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摂津(菟原郡)の式内社/保久良神社
兵庫県神戸市東灘区本山町北畑
祭神:主祭神−−須佐之男命・
相殿神−−大歳御祖命・大国主命・椎根津彦命

                                                            2011.08.24参詣

 延喜式神名帳に、『摂津国菟原郡 保久良神社 鍬靫』とある式内社。社名は“ホクラ”と訓む。
 ホクラの語源としては、
 ・矛倉(ホコクラ)の転−−神功皇后朝鮮出兵の戦利武器を収納したという説
 ・火倉(ホクラ)の意−−灘のひとつ火から発したという説
 ・秀倉(ホクラ)の意−−古代祭祀用具の収蔵庫から発したという説
などがあるという(式内社調査報告・1977)

 阪急神戸線・岡本駅の北北東約700m、六甲山系の東端南側から連なる神奈備型の金鳥山(346m)南側中腹(185m)に鎮座する。駅と神社の間に目標となるものなく、地図を片手に歩くより他はない。駅から登り約40分ほど、帰り約30分ほど。

※由緒
 社頭に掲げる御由緒によれば、
 「創立年歴不詳なれども、境内外は上代祖神の御霊が鎮座せる磐境(イワサカ)の遺跡跡にして、それらより発見されつつある石器時代の石斧・石剣・石包丁・石鏃類、青銅器(弥生)時代の銅戈(重文)・弥生式土器が前期・中期・後期にわたり出土し、西暦前2〜3世紀頃より紀元3世紀頃のものにして、そのいずれもが儀礼的なもの(祭祀用遺物)と考証されたることをみれば、その頃にはもはやこの霊地に祭祀せされたる証拠なり」
として、当地が古く紀元前後から“神まつりの聖地”だったという。

 その面影を残すのが、境内各処に点在する大小の磐座群(岩石群)で、主なものとして、
 ・本殿背後−−資料では3基というが、瑞垣の外から見えるのは1基のみ
 ・境内社務所横−−立岩(タテイワ)
 ・東側緩斜面−−三交岩(サンゴイワ)−−3箇の磐座が三角形を成す
 ・西側緩斜面−−神生岩(カミナリイワ)−−最大の磐座
などがある。古く、これらの巨石群を神が降臨する聖地(磐座)あるいは神そのものとして、その前で神マツリがおこなわれたのであろう。
 なお御由緒には、“本殿裏の大岩群を中心として円を描くように配列されている”というが、人の手が加わったようには見えない。

 新修神戸市史(2010)には、
 「保久良神社遺跡にみるこの地域の自然信仰は、弥生時代における集落形成のなかで、磐座を仰ぎ見る形で始められたと考えられよう。それが延喜式にみえる保久良神社につながった」
とあるが、順当な見解といえる。

保久良神社/磐座1
本殿背後
保久良神社/磐座2
立石
保久良神社/磐座3
三交岩
保久良神社/磐座4
神生岩
保久良神社/磐座5
社殿東側
保久良神社/磐座群
磐座群(境内東側)

 当社の創建について、保久良神社略記は
 「(古代祭祀遺跡の存在から推測すると、椎根津彦命(シイネツヒコ)が倭(大和)国造となり大和一円の開発とともに海上交通の安全確保のために、茅渟の海(大阪湾)の良きところを求めて海辺に突きだした六甲山系の神奈備型の金鳥山を目指し、青亀(青木)で着かれ、緑深き山頂に神を祭祀する磐座を設けられ、国土開発の主祭神を奉斎して、広く開拓に意を尽くされ、海上交通守護の大任を一族に托されたのが、御鎮座の一因ではなかろうかと思われます」
とある。
 持って回った云い方をしているが、簡単にいえば、大和国造・シイネツヒコの子孫(姓:直・連・宿禰など)か゜その祖を祀ったのが当社ということ。

