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綱敷天神社
大阪市北区神山町9-11
祭神--嵯峨天皇・菅原道真
付--御旅社・歯神社
                                             2020.10.07参詣

 JR大阪駅の東約800m、阪急前交差点から扇町通りを東へ、御堂筋線を越えて5っめの角を左折、北へ入った右側(東側)に鎮座する。
 扇町線を更に東進し、神山交差点を左折して北へ少し行った西側に当社東側入口(裏門)があり、こちらの方がわかりやすい。

※由緒
 西側の正面鳥居の横に
 「第52代嵯峨天皇は、弘仁13年(822)津の国難波兎我野町に行幸され、この地で一夜を過ごされました。
 天皇死去後、皇子の左大臣源融公は、追悼のあまり承和13年(843)この神山の地に神野神社として奉祀されました。

 菅原道真公は、延喜元年(901)太宰府権帥に左遷の時、この北野の地に着岸、神野神社に参拝され、紅梅樹が美しく咲いていたので、船綱をといて御座とし賞翫されました。 
 今、御神宝とされている綱から綱敷天神社といわれ、学問の神様として御信仰があり、守り伝えられています」
と簡単にあるだけで、社務所無人。

 当社HPには、
 「当宮は社号を『綱敷天神社』と称し、今から1200年ほど昔の弘仁13年(822)に、第52代天皇・嵯峨天皇(在位:809--23)が当地に御行幸あそばされ、現在の御本社のある神山の地に頓宮を構え一泊された事に由来する神社です。
 嵯峨天皇崩御後の承和10年(843)、皇子・源融公(ミナモトノトオル、822--95)が、御追悼のため近隣の太融寺に七堂伽藍を建立した際、嵯峨天皇を祀る社殿を頓宮跡の当地に創建、天皇の御名をとって『神野太神宮』(カミノ)と号しました。
 この神野大神宮が御本社の前身となります。

 その58年後の昌泰4年(901)に、後に学問の神様として慕われる“天神さま”こと菅原道真公が、無実の罪により京都より九州太宰府までの左遷の途次、この地で今を盛りと咲いていた紅梅に目を留められ、遙か古代、仁徳天皇の御代に、『難波津に咲くや此の花冬ごもり 今は春べと咲くや此の花』と読まれた難波津の歌に思いを致され、賢き御世のためしとて、紅梅をご覧になるため、船と陸を繫ぐ艫綱を円く円座状に敷いて即席の座席とし、その上にお座りになられて紅梅をご覧になった故事から、『綱敷』の号が興りました。

 この時、菅原道真公の従者・白太夫こと度会晴彦(ワタライハルヒコ)の一族らをお側近くに召され、『この地に留まり、いつか戻るその日まで待つように』と御遺訓を残され、白江の姓を賜わり、また自筆の御影とお座りになられた綱を与えられ、道真公は九州太宰府に旅立たれました。
 その為、当宮社殿は全て西向きに建てられており、これは道真公のお帰りをお待ちする為といわれています。

 白江氏は、御遺訓に従い、この地に留まり、道真公薨去の後は紅梅の樹下に小祠を営み、号を『梅塚天満宮』と号し、道真公の御神霊をお祀りしました。
 この梅塚天満宮が現在の茶屋町の御旅所の前身となり、またその紅梅が“梅田”の字の由来となったと云われています。

 正暦4年(993)、冤罪の晴れた菅原道真公の御神霊に対し、朝廷より正一位が追贈された事により、当地にも改めて社殿を建立することになり、神野太神宮を御本社に梅塚天満宮を御旅所としました。
   (中略)
 明治に入って大阪駅が開業して以降、それまで鄙びた村であった当地が一気に都市化してゆき、それらの影響で御旅所は現在の茶屋町に移され、また角田町に鎮座していた歯神社も当社が管掌するようになりました。(以下略)
とやや詳しく記されている。


 綱敷天神社は、おおまかにいって北区神山町に鎮座する御本社(旧神野太神宮)と同区茶屋町にある御旅社(旧梅塚天満宮)との2社から成る神社といえる。

*旧神野太神宮とは
 ・9世紀初頭、嵯峨天皇当地行幸の際(弘仁13年-822)の頓宮跡に、承和10年(843)、天皇の皇子・源融が父・嵯峨天皇を偲んで、天皇を祀る神社を建てたことに発する
 ・神野太神宮との呼称は、嵯峨天皇の諱(イミナ)で、天皇に仕えた采女司の長官であった乳母・賀美能宿禰(カミノスクネ)の出身地・伊予国神野郡(現愛媛県新居浜市)によるという。

