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摂津(住吉郡)の式内社/ 中臣須牟地神社・神須牟地神社
中臣須牟地神社−−大阪市東住吉区住道矢田2丁目
神須牟地神社−−大阪市住吉郡長居西2丁目
                                                            2009.5.14・20参詣

 日本書紀・雄略天皇14年条に、
 「この月に呉の客のため道を造って、磯歯津路(シハツミチ)に通わせた。これを呉坂(クレサカ)と名づけた」
とある。“呉の客”とは、身狭村主青(ムサノスグリアオ)とともに渡来した呉国の使者や漢織・呉織・兄媛・弟媛らの工人で、朝廷は、これら住吉津に着いた客人を大和に迎い入れるために道路を建設したという記事である。
 このシハツミチなる道路は、住吉の津辺りから東進して現住吉区長居西2丁目・東住吉区鷹合付近・同湯里附近を通って平野・久宝寺から八尾に伸びる古代の幹線道路で、後には八尾街道ともいった。今の長居公園通の辺りを通っていたらしい。

 古く、この道路に沿って鎮座していた式内社に
 ・中臣須牟地神社(ナカトミスムチ) 大 月次新嘗−−(現鎮座地)東住吉区住道矢田2丁目
 ・神須牟地神社(カムスムチ) 鍬靫−−(現)住吉区長居西2丁目
 ・須牟地曽祢神社(スムチソネ)−−(現)堺市金岡町・金岡神社に合祀
の3社がある。

 この3社に共通する社名・須牟地(スムチ)は住道(スムチ、今スンジという)とも書くが、住吉大社神代記(天平3年731、異説あり)・子神(末社のこと)の条に
 「中臣住道神(読み・須牟地)・住道神・須牟地曽祢神・住道神  件の住道神等は八前なり」
と記して、住道社は住吉大社の末社とし、注書きとして
 「天平元年11月7日、託宣により移りて、河内国丹治比郡の楯原里に坐す。故、住道里の住道神と号す」
と、住道神と呼ぶ由緒を記している。
 ここに記されている4座のうち、前の3座は今の中臣須牟地社・神須牟地社・須牟地曽祢社を指すのだろうが、最後の住道神は不明。ただ、かつて中臣須牟地社の北の辺り(天神山・現在地不明)に“須牟地社”なる社があったというから、これを指すのかもしれない。
 また住道神が遷座したという楯原里とは、現住道矢田の東にある喜連一帯と思われ、そこには中臣須牟地社に関係する赤留比売社および地名を冠する楯原神社がある。この喜連の名は、呉(クレ)からきたもので久礼→喜連と訛ったもので、シハツミチを通った呉の客人に関係するという。
 また須牟地を住道とすることについては、
 「大宝3年(703)、中臣須牟地社の祭神・天種子命(後述)に天下泰平・五穀豊穣を祈ったら五色の雲が立ちのぼった。この奇瑞によって須牟地を住道に改め、年号を慶雲と改めた」(大日本史・大意)
との伝承がある。

 上記のように、須牟地社(住道社)については断片的な資料はあるが、須牟地社の発祥地・その語源・須牟地神(住道神)の神格などについて語る資料はない。これは、須牟地を名乗る複数の神社があったこと、また各社ともに何度か移動していることなどから、という。
 雄略朝といわれるシハツミチ沿線の要所々々に祀られた神々の総称が住道神で、そこから住道神の原点は“道の神”ではないかという。
 今、中臣須牟地社・神須牟地社は大阪市内(東住吉区・住吉区)に鎮座するが、須牟地曽祢社は現堺市蔵前町(旧南河内郡北八下村南花田、古代の住吉郡は、現大和川を越えて堺市内北部まで含んでいた)の勝手神社に比定されていたが、今、堺市金岡町の金岡神社に合祀されている(明治41年1908合祀)

T、中臣須牟地神社
  大阪市古河市住吉区住道矢田2丁目
  祭神−−中臣須牟地神 (配祀)神須牟地神・須牟地曽祢神・住吉大神(ウワツツノオ以下4神

 大阪市南部を東西に走る長居公園道(国道479)の湯里6丁目交差点を南へ約600m、道路の西側に鎮座する。小工場・倉庫などに住宅・商店が混在する雑然とした町中で、唯一の緑である鎮守の森の中に鎮座している。
 社地の南側道路に鳥居2ヶ所が立つが、社殿正前の入口は閉まっているので少し左(西)に立つ鳥居から入る。正面鳥居の右に『式内 中臣須牟地神社』との石柱が立つが、樹木に覆われているため外からは注意しないと見えない。境内は綺麗に清掃はされているが、社務所も閉まっていて参詣者も少ないらしい。
 社殿の左に末社(厳島神社・道祖社−祭神:サルタヒコ)があり、社殿右前の大木・クスノキの下にも小祠(楠神社)がある。境内に由緒書きなどの案内表示などは見当たらない。