 シイネツヒコとは、日向から東征の途についた神武天皇が速吸門(ハヤスイノト、古事記では明石海峡、書紀では豊予海峡)まで来たとき現れたとされる人で、古事記には
 「亀の背に乗りて釣りしつつ打ち羽ふり来る人あり、ここに喚びよせて『汝は誰ぞ』と問ひたまへば『吾は国つ神なり』と答へ曰(モウ)しき。また『汝は海つ道を知れりや』と問ひたまへば『よく知レり』と答へ曰しき。また『従ひて仕え奉らむや』と問ひたきへば『仕へ奉らむ』と答えへ曰しき。故、その船に引き入れて、名を賜ひて槁根津日子(サオネツヒコ)と号けたまひき。倭国造(ヤマトノクニノミヤツコ)等の祖なり」
とある(書紀では、国つ神・珍彦-ウヅヒコ-と名乗り、シイネツヒコの名を賜った。倭直らの祖神とある)

 シイネツヒコの出自については諸説輻輳していてはっきりしないが、大別すれば
 @大綿津見神(オオワタツミ・海神)の曾孫(又は孫)とする系譜
    オオワタツミ−−振魂命−−建位起命(武位起命・タケ イタケ)−−シイネツヒコ 
 A彦火々出見尊(ヒコホホデミ・皇孫ニニギの御子・神武天皇の祖父)の孫とする系譜
    ヒコホホデミ−−タケ イタテ−−シイネツヒコ 
のふたつがあり、当社略記は
  「彦火火出見尊(ヒコホホデミ)の孫にあたり・・・」
として、A説を採っている。
 このA説は、これは先代旧事本紀(9世紀後半)に、
  「吾は皇孫・ヒコホホデミの孫・シイネツヒコ」
と名乗ったとあるのを承けたものらしいが(他にも、同様のものとして海部氏系譜などがある)、記紀には国つ神とあり、天つ神の嫡流・ヒコホホデミにつなげるのは疑問で、シイネツヒコを大王家(天つ神)と結びつけるための牽強付会の感が免れない。
 イネツヒコそのものが神話上の人物であることから、その系譜を云々しても無意味だが、あえて問えば、その登場が速吸門という海峡であることなどから、海神・オオワタツミの曾孫とする@が順当かと思われる。

 シイネツヒコの子孫で当社の祭祀氏族とされる大和連(ヤマトノムラジ)とは、新撰姓氏禄(815)
  「大和国神別(地祇) 大和宿禰 出自神知津彦命(カミシリツヒコ)  一名椎根津彦、是大倭直始祖也」
  「摂津国神別(地祇) 大和連(倭連とも書く) 神知津彦命十一世孫御物足尼之後也」
とある氏族で、続日本紀・称徳天皇神護景雲3年(769)6月条に
  「摂津国菟原郡の人で、正八位下の倉人水守(クラヒト ミズモリ)ら十八人に大和連を賜った」
とあり、シイネツヒコの後裔氏族(大和連)が菟原郡に居住していたことが確かめられる(姓氏類別大観では、御物足尼の子孫に水守の名がある)

※祭神
 今の祭神は
  主祭神−−須佐之男命
  相殿神−−大歳御祖命(オオトシミオヤ)・大国主命・椎根津彦命
とあるが、当社略記に記す古文書に
 ・元禄5年(1692・江戸中期初頭)の寺社改委細帳−−北畑村氏神 牛頭天王 相殿−年徳神・蘇民将来(ソミンショウライ)
 ・文化3年(1806・江戸後期)の年中行事大成−−保久羅祭 摂津国菟原郡北畑村に在り、延喜式にいづ、今牛頭天王とす
とあるように、江戸時代を通して行疫神・ゴズテンノウとされていたという。

 そのゴズテンノウがスサノヲへ改称したのは明治初年のことで、明治新政府の神仏分離政策によってゴズテンノウが邪神(仏教系の神)として排斥されたため、同じ神格をもつとされるスサノヲ(備後国風土記)に、またゴズテンノウに関係する蘇民将来をオオクニヌシへと変更したものであろうが、ソミンショウライをオオクニとした理由は不明(両神間に接点は見当たらない)

 ただ当社本来の祭神は、当社の創建伝承からみて大和連の祖・シイネツヒコであったと思われるが、それが江戸時代に疫病除け・災難除けの神として広く信仰された行疫神・ゴズテンノウを勧請したことによって脇に追いやられ、今に至るというのが実態であろう。

