トップページへ戻る

摂津(住吉郡)の式内社/多米神社
                                                                2009.5.14参詣

 延喜式神名帳に、『摂津国住吉郡 多米神社』(タメ)とある式内社だが、江戸期には荒廃していたようで、今、その後裔社として
 ① 多米神社旧鎮座地--大阪市住吉区長居2丁目→神須牟地神社・境外末社
     (JR阪和線・長居駅の北約500m、長居郵便局前の四辻に位置する)
 ② 住吉大社境内末社--同区住吉2丁目(住吉大社境内)
の2ヶ所があげられている。住吉大社では“種貸の宮”(タネカシのミヤ)と称し、“苗見社”(ナエミのヤシロ)ともいう。

※祭神
 宇賀魂命(ウガノミタマ)・神稚魂命(カムワカタマ)・保食神(ウケモチ)--神須牟地社(カミムスチ)・由緒略記
 倉稲魂命(ウカノミタマ)--大社略記・種貸社の項

 神須牟地社略記にはウカノミタマ以下三柱とあるが、住吉大社略記にウカノミタマ一柱とあるようにウカノミタマが主神とみてよい。ウケモチ神はウカノミタマと異名同体とされる。

 これに対して、
 「主祭神は多米連の祖神・天日鷲命(アメノヒワシ)で、ウカノミタマとウケモチを併祭」
とする資料もある。
 アメノヒワシとは、古語拾遺(807、忌部氏系の歴史書)に「(天岩屋前での神事に際して)天日鷲神と津咋見神に木綿を植えて、白和弊(シロニギテ)を作らせた」(意訳)とあるように、祭祀に使う神具製作にたずさわった職能神(古語拾遺)で、その後裔は祭祀氏族・忌部氏(インベ)に属したという。ただ、今の祭神からアメノヒワシの名は消えている。

 ウカノミタマは“食物の神”、ことに“稲の霊”とされ、“稲荷の神”として祀られることが多い。古事記ではスサノヲの子、日本書紀ではイザナギ・イザナミの子とされ、ウケモチあるいは伊勢下宮の祭神・トヨウケヒメと異名同体ともいう。
 ウケモチには、アマテラスの命で尋ねてきたツクヨミに口から出した食物を供して、怒ったツクヨミに殺されたが、その死体から人間の食物(稲・麦・少大豆・牛馬など)が生じたという穀物起源神話があり(日本書紀)、これも食物神。

 当社の祭祀氏族と目される“多米連”(タメ ムラジ)とは、新撰姓氏禄に
  「摂津国神別(天神)  神魂命(カミムスヒ)五世孫天比和志命(アメノヒワシ・天日鷲命)の後也」
とある氏族で、この辺り(旧寺岡村一帯)に居住していた氏族と思われるが詳細不詳。

※旧鎮座地
 当社は、古く摂津国住吉郡寺岡村の西にあったとされ、旧鎮座地に立つ石碑・『延喜式内 多米神社之趾』の裏面碑文(平田盛胤1863--1946-撰文)によれば、
 「この地一帯を領していた多米連は神魂命五世の孫天日鷲命の後裔である。世々、宇迦御魂神を祀って大炊寮に仕えて供御等を献じていたが、成務天皇の御世に良い御供米であることが賞されて多米連の姓を賜った。

 多米神社は多米連の創建した社で、一名苗見明神・苗見社あるいは種貸明神・種貸宮と称し、古くから衣食の神・子宝の神として崇められていた。

 天正慶長(1573--1615、織田~徳川初期)の頃兵火にかかり社殿神宝などことごとく烏有にきしたが、やがて住吉大社に合祀されたことは神祇院明細帳(明治時代成立)に、境内末社苗見社祭神神稲魂神とあることで明らかで、明暦元年(1655)の住吉大社御造営に際して住吉猪鼻の地に移り、今に至るという。 

