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山 阪 神 社
大阪市東住吉区山坂2-19-23
祭神--天穂日命
相殿--素盞鳴尊・猿田彦命・野見宿禰・宇賀御魂神
                                                 2020.09.14参詣

 JR阪和線・南田辺駅の南南東約300mに鎮座するが、こちらからの経路は道路が輻輳していて分かりにくい。
 JR阪和線と近鉄南大阪線の略中ほどを南北に通る長居公園東筋の東田辺1丁目交差点(東住吉区役所の少し北)を西へ進む方がわかりやすく、その突き当たりに鳥居が立つ。

※由緒
 頂いた「山坂神社御由緒略記」(以下、由緒略記という)には、
 「当社は一に田辺神社といい、三代実録にも掲載されている『田辺西ノ神』です。
 田辺の地名は、田辺宿禰に関係ありといわれておりますが、確証は詳かではありません。

 天穂日命の子孫がこの土地に住し、その祖神・天穂日命を祀って社殿を建立しました。さらに、その同族・土師氏たる野見宿禰命を合わせて祀られたのが当社の創めとされています。

 後に土師氏弓部16人を率い神功皇后に従い三韓に渡り偉功をあらわしたとあります。
 凱旋後、摂津住吉神社創立と共に、その地に邸宅を賜り梅園氏と称し、住吉神主を助け同社の客人となって神事にあたられました。
 これより後は住吉神社の末社となり、その順位は、住吉松葉大記によりますと大海・大依網・開口・座摩・生国魂の各末社の上位に記され、当社が住吉大社より重視されていた証しでもあります。

 当社の祭儀もこの頃より梅園氏によって行われ、その同族にして配下の田宮宮主即ち禰宜長ならびに舎人よりなる宮座によって奉仕され、9月朔日の例祭には、当市および後に現れる田辺東ノ神の祭儀には梅園氏が親しく奉仕し、ことに禰宜長以下の宮座は当社に奉仕すると共に、住吉神社の神馬を飼養し日々住吉神社へ曳くを例にするようになり、当社の宮座は住吉神社との間にふるくより特殊な交渉があったものと考えられます。

 降って、平安朝に入り清和天皇の貞観4年8月(11月の誤記)11日には、当社西ノ神・東ノ神ともに従五位下に叙せられたとの記録が残っています。
 〔これは、三代実録(901)・貞観4年11月11日条に記す『摂津国正六位上田邊東神・田邊西神に、並に従五位下を授けき』との記録を、田邊西神が当社を、田邊東神は東住吉区針中野にある中井神社を指す〕
 想うに、田辺神社が東西に分かれてあったのは平安朝以前のことで、その時期は不明ですが、田辺発達の推移より考えまして、西ノ神まず田辺神社として創立され、次に人文の東方に発達するに伴い田辺東ノ神が勧請され、何時か東西を附して両社を区別されたものと思われます。

 田辺東ノ神社は、当社東南一丁半に鎮座の八王子社を指称されていますが、一説には旧南百済郡中野の中井神社ともいわれています。

 後に田辺の地理的文化は南北に分かれて南田辺・北田辺と称し、田辺は住吉第一の所領で神馬の牧場を置き、南北各御厩を設け神馬4頭を飼育するのが年中行事であった、というのがこの時代の話であります。

 江戸時代に入り、元禄初期には既に山坂神社と称し、正月7日に田辺宮主(田辺御厩の舎人)は神馬を曳梅園家へ祝儀に赴き、梅園家は“山坂田”を住吉神社より預かって当社の供御を神人に給与していました。
 このように住吉神社と当社との関係は依然として深いながりを持ち続けてきたのです。

 明治維新後には、梅園家および住吉神社との交渉を断ち宮座との関係もなくなり、公認神社として明治5年(1872)村社に指定され、社名を『山阪神社』とするようになりました。(以下略)
とある。

 この由緒略記は、当社と住吉大社との関係、特に梅園氏との関係を縷々記しているが、それは江戸・元禄頃に編纂された「住吉松葉大記」を参考に記されたものと思われる(下記)


 その他の資料として、大阪府全志(1922)には
 「山阪神社は南田辺の西方字西脇にあり。天穂日命を祀り、一に山坂神社とも呼べり。
 摂津志に記せる田辺西神祠は即ち当社にて、清和天皇の貞観4年田辺東神祠と共に住五位下を授かり給へり。
 創建の年月は詳ならず。明治5年村社に列し、同40年大字松原字濵田の村社・土公神社(猿田彦命)、大字猿山字榊ヶ原の同稲荷神社(宇賀能売命)を境内に移転せらる。末社に八王子社・野見宿禰社ある」