※社殿等
 山麓(一般車進入禁止の柵あり)から折れ曲がった参道を上がった先に鳥居が立ち境内に入る(鳥居の反対側−南−に“灘の一つ火”と呼ばれる石燈籠あり
 境内正面、樹木に囲まれて拝殿(千鳥破風付きの入母屋造・銅板葺き)が、瑞垣に囲まれた中に本殿(流造・銅板葺・覆屋か)が鎮座するが、瑞垣の隙間が狭くよく見えない。

 当社略記によれば、現在の社殿は阪神大震災(平成7年・1995)で被災した社殿を修復したもので(平成8年12月)、それまでの社殿は昭和15年(1940)の紀元二千六百年を記念して、その前年(1939)に改築したものという。その時、それ以前(明和3年-1766-造)の本殿を末社殿に、拝殿は絵馬堂に移設したとある。

 境内右手に境内末社・祓御神社(ハライゴ、天照皇大神・春日大明神)がある。これが昭和14年の改築に際して移設した明和3年造の本殿と思われる。ただ、社名・祓御(ハライゴ)の由緒、祭神との関係は不明。
 当末社の社殿が一間社流造であることから、現在の本殿も同様式の社殿と思われ、今、外から見える本殿は覆屋で、中に本殿が収められているのであろう。

保久良神社/鳥居
保久良神社・鳥居
保久良神社/拝殿
同・拝殿
保久良神社/本殿
同・本殿(覆屋か)
保久良神社/末社・祓御神社
末社・祓御神社
(明和3年造の本殿を移設したものという)

※灘のひとつ火
 当社鳥居の正面、南方に開けた見晴らしのよい崖の縁に古びた石燈籠が立っている。“文政8年(1825)6月建立”との紀年銘があるというが、摩耗激しく判読不能。

 石燈籠脇にある案内には
 「この石燈籠は文政8年のものですが、往古は、かがり火を燃やし、中世の昔より、油で千古不滅の御神火を点じつづけ、最初の灯台として『灘のひとつ火』と呼ばれ、海上の船人の目標にされました。
 古くから、麓の北畑村の天王講の人々が、海上平安を願う祖神の意志を継承し、交替で点灯を守り続けてきたものです」
とある。

 
保久良神社/灘のひとつ火(石燈籠)
 昔は、六甲山麓の真っ暗な闇の中に唯一つ見える灯火(常夜灯)であり、航路標識として貴重なものだったというが(「沖の舟人 たよりに思う灘のひとつ火 ありがたや」との古謡があるという)、電灯化された今は、周囲の明るさのなかに埋もれて目立たなくなっているという。

※御旅所(鷺宮八幡宮)
  神戸市本山北町6丁目
  祭神−−天照大神・八幡大神・春日大神

 阪急神戸線・岡本駅の東約350mにある神社で、保久良神社の南約600mにあたる。
 社頭の案内には
 「古くより鷺宮八幡宮・鷺宮・産宮と親しまれ、大和・貞享・元禄5年(1692)の寺社改帳に記載されている。
  総氏神保久良神社の御旅所にして、境外末社の前社にし後社の境外末社である。
 熊野・古山・山・塞の神々を合祀し、北畑を中心に崇敬されている」
とあり、保久良神社の境外末社と位置づけられている(前社・後社云々というのは意味不明)

 式内社調査報告によれば、昔の御旅所は別の場所(旧四国街道-現国道2号線-筋、南田辺付近というが所在地不明)にあったようで、
 「現在の北畑八幡神社(当社のこと)が御旅所になったのは、その境内に神輿台が石台で出来た明治14年(1881)からで、この年より本社からこの御旅所まで御幸があり、各区の地車(ダンジリ)の宮入が行われる」
とあり、社殿の左前に神輿台らしき小さな石檀がある。今、4月29日から5月5日にかけて行われる氏子奉弊祭・御幸祭(略記)がこれに当たるか。

 広い境内に流造・銅板葺の社殿があるのみだが(左億に稲荷社あり)、当社宮司宅が保久良神社の社務所を兼ね、保久良神社略記は此所で頂ける。

保久良神社・御旅所/鷺宮八幡宮・鳥居
鷺宮八幡宮・鳥居
保久良神社・御旅所/鷺宮八幡宮・社殿
同・社殿

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