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摂津(川辺郡)の式内社/売布神社
兵庫県宝塚市売布山手町
祭神−−下照姫神・天稚彦神
                                                       2011.08.03参詣

 延喜式神名帳に、『摂津国川辺郡 売布神社』とある式内社。今は地名と同じく“メフ”と称しているが、古史料では“ヒメフ”と読んでいるという。

 阪急宝塚線・売布神社駅の西約400m。駅西を北上する道を進み、池の端を左(西)へ曲がったすぐに売布神社への標識がある。標識に沿って、カトリック女子受難修道院の塀沿いを進んだ右手に参道入口が開く。

※由緒
 社頭の掲げる由来には
 「推古天皇18年(610)の御創建で、・・・」
とあり、また兵庫県神社誌(1937)には
 「推古天皇18年の創立にして、文化7年(1810)に罹りて再建す。又いずれの頃よりか貴船大神と崇めしを、元文元年(1736)12月将軍徳川吉宗其の誤りを正さん為に、並河五一郎に命じ菅広房の名を記したる社号石を境内に建てしめしもの今に存す。明治6年(1873)8月郷社に列せらる」
とある。

 由緒にいう推古天皇18年創建を証する史料等はなく、延喜式制定(927)以前からの古社であることは確かだが、その創建年代は不明。

 当社創建後の経緯は不詳だが(神階授与の記録などなし)、江戸時代には貴船大明神(貴布祢社)と呼ばれ、古史料には
  ・売布社 氏神貴船大明神−−御領分寺社改牒(1723)
  ・売布神社 今貴布祢と称す−−摂津志(1733)
とあり、また当社には
 ・(表)貴船大明神 黄檗悦山書 (裏)宝永4年(1727)正月吉日 摂州川辺郡米谷村
との扁額が所蔵されているという(神社誌)
 扁額にある“川辺郡米谷(マイタニ)”とは当社鎮座地(宝塚市売布山手町)の古地名であり、この貴船大明神(貴布祢社)が当社を指すことは間違いない。
 ただ、当社が水神を祀る貴船神社とされた理由は不明。当社が武庫川上流扇状地の高台に鎮座することから、武庫川の存在と何らかの関わりがあったのかもしれないという(式内社調査報告)

 この貴船神社を式内・売布神社に比定したのが、神社誌にある並河誠所(五一郎、1668--1738)で、
 彼は、当時分からなくなりかかっていた畿内の古社(式内社候補社)を調査考証して式内社として比定し、
 幕府の許可を得て“五畿内志”(その一が摂津志・1733)としてまとめた。

 その一社として、当時貴船大明神と呼ばれていた古社を式内・売布神社に比定したのが当社で、
 その比定経緯を記した文書・“売布社石碑之覚”が残っているというが(社頭案内)、実見できず、
 比定根拠などの詳細不明。

 この時(1736)、並河誠所が建立した標石(H=91cm)が、今も拝殿の右前に残されている。→ 
売布神社/社号石(江戸中期)

※祭神
 当社祭神は下照姫(シタテルヒメ)とその夫神・天稚彦命(アメノワカヒコ)とされ、社頭の由来記には、
 「祭神は下照姫(大国主神の姫君)とその夫君の天稚彦命をお祀りしています。
  当地に来られたシタテルヒメ神は、住民が飢えと寒さで困窮せるを見給いて、稲を植え、麻を績ぎ、布を織ることを教えられました。その後豊かな生活をすることができた里人は、その御神徳を慕い、聡明で美しい姫神さまをお祀りしました]
とある。

 シタテルヒメとは、オオクニヌシ(オオナムチ)とタキリヒメの娘で、降臨したアメノワカヒコと結婚したという。アメノワカヒコは国譲り交渉の使者として、高天原から葦原中国に派遣されたが、シタテルヒメと結婚して8年間も復命せず、その督促に遣わされた雉(鳴女・ナキメ)を射殺したため、タカミムスヒが投げ下ろした返し矢(呪矢)に貫かれて死んだという。
 その時、アメノワカヒコの死を嘆くシタテルヒメの鳴き声は高天原まで届いたといわれ、その葬儀にやってきた同母兄・アジスキタカヒコネがアメノワカヒコと間違われたとき、歌によって兄の名を明らかにしたとある。
 なお、シタテルヒメは日本書紀による神名で、古事記には“高比売命”(タカヒメ)とあり、他にも下光比売・高姫・稚国玉(ワカクニタマ)などの別名がある。

 記紀におけるシタテルヒメは、アメノワカヒコにかかわって登場する他は何らの事蹟もない。記紀からの制約がないためか、各地(特に摂津)に“ヒメが降臨して村人に幸をもたらした”などの伝承があり、ヒメコソ神・アカルヒメと同体とする俗説もある。
 当社がシタテルヒメを主神とするのは、何らかの伝承があったのかもしれないが、それは畢竟、各地に残る降臨説話の一つであって、根拠のない後世の付会とみるべきであろう。

 このシタテルヒメ祭神説に対して、三代実録(901)貞観5年(863)条に“川辺郡人若湯坐連宮足”との人物がみえることから、当地に居住していた若湯坐連氏(ワカユエノムラジ)が、その祖・意富売布命(オオメフ・大燈z命とも)を祀ったとの説がある(式内社調査報告・川西市史)
 若湯坐連氏とは、新撰姓氏禄(815)
  「摂津国神別(天神) 若湯坐宿禰 石上朝臣同祖 神饒速日命六世孫伊香我色雄命之後也」
 先代旧事本紀・天孫本紀(9世紀後半)
  「伊香我色雄命の子・大燈z命 若湯坐連等の祖 垂仁天皇の御代に侍臣として仕え奉った」
とある物部氏系の氏族。

 上記・貞観5年条の記事からみて、当地付近に若湯坐連一族が居住していたことは確かと思われ、そこから、同氏一族がその祖・意富売布命を祀ったのが当社の始まりとみるのが順当であろう。当社社名も祭神・意富売布の売布からきたのかもしれない。

※社殿等
 鳥居(弘化5年-1848−建立・補強材あり)を入った境内正面に拝殿(入母屋造・瓦葺)が建ち、その背後・石垣上の素朴な覆屋があり、その中に流造・檜皮葺きの本殿が収まるというが、実見不能。 

売布神社/鳥居
売布神社・鳥居
売布神社/拝殿
同・拝殿
売布神社/本殿覆屋
同・本殿覆屋

 境内社として
 ・豊玉神社(海神を祀るのだろうが詳細不明)
 ・厳島神社(市杵島比売=弁財天・厳島神社より勧請)
 がある。
 
 当社南方約1.6km に武庫川が流れており、
 曾て貴船神社と呼ばれていたことを考えあわせると、
 武庫川を就航する舟運関係者などが祀ったものかもしれない。
売布神社/末社・豊玉神社
末社・豊玉神社
売布神社/末社・厳島神社
末社・厳島神社

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