く、金星は“ユウツツ”(ユウヅツ)と呼ばれ親しまれ(枕草子にも「星はスバル、ヒコホシ、ユウツツ・・・」とある)、同じツツを名乗ることから、ツツノオ神を方位を知る当て星・金星とする説。
 ⑥“三つ星説”--オリオン座は代表的な冬の星座だが、その真ん中に見えるミツボシ(3箇並んだ星・カラスキともいう)は、天の赤道に位置し真東から真西へと巡るが、特に、初冬から暮春にかけての夕方、真東の空に縦になって昇り、斜めになって南の中空を巡り、明け方、真西の地平線に横一文字になって沈む(昇ってくる時間は季節により異なる、例えば夏には明け方に昇る)
 そこから、古代の海人たちにとっての三つ星は方角を知る当て星であり、これを神格化して、航海の守護神とされるツツノオ三神とする説。
 金星・三つ星いずれにしろ、ツツノオ三神は鎮座の際に「行き交う船を見守る」と告げたとあるように、航海の安全な道しるべ、燈台のように役目をはたす神格をもつことから、その具象化がオリオン座の三つ星であり金星であろう。

 第四本宮に祀られるオキナガタラシヒメとは神功皇后のことで、これを並祭するのは、神代記に(神功皇后が、住吉の地にツツノオ三神を祀ったのち)
  「吾は御大神(ツツノオ三神)と共に相住まむ」と詔り賜ひて、御宮を定め賜ひき
とあることによるものであろう。

 これに対して、岡田精司氏は、
 ・神に奉仕する者の籠もる建物が、神殿に昇格している例は珍しくない。
 ・第四宮の祭神は、後世神功皇后に付託されているが、神代記に『第四宮 姫神宮』とあるように、本来はヒメガミ即ち住吉三神に奉仕する巫女の神格化したものであろう。
 ・同じく神代記に、住吉三神の託宣の時のこととして、『是に皇后、大神と密事(ミソカゴト)あり[俗に夫婦の密事を通はすと曰ふ]』とあるが、皇后とあるのは姫神を神功皇后に付会したために混同したもので、本来は、神吉の神と姫神(巫女神)についての伝承であり、密事云々とは、、巫女と祭神との聖婚を伝えるものであろう、
として、第四本宮本来の祭神は、住吉大神に仕える神妻としての巫女を神格化したものではないかという(前掲書)
 これに関連して、この住吉大神と神功皇后との密事によって生まれたのが応神天皇だという俗信があり、これが応神天皇の神格化(応神八幡神)へと連なるともいえる。

※社殿等
 境内西側に立つ一の鳥居を入り、短い参道を進んだ先の神池に架かる朱塗りの反橋(俗称:太鼓橋)を渡り、石段数段を登った基壇上に建つ朱塗りの四足門(幸寿門)から左右に瑞垣が伸び、四足門の前には角形の柱をもつ住吉鳥居(角鳥居ともいう)が立つ。
 四足門と瑞垣に囲まれた中が本殿域で、本宮4棟と末社3社および社務所など関連建物が建つ。


住吉大社境内・社殿等配置図 
 
摂津名所図会(1798・江戸中期) 

住吉大社・一の鳥居 
 
同・反橋(太鼓橋)正面
 
同・反橋側面

 反橋及び住吉鳥居について、略記には
 ・反橋--反橋は住吉の象徴として名高く「太鼓橋」とも呼ばれており、長さ11間(20m)・高さ2間(3.6m)・幅3間(5.5m)で、鎌倉時代を記録した“諸神事次第記”にも記載されており、また現在の石の橋脚は、慶長年間に淀君が奉納架け替えたものといわれています。
 ・住吉鳥居--反橋を渡った正面の門(幸寿門)の前に建つ石の鳥居は、柱が四角の珍しい鳥居で、角鳥居とも呼ばれています。この鳥居の原形は、各本殿と拝殿の間に立っている木造朱塗りの鳥居です。
とある。

 
住吉鳥居と四足門
   
同 左

◎本殿

 ツツノオ神を祀る第一・第二・第三本宮の社殿は、それぞれ独立した社殿が西面して縦(東西)に並び、第三本宮の横(南側)に神功皇后を祀る第四本宮が建つ。天平時代(729--49)には、現在と同じ並びであったと推定されている。

