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摂津(住吉郡)の式内社/大依羅神社
付記--努能太比売神社
大阪市住吉区庭井2丁目
祭神--建豊波豆羅和気王・住吉大神三座他
                                                               2009.5.20参詣

 延喜式神名帳・摂津国住吉郡条に、『大依羅神社(オオヨサミ)四座 並名神大 月次相嘗新嘗』とある式内社で、宮廷祭祀・八十島祭や祈雨祭にも奉幣を受けるなど、住吉郡で住吉大社に次ぐ社格を誇った古社。今は足の便が悪いこともあって、地元の人以外には参詣人も少ないようで、衰微している。ただ古社だけあって、境内は広い。

 付記する『努能太比売神社』(ヌノタヒメ)も延喜式にある式内社だが、明治42年(1909)に大依羅神社に合祀されている。旧鎮座地とされる住吉区杉本2丁目の杉本町会館内に、『式内社 努能太比売神社趾』の石碑のみが立っている。

 大阪市地下鉄御堂筋線・我孫子(アビコ)駅東南約1km、市パス・よさみ神社前から南約300m、府立阪南高校角を校庭に沿って東に入ったところに北側の入口がある。
 元々は南側・大和川向きが正面で、社殿は境内北側に南向きにあったが、昭和44年(1969)9月旧社殿全てが焼失、同46年10月、西側東向きに再建されたものが現社殿で、この時、正面入口も南側より北側に変更されたという。
 広い境内の西側南寄りに社殿が建ち、その傍らにクスの大樹が枝を張っている。南側鳥居の前、狭い道路をはさんで「依網池趾」の石碑が立ち、旧依網池の一部が公園(庭井2号公園)として残されている。

大依羅神社/北側鳥居
大依羅神社・北側鳥居
大依羅神社/南側鳥居
同・南側鳥居
(本来の正面鳥居で、北に参道が延びる)
大依羅神社/南側四脚門
同・南側参道奥に建つ四脚門
大依羅神社/社殿
同・社殿
大依羅神社/境内
同・境内風景

※祭神
 社殿左手に、建豊波豆羅和気王(タケトヨハズラワケ)を中心に16座の祭神名が掲げられている。
 延喜式にいう大依羅神社四座とは
  タケトヨハズラワケ王とソコツツノオ・ナカツツノオ・ウワツツノオ(住吉大神)
の四座とされるが、摂津名所図会(寛文10年1798)など、
  大己貴命(オオナムチ)・月読命(ツキヨミ)・垂仁天皇・五十猛命(イソタケル)
の四座とする資料があり、時代によって祭神が異なっている(今、この4神も併祭されている)
 しかし、祭神を記紀などの古資料に求めるかぎり、日本書紀・神功皇后9年条にある
 「(新羅出兵に際して、住吉大神から)『和魂は王の身を守り、荒魂は先鋒として軍船を導く』との託宣を得た神功皇后は、神を拝礼し、依羅吾彦男垂見(ヨサミノアビコオタルミ)を祭の神主とした」
との伝承からみて、住吉三神とその神主・ヨサミノアビコオタルミの祖神・タケトヨハズラワケの四座とするのが順当であろう。

 なお上記以外に、イソタケルの代わりに五十師宮(イソシノミヤ・出自不明)をあげる資料(住吉松葉大記・摂津名所図会など・いずれも江戸時代)もあるが、これを含めてオオナムチ以下の四神を当社の祭神とする由緒は不明。

 タケトヨハズラワケとは、古事記・開化天皇段に
 「(開化天皇が)また葛城の垂水宿禰の女、鸇比売(タカヒメ)を娶して生みましし御子、タケトヨハズラワケ」・・・
とある開化の第4皇子で、段の最後尾には
 「上に謂へるタケトヨハズラワケ王は、道守臣・・・依羅の阿毘古等の祖なり」
として、依羅(依羅我孫)氏の祖神とされる。
 しかし、日本書紀にその名はなく、また新撰姓氏禄によれば
 「摂津皇別  依羅宿禰  日下部朝臣同祖  彦坐命之後也」
と開化天皇の皇子・彦坐王(ヒコイマスノミコ、古事記ではタケトヨハズラワケの兄)となっている。
 ただ、姓氏禄に
 「摂津国諸蕃(百済)  依羅連  百済国人素祢志夜麻美乃君より出ず」
との系譜もあることから、依羅氏は依羅池の建設に係わった百済系渡来人の子孫ともいう(他に、物部氏の祖・ニギハヤヒの子孫とする系譜-左京神別・右京神別-もある。)
 依羅氏の出自について記紀・姓氏禄で異なっているのは、渡来系氏族である依羅氏が系譜を作るに際して、その祖神を、古い時代の天皇でその実在度があやふやな開化天皇の皇子に求めたための混乱と解することもできる(今、開化天皇の実在は疑問視されている)