 東住吉区HP(東住吉100物語)には、
 「山阪明神または田辺神社とも言われていました。
 田辺氏は元来西国から移動した渡来系氏族で、現在の柏原市に拠点を持ち大いに栄えた一族であり、その分家がこの地に移住して自らの祖先神を祀ったとされます。地名の田辺も田辺氏に由来するとされています。

 神社創建の時期は不明ですが、主祭神は天穂日命で、野見宿禰も祀っています。田辺氏と同系の土師氏の祖先神が野見宿禰で、天穂日命の子孫とされていることに因んでいるとも思われます。
 土師氏が弓部16人を率いて神功皇后に従い三韓に渡り偉功があり、凱旋後に摂津住吉神社創立と共に、この地に邸宅を賜り、梅園惟朝(ウメソノコレモト)と称しました。
 当社の祭儀も梅園氏によって行われ、その同族にして配下の田辺宮主即ち禰宜長ならびに舎人よりなる宮座によって奉仕されたのであります。
 9月朔日の例祭には、当社および田辺東ノ神(中井神社)の祭儀には梅園氏が奉仕し、ことに禰宜長以下の宮座は当社に奉仕すると共に、住吉神社の神馬を飼育し、日々住吉神社へ曳くを例とするようになり、当社の宮座は住吉神社との間に古くより特殊な交渉があったものと考えられます。

 元禄16年(1703)の検地帳によれば、境内地は約3万㎡にも及び、神社の本殿は前方後円墳の後円部に創建されているとみられています。
 現場をみると、前方部が西側の遊園地に当たる東西方向の前方後円墳に見えてきますが、埴輪や葺き石という当時の墓制に特有な付属物が出土していないので、何ともいえません」
とある。


◎田辺氏
 東住吉区HPには「田辺氏は渡来系氏族で云々」とあるが、この氏族は新撰姓氏録に、
  「右京諸蕃(漢) 田辺史  漢王之後知惣より出る也」
とある田辺史(タナベノフヒト)一族を指すと思われる。

 この田辺史とは、旧河内国安宿郡(アスカベノコオリ・飛鳥戸郡とも記す、現大阪府柏原市田辺付近)一帯を本拠とした渡来系氏族で(百済系という。柏原市田辺1丁目に残る田辺廃寺が氏寺の跡という)、姓氏家系大辞典(1963)には「河内の大族にして、漢王の後と称す」とあり、続けて書紀・雄略9年7月1日条にみえる“埴輪の馬説話”、
 ・飛鳥戸郡の人・田辺史伯孫(ハクソン)が古市郡の書首・加竜の妻となった娘が男子を産んだと聞いてお祝いに行き月夜に帰ってきた。
 ・誉田陵(応神天皇陵)の下まで来たとき赤馬に乗った人とであった。
 ・その赤馬は素晴らし駿馬だったので、伯孫はその馬がほしくなり、乗っている人と交渉して自分の馬と交換して帰り、厩に入れて秣を与えて寝た。
 ・翌朝見ると、赤馬は埴輪の馬に変わっていた。
 ・不思議に思い誉田陵に行ってみると、自分の馬が埴輪の馬の間に立っていたので連れて帰った。(大意)
が記され、そこに飛鳥戸郡(河内・安宿郡)の人・田辺史伯孫とあることから、この人物は河内の田辺史の一族であろう。

 この河内の田辺史から別れて当地一帯に進出した人々(平城宮跡木簡に「摂津国住吉郡・無位田辺史広■」、正倉院文書に「摂津国住吉郡田辺郷・正七位上田辺史真立」とあり、当地に田辺史の一族が居たことは確か)が奉祀したのが三代実録にいう田辺東神・田辺西神、即ち田辺西神を祀る当社の前身かと思われる。

 なお、姓の史(フヒト)とは、古代日本で文筆や記録の職務に従事した氏族に与えられた姓で渡来人系氏族が多く、元々は“フミヒト”(史人・文人・書人)と呼ばれたが、後に略されて“フヒト”になったという。


 ところが、古代関東・上毛野(現群馬県)を本拠とする上毛野氏(カミツケノ・崇神天皇の御子・豊城入彦の後裔--皇別氏族)の一族にも田辺史があり、新撰姓氏録によれば
 ・仁徳天皇の御代に渡来した一族で、上毛野君・竹葉瀬(タカハセ・多奇波世とも記す)の後
 ・皇極天皇の御世に、河内山下の田を賜り、文書を解したので田辺史と為し、孝謙天皇の御世に上毛野公を賜う
とあり、竹葉瀬君の後裔に文字は異なるが同じ読みの百尊(ハクソン)の名がみえる。

