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弥 栄 神 社
大阪市生野区桃谷2-16-22
祭神--素盞鳴尊・仁徳天皇
付--御旅所(旧御館神社跡・味原御旅所)
                                                2020.07.22参詣

 JR大坂環状線・桃谷駅の東北東約450m、駅の北側道路を東へ突き当たりを左(北)に曲がって次の辻を左(西)へ入った右側、石段の上に鳥居が立つ。
 社名は“ヤエイ”と称する。

※由緒
 頂いた「彌榮神社由緒記」には、
 「当社は文禄年間(1592--95)に島根県八束郡(旧出雲国意宇郡)の旧国幣大社熊野神社より御分霊を移してお祭りしたと旧記にあり、その当時は牛頭天皇社と呼ばれていました。
 創立以来、旧木野村の鎮守として崇敬厚く、宮座を設けて祭事を奉仕していたが、明治5年村社に列せられて依り、神職を置き、又この時に社号も彌榮神社と改めたとあります。
 この社号を『イヤサカジンジャ・ヤサカジンジャ』等々と称えるという古老もあるが、現在では、氏子の九分までが『ヤエイジンジャ』と称えているので、ヤエイジンジャと申しあげる。(以下略)

 大阪府全志(1922)には
 「弥栄神社は鶴橋町南方都東にあり。素盞鳴命を祀れり。創建の年月は詳ならず。
  明治43年12月大字岡字御館の村社御館神社(仁徳天皇)を合祀す」
とある。


 当社の勧請元・熊野神社とは、今、島根県松江市八雲町にある熊野大社のことで、延喜式神名帳には『出雲国意宇郡 熊野坐神社 名神大』とある。
 出雲坐神社は嘗ては出雲国一ノ宮と称した著名な神社ではあるが、それが如何なる由縁で当社に勧請されたかは不明。

 その祭神は素盞鳴尊というが、本来は穀神・櫛御気野命(クシミケヌ)であったが、平安時代になって素盞鳴尊と習合したといわれ(別項・熊野大社参照)、当社創建の文禄年間には素盞鳴尊とされていた。

 ただ、当社創建当時は牛頭天王社と呼ばれたというが、これは備前国風土記・逸文の蘇民将来条に、牛頭天王(風土記には武塔神とある)が『吾は速須佐雄神なり』と告げたとあることから(この部分は後世の挿入とする説もある)、当社は疫病除けの神・牛頭天王を素盞鳴尊として祀り、出雲の熊野坐神社からの勧請との由緒を作ったともとれる。

 社名・弥栄は“ヤエ・ヤエイ・ヤサカエ・イヤサカ”など幾つかの呼称があるが、これらは八坂(ヤサカ)と通底で、京都祇園の八坂神社が江戸時代までは祇園社(祭神:牛頭天王)と呼ばれていたが、明治初頭の神仏分離に際して、牛頭天王が仏教色が強いとして排斥されたことから、社名を八坂神社に祭神を素盞鳴尊に変更したと同じように、明治以降弥栄神社・素盞鳴尊に変更したのかもしれない。


※祭神
    素盞鳴命・仁徳天皇
*素盞鳴命
  本来の祭神は牛頭天王であって、上記のように明治初年の神仏分離に際して素盞鳴命に変更したものであろう。
 
*仁徳天皇
  仁徳天皇は、明治末期の神社統廃合令によって合祀された御館神社の祭神。


※社殿等
 境内南側道路に面する低い石段の上に正面鳥居が立ち、短い参道途中の〆鳥居をくぐって境内に入る。
 なお、境内東側にも鳥居が立ち、一般にはこれらが利用されているらしい。

 境内の諸社について由緒記には
 ・現在の境内地は468坪あり、現在の社殿は昭和御大礼記念として氏子総代等の絶大なる努力によって造営されたもの
 ・境内諸社は、本殿・南門・拝殿・護摩堂・神馬・社務所・絵馬堂等よりできている
とあるが、護摩堂・絵馬堂は気づかなかった。


弥栄神社・南側鳥居
 
同・〆鳥居
 
同・東側鳥居

 境内中央に入母屋造・銅板葺きの拝殿が南面して建ち、その前に奉納された提灯がさがっている。

 
同・拝殿
 
同 左

同・内陣 

 拝殿背後の中門・弊殿を介して本殿(切妻造・妻入りか)が南面して鎮座するが、高塀等に阻まれてみえるのは銅板葺きの屋根のみで全体を見ることはできない。


同・本殿
(左より中門・弊殿・本殿と続く) 
 
同・中門

◎境内社
 本殿右の狭い区画に朱塗りの鳥居が立ち、細長い参道奥に白玉稲荷神社(宇迦御魂神)が南面して、参道途中の右に櫛名田毘売神社(櫛名田毘売命)・福徳大明神社(大己貴命)が西面して鎮座する。

 
末社への入口鳥居
 
白玉稲荷社・鳥居
 
同・社殿
     


◎御旅所
 頂いた由緒記には
 「御旅所  生野区勝山3丁目  御館神社跡地
        天王寺区餌差町  味原池跡地
とある。

*旧御館神社跡(岡御旅所)
   生野区勝山北4-5
  祭神--仁徳天皇
  八坂神社の南南東約500m、本社東の道路から斜めに分岐する茨神社通りの東側、民家に囲まれた中に鎮座する。
  当御旅所は、曾て御館神社と称していた小祠で、今、彌榮神社岡御旅所とも称する(旧地名による呼称)

 当社由緒記には
  「明治42年12月17日、氏子協議のうえ、大字岡村の御館神社を合祀することになり、大正2年4月これを合祀した。
  御館神社は旧岡村の産土神で『いばらの神』と呼ばれ、仁徳天皇的殿の旧跡で、仁徳天皇を祭神としており、この神社を合祀したので、祭神が二はしらとなる」

