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摂津(武庫郡)の式内社/広田神社
兵庫県西宮市大社町
祭神−−天照大御神(撞賢木厳之御魂天疎向津媛命)
                                                        2011.06.28参詣

 延喜式神名帳に、『摂津国武庫郡 広田神社 名神大 月次相嘗新嘗』とある式内社。

 JR東海道線(神戸線)・西宮駅の北、阪神本線・西宮駅の北、阪急神戸線・西宮北口駅の西北、いずれからも約2kmの地に鎮座する。
 
 国道171号線・室川町交差点から道を北にとり、2ブロックほど進むと広田神社・一の鳥居(木造)が立ち(柳本町)、松並木が続く旧参道(参詣時、道路拡幅工事中)を約500mほど北へ進んだ左側(西側)に境内への参道入口がある。

 徒歩の場合は、阪神・西宮駅前(北側)から阪神バス・山手循環線(東回り)乗車、広田神社前下車、少し帰った信号を西へ下り、上記旧参道を右(北)へ曲がったすぐに、境内への参道入口がある。
広田神社/一の鳥居
広田神社・一の鳥居
(この辺りから旧参道の松並木が続く)

※由緒
 日本書紀・神功皇后摂政元年条に
 「(朝鮮半島遠征から帰った神功皇后は)忍熊王(オシクマノミコ・仲哀天皇の皇子・応神の異母兄)(イクサ=軍)を起こして待てりと聞こしめして、武内宿禰に命じられて、皇子(後の応神天皇)を懐きて南海より出でて紀伊水門に泊まらしむ。
 皇后の船、直に難波を指す。時に、皇后の船海中に廻りて進むこと能わず。更に務古水門(ムコノミナト)に還りまして占ふ。是に、天照大神、教へまつりて曰はく、『我が荒魂(アラミタマ)をば、皇后(オホミモト、皇居とする史料もある)に近つくべからず。当に御心を広田国に居らしむべし』とのたまふ。即ち山背根子の女(ムスメ)葉山媛を以て祭(イハ)はしむ」
との伝承がある。
 当社社頭にかかげる由緒には、これを現代風に簡略化して
 「神功皇后摂政元年、国内打破の道を示し、八幡大神(応神天皇)のご懐妊を告げ安産を守護し、軍船を導き、建国初の海外遠征に勝利を授けた、広田大御神(天照大神荒魂)のお告げにより、凱旋の帰途、御心・広田の国に国土安泰・外難の守護として創建されたことが日本書紀に記されている」(大意)
とある。

 この伝承をそのまま信じて、神功皇后期(社頭の由緒には西暦201年とあるが、これは作られた年次)創建とするのはナンセンスだが、新抄格勅符所載の大同元年牒(806、各社寺へ与えられた封戸を記した文書)に、「広田神 封戸41戸」とあることからみて、「当社の創建は、大同年間(9世紀初頭)より遙かに古い時代に溯ると考えられる」という(日本の神々3所載・広田神社・2000)

 当社は古来から、風雨や地震などに霊験あらたかな神として朝廷の尊崇が篤く、その神階も
 ・文徳天皇・嘉3年(850)10月 従五位下
 ・清和天皇・貞観元年(859) 従三位から正三位へ
 ・ 同   ・貞観10年(868) 従一位(摂津国で起こった地震が当社と生田社の祟りとして、これを宥めるため特に従一位を贈ったという)
と短期間のうちに著しく登り、その後も
 ・醍醐天皇・延長5年(927)の延喜式神名帳では名神大社と格付けされ、祈雨神48社の一社とされる
 ・一条天皇・正暦2年(991)には、朝廷から特別奉弊をうける神社19社の一社に加えらる(後の二十二社)
  (当社が皇室の守護神・護国神としての神徳があり、古来からの名社だったからというが、特に祈雨神としての霊験ありとされたらしい)
など、朝廷から恒例・臨時にわたって奉弊をうける神社として重きが置かれたという。
 *二十二社−−国家の重大事・天変地異の時などに朝廷から特別の奉弊を受ける神社で、以下の経緯を経ている
   ・天徳4年(960)−−伊勢神宮以下12社に奉弊−−特別奉弊の始まり
   ・応和3年(963)−−16社に増加
   ・正暦2年(991)−−19社に増加−−この時、当社への奉弊始まる
   ・正徳5年(994)−−20社に増加
   ・長徳元年(995)−−21社に増加
   ・長歴3年
(1039)−−22社に増加−−二十二社制の確立