 この河内山下の地とは、河内の田辺史の根拠地・田辺に隣接する現柏原市大県附近といわれ、とすれば現柏原市には諸蕃・皇別と出自を異にする田辺史2氏がいたことになるが、この両田辺史の関係について、管見のかぎりでは、姓氏家系大辞典に、
 「皇別の田辺史 前条氏と密接なる関係あらん。蓋し上毛野氏の配下の氏たりしにより、或いは姻籍などの関係ありしか」
とあるだけで詳細不詳。


 なお、当社(田辺西神)は清和天皇・貞観4年に従五位下という神階を賜っているが、渡来系の神への神階綬叙は珍しい。
 臆測すれば、藤原家繁栄の基礎をつくった藤原不比等が少年の頃、河内の田辺史大隈に養育され、史(フヒト)と呼ばれたというから、藤原家の関係から神階が授叙されたかとも推測されるが、傍証はない。

 また、社頭の案内には、「往昔、田辺宿禰がこの地に天穂日命を祖神として祀った」とある。
 この田辺宿禰は、当地の田辺史の誰かが宿禰の姓を賜ったのかもしれないが、新撰姓氏録によれば、
  「大和国神別  田辺宿禰 神魂命之後大味宿禰より出る也」
との一族(神別氏族)がある。
 この氏族は田辺史とは出自を異にする神別氏族(神の後裔氏族)で、その祖神は神魂命(カミムスヒ)のはずなのに、当社案内が天穂日命というが、その所以は不明。

 ただ、当社の創祀を田辺史に求めるのはあくまでも推測であって、今の当社に田辺史の影はみえず、 参詣時お話しした宮司さんは、当社と田辺史との関係は「確かなものはない」といわれ、代わって当社と住吉大社との関係を熱弁されていた。


◎住吉松葉大記
 江戸中期の神学者で住吉神社神官の末尾(客方)に連なる梅園惟朝(ウメゾノコレトモ)が、元禄年間(1684--1704)に著した古文書をいうが、その資料的価値は不明。
 以下由緒略記に関連する部分を抄紀する(何れも大意)〔 〕内は私見

*梅園氏
 上記由緒略記には、梅園氏なる氏族名が頻出している。
 ・梅園氏 本姓は土師或は菅原と称す。野見宿禰より出ず
 ・田辺神社は住吉客方の中、梅園氏の祖神なり
 〔土師氏の後裔・梅園氏が山阪神社(旧田辺神社)に祖神・天穂日命と野見宿禰を祀ったことを示唆する
  ただし、ネットでみる土師氏系図に梅園氏の名は見えない〕

 ・古伝に曰く、梅園と称するは、昔、息長足媛三韓征伐の時、16人の弓部を召具す。其弓部各々梅花を作りて兜を餝る。
  また、皇后弓部に住吉に於いて宅地を賜う。時に其地に梅樹あり。故に梅園と称す
 ・梅園氏は、住吉神社神主の末尾に連なる客方職に属するが、客方とは、神功皇后に供奉した弓部16人が、凱旋後三神ほ鎮斎したとき神社警備に備へ、客体を以て接待され、名付けて客方と称したと伝へるもので、射手方とも云った
とある。
 〔由緒略記に「土師氏が弓部16人を率い神功皇后に従い偉功をあらわした」とあるのは、松葉大記に「梅園氏が率いた弓部16人が皇后を供奉した」とあるのを拡大解釈したものと思われ、皇后に従って朝鮮へ出兵し偉功があったかどうかは不明--管見した朝鮮出兵関連史料に梅園氏の名は見えず、且つ神功皇后の朝鮮出兵そのものが疑問視されている〕

*田辺神社
 松葉大記には、
 ・田辺は住吉郡六郷の一也。或は山坂神社とも申す。住吉を去る事廿町余り東北の方にあり
 ・田辺は第一の御領にして、此地を以て神馬御牧と定められ、南北各々に御厩を建て、常に神馬4匹を飼育す
とある。
 〔由緒略記にいう「田辺は住吉第一の所領で神馬の牧場を置き云々」とは之に因ると思われる〕

