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八 劔 神 社
大阪市城東区鴫野東3-31-6
祭神--八劔大神・武須佐男大神・罔象女大神
付--八坂神社(城東区天王田10-19)
                                                   2020.0627参詣

 JR学研都市線・鴫野駅の東約400m、城東小学校南側道路を東へ行ったJR線路(高架)南側に接して鎮座する。
 正式社名は“ヤツルギ”だが、通称“ハチケン”

※由緒
 境内に案内なく、当社HPには、
 「応永の始め、鴫野村の住民某がある夜夢を見た。その夢枕に一人の老翁が現れ、『吾はこれ熱田の神なり。跡をこの地に垂れんと欲す。明日汝等出て吾を淀川の河辺に迎うべし』と告げたので、翌日村人十数人を呼んでことの次第を語ったところ、自分も同じ夢を見たという者が、十人余に及んだ。
 そこで一同は各々衣服を改め河辺に出迎えと、果たして一匹に小蛇が河中に現れ、まっすぐこちらに向かって来て、やがて岸に上がった。その様の悠々泰然たるを見て、村人は畏敬にうたれ、一同相従って行くと、小蛇は川を越えて堤を経て鴫野村に入った。

 そして、小蛇が留まった所を見て、村人たちはそこに小さな祠を建ててこれを祀った。時に応永3年(1396・室町初期)9月22日のことである。(なお、別伝では蛇ではなく、白鳥との伝えもある)

 以来、室町・戦国・江戸・明治を経て、大正4年(1915)天王田村の氏神・八坂神社と永田村の氏神・水神社を合わせ祀って今日に至る」
とある。

 また東成郡史(1922)には、
 「城東村大字鴻池字宮ノ前に鎮座す。祭神速素盞鳴尊・奇稲田姫尊・八頭大神・天照皇大神・春日四柱大神・罔象女神なり。
  創立の由緒は明治12年本社提出の社記に拠りて編纂せる『大阪府神社明細帳』に
  『応永の始め、鴫野村住民何某、在夜の夢に、一老翁曰く、吾是熱田之神也、此地に垂迹せむと欲す。明日汝等吾を淀川の辺りに出迎うべし。何某翌日住民十余人を呼びて之を語る。其中に同じ夢を感じる者十人に及ぶ。
  是に於いて各衣服を改め河辺に出迎ふ。果たして一小蛇を見る。岸を上がり而して行く容甚だ悠々たり。河を越え堤を経て鴫野村に入る。其留まる所を見て小祠を建つ。時応永3年9月22日初めて之を祭る。今に至るまで怠らず」(漢文意訳)
とあり。

 此の記述は宝暦年間下鴨の神主某の作に係るものにして、当時本神社宮座の者の間に存せし伝説を記録せしなり。
 〔摂陽群談〕には『八劔神社 鴫野村にあり。恵心僧都勧請の社也と云へり。祭る所尾張国愛知熱田神天叢雲劔を以て土俗八劔大明神と号す』とあり、右に拠れば、速素盞鳴尊の一柱を本社主神と為すは誤にして、熱田の天叢雲劔を以て主神と為すべきに似たり。
 又第四祭神八頭大神は前記〔神社明細帳〕に記する所なるも、是亦決く八柱大神と為すべきものなり。

 明治5年村社に列せられる。
 大正4年4月8日、大字天王田字元屋舗村社八坂神社(速素盞鳴尊・奇稲田姫尊・八頭大神)及大字永田字永田村社水神社(天照皇大神・春日四柱大神・罔象女神)を合祀し、(中略)
 社地は、慶長19年11月26日大坂冬陣鴫野合戦に佐竹義宣の陣所となり、社殿遂に兵火に罹る。其後再建す。
 明治18年水害の為本殿崩壊し、拝殿破損す。昭和29年5月現在の本殿及びび拝殿・弊殿・手水舎・石鳥居等を建築し、旧拝殿は今仮社務所に使用す。(以下略)
とある。


 応永3年に夢告した神が『吾は熱田の神なり』と告げていることをみると、尾張・熱田神宮の別宮・八剱宮(別稿・熱田神社攝末社参照)からの勧請かと思われるが、それが如何なる所以で勧請されたかは不明。
 ただ、当地の東・放出駅近くに鎮座する阿遅速雄神社(鶴見区放出3丁目)にも八劔大神が祀られ、その奉斎由緒に、
 ・天智7年、新羅の僧が熱田宮の天叢雲剣(草薙剣)を盗み出して本国に帰ろうとしたが、難波津で大嵐に遭った。
 ・これを神罰として怖れた僧は、剣を川中に棄てて逃げた。
 ・これを拾い上げた村人が剣を阿遅速雄神社に合祀した。これが八劔大神である。
とあり(別稿・阿遅速雄神社参照)、当社にも是に類する伝承があったのかもしれず、東成郡史が“熱田の天叢雲劔を主神となすべし”というのは是を受けてのことかもしれない。


※祭神
   八劔大神(ヤツルギ、俗称・ハチケン)・武須佐男大神(タケスサノオ)・罔象女大神(ミズハノメ)

*八劔大神
 八劔大神とは、
 ・スサノオが八岐大蛇から得てアマテラスに献上したという天叢雲剣(アメノムラクモ、別名・草薙剣)のことで、
 ・天孫・瓊々杵尊とともに天降り宮中に祀られ(三種の神器の一)、アマテラスの伊勢鎮座に伴って伊勢に移され、
 ・ヤマトタケルの東征時に霊験があったことから草薙剣(クサナギ)と名を変え、タケルの死後熱田神宮に納められた
との伝承があり、この天叢雲剣(草薙剣)を神格化して八劔大神と称する。