 その後の当社について、社頭の由緒は
 「中世には“西宮参拝”と称して国家の神事を司った神祇官の歴代長官(白川神祇伯家)や公家・五山の僧侶たちが度々に亙って参詣し、物語や和歌・今様・漢詩に多々その痕跡を残している」
という。
 特に白川神祇伯家では当社への崇敬が篤く、歴代の神祇伯は、その就任時には必ず、あとは必要に応じて当社へ参拝する慣わしがあったという。これは、当社および社領を神祇管領として掌握していたからというが、よく分からない。

◎関係氏族
 当社祭祀を携わった葉山媛の父・山背根子にかかわつて、新撰姓氏禄(815)
  「摂津国神別(天神) 山直(ヤマノアタイ) 天御影命(天津彦根命の御子)十一世孫山代(山背)根子之後也」
との氏族がある。
 この山氏(山代氏)とは、山城国南西部(現京都府南部)を支配した山背国造(ヤマシロノクニノミヤツコ)から出た氏族で、当地の東に近接する摂津国川辺郡為奈郷(現尼崎市付近)に居住していたらしいが、当地との関係はよく分からないという。
 なお山背(山代)国造とは、天津彦根命(アマツヒコネ、アマテラスとスサノヲのウケヒで生まれた御子)の後裔といわれる氏族で、同じアマツヒコネの後裔氏族として摂津国西部に勢力を張っていた凡河内氏(オオシコウチ)と同族ともいう。

 別説として、広田との地名から、新撰姓氏禄に
  「左京諸蕃 広田連 百済国人辛臣君より出る也」
とある渡来系氏族・広田氏だったのでは、という説もあるが、広田氏も当地での痕跡は見えないという。

◎所在地
 今の当社は御手洗川西側の微高地に鎮座するが、元禄(1688--04)の頃の広田西宮参詣独案内との資料には、
 「六軒新田の上高隈ノ原と申すは、昔広田大神鎮座の地なり」
とあり、南北朝時代の紀行文“道ゆきぶり”(1371頃)にも同種の記述があることから、室町以前まで高隈ノ原にあったのは確かだろうという。
 高隈ノ原の所在地ははっきりしないが、西宮市史には
 「今の上ヶ原新田の西南に続く丘であり、貞享3年(1686)の古絵図にも古老の口碑にも符合するから、同所にあったことは明か」
とあり、当社から御手洗川をはさんだ北方(約4〜500m)の五月ヶ丘・六軒町の辺りらしい。
 今、この地は住宅地となっているが、その北方・正面には、神功皇后が国家平安守護のために山頂に如意宝珠と兜を埋めたとの伝承がある“甲山”(カブトヤマ)が望め、西から南にかけて御手洗川が流れる高燥の地で、甲山を神体山とする神祀りの場として相応しいという。
 ただ、社務所の言では、“あくまでも伝承であって、確証はない”という。

 この高隈ヶ原から現在地への遷座について、西宮市史(1959)には
 「何時の頃か、現今の社地の東方馬場先正面のところに遷座したが、その地が平坦であるため、北東(南東か)に曲回している広田川(御手洗川)の水害をうけること再三におよんだので、享保9年(1724・8代将軍・吉宗の頃)4月5日、現今の位置に遷座したという」
とある。
 社務所の説明では、“馬場先”とは、現境内入口から南へ伸びる参道(松並木)を500mほど行った先・木製鳥居が立つ 辺り(冒頭写真)で、旧鎮座地・馬場先正面とは、その松並木の参道を北へ上り現境内入り口を越え、御手洗川(西岸)に突き当たった辺りの低地だったらしいというが、これも確証はないらしい(今は市街地化していて痕跡なし)
 なお、市史は高隈ノ原から馬場先への遷座時期は不明としているが、神祇伯家史料(仲資王記)に、
 「土御門天皇の元久元年(1204・北条執権期初頭)に遷宮のことあり」
とあるというから(式内社調査報告・1977)、その頃かもしれない。

