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摂津(菟原郡)の式内社/河内国魂神社
神戸市灘区国玉通3丁目
祭神−−大己貴命・少彦名命・菅原道真
                                                              2011.08.24参詣

 延喜式神名帳に、『摂津国菟原郡(ウバラノコホリ) 河内国魂神社 鍬靫』とある式内社。社名は“カワチクニタマ”と訓む。地元では“五毛天神社”(ゴモウテンジンシャ)のほうが通りやすい(拝殿前の提灯には、正面に河内国魂神社、その脇に朱字で五毛天神社とある)

 阪急神戸線・王子公園駅の北東に鎮座する。駅北にある王子スタジアムの東側・川沿いの道を北へ抜け、赤坂通りを東へ、続く上野通3・4丁目町界の道を北へ入った先に鳥居が立つ。

※由緒
 当社の創建時期・由緒等不明。
 社務所で頂いた由緒によれば、
 「当河内国魂神社の創祀は、古来、伊勢神宮開社の頃(皇紀657年、西暦前3年、約二千年前)であると伝えられていますが、其の正確な年号は詳ではありません。
 然し旧摂津国菟原郡にあっては、西宮神社(大国主西神社の誤記か−引用者註)・保久良神社と当社の三社が、生田神社・長田神社等と同様、延喜式神祇部(神名帳のこと)に載っており、千数十年前既に由緒ある名社として崇敬されていたことが想像できますが、その後の沿革は定かではありません」
とある。
 前段にいう伊勢神宮云々とは後世になっての仮託伝承であろうが、河内国魂神社が延喜式内社であることからみて、千年以上の歴史を持つ神社であることは確かといえる。

 しかし、当社が式内・河内国魂神社とされたのは、享保年間(1716--36・江戸中期)に畿内の式内社を調査考証していた国学者・並河誠所(1688--1738)が、当時、五毛天神社(ゴモウテンジン)と呼ばれていた当社を式内・河内国魂神社と比定したためで、元文元年(1736)9月、地元の庄屋が大阪町奉行所に呼び出されて無理矢理押しつけられた、との経緯があるという。
 並河誠所が五毛天神社を式内・河内国魂神社に比定した根拠は残っておらず、今となっては、当社を式内社に比定した是非を判断する史料はない。
 なお、境内・手水舎の右手には並河誠所の同志・菅広房が立てたという“河内国魂社”との社号石が立っている。

 社名・河内国魂神社の“国魂”とは、本居宣長が
 「其の国を経営坐(ツクリマシ)し功徳(イサオ)ある神を、国玉国御魂と云なり。倭の大国魂神・・・摂津国兎原郡河内国魂神社・・・など、各其の国処に、経営(クニツクリ)の功徳(イサヲ)ありし神を、かく申して祀れるなり」(古事記伝・1798)
というように、その国を造り為し守護する国つ神を指す。その意味では、河内国魂とは河内国に坐す国つ神のはずだが、それが摂津国それも西端の菟原郡に鎮座することは解せない。

 これについて式内社調査報告(1977)は、
 「古代河内国は広くこの付近(大阪湾北岸一帯)まで拡がっており、豪族・凡河内(オウシコウチ)の一族が移住して開拓に従事していたと思われる。・・・河内国魂神社がこの地に奉斎せられ、本拠地と思われる河内地方にこの名の社が見えないことは、むしろ当地方が中心ではなかったかと推測される」
というが、古代河内の範囲については、
 @当初は大阪湾沿岸地域を示していたが、後に摂津・河内・和泉の国に分割されると、大阪市の東側だけを示すようになった
 A河内とは淀川の内側との意味であり、淀川の南側を“かわちのクニ”と、外側(北岸)は、“河内の向こう側”という意味で“むこ(う)のクニ”と呼ばれていた
との2説があるといわれ(新修神戸市史・2011、以下「神戸市史」という)、調査報告がいう“大阪湾北岸一帯まで広がっていた”とは@説によるものであろう。
 なお大阪市東部から当地付近までの地域は、古くから“津の国”と呼ばれていた地域で、公的には天武6年(678)に摂津職(セッツシキ・難波宮の経営と津国の国政を担当する特別行政機関)が置かれ、桓武朝・延歴12年(793)の難波宮廃止に伴い摂津国として改編されている。

◎祭祀氏族
 当社の祭祀氏族とされる凡河内氏(姓:直→連→忌寸)とは、記紀によれば、山代国造(ヤマシロノクニノミヤツコ)や額田部湯坐連(ヌカタベノユエ)ら11氏族と同じく、アマテラスとスサノヲのウケヒによって生まれた五男神の一・天津彦根命(アマツヒコネ)の後裔とされる氏族で、大阪湾沿岸地帯を統治した有力氏族。航海に関する祭祀や運送などにかかわっていたという(新修神戸市史・2010−以下「神戸市史」という)。姓(カバネ)は、直(アタイ)→連(ムラジ)→忌寸(イミキ)と変わっている(天武朝)

 凡河内氏が摂津国に居たことは、続日本紀・慶雲3年(706)条に、
 「摂津国造(セッツノクニノミヤツコ)・従七位上の凡河内忌寸石麻呂・・・の位を一階上げた」
とあることから確認できるが、その本拠地については、
 ・当初から神戸市内であったとする説
 ・推古天皇の頃に大阪府域から移住してきたとする説
がある。
 凡河内との氏族名からみて、大阪府域からの移住とみるべきだろうが、相当早い時期(6世紀以前)から当地域へ進出していたと推測されている。