 通常の神社本殿は南面して建ち、複数の場合には横一列に並ぶのが普通だが、当社のように西に向いて縦一列に並ぶのは異例である。
 住吉大神は航海の神であるから海=西に面するのは解せるが、それが縦列する理由にはならない。また西面といっても真西ではなく西北西に当たるという。これを逆にみれば、東南東すなわち立春頃の朝日の昇る方角を拝することになる。

 住吉大社の本宮が縦列する理由は不明で、船団を組んで航行する船舶を表すともいうが、ツツノオ三神をオリオンの三つ星とみる説では、三つ星は縦に並んで昇り、特に夏の土用のころの三つ星は、明け方の東の空に3日間にわたって一つずつ増えながら昇ってくる(土用一郎・二郎・三郎ともいう)
 そこから、住吉大神が表・中・底と一神ずつ顕れた姿は、三つ星が一つずつ直立して顕れる様を表し、それを視覚化したのが縦列した社殿列だという(日本の神々3)

社殿配置図
(左が北
 住吉大社本宮は本殿と拝殿とが近接しているため、本殿正面の詳細はみえないが、本殿の建築様式は“住吉造”と呼ばれ、4殿共に国宝となっている。

 本殿は、いずれも間口二間・奥行四間の社殿は檜皮葺・切妻造・正面妻側に昇殿のための階段があり、基本形は古代の穀倉を写したものという(右図)。 

 本殿内部は内陣・下陣の二部屋のみの簡素な造りで、屋根には千木と5本の四角形堅魚木が乗る。
 周囲を板玉垣と朱塗りの荒板垣で囲い、正面には住吉鳥居が立つというが、側面の板玉垣が高く実見不能。
 今でも21年毎に式年遷宮がおこなわれているが(天平勝宝元年-749が最初という)、伊勢神宮のように場所を変えて建て替えるものではないらしい。現在の本殿は文化7年(1810)建造(昭和28年-1953-国宝指定)であって、最直近の遷宮は平成23年(2011)

 本殿の西側、弊殿を介して連なる横長の拝殿は近世になって付加されたものというが、摂津名所図会(1798刊)には拝殿が描かれているから、18世紀末にはあったらしい。
 拝殿正面は第一本宮のみ間口・五間で他は三間、桁行はいずれも二間。檜皮葺・切妻造で、正面に千鳥破風・唐破風をつけ、割拝殿形式(中央部が通り抜けできる形式)をとる。


第一本宮・拝殿 
 
 
第二本宮・拝殿

第三本宮・拝殿 
 
第四本宮・拝殿 
 
第三から第一本宮を望む
 
第三本宮・側面
(左:本殿・右:拝殿)
 
第三・第四本宮・背面
(右:第三本宮)

◎摂末社
 当社は、摂社4社・境内末社21社・境外末社4社を有する。
【摂社】
 ・大海神社--豊玉彦命・豊玉姫命--式内社・別項・大海神社参照
   参詣の栞に、「山幸海幸神話で有名な海の神・豊玉彦と豊玉姫を祀り、本社に次いで神格の高い社です。本殿は本社と同じ住吉造りで、本殿・渡殿・弊殿・西門と共に重要文化財に指定され、云々」とある。社名はタイカイと読む。
 ・志賀神社--底津少童命(ソコツワタツミ)・中津少童命・表津少童命--別稿・大海神社に併記
   参詣の栞に、「大海神社境内にあり、イザナギ尊の禊祓いの時、住吉三柱大神と共に生れ出た少童(ワタツミ)三神を祀る」とある。
 ・船玉神社--天鳥船命・猿田彦神--式内社・別項・船玉神社参照
   参詣の栞に、「船玉とは、船舶を守護する船霊のことで、船乗りや漁業の海上安全はもとより、航空関係者からの信仰も集める古社です」とある。
 ・若宮八幡宮--応神天皇・武内宿禰
   第一本宮の右(南側)の瑞垣外に鎮座する。
   社前の案内に、「古来より武勇の神様として信仰され、1月12日の礼祭には特殊神事の湯立神楽が奉納されます」とある
  通常、若宮といえば主祭神の御子神、八幡信仰では仁徳天皇を指す場合が多いが、当社では応神天皇とする。
  これに関連して、当社編・「住吉大社」には
   「“五所御前”の南側に西面して鎮座するのは若倉八幡宮である。八幡さまとは応神天皇のことであることはいうまでもない。ほかに武内宿弥を配祀する。応神天皇は神功皇后の御子神であり、武内宿弥は皇后と密接な関係がある。
  毎年1月12日が例祭日で湯立神楽を行なう。湯立神楽は、祓いであるとともに神霊の蘇り・更新を意味し、春の初めに行うのは年穀の豊穣を祈る予祝である。
  この社が五所御前に隣接しているのは、神功皇后による稲米収穫の予祝儀礼によって、若々しい御子神(穀童)の出誕をみたものとして創建されたのではないかともいう」
とある。