※祭神
 広田神社略記によれば、
 ・本殿  天照大御神荒御魂(撞賢木厳之御魂天疎向津媛命)
 ・脇殿  (右脇殿)住吉三前大神(筒之男三神)
           八幡三所大神(応神天皇・神功皇后・仲姫命)
       (左脇殿)諏訪御名方冨大神(大国様の御子神・恵比寿様の弟神)   
           高皇産霊大神(宮中八神殿の主神)
とあり、主祭神は天照大神荒御魂。古くは“五所大明神”と総称され、個々には広田神・住吉神・八幡神・南宮神・八祖神とも呼ばれたという。

 *撞賢木厳之御魂天疎向津媛命(ツキサカキイツノミタマ アマサカルムカツヒメ)
   アマテラスの別名とされる撞賢木厳之御魂天疎向津媛命とは、書紀・神功皇后摂政紀にのみ、
   「伊勢国の度会の県の、五十鈴の宮においでになる、名は撞賢木・・・」
と出てくる神で、仲哀天皇に「海の向こうに宝の国がある」と告げ、遠征する皇后に「和魂は王の命を守り、荒魂は先鋒として軍船を導くであろう」と告げたとされる。
   荒魂(アラタマ・アラミタマ)とは、霊魂が示す働き・機能の一面で、穏やかな働きとして顕れる和魂(ニギタマ・ニギミタマ)に対して、猛々しい働きをもって顕れる霊魂をいう。
  西宮市史には、
   「古代人は神の働きには和・荒の二面があり、戦闘のようなときには、神威の激しい働きが顕れるのを荒魂の故と考えた。荒魂は、神を祀り信じる人にも激しい場合があるとして畏れられ、かように皇居から離れた処に祀られるべきと信じられたのであろう」
とあり、当地にアマテラスが祀られた由縁を、それが荒魂であるが故に皇居(あるいは天皇)の近くにはおけなかったから、としている(住吉3神も、和魂は難波の住ノ江(大津淳中倉長峡)、荒魂は山口県下関町(穴戸山田邑)に鎮座する)

 脇殿の4社の初見は、仲資王記(白川神祇伯家文書)・元久元年(1204)条に記す「八幡・住吉・広田・南宮・八祖上五社」というが、その勧請時期は不明で、勧請由緒について式内社調査報告は、次のようにいう(「 」内)
 *住吉3神
   「主神の兄弟神に坐す上、皇后御征韓の後広田の御鎮座についで鎮り座した関係によるものであろう」
   主神の兄弟神とは、黄泉国から帰ったイザナギが筑紫の橘の浜で禊ぎをしたとき、ツツノオ3神誕生に次いで、アマテラス・ツクヨミ・スサノヲが生まれているからだろうが、同じ時に生まれたとはいえ、アマテラスとツツノオ3神を兄弟神というのは疑問。
   後半部分は、書紀・神功皇后条で、アマテラスの広田鎮座神託につづいて、ツツノオ3神が「わが和魂を大津の淳名倉の長峡に居さしむべし。・・・」と告げ、これをうけて皇后が3神を住ノ江(住吉)の地に祀ったことを指す。
   平安時代、当社社頭で屡々歌合わせがおこなわれているから、和歌の神としての住吉3神との意味もあるか。

 *八幡神
   「主神を神功皇后と考えたとき、その御子神として祀られたもので、あるいは源家の力があづかったのかもしれない」
   当社の創建が神功皇后ということで、その御子・誉田別命(応神天皇→八幡神)を祀ったのだろうが、平安以降、国家守護神として流行した八幡神を祀ったともいえる。
   ただ、二十二社本縁(15世紀頃か)に「広田神社は神功皇后とも八幡同体とも申す也」とあるように、当社祭神を八幡大神又は神功皇后と誤り伝えられた時期があったというから、その名残か。
   “源家の力”とは、源頼朝の神領寄進(淡路国広田荘他)にみるように、源家の当社への崇拝が篤かったからだろうが、逆に、八幡神が祀られているから源家が崇敬したとも思われる。