中臣須牟地神社/正面鳥居
中臣須牟地神社・正面鳥居
中臣須牟地神社/拝殿
同・拝殿
中臣須牟地神社/社標
同・社標

※祭神
 当社祭神は上記4座(住吉大神を4座とみれば合計7座)となっている。住吉大神は、かつて当社が住吉大社の末社とされていたため(俗に“住吉と称す”という)で、とすれば本来の祭神は“須牟地”を名乗る3座、即ち“住道神”となる。
 ただ、この住道神の実体が不明であることから、当社祭神については諸説がありはっきりしない。管見した代表的なものとして
 @此の社何れの神を祀るのか未詳。中臣の名に依れば天児屋根命(アメノコヤネ)
  あるいは、新撰姓氏禄に「住道首 伊奘諾男素盞鳴命之後也」”とあり、住道首の祖神か」(住吉松葉大記、18世紀中頃)
 A昭和27年の神社規則では、住吉4神・神須牟地神・住道曽祢神を祭神としているが、現在は「中臣連の祖先が相伝えて祀り来たった住道神・中臣氏の祖神」として公表している。(式内社調査資料1977)
 B住道連等がその祖神を祀れるならん。
  或いは云う、藤原不比等が勅を奉じて、その祖・天種子命(アメノタネコ:アメノコヤネの孫)を祀る。(大阪府史蹟名勝天然記念物)
  (藤原不比等公が勅命を以て、大昔から中臣氏の根拠地であった当地に、ご先祖をあわせ祀られた、ともある−−ネット資料)
などがあり、中臣氏の祖神説、住道首の祖神説が並記されているものの、この2説を繋ぐものは見当たらない。また住道首と中臣氏との関係も不明。

 住道首に関して、新撰姓氏禄(弘仁6年815)に「摂津国(未定雑姓) 住道首 イザナギ男スサノヲ命之後也」とあることから、当地附近にいた住道首なる一族が祀った祖神が当社本来の祭神かもしれない。ただ、未定雑姓とされるように、その出自不詳なることから祖神名・住道神との関係など不明。

 中臣氏も、当地が中臣氏の本拠・河内国枚岡とも近く、古くから当地にも進出していたようで、“新羅の客が来朝したとき、その饗応役として中臣氏が当社に遣わされた”(下記)ように、当社との関係は深く、そこから社名に“中臣”が冠されているとも思われる。 ただAの後半にいう「中臣氏が祀ってきた住道神・中臣氏の祖神」について、シハツミチに祀られた住道神が自然発生の神ではなく、来朝者用に造られた路沿いに朝廷が創建し祀った神とも思われ、とすれば、中臣氏が朝廷祭祀に係わる神祇氏族であったことからみて、住道神もまた中臣氏が祀った可能性はある。

 これらのことから、住道首に代表される在地氏族が奉斎していた祖神(神名不明)に、中臣氏の祖神・アメノコヤネまたはアメノタネコを祀ったのが当社祭神であろう。

※鎮座由緒
 当社が、上記・雄略天皇時のシハツミチ築造にからむ神社だとすれば、5世紀末頃には創建されていたとも思われるが、実態不明。
 当社に関係するとされる中臣氏が、古くからの神祇氏族であることは確かだが、藤原不比等(659--720)が朝廷で実力を持ち始めたのは壬申の乱(672)後の8世紀初頭頃というから、不比等が勅を受けて祖神を祀ったとすれば、当社は8世紀初頭頃の創建となる。しかし国史上での初見は、
 「清和天皇・貞観元年(859)、中臣須牟地神に従五位上を授く」
という記事で、権力者・不比等の創建にしては創建から神階授与まで年月が開きすぎているし、神階も低い。当社に中臣氏が関係しているとしても、藤原不比等云々というのは、社格を上げるための付会ともとれる。
 なお中臣氏の本拠は河内国の河内郡・高安郡といわれるが、新撰姓氏禄の摂津国(神別)にも
  「中臣東(束)連   天児屋根命九世孫鯛身命之後也」
  「中臣藍連       同神十二世孫大江臣之後也」  
  「中臣大田連     同神十三世孫御身宿禰之後也」
の3氏があり、摂津にも進出していたことは確かだが、中臣藍・中臣大田連に関係する神社が高槻・茨木市にあることからみて、当社に関係する中臣氏は中臣東(束か)連と思われる。

