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安 居 神 社
大阪市天王寺区逢阪1-3-24
祭神--少名彦神・菅原道真公
                                                          2020.06.16参詣

 大阪メトロ谷町線・四天王寺夕陽ヶ丘駅の南西約500m、谷町筋を南下、四天王寺前交差点を右折(西へ)、国道25号線(通称・逢坂)を西へ進んだ右側(北側)に鎮座する。(古刹・一心寺の北側に当たる)

※由緒
 南側・国道25号線北側の入口に立つ案内には、
 「少名彦神を奉祀したのは、古文書が散逸したので現在では詳かではないが、非常に古い時代の事であると伝えられている。
 この神は、医薬禁厭(医術・薬方・まじない)・智慧の祖神として、その霊験はまことにあらたかな神である。

 菅原道真公の奉祀は、公筑紫へ左遷される途上海上浪荒く暫くこの地に立寄って憩うわれた旧跡である所以を畏み、後40年を経た天慶5年(942)此処にその御神霊をお祀りしたと伝えられている。
 菅公の御神徳は誠の権化であり、又学問文化の神として人々を守護し導き給うのである

 当神社の御神徳を厚く蒙った人々は昔から多く、中にも大丸の業祖下村彦右衛門氏は大きな御加護を賜りて繁昌されたことは有名で、当神社に対する信仰は極めて篤く、大丸天神と称せられる所以である。

 又大阪夏の陣における真田幸村戦死の地と伝えられる石碑が建っている。

 昭和20年太平洋戦争の災禍をうけ一切の建物は烏有に帰したが、大丸を始め奉賛者の寄進により同26年奉振興され、現在種々の祭典が執行されている」
とある。

*摂津名所図会(1798)には
 「安井天神  相坂の上にあり。祭神少名彦命。毎年8月20日神祭あり、これを芝原祭といふ。
 いま天満宮と称して、諺に菅公筑紫左遷の御時、ここに暫時やすらい給ふゆえに此の名ありとぞ」
とあり、右の絵図が描かれている。 

 ただ、図会には真田幸村については記されていないが、これは徳川の治世下にあった江戸時代という背景から、当社が幸村最後の地という話は伏せられていたのかとも思われる。

摂津名所図会・安居天神

*大阪府誌(1903)には
 「安井天満宮  天王寺相坂上の町に在り。祭神は菅原道真にして古は安居天満宮と云ひしが、後に安井と称するに至れりといふ。道真左遷の時立寄りし所と伝ふ。
 社頭に一井あり、即ち安井にして『かんしづめ』の井として其の名世に高し」

*大阪府全志(1922)には
 「安井神社は逢坂上之町字南の丸にあり、天神山又は安井森とも称し風景の美を以て名あり。菅原道真を祀る。
 伝へいふ、公の筑紫への左遷の時、河州土師里より浪速の浦に来り舟に乗りて出んとせしに、海上浪荒かりし為に暫く此に立寄りて憩はれたる旧址たるを以て、其後40年を経たる天慶5年8月、公の霊を此に祭りて安居神社と名づけ、後に行われし芝原祭と称する神事は之に基けりと。
 また一説にはいふ、もと天王寺の安吾院ありし所にして、公の憩はれたるより安居の天神と称せりと。
 今の安井は後の換字なり。(中略)
 又真田幸村戦死の蹟とて尺余の石に『さなだの松』と記せり」
とある。

 当社社名に天神(天満)とあるように、本来の祭神・少名彦命よりも合祀された菅原道真を祀る神社として奉祀されていたようだが、NHK大河ドラマ・眞田丸の放映以降(平成28年・2016)は、眞田幸村戦死の地として多くのファンを集めているという。

 慶長20年4月(7月に元和と改元)の大阪夏の陣で、眞田幸村は当社すぐ南の茶臼山に本陣を構えて徳川方と決戦を挑み、数度にわたって家康本陣を襲うも長蛇を逸し、態勢を立て直した徳川方の反撃にあって一旦後退、当社にて休息しているところを徳川方に襲われ戦死したといわれ(天王寺口の戦い)、境内には「眞田幸村戦死の跡」との石碑と幸村像かあるが(下記)
 大阪府史蹟名勝天然記念物(1931)には
 「境内は元和の役に大坂方の名将・眞田幸村の戦死せし所なるも、今的確に其場処を指示する由なし」
とある。