 *諏訪御名方冨大神
   「南宮は諏訪大神即ち建御名方神を祀る。南宮は西宮の地にある当社の摂社・南宮社を脇殿に祀ったものである」
とあり、社頭由緒の祭神説明では「建御名方神は、大国主命の御子神、恵美須神の弟神」という。
   諏訪神社の祭神・タケミナカタは、国譲りの段に大国主神の御子神として登場し、タケミナカタと争って諏訪へ逃れた神だが、オオクニヌシの神裔条にその名は見えず、オオクニヌシノミコトの御子神とするのは疑義もある。
   そのタケミナカタを南宮に祀る由緒は不詳だが、梁塵秘抄(1169)に「南宮の本山は信濃国とぞ承る。・・・」とあり、平安末期には広田の南宮は信濃・諏訪神社の末社とする認識が一般化していた痕跡がある。
   これは、諏訪神社が別名・南宮社とも呼ばれたことかららしいが、両社間に特段の関係は見当たらず、タケミナカタを祀る由縁は不明。
   また下記するように、エビス神総本社(西宮神社)内に鎮座することから、エビス神の弟神というのだろうが、本来は無関係。

 *高皇産霊大神
   「タカミムスヒ神を八祖神とするわけは明らかでないが、神祇官八神殿の第一に座する神なる故に八祖神というのであろう」
   延喜式神名帳の、神祇官西院坐御巫等祭神八座は、“神産日神”(カミムスヒ)・“高御産日神”(タカミムスヒ)・・・とあり、これらの代表としてタカミムスヒを祀るのだろうが、神祇官八座と当社とのかかわりは不詳。

※社殿等
 社殿等の造営について、主なものとして
 ・嘉禄元年(1225)10月、火災により全焼(帝王編年記)
 ・天正7年(1579)、荒木村重の乱の兵火により社殿以下焼失(社中記録)
 ・慶長9年(1604)、豊臣秀頼による改修
 ・享保9年(1724)中頃、現在地に遷座(棟札)
 ・明治10年(1921)、官費をもって改造修繕
 ・昭和20年(1945)8月、西宮空襲により社殿等悉く焼失
 ・昭和31年(1956)12月、伊勢神宮・荒祭宮の古材をもって社殿再興
という(式内社調査報告)。平成7年の阪神大震災で被害をうけたと思われるが、今、完全に復旧されてその痕跡は見えない。

 御手洗川沿い道路の一本西側の道路(国道171号線・室川町交差点から北上する松並木の旧参道)に面して、境内に入る広い参道がはじまる(途中に“〆鳥居”あり)。入口近くに松の木一本あり、旧参道の名残であろう。
 参道突きあたりを右に折れ、低い石段2ヶ所を登った先に南面して拝殿が、背後の神域内に本殿および左右脇殿が鎮座する
 ・本殿−−神明造・銅板葺
        昭和20年8月5日の空襲で全焼したが、同31年、伊勢神宮荒祭宮旧社殿の古材を譲り受けて再建したという。
        (参詣の栞・本殿写真横には、「伊勢神宮・第58回式年遷宮の御用材の譲渡をうけ、昭和31年から38年にかけて改築整備された」とある)
 ・拝殿−−神明造(平入)・銅板葺
        何の飾りもない横長の簡素な建物だが、緑青を噴いた大屋根が美しい。両側に翼廊が伸びる。
 ・脇殿−−神明造・銅板葺
        本殿両側の疎林のなかに鎮座する。翼廊から遠く且つ樹木に遮られよく見えない。

広田神社/参道入口
広田神社・境内入口
広田神社/〆鳥居
同・〆鳥居
広田神社/参道
同・参道
広田神社/拝殿
同・拝殿
広田神社/拝殿から本殿を望む
同・拝殿内陣から本殿を望む
広田神社/本殿(資料転写)
同・本殿(参詣の栞から転写)
広田神社/脇殿(左)
同・脇殿(左)
広田神社/脇殿(右)
同・脇殿(右)

◎摂末社
[境内摂末社]
 *伊和志豆神社(境内摂社)
   社殿の左に鎮座する式内社、鳥居の奥に小さな石祠がある。(別稿・伊和志豆神社参照)

 *斎殿神社(境内摂社・トキドノと読む)
   境内右手・社務所の北側に鎮座する小祠。社頭の案内によれば、
   「祭神・葉山媛は広田神社創建時、神功皇后の命をうけて最初に祭祀を司った斎宮で、旧暦4月8日の祭礼には歴代神祇伯白河氏が参拝したとの記録がある。
   古くは東北方の御手洗川畔にあったが、享保12年の遷座に当たり当社も境内西山に遷座し、明治44年末社・松尾神社に合祀されたが、広田神社本殿復興に際し、一宇を設け祭祀を厳修することになった」(大意)
とある。
   しかし式内社調査報告では境外末社と格付けし、「祭神不詳、古来社殿なく神木を祀る」とある。
   又、それとは別に、「南宮社・西殿にも御斎殿との神が祀られているが神名不詳。大正昭和の神社明細帳では葉山媛命となっているが、その理由は不明」とある。
   これらが同じ神(神社)を指すのかどうかは不詳。