 一方、延喜式・玄蕃寮に
 「新羅の客が来朝したとき、神酒を給した。その酒を醸すために、住道社を含む大和・河内・和泉・摂津の8社が合計240束の稲を住道社に送り、・・・神部造に命じて中臣一人を差遣わして酒を給する使いとし、・・・住道社が醸した酒は難波館で給す」(大意)
とある。
 昔、新羅からの使いが来朝したとき、大和・河内・和泉・摂津の各社から差し出された稲を住道社に集めて醸し、その酒を難波館で客に給した、というものだが、中臣一人を遣わしたとあることから、ここでいう住道社は当社を指し、客人の接待に際して当社が重要な役割を担っていたことが覗われる。
 また、八十嶋祭に当たっては、住道2社(中臣須牟地社と神須牟地社)が住吉・大依羅・海神・垂水の神とともに幣帛を受け、奉仕料として布一反が支給されたという。

 当社は、他の須牟地2社と比べて社格が高く、月次新嘗の奉幣に預かる大社であり、また八十島祭にも住吉大社・大依羅神社・生国魂神社とともに関与していたというから、朝廷から、それだけ重要視されていた神社だったのだろうが、住吉松葉大記には、当社について、
 「三代実録に清和天皇・貞観元年(859)、中臣須牟地神に従五位上を授くという。昔は月次新嘗祭などに預かった大社というが、時が移って、今は形ばかりの神地を残して村民の参詣も稀になっているのは悲しいことだ。・・・・・」(抜粋・大意)
とある。江戸中期には寂れてしまい、当社祭神名の由緒・、祭神・創建由緒などもわからなくなったと思われる。今、境内はそれなりに清潔に保たれているから管理する人がいるとは思われるが、忘れられかけた神社という印象は免れない。

※末社
 社殿の左に『厳島社』・『道祖社』、:境内右手中央に『楠社』が鎮座し、社殿右奥に社名不明の祠がある。鎮座由緒など不明。

中臣須牟地神社/末社・厳島社
厳島社
中臣須牟地神社/末社・道祖社
道祖社
中臣須牟地神社/末社・楠社
楠 社
中臣須牟地社/社名不明の祠
不明祠

 ◎厳島社
  祭神はイチキシマヒメと思われるが、詳細不明。イチキシマヒメは弁財天と同体化しているから、招福の神・弁財天として祀られたのか見知れない。
 ◎道祖社
  祭神はサルタヒコ。社前に猿田彦と刻した石柱あり。厳島社の奥に鎮座。
  社域の境界を守護し、邪神・悪霊の侵入をはねつける塞の神として祀られたのか、どこかの道端に往来守護のドウソシンとしてあったものを移したものであろう。
 ◎楠社
  樹木信仰・巨木信仰からの祠だろうが、見たところは稲荷社に見える。巨木の上部にも小さな祠が祀られている。
 ◎社名不明の小祠
  小さな祠で、生木を組み合わせた素朴な鳥居が立ち、祠の中に摩耗した狛犬様の石像が安置されている。

U、神須牟地神社
  大阪市住吉区長居西2丁目
  祭神−−主神 神産霊大神(カミムスヒ)・手力雄命(タヂカラオ)・天児屋根命(アメノコヤネ)
        相殿 天日鷲命(アメノヒワシ)・大己貴命(オオナムチ)・宇賀魂命(ウガノミタマ)
        追祀 少名彦命(スクナヒコナ)・素盞鳴命(スサノヲ)・住吉大神

 JR阪和線・長居駅の西約300m、西長居商店街近くの住宅地の中にあり、北側に西長居公園がある。また境外末社として『多米神社』(別項・多米神社参照)をもち、境内に末社・『農神社』が鎮座する。