 
大海神社・拝殿
 
志賀神社・社殿
 
船玉神社
 
若宮八幡宮

【境内末社】
[瑞垣内]
 ・楯社(タテ)--武甕槌命(タケミカツチ)
 ・鉾社(ホコ)--経津主命(フツヌシ)
   第三本宮の左前に鉾社が、第四本宮の右前に楯社が鎮座する。
   当社編・住吉大社には、「ともに本宮のご神格を高からしめる威儀の物としての楯・鉾を神格化して奉祀したものであろう」とある。
 ・侍者社(オモト)--田裳見宿弥(タモミノスクネ)・市姫命(イチヒメ)
   第二本宮の南側瑞垣から外につきだした形で鎮座。
   参詣の栞には、「神功皇后の命をうけて住吉大社最初の神主・津守氏の祖・田裳見宿弥、市姫命を祀り、縁結びの神として良縁を祈願する」とある。

 
末社・鉾社
 
末社・楯社

末社・侍者社 

[瑞垣東側](第一本宮背後の瑞垣外)
 ・南珺社(ナンクン)--宇迦魂命(ウカノミタマ)
   第一本宮背後(東側)の瑞垣外に楠の大樹が亭々として聳え、その下に御神木に食い込んで祠が、その前(北側)に拝所となる社殿が建つ、
  参詣の栞には、「第一本宮の裏にある樹齢約千年の楠木(大阪市指定保存樹)を御神木として、お稲荷様(宇迦魂命)を祀り、商売繁盛に格別の御神徳があり、俗に“初辰さん”と称えられて、毎月初めの辰の日には多数の参詣で賑わい、特に毎月“招福猫”を受けて満願となる四十八回の月詣り(満願に達すると、始終八辰=始終発達・シジュウハッタツとして商売繁盛が叶うという)は有名です」とある。

  初辰さんとは、毎月初めの辰の日(十二支の5番目で12日毎に廻ってくる)に参詣する習俗で、社頭に掲げる案内には
  「初辰(発達)まいりは古くから大阪に伝わるお祭りです。
  初辰まいり当日、まず物事の元を司る種貸社で“稲種”を戴き願いを込めます。次に物事の発達を司る南珺社に詣で“稲穂”と換え、次に願いの収穫を司る大歳社で“神米”を戴いてください。
  この神米は初辰日または一粒万倍の日に試食してください」
とあり、初辰まいりの日には種貸社・南珺社・大歳社の3社を廻るという。
 (一粒万倍日・イチリュウマンバイ--一粒の種をまくと、されが実を結んで万倍にもなるというお目出度い日で、商売始め・開店・投資などには吉 、借金には凶という)

 初辰の日、当社では参詣者に縁起物として“招福猫”(招き猫)を授けるという。
 通常の招き猫は右手を挙げているが、当社のそれは変わっていて、裃を着けた猫が偶数月には右手を、奇数月には左手を挙げ、右手は“お金を招く”左手は“家内安全を招く”という。

 楠の大樹を御神木とすることは、大樹・高木を神の依代とする古代信仰の流れをひくものだが、そんな素朴な樹木信仰を商売繁盛・金儲けに結びつけたのが大阪人の商魂といえるであろう。


南珺社・拝所 
 
同・御神木下の祠
 
同・招福猫
 
御神木
  御神木 

 この辺りには、御神木以外にも大樹が多く、南珺社殿前にも夫婦楠(樹齢約800年)と呼ばれる幹が二俣に分かれた楠の大樹が聳えている。

 ・貴船社--高龗神(タカオカミ-水神)
 ・立聞社--天児屋根命(アメノコヤネ-中臣氏祖神)