 新撰姓氏禄(815)によれば、“天津彦根命の後裔氏族”と“天穂日命の後裔氏族”の2系列があるが、当地に関係するのは前者であろう。ただ、アマツヒコネ・アメノホヒともにアマテラスとスサノヲによるウケヒによって生まれた五男神の一であり、同根といえる。
 ・摂津国神別・天孫 凡河内忌寸 額田部湯坐連(ヌカタベノユエ)同祖
   (河内国神別・天孫 額田部湯坐連 天津彦根命五世孫乎田部連(オタベ?)之後也)
 ・摂津国神別・天孫 国造(摂津国造) 天津彦根命男天戸間見命之後也
 ・河内国神別・天孫 凡河内忌寸 天津彦根命之後也
 ・摂津国神別・天孫 凡河内忌寸 天穂日命十三世孫可美乾飯根命(ウマシカラヒネ)之後也
 また、先代旧事本紀・国造本紀(9世紀後半)には、
  「神武朝の御代に、彦己曾根(ヒココソネ・乎田部連と同一人という)を河内国造とした。即ち凡河内氏の祖也」
とあり、神武朝かどうかは別としても、古代河内国・摂津国・和泉国全般に勢力を張っていた豪族という。
  (天津彦根系の系譜は、天津彦根−−天津彦根−−天津御影(アマツミカゲ)−−○−−彦己曾根(凡河内国造)→凡河内氏という)

 式内・河内国魂神社と凡河内氏との関係について、神名帳考証(1733度会延経著・1813伴信友著あり、どちらか不明)
 「河内国造神社 今云御影森、森中有社 称天神社 北有御影山、天津彦根命子也」
とあり、これ以降、河内国魂社は凡河内氏の祖・天津御影命(天津彦根の子)を祀るとみられたが、当社関連史料に天津御影命(あるいは天津彦根命)の名はみえない。
 当地に進出してきた凡河内氏が、従前からの祭祀を引き継いだためとも考えられるが、よく分からない。

 なお当社由緒には、「一説には摂津国造である凡河内忌寸の祖・天御影命を祀っていたのであろうと言われますが、その間の消息も永い年代を経た現在詳しいことはわかりません」とある。

※祭神
 今の祭神は、大己貴命(大国主命)・少彦名命・菅埴道真の三座となっているが、本来の祭神は大己貴命(大国主命)であって、菅原道真は後世の合祀という(下記)

 社名からみて、当社本来の祭神は河内国に坐す国つ神・河内国魂のはずだが、それを各地の国魂を統合した神である大国主命(大己貴命)として祀ったもので、少彦名命は大国主とともに国土を造営したという記紀神話にもとずく合祀であろう。
 なお、式内社調査報告は、
 「国魂信仰の一環として早くからこの地方に居住していたと思われる出雲系氏族の国土神を奉斎していたと考える方が妥当であって、・・・」
というが、大国主(大己貴)を祀ることをもって出雲系氏族云々というのは疑問。

 上述のように、凡河内氏が当社の祭祀氏族だとすれば、その祖神・アマツヒコネ・あるいはアマツヒコネを祭神とするのが順当だろうが、何故かその神名はみえない。

 菅原道真合祀の経緯について、由緒には
 「延喜元年(901)、菅原道真が筑紫の太宰府へ謫遷の途次、御影の浜に船を留め、密かに別れを惜しんでこの地まで下向された師父・尊意僧正(延暦寺13代法王)と、当社頭に於いて餞別せられた時の応対が極めて慇懃丁寧で、その様子を垣間見た村人たちは、その徳を慕って菅公の没後(903以降)、その霊を勧請合祀して、爾後、俗に五毛天神と称し現在に至っている」
とあり、平安時代から菅原道真を合祀していたという。
 しかし平安時代の道真は、畏るべき御霊神・雷神であったはずで、合祀由緒に御霊神の面影がないことからみると、道真が学問・文筆の神へ変身した中世以降の勧請かもしれない。
 なお、当社の東隣にある禅宗寺院・旭曜山海蔵寺(旧神宮寺)にも同様の伝聞記録(安永6年・1777)が残るという。

※社殿等
 赤坂通・上野通の一本北の道路脇に建つ鳥居(脇に、自然石に「式内 河内国魂神社」と刻した石碑あり)をくぐり、民家に挟まれた参道奥の石段を登った上、境内正面に拝殿(入母屋造唐風破風付・瓦葺)が、透塀に囲まれた神域内に本殿が鎮座する。
 本殿は、流造・銅板葺というが、透塀の隙間が狭くよく見えない。また昭和7年(1932)の造替によって石段下から現在地に移るというが詳細不明。

 手水舎の右手、石段をはさんだ石垣下に並河誠所の式内社比定にもとずく社号石(H=80cm)が立っている。正面に河内国魂社、横面に五毛村、基壇正面に菅広房建とある。

河内国魂神社/鳥居
河内国魂神社・鳥居
河内国魂神社/拝殿
同・拝殿
河内国魂神社/社号石
並河誠所・社号石

◎境内社
 本殿左側に、厳島神社・箕岡神社合祀殿が、右側に荒川稲荷神社がある。
 厳島神社(市杵島姫命)−旧上野字絵馬堂より
 箕岡神社(伊耶那岐尊)−北方の六甲山麓より

 いずれも昭和41年(1966)に遷したものというが(式内社調査報告)、中小神社の統合整理がおこなわれた明治41年(1908)の誤記であろう。
 荒川稲荷は、もと箕岡神社の末社という。

厳島・箕岡神社合祀殿

荒川稲荷社

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