神須牟地神社/社頭
神須牟地神社・社頭
同・拝殿
同・拝殿

※祭神
 神社由緒略記には上記9柱の神を記すが、社頭の案内には「カミムスヒ・アメノヒワシ・スクナヒコナ」とある。主神・相殿・追祀グループを代表してあげているのかもしれない。大阪府全志には
 「延喜式内の旧社なれども、祭神は詳ならず。三の宮とも呼び、産土神なり」
と記すが、“祭神不詳なれども、アメノコヤネか”(神社明細帳・明治12年1879)・“(同じく)スサノヲか”(特選神名帳・大正4年1925)と記すものもある。
 本来の祭神は、上記のように“道の神”としての“住道神”と思われるが、住道神の出自・神格が不詳のため、明治初年の神仏分離に際して、記紀神話のカミムスヒ以下を充てたのかもしれない。

 主神のうちのカミムスヒは、天地開闢のとき最初に成り出でた造化三神の一(古事記)で、記紀神話では出雲系神話のなかに祖神(オヤガミ)として登場することが多い。
 アメノコヤネは中臣氏の祖神で、中臣氏が、上記のように住道の神と関連することから祀られたのであろう。
 相殿のアメノヒワシは、境外末社・多米神社(明治41年、末社化)の祭祀氏族と思われる多米氏の祖神で、多米神社本来の祭神として祀られたものか。
 穀物神・ウガノミタマも同じく多米神社の併祭神だが、稲荷神として祀られたのかもしれない。
 追祀のスクナヒコナは、上記の新羅の客を饗応するための酒を醸したのは、中臣須牟地社ではなく当社だともいわれ、また由緒略記には「本社は古来酒造の祖神として、また医薬の祖神として・・・」とあるからのことで、酒の神・医療の神、いずれもスクナヒコナの神格とされる。
 このスクナヒコナの関連で、スクナヒコナとともに国造りをしたオオナムチ(オオクニヌシ)が、スサノヲは、上記のように、この辺りに居住した住道首の祖神とされることから、住吉大神は古く当社が住吉大社の子神(末社)とされていたことから祀られたのであろう。ただ、タジカラオの祭祀理由は不詳。
 いずれにしろ、当社に地縁・血縁があると目される神々を祀ったのが今の祭神で、本来の祭神は忘れられているらしい。

※鎮座由緒
 神社由緒略記には
 「延喜式の古社であって、三の宮と称され、遠く二千年昔の御創建である」
とあるが、式内社であるから9世紀以前からの古社であるには違いないが、その創建時期は不明。冒頭に記すシハツミチの守護神としての住道神を原姿とすれば、雄略天皇の頃(5世紀後半)以降のとなるが、それを伺わせる資料は見えない。

 ただ、上述の住吉大社神代記(天平3年731、異説あり)・子神(末社)の条にある、「件の住道神等は八前なり。云々」の記事を受けて神社明細書(昭和27年)には、
 「本社は初め住吉大社の北方住道と称する地(現在地不明)に鎮座せしを、託宣により天平元年(729)11月7日に、他の須牟地社等七社と共に河内国丹比郡楯原里(中河内郡矢田村字住道)に移祀せりといふ。その後国郡改廃により、世に景勝の地として知られたる長居浦(現鎮座地)に三遷せられるものの如し」
とある。これからみて、当社が8世紀には現在地にあったのは確かで、それまでの間に3度遷座しているらしいが、旧鎮座地などの詳細は不明。

 当地に遷座以降のことは不明だが、神社由緒略記には、
 「社領は住吉大社22,000石の中の375石あまりであったが、社領減地の節(時期不明)没収されたと記されている。本社殿は慶長年間(1598--1615、大阪冬・夏の陣か)兵火にかかったが、豊臣の浪人であった多賀氏などの協力のもと再建し、元和4年(1618)8月21日遷座の式が挙げられた。この日を祭典の日と定められている」
とある。現在の正面に唐破風を擁する社殿は、この時のものであろう。  

※神須牟地神社の碑
 社殿左の庭の中に『神須牟地神社』と刻した石碑が立っている。表面の摩耗が激しく、文字はかろうじて読める程度。

 この石碑は、由緒ある本社が廃絶に瀕しているのを憂えた徳川幕府が、幕臣・菅博房に命じて石碑を建立させたもの(元文元年1736)で、同時に、多米神社についても同様の石碑(H=98cm)が建立されている。
 これは、元和4年の再建から100年あまりの18世紀中頃には、すでに衰微していたことを伺わせるものだが、平安末期から続く乱世のなか、当社の祭祀に係わったと思われる地元氏族・多米氏が衰退したことが原因のひとつともいう。

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