 ・当社を創建したという源融とは、嵯峨天皇の皇子23人のうち源姓を賜って臣籍降下した17人の一人で、嵯峨源氏・源融流の始祖。後裔に大江山の鬼退治で知られる渡辺綱がいる。
 ・融には、京都六条にあった広大な邸宅(六条河原院)に陸奥国塩竈(シオガマ)の風景を模した庭園を造り、毎日海辺から海水を運ばせて塩焼き(製塩)をおこなわせ、それをみて楽しんだというが、これは皇統譜から外された鬱憤を晴らすための遊興とも思われる。なお、融は源氏物語の主人公・光源氏のモデルともいう。

 ・創建後の当社が如何なる経緯をたどったかは不祥だが、HPによれば、
  正暦4年(993)、菅公に正一位太政大臣が追贈され、当地にも改めて社殿を造営して神野太神宮と梅塚天満宮を合祀し、神野宮を御本社、梅塚宮を御旅所となし、京都の北野天満宮に倣い北野天神と呼ばれるようになった」
という。
 ・これに関連して、江戸中期の名所案内・摂津名所図会(1798)にも
  「北野天満宮 北野村にあり。諺にいふ、菅公さすらへの御時、福島に船を繫がせ此地に来りたまひ、難波梅を愛し給ひしとぞ」
とあり、江戸時代には嵯峨天皇を祀る社というより、菅公が梅を愛でた社として知られていたらしい。


*旧梅塚天満宮(現御旅社)とは
 ・延喜元年(901)2月(旧暦)、菅原道真(菅公)が太宰府左遷の途中に福島で船を下りて当地(太融寺参拝ともいう)まで来られた時、咲き誇る紅梅をご覧になり、船の艫綱を丸めた円座にお座りになって勧請され、近習の白大夫こと度会春彦に「此地に留まり吾が戻る日まで待て」と命じて太宰府に出立された。
 ・春彦一族は命により此地に留まり、白江家と名乗って紅梅を守っていたがお帰りなく、菅公没後(902)、紅梅の下に小祠を営み菅公の霊を祀った。これが御旅社の前身・梅塚天満宮である。

 ・江戸時代に入ると、幕府による寺請制度・檀家制度により、全ての人が何処かの寺院の檀家になることが強制され、当社では苦肉の策として当宮にあった行基菩薩の小祠(新たに観音堂を建てたともいう)を天台宗常安寺という寺院へと改変し、神職等は常安寺檀家となったという。
 ・この梅塚天満宮(紅梅の地)の鎮座地に関連して、摂津名所図会に
 「梅塚天神  北野村常安寺にあり、ここの古梅 菅神の御愛樹といふ。紅梅にして樹下に天満宮の祠あり。
          この寺は初め行基大士の開基にして、今は慈雲山常安寺といふ」
とあり、HPには“御本社の南約200mほど、現太融寺町の北東辺りか”とあるものの場所の特定はできない(同じHPに現西天満6丁目附近ともあるが、これだと離れすぎている)
 (大阪市の町名は、昭和52年の大規模改変により大きく変わってしまい、この当時の西天満6丁目が今の西天満6丁目かどうかは不祥)

 ・明治初期の神仏分離令により常安寺が廃寺となったことから、当社が復活するかと思いきや、上知令(明治4年・1871)によって社地が国により没収されて民間に売却され、知行地を失うとともに梅塚までもなくなってしまい、神社(御旅所)としての存続が成りたたなくなった。

 ・神様の渡御先を失った当社は、明治5年、梅ヶ枝町(現西天満6丁目)に仮遷座(現太融寺町の太融寺境内ともいわれ、はっきりしない)
 ・数年後、現鎮座地の茶屋町・芝田町の住民から地域の氏神として祀りたいとの申し出を受け、土地が寄進されたことから北区茶屋町(現在地)に遷座。


※祭神
  嵯峨天皇--旧神野太神宮の祭神
  菅原道真--旧梅塚天満宮の祭神


※社殿等
 境内の西側道路脇に立つ鳥居を入ったすぐに神門があり、境内に入る。


綱敷天神社・鳥居 
 
同・神門
 
同・境内

 境内正面に、唐破風向拝を有する入母屋造の拝殿が西面して建ち、内陣の扁額には「嵯峨天皇・菅原道真公」とある。


同・拝殿 
 
同 左
 
同・内陣

 拝殿の背後、高塀に囲まれた中に、二間社流造とおぼしき本殿が西面して鎮座するが、両側面からは側面と屋根の一部が見えるだけ。
 なお、境内東側は南北の広い道路に面していて入口もあるから、参詣するには東側からがわかりやすい。

 
同・本殿(左側面)

同・本殿(右側面) 

同・本殿(背面、この前に東入口あり)