 *五社殿(境内末社5社の合祀殿)
   八坂神社(須佐之男命)・子安神社(磐長姫命)・春日神社(天児屋根命・武甕槌命)・地神社(大土御祖神)・稲荷神社(宇賀御魂命)
   境内左手(伊和志豆社の左前)に鎮座、勧請由緒・時期は不明。

 *松尾神社(境内末社)
   大山祇命・葉山媛命・猿田彦命・不詳神5座
   合祀殿の左に鎮座、勧請由緒・時期は不明。 


摂社・伊和志豆神社
(奥に石祠あり)
広田神社/摂社・斎殿神社
摂社・斎殿神社

末社合祀殿

末社・松尾神社

[境外摂社]
 式内社調査報告によれば、境外摂社として次の4社があるという。
 *南宮神社−−西宮神社(西宮えびす)の境内社、境内東側の表太門(赤門)から入り、参道を進んだ左手(南側)に鎮座する。
   社頭の案内には
   「祭神−−豊玉姫命・市杵島姫命(弁財天女)・大山祇命・葉山姫命(旧名・御斎殿・オトキトノ)
    甲山の山麓、大社の里に鎮座する広田神社の浜の南宮として古来著名な神社で、
    既に平安朝時代に京都の貴紳の参詣が記録され、室町時代には浪曲にも詠われるほど有名となった。
    現在広地神社の摂社である」
   とある。
   今、南宮社は西宮神社の境内に祀られているが、元は西宮神社(戎社)とともに広田神社の摂社(末社ともいう)として南の浜に祀られていた社で(西宮市史は、「海辺にあった泉を中心として神を祀り、もと広田社とは独立の祠であったか、ないしは御旅所のようなものではなかったか」という)、エビス神信仰が盛んになるにつれ戎社が独立して西宮神社となり、南宮社はその境内社に貶められたともいう

 *名次神社−−式内社(別稿・名次神社参照)
 *岡田神社−−式内・岡太神社(別稿・岡太神社参照)
 *若宮神社−−西宮市高座町−−祭神不詳
    阪神バス・高倉橋停留所下車、そのまま北へ上った先、道路脇の一段と高くなった微高所に鎮座する。
    荒れた疎林のなかに一間社流造の社殿が鎮座するだけで、社名表示・由緒表示などなく、詳細不明。
     (道路の反対側に、末社・武甕槌神社があるが、詳細不明)

広田神社/摂社・南宮社拝殿
摂社・南宮社・拝殿
(西宮神社境内)
広田神社/摂社・南宮社本殿
同・本殿
広田神社/摂社・若宮神社
摂社・若宮神社

[境外末社]
 境外末社として“須佐之男神社”(市内中須佐町)以下市内各所に分散して7社を数えるが(式内社調査報告)、たまたま通りかかった“塞神社”(市内奥畑町)および武甕槌神社(市内広田町にある小祠、詳細不明)を除いて不参詣。

*塞神社
  祭神−−塞神(サエノカミ)
  ニテコ池下・中ノ池の間を通る堤防道路を東に抜け、道なりに東進した道の北側角(辻)に鎮座する小祠。
 鳥井脇に「広田神社末社 塞神社]との石標が立つ。
  サエノカミとは、黄泉国から逃げ帰るイザナギが、彼岸と彼岸の境界・ヨモツヒラサカでイザナミと絶縁したとき、投げ捨てた杖から成った神で(書紀本文・諸説あり)、岐神(フナトノカミ)ともいう。

塞神社・鳥居

塞神社・社殿
 道の辻などの境界にあって、邪神・悪霊の侵入を“遮る神”とされ、後世、“道祖神”の名で親しまれるようになった。
 当社は、西から広田神社に至る旧街道筋の安全を守る神、即ち道祖神として祀られ、兼ねて、広田神社聖域への邪神・悪霊の侵入を遮る役目も負っていたであろう。

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