 ・田辺神社は、松葉大記・攝末部に大海神社・大依網神社に続く3番目の神社として記され、その後に生国魂社・座摩神社・開口神社など30社ほどの名が連なっている。
 〔住吉神社は摂津国一ノ宮だったせいか、摂津国内の殆どの神社を末社として取扱っており、当社もその中に含まれている。
 由緒略記には「住吉神社末社内での順位は、大海・大依網・開口・座摩・生国魂より上位に記され、当社が住吉大社より重視されていた証しでもあります」とあるが、松葉大記での当社は大海・大依網に続く3番目に記され、これら3社は住吉神社との関係が深いことから生国魂神社などより上位に記されただけであって、当社が他の末社より重視されていたというのには疑問がある〕


 これらからみて、由緒略記は松葉大記を基にするものの、その内容には潤色された箇所が多く、その全てを信用するには疑問がある。


※祭神
   天穂日命(アメノホヒ)

 天穂日命とは、記紀には、アマテラスとスサノオの誓約(ウケヒ)によって成りでた5男神の第二子で、葦原中国の国譲り交渉の使者として出雲に派遣されたが、オオクニヌシに媚びて3年経っても報告しなかったとある。
 しかし、新任の出雲国造が朝廷に出向いて奏上する出雲国造神賀詞(イズモコクゾウ カムヨゴト)では、天穂日命は国見の結果を報告し、子の天夷鳥(タケヒラトリ)を派遣して荒ぶる神々を平定させた功労者とあり、出雲国造家では天穂日命を祖神としている。

 この天穂日命と当社との間に接点はみえず、当社が天穂日命を主祭神とする由縁は不祥だが、東住吉区HPには、“田辺氏と同系の土師氏の祖先神が天穂日命の子孫とされる野見宿禰であり云々”として、土師氏も田辺史と同じく渡来系であったという。
 土師氏が埴輪等の陶器制作を業としていたことからみて渡来人に関係したことは否定できないが、それを示唆する史料は見当たらず、土師氏が田辺史と同じ渡来系というのには疑問がある(土師氏を渡来系とする資料も散見されるが、その根拠は不明)

 土師氏は、天穂日命14世の孫・野見宿禰を始祖とする氏族で、垂仁天皇の皇后・日葉酢媛命の葬儀の際、それまで行われていた殉死の風習に代わる埴輪を案出し採用されたとあり、垂仁紀28年条には
 「天皇は厚くその功を褒めて、鍛地(カタシトコロ・陶器制作の地)を賜り、土師の職(ツカサ)に任ぜられた。それで本姓を改めて土師臣という。これが土師連らが、天皇の葬儀を司るいわれである」
とある。

 野見宿禰を相撲の祖というのは、同じ垂仁天皇の命により、その頃、強力を誇っていた当麻蹴速と相撲をとり蹴殺したという伝承によるもので(垂仁紀7年条)、この功により、大和国当麻の地(現葛城郡当麻-蹴速の所有地)を与えられたこと由来する。

 土師氏の本拠地は、旧河内国志紀郡土師ノ里(現大阪府藤井寺は道明寺付近)というが、姓氏録に
  「摂津国神別(天孫) 土師連 天穂日命十二世孫飯入根命(野見宿禰の3代前)之後也」
とあるように、隣接する摂津国である当地にもその一族が居たのは確かなようで、その一族が始祖・野見宿禰を祀るとともに、遠祖・天穂日命を主祭神として奉祀したと思われる。

 ただ、松葉大記には「田辺神社は住吉客方の中、梅園氏の祖神也。故に毎年9月朔日梅園氏の人彼の神社に参詣してこれを拝し・・・」とあり、当社の祭祀氏族として梅園氏という特定の氏族名を明記している。
 上記したように、梅園氏は土師氏に連なる氏族ということから、その祖神である天穂日命・野見宿禰を祀ったのであろう。

※社殿等
 東からの道路の突き当たり、石垣に挟まれて鳥居が立ち、鳥居の右に「山阪神社」との大きな社標が立つ。
 鳥居をくぐり、石畳の参道を進んだ先が境内だが、、中央に玉垣で囲まれた植え込みがあるように、通常、拝殿前にある広場は狭く、且つ境内全域が叢林で覆われていて全体像は把握しがたい。

 なお、東住吉区HPには「本殿は前方後円墳の後円部にちんざするという」とあるが、現地を見るかぎり当地に前方後円墳があったとは見えない。

 
山坂神社・鳥居
 
同・社標
 
同・境内(中央玉垣の右が拝殿)

