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淀川天神社
大阪市北区国分寺1-4-1
祭神--天穂日命
                                                            2020.10.27参詣

 大阪メトロ谷町線・堺筋線の天神橋六丁目駅(天六交差点)の東約400m強、駅から都島通りを東南東方へ、天満橋筋と交わる樋之口町交差点を左折し、北へ進んた次の角地に鎮座する。

※由緒
 社頭の淀川天神社略誌によると、
 「当神社は、聖武天皇の御代、天平10年(738)、行基菩薩が此の地方を巡錫に来られた際、此の地方開拓の守護神として天穂日命を勧請し奉り、民衆の幸福を祈念せられて以来、祭祀をたやすことなく今日に至っている。

 資料は散逸して不詳であるが、西隣の国分寺の鎮守社として創建されたとも言われ、明治初年、当時の国分寺村村長安東満次郎氏よりの聞伝えによると、江戸時代中期より、神仏混淆思想の影響で東隣の正徳寺の同域境内にあって管理されていたが、明治6年、神仏分離令によつて分離独立し、当初社名を天神宮と称したが、明治5年、社格を村社に列せられてより天神社に改め、明治35年より、通称名を淀川天神社としている。(以下略)
とある。

 当社を創建したという行基とは、天智天皇7年(668)に現堺市西区に生まれたといわれ、初めは私度僧として禁を破って民衆の中に入り、近畿を中心に貧民救済・社会活動・治水架橋などに従事していたことで朝廷から弾圧・禁圧を受けたが、天平10年、その行動力を認めた朝廷から許容され行基大徳との諡号が贈られ、その後大僧正として東大寺建立に尽力したという。
 行基開基の寺院は49寺を数えるというが(続日本紀)中には伝承的なものもあり、また神社を創建したという記録はみえず、行基が当地開拓にかかわったことはありえるとしても、当社を創建したかどうかは不祥。

 それよりも、当社西方約50mにある国分寺(摂津国分寺)の鎮守として創建されたというのが理解しやすい。

 国分寺とは当寺HPによれば、大略
 ・斉明天皇の頃、日本法相宗の祖・道昭(629--700)が勅により孝徳天皇の菩提を弔うための難波長柄豊碕宮の旧址に一寺を建立し、「長柄寺」と称した(長柄の地に難波長柄豊碕宮があったというのは伝承であり、今では中央区法円坂の難波宮誌跡がそれとされる)
 ・天平13年(741)、聖武天皇による国分寺建立の詔により、長柄寺を「摂津国国分寺」と定めた(俗に長柄の国分寺という)
 ・大坂夏の陣(1615)で全焼、その後荒廃していたが、享保3年(1718)律師・快圓により再建
 ・昭和22年、真言宗国分寺派本山・国分寺として独立
という。
 ただ摂津名所図会(1798)には、
 「当寺は国毎の国分寺の一ヶ寺にして、本願は聖武帝、開基は行基僧正、後荒蕪して快圓比丘中興して律院となる」
とあるが、当寺略記及びHPに快圓の名は見えるが、行基の名は見えない。
 (なお、天王寺区国分町にも摂津国分寺跡という史跡があり、ここからは飛鳥時代の亙などが出土しているという)

 国分寺は、当社北側の道路を西へ、公園を挟んた次の区画に鎮座する。


国分寺・山門 
 
同・正面(境内東側) 


※祭神
   天穂日命(アメノホヒ)

 天穂日命とは、高天原におけるアマテラスとスサノオの誓約(ウケヒ)の時に成りでた男神5柱の第二子で、古事記によれば、
 ・国譲り交渉の使者として出雲に派遣されたが、大国主命に媚びて3年たっても復命しなかった
 ・それを詰問するために遣わされた使者を弓矢で射殺し、その矢が高天原まで届いた
 ・血のついたその矢をタカミムスヒ神が呪詛して投げ降ろした返し矢に当たって亡くなったという。
 しかし、新任の出雲国国造が朝廷に赴いて奏上する出雲国造神賀詞には、大国主をなだめて国譲りを承諾させた功労者として出てくる。

 当社拝殿に掲げる扁額には『御祭神 天穂日命』とあるが、その天穂日命が、如何なる経緯で当社に祀られたのかは不明で、本来の祭神は別だったのかもしれない。


※社殿等
 表通りの天神橋筋から西へ入ってすぐ北側(境内南側)に正面鳥居が立ち境内に入る。
 なお、東側の天神橋筋に面して「東側鳥居」が立っている。


淀川天神社・南側正面鳥居 
 
同・東側鳥居

 境内正面に千鳥破風をもつ入母屋造の拝殿が南面して鎮座する。
 境内は狭く、拝殿向かって右に白い建物(地車庫か)が左に社務所(参詣時無人)があるだけで、建物及び民家が密集するため、拝殿奥の本殿は実見不能。


同・境内 
 
同・拝殿

同 左 

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