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八 坂 神 社
通称--中道八坂神社
大阪市東成区中道4-8-20
祭神--素盞鳴尊・菊理姫尊
付--二軒茶屋跡(東成区東小橋)
                                                 2020.09.27参詣

 JR大阪環状線・玉造駅の北東約500m、駅北側を東西に通る大通りを東へ、玉津1丁目交差点から南東へ曲がり、斜め左(東)へ入る小路を東へ進んだ先に、八坂神社との案内石標が立ち、その石標を左(北へ)に入った先に鎮座する。
 ただ、当社正面鳥居は境内の東側に立つ。
 正式社名は八坂神社だが、参詣の栞には地名を被せて「中道八坂神社」とある。

※由緒
 境内に掲げる案内(石版)には、
 「当神社は東成郡中道村字法性寺に寛仁元年(1017)法性寺入道・関白藤原道長(966--1028)が此の地に別邸を造り、牛頭天王・白山権現を鎮守として奉祀せしに始まる。
 仁安元年(1166)、里人の尊崇深く社殿を再興し、天文12年(1543)現在地に遷座し奉り、牛頭天王白山権現社と称す。
 明治5年(1872)村社に列し、八坂神社と改む。明治42年(1909)境内より暗越奈良街道迄参詣道を開拓し、社殿を南向きに改む。
 大正6年(1917)、玉垣を新設する新設するとともに、暗越奈良街道に面してあった大鳥居を現在の処に移し、その跡に社号標石を建てる。
 現社殿は、大正11年(1922)起工、大正13年(1924)6月5日竣工す。

 追而  此の石は、暗越奈良街道の起点・玉造二軒茶屋の石標として、言い伝えによると大阪城より持参、宝永8年に猫間川に架けられ、古くは飛鳥の都へ通ずる街道の入口として、又、お伊勢参りの見送り人が此の地において無事を祈って別れた由縁深い石標で、大正13年撤去に際し石材6枚を当地に寄進せられ、狛犬・燈籠の敷石として用う。
 三百余年の歴史と共に歩んで来た此の石を回顧し、永年の労を後世に伝えんが為、其の一枚を茲に記念の碑として建立す」

 東成郡史(1922)には、
 「大字中浜字川端に鎮座す。祭神は素盞鳴尊・菊理媛尊なり。
 本社の旧鎮座地は大字中道字法性寺通称二俣の地にありしと云はる。往時此地一帯の丘陵にして風光明媚なりしかば、後一条帝寛仁元年(1017)法性寺入道関白道長此地に別邸を設け、二俣の地に守護神として牛頭天王・白山権現を鎮祀せしに始まる。
 其の後仁安元年(1166)2月里人社殿を再興し、以後数回修理を加え、文保2年(1445)6月本殿拝殿を改造し、爾來修理を加えたりしが、天正12年(1585)9月氏子相謀り現社地に移転し、社殿を東向して建築したり。
 本社は古来牛頭天王白山権現と称し来りしが、明治5年(1872)村社に列し同時に社号を現称に改めたり。
 社殿は明治40年(1907)迄は東向なりしが、境内より暗越奈良街道迄南に約一町の参詣道路を開設すると同時に南向きに改めたり。(以下略)

 大阪府全志(1922)には
 「八坂神社は字川端にあり。素盞鳴命・菊理姫命を祀れり。もと牛頭天王と称し、文禄3年(1594)速水甲斐守の検地帳には、牛頭天王境内九畝拾八歩除地と記せり。
 明治の後に至りて現今の社号に改め、同5年村社に列す。 末社に稲荷神社あり」

 当社創建に藤原道長が関与しているということは、その祭神からみて既に神仏習合が始まっていた11世紀初頭頃の創建となるが、傍証となる資料はない。


※祭神
   素盞鳴尊・菊理媛命(ククリヒメ)

*素盞鳴尊
 当社は今、八坂神社と称し素盞鳴尊を祀っているが、案内に牛頭天王白山権現社とあるように、嘗ては牛頭天王と白山権現を奉斎する神社であったが、明治初年の神仏分離に際して両神ともに仏教色が強いとして排斥されたことから、祭神・牛頭天王を同じ神格をもつとされる素盞鳴尊に変更し、あわせて社名も牛頭天王社から八坂神社に変更したものであろう(京都・八坂神社と同じ)

*菊理媛命
 この神は書紀にのみ出てくる神で(5段・一書10)、そこには、黄泉国(ヨモツヒラサカ)から逃げ帰ったイザナギが泉津平坂(ヨモツヒラサカ)で、追ってきたイザナミと相争ったとき、泉守道者(ヨモツチモリビト)が伊弉冉尊の「ご一緒に帰れません」との言葉を取り次ぎ、続いて
 「このとき、菊理媛もまた申しあげることがあった。伊弉諾尊はこれを聞いて褒められた」
とあるが(古事記にはない)、その内容についての記述はない。

 そこから、その神格については諸説があるが、
 ・神名“ククリ”が“水を潜る”の“クグル”を連想されること
 ・菊理姫の言を聞いたイザナギが、筑紫の日向の橘の小門(オド)阿波岐原(アハキハラ)に赴いて、黄泉国で付いた穢れを祓う“禊祓”をおこなっていること(古事記)
から、禊ぎ祓いに関係する神ではなかろうかという。

 また、菊理姫がイザナギ・イザナミの仲を取りもったことから、“ククリ”を“二つをククル”即ち“縁結びの神”として、特に女性の信仰が厚いというが、これは後世の付会であろう。