 摂津名所図会(1812)には
 「御館祠(ミタケノホコラ) 今岡村の生土神とす。土人“いばら神”と呼ぶ。仁徳帝的場の旧跡なりとぞ。大正2年(1913)弥栄神社に合祀」

 浪速百事談(明治28・1895頃)には
 「仁徳天皇・高津宮の際の御弓場の址は東成郡のうち岡村のをかち山の辺にて、之そのときの南大門の外にあたれり。
  今は其旧蹟に社を建てて御館神社と称し、大鷦鷯尊(仁徳天皇)の神霊を崇まつれり」

 大阪府全志
 「御館神社は字御館にあり、其の西方に隣りて、的場といへる所あり。其の地は仁徳天皇の的場を置き給ひし旧蹟なりと伝へ、御館神社に仁徳天皇を祀り来りしも、明治43年12月大字木野の弥栄神社に合祀せられて今はなし(今は御旅所として存置)
とある。

 茨神社通りの東側に道路に沿う形で鎮座し、境内南側の道路脇に〆柱一対が、境内に小鳥居が立つ。


御館神社跡地(岡御旅所) 
 
同・境内

 鳥居の奥に一間社流造の社殿が南面して鎮座し、その右に「御館神社址」との石碑が立ち、碑面には
 「古来当処を的殿と称して 仁徳天皇の的殿の旧跡なれば □□□産土神として此処に同天皇霊を祠る 是御館神社□□
  而して大正二年四月東成弥栄神社に合祀せられてより 同社の行宮所となり今日に至る」
とある。(□は判読不能)

 社殿の左に小祠一宇が鎮座するが社名・祭神等不明。


同・鳥居 

同・社殿 
 
御館神社址・顕彰碑
 
不明小祠

 境内は綺麗に整備されているが、本社からの御幸行事等が行われているかどうかは不明。

*弥栄神社味原御旅所
   天王寺区餌差町10-23 (2020.07.01参詣)
  祭神ーー仁徳天皇(大鷦鷯命)

  JR大阪環状線・鶴橋駅の北西約600m、鶴橋交差点から玉造筋を北上、舟橋町信号を左折、真田山公園西端の辻を北へ、次の辻を西へ入った先に鎮座する。高津高校の東南角にあたる。

 社頭に「味原東振興組合 彌榮神社」との幟が立つだけで案内等なし。

 V字型分岐点の先端に低い門柱が立つ入口があり、境内の西奥に小さな鳥居が立ち、その奥に切妻造・妻入りの社殿が東面して鎮座する。
 社殿に掲げる扁額には「弥栄神社」とあるが、古いもので文字は消えかかっている。
 社殿の中に祠が鎮座しているが、社殿扉の格子が狭く全体は見えない。
 境内は狭いが、清掃も行き届いていて地域の人々に守られているとみえる。

 
弥栄神社味原御旅所・社頭(東より)
 
同・鳥居(右は社務所らしいが無人) 
 
同・社殿
 
同・内陣 

 大正時代まで餌差町の南に接する味原本町辺りに味原池(アジハライケ又はミハライケ)と称する大池があり、弥栄神社(味原御旅所)は池の北岸に位置していたという。
 味原池と桃谷の本社との関係は不祥だが、弥栄神社境内に立つ「味原池碑」との石碑には
 「農は天下の大本也。民の恃(タノ)みを以て生きる所也と詔し給ひしより以降二千余世々の聖帝多く地溝を設けしめ玉ふ。
 摂津国東成郡木野村に溜池あり、一を富池といひ、一を味原池といふ。富池は既に廃れて味原池のみ同村を距たる西に四丁余りの高地に現存とありしが、明治大正の世に及びて戸口頓に繁殖し昨の田圃変じて市となす声とはなりぬ。
 かくて灌漑の用絶えて徒に雨水の貯えあるのみ。其広茅古来330余畝を以て伝う、水量の大亦以て想ひ見るべし。

 明治の末季廃池の議ありて諸説区々なりしが、遂に大正8年決然池敷を市人に估却し其が価値の幾分を氏神彌榮神社に納めて悠久の社資に供し以て村民がこの池の為に累世子々の栄を見るに至りたる恩沢を報ひむとす。
 爾來村民中これに係はる人士等相計てしかという碑を社前に造立し以て不朽に垂ると  大正8季己末晩秋日・・・」
とあり、味原池は当地一帯の農耕用水を供給する大池だったが、明治大正の市街地化に伴って売却されたという。

 また、ネット資料によれば、味原池の所有者は、当地の東方・桃谷一帯の大地主であり弥栄神社の有力な氏子であって、池の水を灌漑用水として桃谷へ引く水利権を持っていたといわれ、そんな縁から当地に弥栄神社の分霊を祀ったのかもしれない。

 なお、味原池とは、摂津名所図会(1812)
 「味原池 小橋村の西にあり。一名比売古曾神(ヒメコソノカミ)の御影池といふ。土人溜池(タメイケ)とよぶ」
とある池で、右絵図にみるような大池だったという。
 当地にあった弥栄神社が何処かは絵図に書き込みがなく不祥だが、左上の山麓に鳥居と小祠がみえ、あるいは是かもしれない。

 味原池は明治・大正に至って周囲の田圃が市街地化して灌漑用水の要がなくなったことから、大正8年(1919)に売却・埋め立てられたといわれ、今では市街地(味原本町一帯)となっており、曾ての面影はない。 


味原池碑(弥栄神社境内)
 
味原池・摂津名所図会(部分)

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