 この2社は、南珺社の南に並んで鎮座する小祠

 立聞社社前の案内には、「御鎮座の地・長峡の崎の社にて、先年此地に祀る。禁断の神・酒だちの神・煙草だち等神徳を顕し給ふ」とある。
 中臣氏(後の藤原氏)の祖神であるアメノコヤネを祭神とする小祠だが、その由縁は不明。
 当社公式HPに「別名・長岡社、古くは春日社とも呼ばれていた」とあり、古く、春日社と何らかの関係があったのかもしれない。
 ただ、それを立聞社と称する由縁は不明。

 貴船社  社前の案内に「貴船社からの勧請」とあるのみで詳細不明
 

立聞社 

貴船社

 境内北東隅に以下の末社8社が西面して南北に並ぶ。南側より
 ・新宮社--伊邪那美尊(イザナミ)・事解男命(コトサカオ)・速玉男命(ハヤタマオ)
   社前の案内には、「熊野新宮に本社あり。熊野王子の一社と伝ふ」とあり、右横に「熊野街道 王子社」との立札が立つ。
   熊野王子の一社とは、熊野信仰が盛んだった頃、大阪市内の熊野街道沿いに点在した王子社7社のうち、当地付近にあったとされる“津守王子社”を指すが、墨江小学校付近(墨江2丁目)にあったとする説もある。(別稿・大阪市内に残る熊野王子跡参照)
 ・八所社(ハッショ)--素盞鳴尊(スサノヲ)
   社前の案内には、「勇猛の神にして、創業を守り給ふ」とあるが、八所社と称することから、祭神はスサノオの御子である八王子かもしれない。いずれにしても、スサノオを当社に祀る由縁は不明。
 この2社は古来からの熊野信仰に関わる小祠であろう。


末社群
(右から新宮社・八所社・・・と並ぶ) 
 
新宮社
 
八所社

 ・今主社(イマヌシ)--国助霊神(津守家48代神主)
   社前の案内には、「文安の役に外敵降伏の祈請著しく、霊妙奇瑞格別の人にて、正安2年(1300)奉斎す」とある。
 ・斯主社(コノヌシ)--國盛霊神(津守家43代神主)
   社前の案内には、「源頼朝と祖父を同じくし、源氏興隆の基を開き、諸国の神社を敬仰し、有能達識の人にて、建仁2年(1202)奉斎す」とある。
 ・薄墨社(ウスズミ)--国基霊神(津守家39代の神主)
   社前の案内には、「和歌の達人にて、『薄すみに書く玉章と見ゆるかな 霞める空に帰る雁がね』の和歌により薄墨社と称えられる。朝廷に仕へ藤井戸神主とも号す。芸術に秀で、才能高く中興の神主と讃えられる。建長5年(1253)奉斎す」とある
 ・五 社--神主七家の祖神
   社前の案内には、「田裳見宿弥に七男あり、七家神主奉仕すと伝ふ。各家の祖社それぞれ東及び東北に散在しありしも、明治以降廃社となり境内末社・斯主社に合祀ありしを、昭和甲辰(39年)春五殿社を再建奉斎す」とある。
   なお、七家とは大領・板屋・狛・津・高木・大宅・神奴家をいう
 以上4社は、いずれも津守神主家の祖先を祀った小祠という。

 
今主社
 
斯主社
 
薄墨社
 
五 社

 ・招魂社--諸霊神(モロモロノミタマノカミ)
   上記薄墨社と五社の間にある小祠
   略記には、「御祭神は諸霊神で、住吉大社に縁の深い人たちの祖霊神をお祀りしています。
   この建物は慶長年間の建築で、明治時代の神仏分離まで境内にあった“住吉神宮寺”の“護摩堂”(本尊:不動明王)と伝えられ、大阪府指定文化財になっています」とある。
   江戸時代まであった住吉神宮寺とは、孝謙天皇・天平宝字2年(758)の創建といわれ、住吉大社と大海神社の間を中心にに本堂以下10数の堂舎があったが、明治の神仏分離で廃寺となったという。
 今、招魂社等の西前に広がる叢林・北神苑が神宮寺の跡という。
 ・后土社(コウド)--土御祖神(ツチミオヤ)
   五社の左奥(境内北東隅)に鎮座する小祠で、社前の案内には、「御神域全体を守護し給ふ土地の神を祀る」とある。
   当地一帯の地主神を祀ったものだが、具体の神名はないらしい。

 
祖霊社
 
后土社
 
北神苑の叢林
(住吉神宮寺跡)

[瑞垣北側]