 当社が曾て牛頭天王白山権現社と称したのは神仏習合時代での呼称で、何れも仏教的色彩が強く、これが明治の神仏分離により、神道による素盞鳴尊と菊理姫命(白山比売命と習合)に変わったものといえる。


※社殿等
 平野運河西側の道路沿いに一対の門柱が立ち、すぐ背後に鳥居が立つ。
 鳥居からの参道の突き当たり(地車庫あり)(北側)が境内で、社殿が南面して鎮座する。
 なお、地車庫の左に南からの入口があるが、鳥居はない。


八坂神社・社頭(東側) 
 
同・鳥居
 
同・参道(右手樹木の下が社殿域)

 境内正面に唐破風向拝を有する入母屋造の拝殿が、その背後、弊殿を介して流造の本殿が南面して鎮座するが、塀及び樹木に遮られて全体像は見えない。

 
同・拝殿(正面)
 
同・拝殿(側面)

同・本殿(側面) 

◎境内社
*玉造戎神社
 本殿の左(西側)に南面する小社。
   祭神--事代主大神・大国主大神

 栞には、
 「当神社の社殿としては最も古く、天正12年(1584)この地に建てられ、八坂神社の本殿として主祭神が奉られていました。
 大正13年(1924)に現在の本殿に主祭神の御霊が移され、その後修築を施し、昭和23年これの社に事代主大神(島根県美保神社から惠比寿大神を勧請)・大国主大神を奉り、玉造戎神社と称せられました」
とある。

 
玉造戎神社・鳥居
 
同・社殿

*松本稲荷神社
 玉造戎神社の左に鎮座する稲荷社。
   祭神--宇迦之御魂神(ウカノミタマ)

 栞には、
 「山城国三の峯よりお招きしてお祀りしてあり、別称を「お稲荷さん」と云い、全国的に信仰を集めております。(中略)
 当社殿は平成16年に新しく建替えられました」
とある。


松本稲荷・鳥居 
 
同・社殿



 付記
 【二軒茶屋・石橋跡】
   大阪市東成区東小橋1-2
 案内追而にいう“二軒茶屋・石橋”は、JR大阪環状線・玉造駅北の国道308号線(長堀通)を少し東へ行った南側歩道に立つ、「二軒茶屋跡」・「玉造名所 二軒茶屋・石橋旧跡」との石碑の附近にあったといわれ、跡地は今、大阪市顕彰史跡に指定されている。

 この二軒茶屋跡について、大阪市東成区役所広報によれば、
 「江戸時代から奈良街道が人の往来も盛んとなり、この街道の起点であった玉造に『つる屋』・『ます屋』という二軒の茶屋が建てられ、旅人等の休息の場として繁昌したと伝えられています。
 茶屋が二軒あったことから“二軒茶屋”といわれ、世に広く知れわたりました。

 この二軒のそばを流れていた猫間川に宝永8年(1711)に幕府の命により橋が架けられのが“石橋”です。
 正式には黒門橋というが、この付近にあった大阪城の玉造門が黒い門であったところから黒門橋と名づけられ、大坂では珍しく石で造られたものだったので通称・石橋と呼ばれています」
という。 

 また「浪華の賑わい」(1855)との名所案内には、
 「二軒茶屋
 この地は玉造の街端(マチハヅレ)にして、伊勢神宮・大和巡り・大峰詣り等の送迎の場所なるゆえ、左右に酒肴をひさぐ茶屋あり。ゆえにかく号(ナヅ)けしなり。
 さる程に、弥生の初めつ旬(コロ)より、難波菅笠一様にうたひ連れたる伊勢おん頭(ドウ)、しばし別れの酒盛りに酔ふて出るあり這入るあり、あるいは軒端に休むもありて賑はしきこと言ふばかりなし。
 そのうえ、平日といへども奈良街道の往還なれば旅人の通行絶ゆる間なく、あるいは信貴山の毘沙門・生駒の聖天等は月参りの信者ありて皆この茶屋を休足所と定む(以下略)
とあり(下左絵図)、暗越奈良街道(クラガリゴエ ナラカイドウ)の起点にあたる二軒茶屋辺りの繁昌の有様が絵図に描かれている。


二軒茶屋・石橋旧跡の碑 

二軒茶屋・絵図(浪華の賑わいより)

二軒茶屋(浪花百景)

 これらからみると、この地は異郷へ旅立つ人々が見送りの人々との暫しの別れを惜しみ、且つ無事に帰郷した人々を喜び゛むかえ、それぞれに宴を催したのが二軒茶屋だったのであろう。

 なお、当社南入口を西へ回り込んだ玉垣の上に掲げる「八坂神社と石橋」との案内には、二軒茶屋の案内に続けて、
 「猫間川に幕府の命により、宝永8年(1711)に架けられた橋には大坂城の石垣が用いられ、この付近にあった大坂城の玉造門が黒かったため、『黒門橋』と名付けられた。
 また、当時では珍しかった石造りの橋だったため、通称『石橋』と呼ばれ親しまれた。

 石橋は大正3年(1924)に廃橋となったが、昭和2年(1927)大阪市から土地の氏神である当社に寄贈され、その後、当社から八王子神社に一部を譲った。
 現在は、神社の祈念碑や西側玉垣の一部に使われている」(抄紀)
とある。

 この場所は南入口からは見えず、参詣時に社務所の方からお聞きして訪れたもの。


案内板・八坂神社と石橋 
 
西側玉垣(旧石橋使用石版)

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