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天王寺七宮
                                                     2020.06.16参詣

◎天王寺七宮(テンノウジシチミヤ、四天王寺七社ともいう)
 聖徳太子が四天王寺を創建した際に、その外護として近辺に造営されたという神社群で、
 北から時計回りに、上之宮・小儀・久保・河堀稲生・土塔・堀越・大江の7社が鎮座し、

 次の4社は、それぞれ独立した神社として鎮座する。
 ・大江神社--夕陽丘町5-40  別稿・大江神社参照
 ・久保神社--勝山2-189  別稿・久保神社参照
 ・河堀稲生神社--大道3-7-3  別稿・河堀稲生神社参照
 ・堀越神社--茶臼山町1-8  別稿・堀越神社参照

 以下の3社は、今、大江神社に合祀されている(明治末の神社統廃合による合祀であろう)
*上之宮神社--旧社地・上之宮町4 
     祭神--欽明天皇

  近鉄上本町駅前から上町筋を南下、上本町7丁目交差点を過ぎた東側、正法寺南の辻を東へ、上宮高校東の上之宮台ハイツ玄関前の植え込み内に「上宮之址」との石碑があり、
  傍らの小さな石柱に、「上之宮 是ヨリ壱丁東
  とあることから、上之宮神社はこの辺りにあったのであろう。


ハイツ玄関前の植え込み 
   上之宮址・石碑

 当社関係の古資料として
 ・摂津名所図会(1798)
  「欽明天皇神祠
    天王寺中町にあり、上之宮と称す。此所の生土神なり。
    摂津志に云ふ、熊野御幸記に見えたる上野王子とす。」
 ・摂津名所図会大成(1855)
  「欽明天皇社
    天王寺中町の野中にあり、上野王子と称す。此所の生土神なり。
    当社祭神は人皇30代欽明天皇にして、用明帝の御父帝なり。
    されば聖徳太子の御祖父にて渡にせ給へば、往昔四天王寺草創のをりから共に建営ありしなるべし。
    熊野御幸記に上野王子とありと摂津志に見えたり」
 がある。(摂津志には「上野王子 天王寺東北に在り、王子記に見えたり」とある)

 当社が29代欽明天皇(在位539--71)を祭神とする所以は不明。聖徳太子の祖父にあたることからか。
 尚、この地は嘗て難波から熊野に至る道中に点在した九十九王子の一社・上野王子の跡という。

*小儀神社(オギ)--旧社地・勝山1-11
     祭神--素盞鳴尊

 四天王寺東門を東へ出てすぐの左側(北側)、ハイツ天王寺住宅前の石垣を一部切り込んだ処に、
   『小儀宮趾』と刻した石碑が立ち、側らの案内石碑には
 「此地村社小儀宮の跡地なり。明治41年9月25日 官許を得て 神社を郷社大江神社境内に移し 以て祭祀を嚴にす。
 将来 旧地の煙滅を憂ひ 地の一隅を卜し 碑を建てて之を表す。 大正3年8月1日
とある。

 
小儀宮趾碑・全景
 
小儀宮趾・石碑
 
同・案内石碑

 管見した天王寺七社関連の古資料に小儀宮との名はないが、浪華百事談(1805頃)にみえる“小磯神社”が当社を指すと思われ、そこには
  「小磯の神社は、天王寺東門の外北側にありて、八坂大神(牛頭天王)をまつれり。摂社に歯神の社あり」
とあり、今、石碑が立つ地とほぼ合致する。

 江戸時代の古地図にも「牛頭天王社(小儀宮)」とあることから、嘗ての祭神は行疫神・牛頭天王であったが、
 明治初年の神仏分離に際して、牛頭天王が仏教色が強いとして排斥され、同じ神格をもつ素盞鳴尊に変更したと思われる。

*土塔神社--旧社地・大道1丁目(推測)
     祭神--素盞鳴尊

  土塔神社の旧社地は“四天王寺南門前”というだけで、旧所在地は不明だが
 ・摂津名所図会には
  「土塔宮
   (四天王寺)南大門の外にあり。祭神牛頭天王、本地仏に薬師・地蔵・皇太子(聖徳太子)の3像を安置す。 
   神宝に舞楽の面あり、悪魔降伏面といふ。(以下略)
  「土塔古跡
  天王寺南門土塔町超願寺これなり。皇太子の御時、震旦国より渡りし経論、烏有を恐れて土塔を築きて蔵め給ふ。
  後世寺となして南岡山土塔寺と号し、本尊は太子御作の阿弥陀仏長三尺三寸の尊像を安す」
とあり、南大門の外とあること、絵図に四天王寺南大門の南に土塔宮との小祠がみえること(下図)からみて、今、南大門の南・大道1丁目にある超願寺或いはその辺りにあったかと思われるが、今、超願寺の辺りに土塔神社跡を示唆する痕跡はない。


摂津名所図会・土塔宮(部分) 
 
超願寺山門付近 


 これら七社は、四天王寺を護るかのように寺の四周に位置しており(上之宮だけは北へ離れている)、その位置からみると四天王寺の外護鎮守社というのもうなずけるが、
 書紀にみる太子の事蹟は仏教関係が殆どだが、唯一、推古15年2月条に
  9日勅して、「古来、わが皇祖の天皇たちは厚く神祇を敬われ、山川の神々を祀られた。今わが世においても神祇の祭祀をおこたってはならぬ」(大意)
  15日、皇太子と大臣は、百寮を率いて神祇を祀り拝された、
とあり、仏教法要以外にも何らかの神マツリもおこなわれていたと思われる。

 ただ、この当時の神マツリが如何なる形をもっておこなわれたかは不祥で(今みるような神社があったとは思えない)
 管見のかぎりでは、書紀などの公的文書に七宮に関する記録が見えない
 7社の祭神について、3社は太子に関係するが、残りの4社と太子との関係はみえない
などから、太子あるいは四天王寺建立に結びつけての創建由緒は、後世の付会であろう。

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