 なお古事記注記によれば、ヨサミは地名・大羅郷(オオヨサミ)、アビコは原始的な姓(カバネ)という。とすれば、神功皇后紀にいう依羅吾彦男垂水とは、ヨサミに住んでアビコのカバネをもつ男垂水(オタルミ)との人物となる。
 依羅氏は依羅我孫氏とも呼ばれるが、姓氏禄には「摂津国(神別) 我孫 大己貴命孫天八現津彦命之後也」との氏族がある。この我孫氏と依羅我孫氏との関係は不明だが、この天八現津彦(アメノヤウツヒコ)を祭神とする古資料(名葦探杖)もある。依羅氏には幾つかの系譜があり、それらが輻輳しあった難しい氏族だったことを示唆する。

 これらの考証は、依羅氏の祖神伝承と神功皇后伝承を結びつけたもので、大阪市史(1988)には、
 「本来の祭神名は不明。近世には大己貴・月読・垂仁天皇など四座を祀っていたというが、内務省編纂の特選神名牒(大正4年1925)では、それを否定して住吉三神とタケトヨハズラワケであろうとし、現在の神社でもこの四座に改めている・・・」
とあり、本来の祭神は、
 「王権によって開発された広大な用水池・依羅池を神格化した水神で、それが律令時代以前に屯倉の守護神ともなり、その後も地域の農耕守護神・氏神として信仰されたのではないか」
という(大阪市史)

 その他の8座は、明治末期の神社統合策によって、旧依羅村に属していた大字の鎮守社(氏神社)・6社を合祀したもの(明治42年1909、明治40年ともいう)
 ・草津大歳神社(式内社、大字:苅田 クサツオオトシ)--草津大歳大神(別稿・草津大歳神社参照)
 ・努能太比売神社(式内社 大字:杉本 ヌノタヒメ)--奴能太比売大神--下記
 ・我孫子神社(村社 大字:我孫子)--建速須佐男大神(タケハヤスサノヲ)
 ・八坂神社(村社 大字:杉本)--奇稲田媛大神(クシイナダヒメ)・八柱御子大神(ヤハシラノミコ) ・素盞鳴命(スサノヲ)
 ・山之内神社--(村社 大字:山之内)--素盞鳴命
 ・大山咋神社--(村社 大字:庭井 オオヤマクヒ)--大山咋大神

※鎮座由緒
 当社由緒略記には、
 「創建年月は詳らかならざるも、今(昭和46年)より1800年前の創建と伝える」
とあり、これを逆算すれば2世紀後半ごろの創建となる。
 当社の創建を2世紀とするのは疑問だが、上記神功皇后9年条は伝承としても、仁徳紀43年条に“依網の屯倉(ミヤケ)の阿弭古(アビコ)”の名があることみて、4世紀あるいは5世紀頃、依網屯倉を支配・管理する豪族・依羅氏が、その奉祀する社を祀っていたと推察される。
 その後、聖武天皇朝・孝謙天皇朝に官位を授けられた依網一族があり(続日本紀)、降って称徳天皇・天平神護元年(765)条に、“(大依網神社に)神戸十八戸を充て奉る”(新抄勅符抄)とあり、8世紀に依羅氏が奉祀する神社があったことは確かという。ただ、この時点では未だ官社として処遇されていない。
 当社の官社化は仁明天皇・承和14年(847)に記す、
 「摂津国大依網社・肥後国阿蘇郡国造神社を修造し、官社となす」(続日本後記)
であり、八十島祭に際して住吉大社などの関係社とともに幣帛を受け、加えて、奉仕者・住吉祝と一緒に同・大依網祝に対しても特別に布一端が給されるなど、住吉大社に次ぐ重い扱いがなされていたという。
 平安時代の大依羅神社は、相嘗祭・八十島祭などの宮廷祭祀に際して奉幣されるとともに、降雨・止雨の神として知られていたようで、官社に列した12年後の清和天皇・貞観元年(859)9月には、畿内5ヶ国の著名な水の神45社とともに“止雨祈願”のための奉幣があり、陽成天皇・元慶元年(877)6月には、石清水八幡宮以下12社とともに“甘雨祈願”がなされ、同・元慶3年(879)6月には、大和の広瀬・龍田の水の神・風の神と並んで住吉大社とともに神財が奉られている。
 これらの降雨・止雨祈願がなされたことは、当社が摂河泉3ヶ国を潤す大貯水池・依網池の守護神として奉祀されていたことによるのだろうという。
 しかし、時代が降るにつれて次第に衰微し、長い間、住吉大社の摂社として細々と続いていたという。万治2年(1659)の火災によって社殿・文字類の焼失し、その後再建はなされたものの、江戸時代の当社は氏人以外には忘れられた神社だったらしい。