 ・星宮--国常立命(クニノトコタチ)・竈神(カマドカミ)
   境内北側の東寄りに鎮座する小祠

 社前の案内には、「竈神は住吉大神と共に星辰信仰との縁浅からず、厄除けのため星祭りをおこなう慣習古く、古来竈殿に竈神を祀り、これを星祭りと伝ふ。
 人々の熱い願いにより両神を奉斎す」とあり、
 当社公式HPには、「国常立命 金星の神という。竈神 荒神さん(家の守護神)といわれ炊事場に祀られることが多い」とある。

星 宮

 国常立命とは天地開闢の時最初に成り出た三神の一だが(古事記)、それが何故金星の神とされるのかは不明。金星が夜明けの東天に輝くことから(明けの明星)、最初にあらわれた神である常立命が金星と習合したのかもしれない。
 
 民俗学からみた竈神とは、古くからの家の神の一柱だが、表に祀られる公的な神とは違って、どちらかといえば暗い裏側の台所にひっそりと祀られる私的な神・聖霊的な神という神格が強いという。
 そんな家の神の代表ともいえる竈神は、家の盛衰や人の幸福や寿命を司り、生活全般に亘って恩恵を施してくれる神とされたが、その反面、穢れに敏感で、荒神と呼ばれるように祟りやすく恐ろしい神ともいわれ、肯定性と否定性という二面性を持つ故に、此の世と異界とを媒介する神ともいう(大意・竈神と厠神2007)
 そんな竈神が、どんな由縁から国常立命や星神信仰と習合し当社に祀られるのかは不明。

 ・種貸社(タネカシ)--倉稲魂命(ウカノミタマ)--式内・多米神社論社
   境内北側・大海神社の南に鎮座する。
 略記には、「御祭神は倉稲魂命で、古くは稲穂を授かるという信仰であったものが、時代と共に商売の元手や子宝を授かるという信仰へと変化した。初辰の日には、種銭や種貸人形を受けるため多くの方が参拝になります」とある

 穀霊神・ウカノミタマを祀ることから、本来は、社名・種貸にみるように稲魂が籠もる稲穂を頂き、それを稲籾に混ぜて撒くことで豊穣がもたらされるという信仰によったものだったと思われる。
 そんな素朴な信仰が、何時の頃か、稲魂が金子へと変化し、神から頂いた金子を自己資本に加えれば商売繁盛疑いなしという信仰へと変化し、更に豊穣をもたらすことから多くの子供を授かるという子授信仰が加わり、初辰さん参りでは当社から始まって南珺社→大歳社と廻るという。
 なお、当社を式内・多米神社の論社とする説があり、社名種貸とは久米神社の旧社名・多祢迦志宮(タネカシ)に由来するという(別項・多米神社参照)

 拝殿内部には“一粒万倍”と大書した大提灯の廻りに多くの提灯が下がり、奥には“鈴生りの神鏡・子宝の神鏡・芽生えの神鏡”と記された3枚の鏡が祀られている。

 
種貸社・鳥居
 
同・拝殿
 
同・拝殿内陣

 種貸社拝殿の右前に小祠2宇があるが、種貸社堂宇・樹木に囲まれ見落とす恐れあり。

 ・海士子社(アマゴ)--鵜茅葺不合尊(ウガヤフキアエズ)
   公式HPには、「海宮伝説により祭られている海神(ワタツミ)です。祭神は海幸山幸彦の神話で海宮の豊玉姫の御子神です」とある
 祭神ウガヤフキアヘズは、天孫・瓊々杵尊から続く日向三代の三代目で、父・彦火火出見尊(山幸彦・瓊々杵の御子)と母・豊玉姫(海神の娘)の間に生まれたことから海神の血を引くとはいえ、通常は初代天皇・神武の父神として知られる。
 ・児安社(コヤス)--興台産霊神(ココトムスヒ)
   公式HPには、「かつては縁結びの神として信仰を集めていました。現在では子供を守る神として崇敬されています」とある
 ココトムスヒ神とは中臣氏の祖神の一で、書紀・天岩戸段に「中臣氏の遠い先祖の興台産霊の子・天児屋根命云々」とあり、アメノコヤネ命の父というが、この神を縁結びの神とする由縁は不明。 
 