 当社に降臨した神が熱田の神であることから、その祭神を八劔大神として祀ったものであろうが、HPには、それが小蛇の姿で顕現したとあるが、剣(あるいは杖)と蛇とは密接な関係にある。

 コロナ蔓延のこの頃(2020年春)、良きにつけ悪しきにつけ話題なっているてWHO(世界保健機関)のシンボル(紋章)には杖に巻き付いた蛇がデザインされている。
 この蛇は、ギリシャ神話の名医・アスクレピオスの傍らに常にいて治療を助けたといわれるのが蛇で、アスクレピオスは常に蛇がまといついた杖(アスクレピオスの杖)をついていたという(別稿・アスクレピオスと杖参照)
 WHOの紋章は、このアスクレピオスの杖をデザインしたもので、WHOが保険医療全般に関わる組織であることを示している。

 
WHO紋章
 
アスクレピオスの杖

アスクレピオス像
(左手の杖には
蛇がまといついている)

 蛇について、吉野裕子氏(1916--2008、民俗学者で陰陽五行説に詳しい)によれば、
 ・外形が男根相似 →生命の源としての種の保持者
 ・脱皮による生命の更新 →永遠の生命体
 ・一撃にして敵を倒す毒の強さ →無限の強さ
といった性質から、古代にあっては洋の東西をとわず生と死・死と再生にかかわる神として崇められいたといわれ、わが国でも、縄文土偶・土器には蛇をあしらったものが多々みられ、また三輪山神話では、ヤマトトヒモモソヒメのもとにかよった大物主神の正体は蛇であったと伝える。


縄文土偶
(頭上に蛇を戴く) 
 
同 左
(真上から見た蛇の模様)
 
縄文土器
(把手部にみえる蛇)

 当地に現れた小蛇は、単なる爬虫類としての蛇ではなく、神の化身としての蛇であったこと示している。

 ただ、各地にある八剣神社(愛知・岐阜・長野に多い)には日本武尊あるいは素盞鳴尊を祭神とするものが多い。

 日本武尊とするのは、
 ・尊が東征に赴く際、まず伊勢神宮に参詣し、神宮に奉祀する叔母・倭媛命から天叢雲剣を賜った。
 ・尊が駿河国の賊に欺かれて狩りをしようとして野に入られたとき、廻りから火を付けられて焼け死のうとされたが、腰に差しておられた天叢雲剣が自ら抜けだして傍らの草を薙ぎ払い難を逃れることができた。
 ここから天叢雲剣は草薙剣とも呼ばれるようになった、
という伝承(書紀8段・一書4)から、日本武尊を祭神とはするもので、その背後には草薙剣が隠れているとみることができる。

 素盞鳴尊というのは、八岐大蛇退治の折、大蛇の尾から得たという剣(天叢雲剣)で、これが後の草薙剣ということから、素盞鳴尊の背後にも草薙剣が潜んでいるといえる。

*武須佐男大神
 大正4年に当社に合祀された八坂神社の祭神と思われる(下記)

*罔象女大神
 大正4年合祀の水神社(永田町)の祭神であろう。
 この水神社に関する資料なく、旧社地・由緒等は不明。(同じ城東区野江にも水神社があるが、その創建由緒等からみて当社とは別社と思われる)


※社殿等
 当社は城東小学校東の一街区を占め、東西に鳥居が立ち、東側の表参道を通って境内に入る。
 東側鳥居の右に、ゴツゴツした自然石に八劔神社と刻した大きな社標が立つ。

 
八劔神社・東側社頭
 
同・鳥居

同・社標 

同・西側社頭(地車庫2棟あり) 
 
同・西側鳥居

 表参道の先に立つ注連縄を渡した〆柱をくぐって境内に入る。
 境内正面に、金の柱・ガラス張り・緑の銅板屋根といった近代的な拝殿が東面して建つ。


同・〆柱 
 
同・拝殿
 
同 左

 拝殿の後ろ弊殿を介して、唐破風向拝・千鳥破風を有する本殿が鎮座するが、周りを柵で囲われていて詳細は見えない。

 
同・弊殿正面(拝殿より)
 
同・本殿側面
 
左:拝殿、右:本殿

◎境内社
 拝殿の向かって右(北側)に大きな末社合祀殿が南面して建ち、左から辨天社・水神社・幸神社との提灯が下がっている。
 内陣には3社の社殿が並ぶが、中央の水神社(細かい彫刻が見える)が大きく左右の2社は小さい。
 案内なく、鎮座由緒・時期等は不明。

 
末社殿
 
末社殿・内陣

◎その他
*上杉景勝本陣之地
 境内に「大阪冬の陣(鴫野の戦い) 上杉景勝本陣の地」と刻した石柱が立ち、鎧姿の武将の座像が置かれている。
 武将名は見えないが、上杉景勝の像と思われる。

 
本陣跡・石碑
 
上杉景勝像か

 当地一帯は大坂冬の陣での激戦地であったといわれ、境内に立つ案内(城東区役所)には、
 「慶長19年(1614)11月26日に起きた大阪冬の陣・鴫野今福の戦いは、今の城東区域が戦場になりました。
 八劔神社の鎮座する鴫野村には徳川方の上杉景勝が布陣しています」
とあり、
 当社西の城東小学校前は、 
 「鴫野古戦場跡(城東区鴫野東3丁目)  大阪市顕彰史跡第203号
 慶長19年の大阪冬の陣に際しては、大坂方が防御のための柵をこのあたりに建設し、これを巡って佐竹義宣・上杉景勝らの関東勢と後藤基次・井上頼次らの大坂方が激しい戦闘をくりひろげたという。・・・」
との案内がある。

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