※境内末社他

◎境内末社
 境内には末社5社が点在するが、祭神のみの標示で“道祖神社”(ドウソシンのヤシロ)を除いて神社名不詳。
 ・道祖神社--祭神:八衢比古大神(ヤチマタヒコ)・八衢比売大神(ヤチマタヒメ)・久那斗大神(クナト)
 当末社は明治42年に旧依羅村内(大字名不明)から当社に合祀されたというだけで(由緒略記)、詳細不明。
 祭神のヤチマタヒコ・ヤチマタヒメ・クナト神(フナト神ともいう)とは、村落・集落などの境界にいて侵入しようとする邪霊・悪神の類を遮り追い返すという所謂“塞(サエ)の神”で、道祖神とも呼ばれ祭神をサルタヒコとすることが多い。旧依羅村の何処かの村境にあった小祠を合祀したものであろう。

 道祖神社以外の末社は、アマテラス社・天神社(菅原道真)・稲荷社(ウカノミタマ)と祭神名不明社で、その鎮座由緒など不明。
大依羅神社/末社・道祖神社
道祖神社
◎庭井の泉跡
 境内北東脇にある泉跡。地名・庭井の由縁となる泉だが、依羅井ともいう。
 傍らの説明には、
 「往昔、此処に湧いていた泉は豊潤で水質が清冽だったので、恩沢に浴した里人・行人が庭井と呼んだことから、郷の名になった。年を経て泉は涸れていたが、先年の社殿再建の境内整地の際、泉趾が埋没した。・・・」(昭和48年)
とあり、摂津名所図会(寛政10年1798)には
 「依羅井は神前にあり、清潔にして寒暑に涸れず。炎暑に田園旱天の時此井を汲んで神供とす。忽雨降りて潤沢す」とある。旱天時の雨乞いに霊験があったということであろう。

庭井の泉趾の碑
◎雨乞井
 境内南西隅に『龍神社』との末社(祠)がある。
 今はなくなっているが、古資料では、この辺りに“龍神井”と呼ぶ井戸があり、旱魃時の雨乞いに霊験あらたかだったという。
 この龍神社がその跡と思われるが、何らの説明もない。
 龍神井には
 「依網池に住む龍神が美女に化して現れ、通りかかった農夫に池に沈む鉄(農具の鍬)を取り除いてくれと頼み、聞き届けてくれた農夫に、旱魃の時、この井戸の水を汲んで神前に供えて祈れば、必ず雨を降らせようと約束した」
との伝承がある。平安時代には、大旱魃ごとに奉幣使を遣わして甘雨を祈願し、是によって“雨乞井”の名が起こったという。 
大依羅神社/末社・龍神社
末社・龍神社
◎定家歌碑
 境内北東の隅に、自然石に刻んだ歌碑がある。刻された文字はよく読めないが、藤原定家(1162--1241)の歌で
 「君が代は 依網の杜の とことはに 松と杉とや千歳栄えむ」
という。