※祭神
*少名彦命
 少名彦命とは、大国主神が出雲の美保前におられたとき、波の穂を照らして寄り来た小さな神で、神産巣日神の御子。
 大国主ととも此の国を造り固めめたのち、粟の穂に弾かれて常世国にわたったという(古事記・大意)

 当社では、医療の神として祀られたかと思われるが、奉祀由縁は不明。

*菅原道真
 菅公筑紫配流については、各地に種々の伝承が残されており、当地に一時滞在したというのもその一つであろう。
 ただ、菅公死後40年の天慶5年(942)勧請ということからみると、当時の菅公は学問の神というより、京都・北野天満宮(947創建)などと同じく怨霊神としての菅公と思われる。
 ただ、その当時、地方の小社である当社まで怨霊神(雷神)菅公が知られていたかどうかは不祥で、後世(特に江戸時代以降)に広まった学問の神としての勧請を大幅に遡及させた勧請年次かもしれない。


※社殿等
 国道25号線(通称:逢坂)の北側、お寺とビルに挟まれて注連縄を張った〆柱が立ち、ここが参道入口で、カギ形に折れた狭い参道を通って境内に至る。
 〆柱の左に「安居神社」、その少し左に「元和元年五月七日 眞田幸村戦没地 大正7年」と刻した石碑が立つ。

 
安居神社・社頭(南より)
 
同・参道入口

同・境内図 

 参道の終わりに鳥居が立ち境内に入る。
 境内は一面樹木に覆われ、その中に社殿等が点在する。


同・鳥居(境内側より) 
 
同・境内 

 境内に入って石畳に沿って右斜めに進んだ処に、入母屋造瓦葺きの拝殿が西面して建ち、その奥に一間社流造・柿葺きの本殿が鎮座する。
 本殿は樹木に囲われていて社殿全景は見えない。


同・拝殿(正面) 
 
同・拝殿(側面)

同・本殿 

◎境内社
*稲荷神社
 境内北西部に鎮座する稲荷社で、参詣時には修理のためか社殿にはビニールシートが掛けられていた。

*淡島神社
 稲荷神社の少し右手に鎮座する小社で、淡島大神・金山彦太神・金山姫大神を祀る。

 両社とも案内表示なく、鎮座由緒等不明。


末社・稲荷神社 
 
末社・淡島神社 

◎その他
*眞田幸村像
 境内へ入った右側、拝殿へ至る小道の脇に『眞田幸村陣没の旧蹟』があり、鎧姿の幸村座像が鎮座し、
 側らに『眞田幸村戦死跡の碑』が立っている。

 側らの案内には、
 「元和元年大阪夏の陣に、徳川家康は秀忠と共に大軍を率いて大坂城を攻めた。
 ここに於て大坂の兵は城の既に恃むべからざるを知って出て戦い、5月6日幸村は後藤基次・薄田兼相等と大和口を防がんとして河内の片山道明寺に赴き、基次等が敗死したので殿軍となって伊達政宗の兵と戦い、翌7日には天王寺付近に松平忠直の軍を迎え奮戦したが、ついに当社境内一本松の下で戦死した。時に年齢49歳であった」
とある。

     

*かんしずめ井戸
 安居ビル西の崖下に『かんしずめ井戸』がある。
 下へ下りる石段はあるが今は通行止めで、社務所西南角の辺りから眺めることになる。

 社頭の案内には
 「境内に古より、癇鎮め(カンシズメ、疳とも書く)の井と称する清冽なる水湧水する井戸があり、霊水とした広く知られたいるが、現在は四囲の状況に禍され枯渇の状態にある」
 また、社務所横には
 「この水を飲めば、癇の虫が治まるところからこの名がつけられました。 
 古来、霊水として広く知られています」
とある。

 古来から、乳児がおこす異常行動、特に夜泣き・癇癪・引きつけ等は、癇の虫によって起きると信じられ、虫切り・虫封じ・癇封じといった民間呪術によって是を収めようとしたという。
 この井戸が癇鎮め井戸というのは、癇の虫が起こったときにこの水を飲ませることで治ると信じられていたことを示唆する。


かんしずめ井戸・全景
(左の建物は安居ビル基礎部分) 
 
同・井戸部分拡大

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