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素盞鳴尊神社
(通称:浦江八坂神社)
大阪市北区大淀南3-3-25
祭神--素盞鳴尊
                                                   2020.10.20参詣

 JR大阪環状線・福島駅の北西約500m、駅西の“あみだ池筋”を北へ、JR東海道線ガードをくぐった先の左側にある浦江公園の南側に鎮座する。入口は公園西側道路から。

※由緒
 境内に掲げる案内には
 「創建年代等詳な記録は残っていない。
 牛頭天王社とも祇園社とも称され、浦江村の氏神として子孫繁栄・疫病災厄守護の御神徳をもって篤く崇敬されていた。

 古地図によると、浦江村は田蓑島にあり、田蓑島は太古より形成された難波江の多くの島々の中の一つで、住吉の八十島祭りの行われたところである。
 淀川の河尻で淡鹽の水が合し、潔斎修祓の行わるに応じて、源氏物語に『たみのの志ま(田蓑島)に みそぎ(禊ぎ)つかうまつる』と述べられている。
 また史書に、伊勢斎宮女御の御禊の地で、野宮・斎殿を設置し給うた処としている。
 当時の村人達がその跡をお祀りし、土地神であり禊祓いの神でもある素盞鳴尊をこの地にお祀りするようになったと推察される」

 当社HPには、
 「当神社の由来は詳ではありませんが、浦江村(現鷺洲及び大淀の一部)の鎮守として、足利時代(15世紀前半)には既に存在していました。
 以前は牛頭天王社とも祇園社とも称されましたが、明治5年(1872)『素盞鳴尊神社』と改称し、村社に列せられました。
 氏子の方々からは『浦江の八坂さん』と親しまれています」
とある。

 田蓑島とは古代難波津にあった洲島の一つで禊ぎ祓いの地としてしられていたが、西淀川区佃説・北区浦江大仁説(当地)・西成区津守説などがあり、確たる場所は不祥。

※祭神
   素盞鳴尊

 案内に「牛頭天王社とも祇園社と称され」というように、当社本来の祭神は疫病除けの神・牛頭天王であったが、明治初年の神仏分離に際して牛頭天王が仏教色が強いとして排斥されたことから、祭神を同じ神格をもつ素盞鳴尊に、社名を八坂神社に変更したのであろう。


※社殿等
 浦江公園内・テニスコートの西側通路から参道を東へ入った先、沢山の提灯が下がったすぐ奥に鳥居が立ち、境内に入る。
 鳥居右前の石標には「素盞鳴尊神社」とあるが、鳥居の神額には「八坂神社」とある。


浦江八坂神社・参道 
 
同・鳥居 

 境内正面に、唐破風向拝を有する入母屋造の拝殿が西面して立つ。

 
同・拝殿

同・拝殿(側面) 

同・内陣
(奥に本殿正面が見える)
 

 拝殿の背後、軒を接するように本殿が西面して鎮座する。
 境内から見えるの側面・背面の一部のみで全体は不明だが、一間社流造の社殿らしい。


同・本殿(側面) 
 
同・本殿(背面) 

◎境内社
*王仁神社
 本社社殿の右奥に鎮座する。
 社殿右に立つ案内には、
 「一本の古松の下に王仁(ワニ)の墓と称する石棺があり、一本松稲荷大明神とも称せられていました。
 応神天皇16年に日本にきじめて論語と千字文を伝えました学問の神様であり、一願成就の神様でもあります」

 当社HPには、
 「王仁臣(ワニノオミ)をお祀りしてあります。
 応神天皇の招聘で、後の仁徳天皇の教育係として、遙か百済からこの浦江の地に辿り着いた王仁博士は、吾国に始めて論語や千字文を伝えたとされております。
 また朝廷の文事を司れた方でしたので、近年、学問の神様として多くの方の学業の向上や入試合格の願いをかけて参拝されます」
とある。

 室町時代、当社北方の大仁八阪神社の辺り(大淀中4丁目)を開墾中に出土した石棺を形代として祀った王仁大明神を当社に遷座したもののようで、王仁の墓とも称する(別稿・大仁八阪神社参照)

 出土地周辺の旧地名・大仁は、応神天皇の頃に百済から招聘されたという王仁に因むというが、当地附近に王仁(あるいは、その関係氏族)が住んだ、あるいは何らかの関係があったとする史料はなく、ワニ・ダイニの読みの近似からのこじつけであろう。

 小さい鳥居の奥に切妻造平入りの社殿が西面して鎮座し、内陣には随神像一対を侍らした流造らしい小祠がみえる。


王仁神社・鳥居 
 
同・社殿
 
同・内陣

 なお枚方市藤阪東町にも、「伝王仁墓」と称する枚方市指定の史跡がある(別稿・伝王仁墓」参照)

 境内右側(南側)に境内社4社が北面して鎮座する。向かって左(東)より、
*八幡神社
   祭神--応神天皇

 HPには、「浦江城の守護神としてまつられていました」とあり、資料によれば、明治41年(1908)、神社統廃合令によって西里中から合祀とある。

 浦江城とは、天文年間(1532--553)三好長慶(1522--64)が父・元長の弔い合戦のために陣を敷いたことに始まるといわれ、浦江公園北側の勝楽寺付近にあったという。
 元亀元年(1570)、野田城・福島城攻めに際して織田方の将が攻め取り、織田信長の石山本願寺攻め(1570--80)に際して織田方の拠点の一つだったというが、その後の経緯は不明。
 当社の旧社地・西里中というのは、大淀中4丁目の勝楽寺のあたりかと思われる。