多米神社・旧鎮座地の碑

 元文元年(1736)、幕府が由緒ある社趾が荒びゆくのを畏れ幕吏菅広房を遣わして多米社の三字を記した碑を建設させ、今も存在している。
 この碑を立てた処は多米神社発祥の地である」(大意)
とある。
 なお社名の横に小さく“陸軍大将男爵荒木貞夫書”とある。荒木貞夫(1877--1966)は皇統派の重鎮として活躍した軍人で昭和10年(1935)に男爵を拝受しているから、この碑は皇統神道が華やかだった昭和10年代前半に建立されたものであろう。

 この碑文から見ると、当社は旧摂津国住吉郡寺岡にいた多米連の創建で、多米氏が朝廷に供する米に係わっていたことから食物の神・ウカノミタマを祀ったというのだろう。
 この地を式内社・久米神社に充てたのは、江戸中期の儒学者・並河誠所(1688--1738)が“五畿内志”(1735)の編纂に際して、所在が紛れていた畿内の式内社を調べて当時存在していた神社に比定したもので、その実証手法にはやや疑問もあるともいう。

 当社は、この式内社比定以前は“多祢伽志宮”(タネカシ)と呼ばれていたともいう。
 種貸(あるいは苗見・ナエミ)と呼ばれる由緒は不詳だが、その字面からみて、久米氏が良質の米を献上したとの伝承から、うまい米を得ようとする庶民の願いからくるもので、そこから“種貸”あるいは“苗見”との呼称が生まれたのであろう。

 今、低い植え込みに囲まれた境内に木製鳥居が、その先に『多米社』と刻した標石が立ち、傍らに高さ約16mという楠の大木がそびえている。
 この標石は、元文元年(1736)、由緒ある神社が廃滅に瀕していくのを憂えた江戸幕府が、幕吏・菅博房に命じて“神須牟地社”のそれとともに造らせたもので、石製角柱と2段の台石からなり、角柱正面に式内社名、左側面に村名が刻されている。高さ96cm、一辺24cm、花崗岩製。また上記・旧鎮座地の碑は境内右手に立つ。

 なお、この旧鎮座地は、当地から西南約250mに鎮座する『神須牟地神社』の境外末社となっている。神須牟地神社祭神の一柱に多米氏の祖神・天日鷲命があり、多米氏との関係から末社化したのかもしれないが、詳細不明。


多米神社・旧鎮座地

多米社標石

旧鎮座地・全景

※住吉大社境内末社--種貸社
 当社は、上記碑文にあるように、天正年間(1573--92)の兵火によって焼失した多米神社を、住吉大社境内に遷座再建(明暦元年1655)したもので、大社境内の北東隅に鎮座する。
 摂津名所図会大成(江戸・寛政年間刊・1860頃)には、
 「多米神社  今荒廃して住吉の社頭猪の鼻上に小祠あり、是その名残なりと云」
とあり、種貸社・内陣横の説明には、
 「種貸社  式内社・多米神社  祭神・倉稲魂命  元寺岡村奉斎  後世境内に迎え祀る」
とあり、上記多米神社の沿革を傍証している。

 住吉大社略記には
 「古くは稲種を授かるという農耕儀礼に発した信仰であったものが、時代と共に商売の元手や子宝を授かるための信仰に変化した。初辰の日には、種銭や種貸人形を受けるために多くの方が参拝される」
とあり、本来の農耕神から商売繁盛の神へと変貌している。

 社頭には“初辰まつり”と染め抜いた赤い幟が数本立っている。“初辰まいり”とは、毎月最初の辰の日に参詣すれば、より一層の力を与えられ守り助けてもらえるという信仰で、4年を一区切りとして48回詣れば四十八辰(シシュウハッタツ)すなわち始終発達となり、満願成就するという。住吉大社には、初辰の日に境内の種貸社・楠珺社(ナンクン、楠の巨木の根元に稲荷が祀られている)・大歳神社(式内社)を巡る俗信仰があり、多くの人を集めるという。商売繁盛を第一とする大阪らしい俗信といえる。(別項・住吉大社・種貸社参照)


種貸社

同・拝殿
 
同・内陣

トップページへ戻る