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八坂神社
通称:海老江八坂神社
大阪市福島区海老江 6-4-2
祭神--素盞鳴尊
                                                  2020.10.20参詣

 JR東西線・新福島駅(地下駅)の北約400m、路上に出て国道2号線を北西方へ進み、中海老江交差点を東へ、北側2つめの角を左へ折れ北上した突き当たりに鎮座する。

※由緒
 境内に掲げる案内には、
 「当神社の創建に関しては、境内に天治(1124--26、平安後期)・大治(1126--31)と読み得る石灯籠があり、又、村の旧記に永徳3年(1383・北朝年号)霜月社殿再建と書かれている。
 足利将軍義満の頃(第3代将軍、在職:1368-94で再建とあるから、これより更に事前に祀られていたことは申すまでもない。

 元亀元年(1570)織田信長が石山本願寺攻めで、野田城の三好党を討たんとしたとき、先陣の将・荒木村重をして戦勝を祈り陣馬・陣刀を献じたといい、細川家の記録に海老江堤の田の中に陣したと記されている。
 文禄3年(1594)・延宝5年(1677)の検地帳に境内除地として免税された記録がある。 

 又、承応9年(承応に9年はない。当社HPには承応元年:1652とある)氏子の先覚・道意翁が尼崎新田(道意新田)を開発、その氏神として当社の御分霊を奉遷とて祀った(現道意神社)と伝えられている」

 また当社HPには、上記由緒および古代海老江の沿革に続いて、
 「昔は『牛頭天王社』と称せられていましたが、明治元年(1868)明治政府から出された神仏分離令という、神社(神道)とお寺(仏教)を分離せよとの通達により、農耕神である素盞鳴尊を祀る現在の八坂神社に改名しました」
とある。

 案内・HPともに創建由緒の記述はないが、当地が曾ての難波八十島の一つ“海老江洲”と呼ばれていたことから、その周辺が陸地化して人々が住み開拓が始まった頃に、何らかの神マツリがおこなわれていたのが発展したものと思われるが、平安後期の石灯籠はあるものの確たる創建時期は不詳。

※祭神
   素盞鳴尊

 ただ、HPに「昔は牛頭天王社と呼ばれていました」とあることから、当社本来の祭神は疫病除けの神・牛頭天王であったと思われ、明治初年の神仏分離によって牛頭天王が仏教色が強いとして排斥されたことから、祭神を同じ神格をもつとされる素盞鳴尊に、社名を八坂神社に替えたものであろう(京都の八坂神社と同じ)

※社殿等
 南からの道の突き当たりに南鳥居が南南東方に向いて立ち境内に入る。
 なお、当社の正面鳥居は境内北側(正確には東北東向き)に立つ鳥居が是にあたる。


海老江八坂神社・東鳥居 
 
同・北鳥居(正門)
 
同・境内

 北鳥居から境内に入った正面に、唐破風向拝を有する入母屋造の拝殿が北面して建つ。


同・拝殿(正面) 
 
同・拝殿
 
同・拝殿(側面)

 拝殿の奥、高塀に囲まれた中に弊殿を介して流造の本殿が北面して鎮座するが、塀高く近寄れないため詳細は不明。。


同・本殿 
 
同・本殿(背面) 

◎境内社
*豊里稲荷神社(摂社)
 本殿の左(東側)奥の狭い区画に北向きに鎮座する稲荷社
  祭神--豊里稲荷大明神

 
豊里稲荷神社・鳥居

同・配所 

同・社殿 

*北向社
 豊里稲荷社の左前に、一間社流造の小祠が西面(正確には北西方)して鎮座する。
  祭神--淡嶋大神・八大竜王

 鳥居の神額には“淡嶋大神・八大龍王”とあるが、社頭の案内に『北向社』とあるのが是かと思われる。
 ただ、今の社殿は西を向いており、北向社というにはチョットという感じ。

 社殿の右に、トクロを巻いて絡み合った2匹の白蛇の小像が置かれている。蛇頭が阿吽の口をしているから狛犬の一種だろうが、獅子の代わりに八大龍王の眷族としての白蛇が祀られたのであろう。
 ただ、少彦名命とされる淡嶋大神と水神である龍王とが併祀されている由縁はわからない。


北向社・鳥居 
 
同・社殿
 
同・蛇の小像

*海老洲神社(エビス)
 境内北側、北鳥居を入って右に鎮座する小祠で、素木鳥居奥の覆屋の中に一間社流造の小祠が南面して鎮座する。
 鳥居の神額・吊された提灯には“えびす神社”とある。
  祭神--海老洲大神(エビッスさん)
 エビス神を祀る小祠だが、社名を古地名に因んで“海老洲”としているのがミソ。
 エビス神にはヒルコを祀る西宮神社系と、コトシロヌシを祀る系統があるが、当社がどちらなのかは不明。


えびす神社・鳥居 
 
同・社殿 

*その他
 北向き社の左に石碑等が数基並んでいる。北から
 ・記念碑
   碑文が読めず、これが何なのかは不祥。
 ・西成大橋の碑
   西成大神とは、明治18年の淀川大洪水を契機に新淀川が開削され、その時架橋された木橋で、その当時では西成郡最大の橋として“西成大橋”と名付けられた。
   側面に「明治41年1月12日竣工」とあり、旧西成大橋の親柱かと思われる。
   大正15年(1926)、隣りに淀川大橋が架橋されたのを機に廃橋となった、という。
 ・松瀬青々の句碑
    『菜の花や はじめや北に 雪の山』
   松瀬青々(1896--1937)とは明治から昭和初期にかけての俳人で、正岡子規の弟子でホトトギス派に属したという。 
   明治末から大正にかけ15年ほど海老江に住んだといわれ、上記の句は明治40年頃、当地にあって菜の花畑越しに見える雪を頂いた六甲山を詠んだ句という。
 ・倶利伽羅不動明王像
   だいぶ摩耗していて後背の火炎などは殆ど消えかかっている。
 ・遙拝所
   石祠2基の前に遙拝所との石碑が立ち、通常の遙拝所とは異なっている(後ろの石祠2基と遙拝所石碑とは無関係かもしれない)

 
西成大橋の碑
 
松瀬青々の句碑
 
倶利伽羅不動明王像
 
遙拝所

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