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須佐之男尊神 社
(俗称:関目神社)
大阪市城東区成 5-15-20
祭神--須佐之男尊
                                                      2020.06.27参詣

 京阪電鉄・関目駅の北西約350m。駅西の国道1号線を北上、関目高殿交差点を左折、鶴見通りを南下した東側に鎮座する。

※由緒
 境内の案内には、
 「須佐之男尊神社  通称:関目神社
  当地の氏神であります。
  関目神社は、天正8年豊臣秀吉が大阪城築造の際、防備の一策として、関目より古市森小路の間十余町の道路を特に屈曲させて(俗に七曲りという)敵兵の進軍を俯瞰し、その陣容・兵数を察知するのに便利なようにした。

 これと同時に、北の護りとして武神の須佐之男尊を祀り崇敬すると共に、浪花の鬼門に当たるので、鬼門鎮護の神として毘沙門天を勧請して小祠を建立したことに始まる」
とある。

 又、東成郡史(1922)には
 「榎並町関目字宮浦に鎮座す。
  本社創祀は天正8年豊臣秀吉大阪城築城の際、防備の一として本村大字関目より古市村森小路の間十余町の道路を特に数次屈折せしめて敵兵の進軍を俯瞰し、其軍容兵数を察知するに便ならしめたり、里俗之を七曲がりと称す。
  而して、之れと同時に此地に毘沙門天王及び牛頭天王を勧請せるなりと云へり。明治5年村社に列せらる。(以下略)
とある。

 当社に関する資料少なく、勧請に至る経緯・創建後の沿革等は不祥。


※祭神
 頂いた参詣の栞には
   主祭神--須佐之男尊
   境内社--毘沙門天(ビシャモンテン)
とある。

*須佐之男尊
 今は須佐之男尊となっているが、東成郡史が、「毘沙門天及び牛頭天王を勧請」というように、本来は行疫神・牛頭天王を祀っていたのが、明治の神仏分離により牛頭天王が仏教色が強いとして排斥されたことから、同じ神格をもつとされる素盞鳴尊に変わったものであろう。

*毘沙門天

  毘沙門天とは、ヒンドゥー教の“ウァイシュラヴァナ”(“クベーラ”ともいう)が、仏教に入って仏法守護の善神・四天王(持國天-東・増長天-南・広目天-西・多聞天-北)の一尊となった神で、法華義疏に
  『毘沙門は是れ北方の天王なり、多聞という。恒に仏の道場を護り、常に説法を聞くが故に多聞という』
とあり、“多くを聞く”ということから多聞天とも呼ばれ(毘沙門天即ちウァイシュラヴァナにも「あまねく聞く」という意味があるという)、わが国では、四天王の一尊としては多聞天(タモンテン)、単独では毘沙門天として祀られるのが通例という。

 また、仏説毘沙門天王功徳経に、
  『毘沙門天が住む大城(須弥山の第4層にあるという)では、財宝が湯水の如く溢れ出、一日に三度 此の福を焼き捨てる。
   人が我が福を欲し、五戒を保ち我を信ずれば福を分け与えよう』(意訳)
とあるように、一義的には福徳財福の神といわれ、同経には毘沙門天を信仰すれば、無尽の福・智慧の福・長命の福・勝軍の福など10種の福を得るだろうとある。
 この福徳財宝の神ということから、一般庶民にとっては七福神の一尊となり、武家武将からは武神として信仰をされたといわれ、越後の虎といわれた上杉謙信の毘沙門天信仰は広く知られている。

鞍馬寺蔵(国宝)

 当社が毘沙門天を祀るのは、当社が大阪城からみて艮(ウトシトラ)・北東の鬼門に当たることからで、鬼門守護とともに毘沙門天がもつ北方を護る武神という神格によるものであろう。


※社殿等
 今、当社一帯は市街地化しているが、東成郡史(大正11年)には
 「社地は旧沼中の小丘なりしが、開墾せられて其の二方は小川となり、一方は現社地創建の際盛土を採取せし痕なりと云へる蓮池なり」
とあり、今、この頃とは大きく様変わりしている。

 東北から西南へ斜行する都島通りの東側に鎮座し、社地の角を東へ入った先に鳥居が立つ。


須佐之男尊神社・全景
(右の道路を入った先に正面鳥居が立つ) 
 
同・鳥居
 
同・境内
(左:毘沙門堂、中央:拝殿、右:社務所)

 境内正面中央に入母屋造・銅板葺きの拝殿が鎮座し、その左に毘沙門天堂、右に社務所がある。

 拝殿背後、塀に囲まれた中に、弊殿を介して、入母屋造・銅板葺きの本殿が南面して鎮座するが、塀が高く全体はみえない。

 なお、東成郡史には拝殿・本殿共に流造・檜皮葺きとあり建築様式が異なっている。何時の頃かに改築されたのであろう。

 
同・拝殿

同・本殿 
 
左:本殿 右:拝殿

◎境内社
*毘沙門天堂
  拝殿の左に鎮座する。
  側らの案内には、
  「毘沙門天(多聞天)
  毘沙門天は仏教とそれを信じる人たちを守る四天王の一尊で、世界の中心にあるという須弥山の中腹に住んでおり、その城には毎日燃やすほどに財宝が溢れ、毘沙門天を信仰する人々に分け与えられるといいます。(以下略)
とある。
 内陣の正面龕の扉が閉まっていて、当社毘沙門天像の実見はできない。
 また、龕の左右に脇侍仏2躰が立っているが、尊名等は不明。

 
毘沙門天堂・鳥居

同・社殿 
 
同・内陣

*不明社
 境内東側に鎮座する小祠。社名・祭神等の表示なく詳細不明。

 その右に『明治天皇御駐輦之跡』との石碑が立ち、側らの案内には、
 「慶応4年(1868)3月23日、明治天皇が千数百人のお供を連れて、関目の地を通り津村別院(北御堂)に向かわれました。
 23日、前日の行在所だった守口・難宗寺を辰の刻に出立、西井茶屋付近(現関目高殿交差点)にて御小休をされ、午の刻(正午頃)に大坂八軒屋に着後、津村別院で40余日滞在されました。
 その間、天保山での観艦式列席、大坂城や住吉大社などを巡覧された後、京へ帰られました。

 この碑は元々西井茶屋付近にあり、その後、当神社内に移築されました。大正2年(1913)6月、明治天皇の当地への御駐輦を記念して当地の人々が建てたものです。(以下略)
とある。

 当時の人々にとっては、天皇が一時(ヒトトキ)にせよ留まられたということは光栄なことであり、それを伝えるべく建立されたのであろう。

*磐座?
 駐輦之跡碑の前に自然石3基がある。磐座の名残りかと思われるが、案内等なし。

*関目発祥之地
 自然石に「関目発祥之地」と刻した石碑で、裏面の案内には、
 「この地は元関目といい、古くは榎並荘の時代からあったもので、関目というのは、この地に見張所(目で見る関所)があったことから起こったという。
 また、関目の七曲がりとして大坂城の防備に役立ったという重要な地あり、明治天皇御駐輦の地としても親しまれている」
とある。

 
不明社(右は明治天皇駐輦跡の記念碑)
 
磐座?
 
関目発祥之碑

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