 境内北側に神明造を模した拝殿が東面して建ち(RC造)、その奥に本殿が鎮座するが、高塀及び樹木に阻まれて本殿全体の実見は不能。

 拝殿内陣に掲げる扁額には、中央に天穂日命、その向かって右に野見宿禰命・猿田彦命、左に素盞鳴尊・宇賀御魂神とあり、これら5座の神は大正12年(1923)に一社殿に合祀されたという。
 素盞鳴尊は旧八王子社の祭神で、猿田彦命は明治40年・浜田の土公神社の、宇賀御魂は同年榊ヶ原の稲荷社からの合祀で(Wikipedia)、いずれも明治末期の神社統廃合令に伴うものと思われる。

 当社社殿は先の大戦での戦災は免れたが、昭和49年(1974)に本殿を除く拝殿以下を焼失し、昭和50年12月に再建されたという(由緒略記)

 
同・拝殿(正面)

同・内陣 

同・本殿見えるのは(屋根の一部のみ) 

◎境内社
 参詣の栞には、荒川稲荷神社・遙拝社・土公社・祖霊社とあり、荒川稲荷社は西田辺の村社・稲荷神社を、土公神社は松原の村社・土公神社を移したものという。

*荒川稲荷神社
   祭神--湯津志可由布比売命  配祀:地主神
 拝殿の向かって右に鎮座する稲荷社。
 朱塗り鳥居の奥、覆屋の中、提灯の後ろに一間社流造の小祠が鎮座する。
 祭神:湯津志可由布比売命の読み・出自神格は不明。

 
荒川稲荷神社・鳥居
 
同・内陣

*遙拝社
   祭神--天照大神  配祀:産土神
 拝殿の対面・東側に鎮座する小社だが、社名・祭神の表示はない。
 玉垣に区画された拝所の奥に社殿の小祠が西面して鎮座する。

 
遙拝社・拝所
 
同・社殿 

*土公社
   祭神--猿田彦命  配祀:天富命・大市比売命
 境内東側の鳥居を入ったすぐ左に鎮座する小社。
 土公神とは、陰陽道では土を司る神で、春は竃、夏は門、秋は井戸、冬は庭にいるとされ、坐す処で土を動かす工事をすると祟りがあるという。

 しかし当社では、陰陽道の神ではなく土公神(地主神)として祀っているが、伊勢二所皇大神御鎮座伝記(神道五部書の一)には、猿田彦命が「人々よ聞き給え、吾は天下の土公である」と名乗ったとあり、各地の神社で地主神として祀られることが多い。
 また、猿田彦命は境外からの邪霊・悪神を遮り追い返すという塞の神(道祖神)と習合していることから、今本殿に合祀されている猿田彦命の神格のうち塞の神的神格を分離して、鳥居脇に別社として祀ったのかもしれない。

 配祀の天富命については、古語拾遺に、神武天皇が橿原の御殿を造ったとき、
  「天富命アメノトミ、太玉命の孫なり〕が、始めて山の材を採りて正殿を造り立て、皇孫命の瑞の御殿を造り仕え奉るなり」
とある。
 大市比売命とは、大山祇神の娘で素盞鳴尊の妃となって、大年神と宇迦之御魂神を生んだという女神。
 ただ、この二神が当社に配祀される由縁は不明。

 
土公社・鳥居
 
同・社殿 

*祖霊社--参詣時に気づかず写真なし。

◎その他
 参詣の栞には載っていないが、境内には次の2社がある。
*素釜三寶荒神社
 参道の途中にある小社で(RC造)、内陣には流造の小祠が鎮座する。社殿・小祠ともにまだ新しい。

 三宝荒神とは仏・法・僧を守護するという神仏が習合した仏神で、不浄を嫌うことから、不浄を除く火を住処とするといわれ、一般には火を使う竃の神として祀られることが多い。
 当社では、火除けの神・竃神として祀られたのだろうが詳細は不明。

 
三宝荒神社
 
同・内陣 

*八日戎社
 山坂神社本殿の少し北、一段低くなった処に鎮座するが、扁額に「田邊郷山坂 八日戎社」とあるのみで他に案内なく、鎮座由緒・時期等は不明。
 社殿内には、唐破風を有する入母屋造の小社が鎮座し、その前に恵比須・大黒の2像が置かれている。
 ただ、この社が当社境内に祀られた由縁は不明。

 また、参道の途中に「力石」と刻した石が6個並んでいる。
 当社が相撲の祖・野見宿禰を祀ることに因んでのもので、右端の力石には「第58代千代の富士貢」とあるという。

 
八日戎社

同・内陣 

力 石 

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