◎石燈籠
 定家歌碑の斜前にある灯籠。傍らの石碑には
 「摂南苅田式内草津大歳祠の古石燈一基、大同二年物と伝う。大依羅神社境内に遷し・・・」
とある(昭和12年建立)。大同2年(807)は平安前期に当たり、その頃には草津大歳社があったことを証する遺物。
 

定家・歌碑

草津大歳社から移設の燈籠

※依網(羅)
 大依羅神社の南側鳥居を挟んで道路の南側に小公園があり、一角に『依網池趾』との石碑が立っている。池趾といっても水はなく、一面夏草に覆われている。

依羅池趾の碑
依羅池趾の碑
依羅池趾
依羅池趾
 河内と摂津にまたがって築造された(およそ現住吉区我孫子から松原市天美附近)依羅池(依網池とも書く)は十万坪を越える大きな池だったというが、宝永4年(1704、江戸中期初頭)の大和川付け替え工事によりその2/3が河川敷となって縮小したが、その後も次第に、残りの大半も埋め立てられて田地なったという。
 右図は、依網池の推定位置図の一つだが、池の東方に隣接して大依羅神社が位置している。この位置からみて、大依羅神社の原姿が依網池の守護神というのも頷ける。

 依網池の築造について
 ・古事記・崇神天皇段に、「この御代に依網池を作り・・・」
 ・同・仁徳天皇段に、「また丸邇池・依網池を作り・・・」
 ・日本書紀・推古天皇14年(606)条に、「河内国に戸刈池・依網池を造った」
との記事があり、発掘調査などで7世紀には存在したことが確認されている。
 崇神朝(3~4世紀)の築造は疑わしいが、仁徳朝(5世紀)の頃に造られ、推古朝(7世紀初頭)に修築したのではないかという。
依羅池/推定位置図
依羅池・推定位置図(大阪市史より転写)
 いずれにしろ、依網池の築造は朝廷が関与した大工事であったといわれ、これによって大阪南部の開発が進み、この辺りに設けられた依羅屯倉とあわせて管理などに係わったのが依羅我孫氏だったと思われる。

 なお依網(依羅)の地名にからんで、仁徳天皇紀43年条に
 「依網屯倉の吾耶古(アビコ)が変わった鳥を捕らえ、『網を張って鳥を捕らえたら、見知らぬ鳥を捕らえました』と天皇に献上した。天皇が百済人・酒君を呼んで尋ねたら、『百済に多くいる鳥で倶知(クチ=鷹)という』と答えた。天皇はこの鳥を酒君に与えて飼育させ、後に鷹狩をおこなって多くの獲物を得た」
との説話がある。この“網を張る=網に依る”が依網の語源という。

※努能太比売神社・旧鎮座地
  大阪市住吉区杉本2丁目
  祭神--努能太比売命

 地下鉄・我孫子駅の南西約500m(JR阪和線・杉本町駅の北東約500m)の住宅地内にある「杉本町会館」の正門を入ったすぐ右に
  『式内社 努能太比売神社 社趾』
と刻した石碑(H=1mほど)が立っている。正門付近に、この石碑があることを示す標示はない。
 摂津名所図会大成(1860頃・江戸末期)には
 「杉本村にあり、当村の生土神とす。延喜式神名帳に出。摂津志に云う、努能太比売神社杉本村野々太池の側にあり。今野々太池を尋ぬるに、終に埋もれて田甫となり、野々太といへる字を存すといふ」
とあるが、今では町名改正によって野々太なる字もわからなくなっている。
 また式内社の研究(1977)には、
 「古老の言では、この辺りを昔からミヤさんといっていた。ここに馬の池があった。東南五辻を馬の川、南方三町の辺りをウバが池といった。・・・馬はウバの訛り、ウバはヒメの意であるから、この附近にヌノタヒメ神社があったことがわかる」
とある。
 祭神・ヌノタヒメについて、上記・式内社の研究に、
 「ヌノタは“沼の田”あるいは“野の田”で、この辺り一帯が低湿地であり、そこを干拓して杉本村を造ったのであろう。その“田の神”を祀ったのが努能太比売神社である。沼は古代には“ヌ”といったし、万葉にその例は多い」
とある以外に、当社祭神についての資料は見当たらず、詳細不明。

努能太比売神社・社趾の碑
努能太比売神社・社趾の碑
杉本町会館・正門
杉本町会館・正門

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