◎境内社他
*喜多埜稲荷神社(キタノイナリ)
    祭神--宇賀御魂太神
  境内左(北側)にある稲荷社で、朱塗り鳥居の奥に切妻造・妻入りの社殿が南面して鎮座する。

 社頭の案内には、
 「『キタのお稲荷さん』として知られる当宮は、社号に当地の古称である“喜多埜”を冠し、大変由緒の深いお宮です。(中略)
 かつては当宮の横に、室町時代、一夜にして七本の松が生えたという奇瑞で知られる『七本松』の遺木がありましたが、戦災で社殿とともに焼失しました。
 長らくそのままとなっていましたが、昭和37年、キタの商売の神さまをこのままにしておけないという氏子崇敬者、また地域企業の皆様のご篤志で社殿が復興されました。
 平成23年、新しい鳥居の奉納を受け、参道を石畳にする改修をおこなっています」
とある。

 一夜にして7本の松が生じたというのは、東方にある大阪天満宮の創建にかかわる伝承で、その遺木が此処にあったというのは解せない。

 
喜多埜稲荷神社・鳥居
 
同・社殿
 
同・内陣

*白龍社(ハクリュウ)
    祭神--白龍大神・猿田彦大神
  本殿の右に鎮座する小祠。

 側らの案内には
 「このお宮に祀られているのは、家や土地の守り神である白龍大神と、方除け・交通安全の神である猿田彦大神です。
 白龍大神に関する記録は戦災で焼失したため詳ではないが、古くより“ヘビの神さま”であると伝えられ、ヘビは家屋の守り神ともいうことから、この地の守り神として崇められていたと伝えられています。また水性の守り神ともいいます。
 猿田彦大神は、古事記・日本書紀に登場する国津神で、瓊々杵尊の降臨の際に道案内をした神として知られています。
 伝説によると、長い鼻を持っていたといわれ、妻である天宇受売神と一緒に天狗とオカメ姿の道祖神として、悪いものが街に入り込まないよう、街道の辻々などでよく祀られており、災難除け・方除け・旅行安全の神さまとしても慕われています。
 当社は戦後復興された社ですが、老朽化が目立っていたため、平成25年、社殿改修・石玉垣・参道石畳などを修理整備しました」
とある。

*筆塚
  境内右側に立つ円柱形の石碑、注連縄が巻かれ、上部が筆の穂先にようになっている。
 側らの案内には、
 「この石の塚は、当宮の祭神である書の三筆の一人である嵯峨天皇と、書の三聖の一人・菅原道真公の御神徳を顕彰して建立されたもので、筆法に所縁ある当社ならではのものといえます。
 この筆塚は戦前にもありましたが、戦災で損傷しそのままになっていたのを、昭和52年、道真公の御神忌1075年を記念した萬燈祭が斎行されたことに因み奉納されたもので、筆塚としては日本有数の大きさです。(以下略)
とある。


白龍社 
 
筆 塚



【綱敷天神社御旅社】
  大阪市北区茶屋町12-5
 阪急電鉄梅田駅の東側道路を北へ行った右側(東側)、密集するビルに挟まれた狭い区画に鎮座する。
   祭神--菅原道真

※由緒
 綱敷天神社HPには、
 ・茶屋町に鎮座する当神社の御旅社(御旅所ともいう)は、梅田の繁華街の中心地にある。
 ・当御旅社は、北区神山町鎮座の綱敷天神社御本社の神様が、夏の渡御祭の際に地元梅田キタの町が平穏かどうかをご覧になる時にお休みになるための社として鎮座しています。
 ・当御旅所の前身は、御本社の南にあった『梅宮天満宮』であり、祭神として菅原道真を祀っていたという経緯から、一般の御旅所とは違い、社殿・境内地を有する一つの神社として建立されています。
 ・このことから、正式には御旅所ではなく『御旅社』と号しますが、江戸時代以降は通称・御旅所ともいっていました。
 ・こうなった経緯は、明治初年の頃に御本社の南にあった梅塚天満宮の土地が、神仏分離令や上知令によって国に没収されたため、明治5年に西天満6丁目に一時的に遷座し(太融寺町ともいう)、数年後に、茶屋町の氏神として迎えたいとして土地の寄進があったことから、現在地に鎮座したものです。
 ・現在の社殿は、昭和59年に旧社殿の老朽化と、梅田の地を何度も襲った洪水から御神体を護るために建て直されたものです。
とある(要約、書き込みあり)

 今の御旅所に、前身である梅塚天満宮を偲ばせる痕跡はみえない。
 資料によれば、境内に「第廿三番 常安寺」と刻した江戸時代の石碑があるというが、参詣時見当たらなかった。