左:海士子社・右:児安社

[瑞垣西側]
 ・市戎大国社(イチエビスダイコク)--事代主神(コトシロヌシ)・大国主神(オオクニヌシ)
   境内南西部の瑞垣に接して鎮座する小祠(反橋を渡った右手)
   参詣の栞には、「商売繁盛の守護神として、市(イチ)の守り神とされています。1月9・10日のエベッサンには賑々しいお祭りがおこなわれます」とある。
   一般にエベッサンと呼ばれるコトシロヌシとその父・オオクニヌシを祀るもの。
 ・龍社(タツ)--水波野女神(ミズハノメ-水神)
   反橋(太鼓橋)を渡った右手、神池の脇に鎮座する小祠
   公式HPには「住吉の地は、大海神社の記紀伝説にもあるように、竜宮とよばれる海宮の言い伝えがあります。この龍社はもともとは御井殿社といわれていました」とある。

 
市戎大国社
 
龍 社

[瑞垣南側]
 攝末社ではないが、南瑞垣の外、第一本宮と若宮八幡宮との間に「五所御前」と呼ばれる聖地がある。
 境内摂社・船玉神社と少なからず関係があり、詳細は別項・船玉神社参照。

【境外末社】
  境内東南の楼門が外へ出て、武道館横を過ぎて東南鳥居を出て直進した右手に境外末社2社が鎮座する。
 ・浅沢社(アササワ)--市杵島姫命(イチキシマヒメ)
   略記には、「俗に弁天様とも呼ばれ芸能の神として知られています」とあり、
   参詣の栞には、「福の神・婦人の作法・芸事の守護神として崇敬されています。昔は浅沢小野の杜若(カキツバタ)として世に知られた名所でした」とあり、今も社殿を囲む池には杜若が群生している。


淺沢社・全景 

同・鳥居 
 
同・拝所
 
同・社殿正面
 
同・社殿側面

社殿を囲む杜若の池 

 ・大歳社(オオトシ)--大歳神--式内・草津大歳神社論社
   浅沢社の右(南)、細井川を渡った左に鎮座する。
   略記には、「神名帳には草津大歳神社と記されており、五穀の収穫の神様ですが、古くから集金に霊験あらたかな神様として信仰されてまいりました」とあり、初辰さんの日には願いの収穫を求める参詣人で賑わうという。(別稿・式内草津大歳神社参照)

 
大歳社・鳥居
   
同・拝殿

 大歳社社殿の右奥に「おいとしぼし社」と称する小祠が鎮座する。
 社頭の案内には、
  「住吉大社の末社・大歳社の奥深くにお祀りされる神秘の祠は、元は“正印殿”(神主館)という史跡の北隣にあったもので、こ神縁によって当地に遷されたものです。
 社号については、“落とし星”・“お愛しぼし”・“老年星”・“御歳宝祠”(いずれもオイトシボシと読む)などがあり、その由来についても様々な伝承があります。
 空から降ってきた隕石をお祀りしたもの、あるいは住吉の神主家が大神の分霊をお祀りしたもの、むかし正印殿に後村上天皇が行幸された際、姫君が跡を追って遠路はるばる訪ねてきたところ行き倒れになった。天皇はこれを『おお、愛しいヤツよ』と哀れんで丁重にお祀りしたもの、などといいます」
とあり、
 大歳神社社務所に掲げる案内には、
  「おいとしぼし社の正躰は、俗に龍神さん・金竜さんとして古くより親しまれてきました。 
 その由来は謎につつまれ、元は銀杏の巨樹のもとに神秘の祠として祀られ、長らく信仰をあつめてまいりました。地元の古老の伝承によれば、天から落下した隕石を願い事の守護神として祀ったものともいわれています。
 おいとしぼしさまのご加護のもと、“おもかる石”(おぼっさん)を手にして願いの可否を仰ぎます。云々」
とあり、小祠の前に“おもかる石”と称する丸い石が3個置かれ、願いを込めて持ち上げたときの重さ加減で事の成就を占うという。


おいとしぼし社・拝所 
 
同・社殿

おもかる石 

 なお、上記案内にいう正印殿(ショウインデン)とは、南北朝時代、南朝側が一時的に勢力を盛り返したとき、吉野から京へ戻った後村上天皇が大社神主津守氏の邸内に設けた行宮で(正平7年・1352)、天皇は正平23年(1368)当行宮で崩御されたという。
 今、住吉区墨江2丁目に国指定史跡・住吉行宮跡として残っている。

 上記以外に、境外摂社として港住吉神社(大阪市港区築港1丁目)・宿院頓宮(堺市堺区宿院町東)があるが、不参詣

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