     

*斎宮社
   祭神--飯豊受皇女神

 HPには、
 「野々宮所と共に伊勢斎宮女御の所縁の地に祀られ、この斎宮社は本社と隣接してあったことから、古代において、いつの時代かは不明ですが、この浦江の地は、内親王が伊勢の斎宮(イツキノミヤ)に定まりましたら、御祓をする地であったと推察されます」
とある。

 朱塗りの鳥居の奥に、一間社流造の社殿が鎮座する。
 明治41年、宮の前(本社の隣接地らしい)からの合祀という。


斎宮社・鳥居 
 
同・社殿 

*野々宮社
   祭神--飯豊受皇大神

 HPには、
 「いつの時代かは不明ですが、古地図にみえる伊勢斎宮女御の御祓いのために定められた野宮とこの野々宮社の旧地が概ね一致することから、摂津志や大日本史は御祓いの地とだんていしています」
とあり、摂津志(1733)には
 「野宮・神殿  古昔斎宮祓除之地 倶に浦江村に有り」
とある。
 明治41年に江川の野々宮社を合祀というが、旧鎮座地は不明。

 並んでいる末社の中でも、当社のみは拝殿と本殿を有している。
 鳥居(神額に「野々宮社」とある)に続いて朱塗りの鳥居が続き、朱塗りの柵に囲まれた中に、切妻造妻入りの拝殿(拝所と呼ぶべきかもしれない)が、その奥に一間社流造の本殿が北面して鎮座する。

 今、当社は野々宮社と称しているが、社頭に朱塗りの鳥居列があること、本殿内に白狐像が納めてあることからみると、稲荷社として崇敬されているらしい。


 野々宮社・鳥居
 
同・全景(左:本殿・右:拝殿) 

同・拝殿 
 
同・本殿
 
同・本殿正面(白狐像がみえる)

 斎宮社・野々宮社共に曾ての伊勢斎宮(斎王ともいう)に関係する社のようで、
 伊勢斎宮とは、天皇の代わりとして伊勢に遣わされて伊勢神宮に奉仕した未婚の女性で、天皇一代毎に天皇の皇女(内親王)あるいは身内から卜定により選ばれたという。
 記紀では、垂仁天皇の皇女・倭姫命から始まるというが是は伝説的な斎宮で、伊勢に赴いたことが確実なのは天武朝の大来皇女からで、後醍醐朝の祥子内親王を以て終焉したという。

 卜定された斎宮は、宮域内の斎院で一年間、その後、京都郊外の浄野に設けられた斎院(野宮・野々宮)で一年間潔斎し(京都・嵯峨野にある野宮神社はその跡の一つ)、その後、近江路から伊勢・鈴鹿を経て伊勢神宮に赴いたという。
 これを斎宮群行というが、その経路が河内・摂津を経たという記録は見当たらず、HPが
 斎宮社について「この浦江の地は斎宮が御祓いをする地と推察される」といい、
 野々宮社について「斎宮の御祓いのために定められた野宮・・・」というが、
 管見の限りでは、それらを証する史料等はみあたらず(摂津志の記述は伝承・口伝等によるものは信憑度は低い)、この二社を伊勢斎宮関連の神社とみるには疑問がある。

 ただ、斎宮の身内に不浄があって斎宮を辞任したとき、伊勢から伊賀路を通って奈良に入り、木津川を下って難波に出て難波津の何処かで穢れを祓い、その後京に入ったといわれ(天皇譲位によるときは往路と同じ経路を通ったという)、あるいは当地近くで穢れを祓ったのかもしれないが、それを証する資料はない。
 なお、穢祓いの場は時によって転々としていたようで、各地に伝承して残っており、門真市には、難波津での穢祓いの前に留まったとの伝承をもつ茨田真手御宿所跡がある(別稿・門真神社参照)

 両社の祭神、飯豊受皇女神・飯豊受皇大神は斎宮に関係する神、あるいは斎宮の尊称かと思われるが、二神の出自・神格等は不明。

*遙拝所
 王仁社の右前にあり、〆鳥居と玉垣に囲まれた右手に「遙拝所」と刻した小さな石標があるだけ。

 全体が右に少し傾いているが、 HPには、
 「伊勢の神宮を遙拝するための施設。
  後ろの木の根っこによって台座がかたむいております」
とある。

 
 

*祖霊社
 本殿の左、木製柵に中に一間社流造の小祠が南面して鎮座する。


祖霊社 
 
祖霊社(側面)

[附記]
 正面鳥居の向かって右(境外)に『子宝延命地蔵堂』が北向きに鎮座する。
   本尊--子宝延命地蔵尊

 海老江八阪神社との関係はみえないが、案内には、
 「当子宝地蔵尊は、当地が未だ葦の葉に鷺が舞い、田や畑・小川などにいろどられた一寒村・摂津国浦江村と称された時代より当所処に鎮座され、村人信仰の的と成りてより約200年の歳月が流れ今に至る。
 その間、人の世の道標として信頼を集め、慈悲を慕いて遠近をとわず多数の善男善女の参詣あり。
 特に子授けの徳と子供に対する諸願のご利益あらたかを願っての参詣が多かったと伝えられている。
 尚現在に至るも信仰厚き方々が多く、その人々の芳志により地蔵堂を新築する。 昭和48年8月23日
とある。


地蔵堂・扁額 

地蔵堂 
 
同・堂舎

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