 当御旅所の由緒・鎮座経緯等については上記。

※社殿等
 道路東側に、歓楽街のビルに囲まれて鎮座する。
 道路脇に鳥居が立ち、10数段の石段の上が境内だが、狭い境内に社殿等が密集していて、全体の把握は困難。
 なお、鳥居向かって右横に「綱敷天神社御旅所」との社標柱が立つ。


御旅所・社頭 

同・正面全景 
 
社標柱

 石段を上った上に建つ西向きの拝殿は、大きな唐風向拝をもち千鳥破風付き屋根を有する入母屋造とみえるが、場所が狭く社殿全体の撮影はできない。
 拝殿正面上部の扁額に「菅原道真公」とあるが、内陣の様子は硝子の反射等でみえない。


同・鳥居(石段上が拝殿) 
 
同・拝殿正面

 本殿は境内からは見えず、北側道路に回り込むと、切妻造平入りとおぼしき本殿の上半分が見えるだけ。
 なお、前面道路から、境内南西側からの社殿屋根の重なり具合がみえる(下右写真)


同・本殿(北東側より)
 
   同・社殿全景(南西側より)
(左が本殿屋根、前面は玉姫社の小祠)

*玉姫社
 境内南西隅に東面して鎮座する境内社で、側らの案内には、
 「御祭神は女神にして、古来より芸能上達・良縁・商売繁昌・無病息災・家内安全の守護神として、広くご婦人方の信仰を集め、今日に至っては学問の神として崇められるのは御本社に菅公を祀れる由縁である。昭和54年10月吉日
とある。


玉姫社・鳥居 
 
同・社殿


【歯神社】(綱敷天神社飛地境内末社)
  大阪市北区角田2-8
 大阪駅の東側、大阪環状線の南側道路を東へ、最初の辻を左(北)に入り、環状線ガードをくぐったすぐ右に鎮座する(大阪駅から発する大阪環状線と東海道本線に挟まれた三角地に位置する)
  祭神--歯神大神 

※由緒
 境内に案内等はないが、綱敷天神社・御旅所に掲げる「歯神社のご案内」には、
 「歯神社は大阪北区角田町2番8号(御旅所から徒歩15分ほど)の飛地に鎮座する、当綱敷天神社の末社です。
 その由縁は、かつてこの地に巨岩があり、これに神性を感じた村人によって、巨岩を御神体としてお稲荷さまがお祀りされたことに始まります。
 創建の年代については悠遠の時代に属するため、にわかには判じかねますが、梅田の開発の進み始めた室町時代の後期頃と考えられます。

 当宮を歯神社と号するのは、江戸時代の中期頃に、梅田を水没させるかの如き淀川の氾濫があったとき、当地にあった巨岩が氾濫した水を歯止めし(水の侵入を防ぎ)、梅田の水没を防いだことから、歯止めの神社として慕われ、その音韻が歯痛止めに通じるとして、いつの頃からか『歯の神さま』として慕われ崇敬を聚めるに至りました。伝承では、社殿前の『なで石』はその巨石の欠片ともいわれています(未見)

 大阪は明治以降、歯ブラシの生産量日本一の地となり、自然と歯の神さまへの崇敬は篤くなり、それまで村民によって私祠として奉斎されていた歯神社を、正式な神社として奉祀するため、明治24年から梅田キタの氏神様である綱敷天神社の末社に列し、今では日本一の歯の大神さまとして、歯の苦しみを和らげ、歯に悩む人々、歯に関わるお仕事をされる方々の守り神さまとして崇敬されています」
とあり、資料によれば、
 「平成12年(2000)、何者かの放火によって社殿の前半分が燃えるという災禍に見舞われたが、関係者の努力により翌年5月に再建され、綱敷天神社御本社に避難されていた祭神を迎えての正遷宮祭が行われた」
という。


※社殿等
 JR大阪環状線・東海道本線の高架に挟まれた区画の商業ビルに囲まれて、大きな銀杏の木の下に鎮座する。
 朱塗りの鳥居および玉垣の中に切妻造妻入りの社殿(正面:朱塗り、側面:白壁)が鎮座するが、これは本殿の覆屋で、覆屋内に本殿の社殿が鎮座する。

 内陣を見ると、本殿正面の扉が3面あり、祭神三座が祀られているように見え、また本殿前に一対の狐像が座っており、かつてお稲荷さんとして奉斎されていた片鱗が残っている。
 今の祭神は歯神大神一座というが、扉が3面あること、昔は稲荷さんとして祀られていたこと、狐像一対が座っていることなどから、今も歯神大神と一緒に稲荷大神が祀られていると思われるが、もう一座は不明。
 
歯神社・社頭
 
同・社殿

同・内陣 

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