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摂津(八部郡)の式内社/敏馬神社
神戸市灘区岩屋中町4丁目
祭神--素盞鳴尊・天照皇大神・熊野坐大神
                                                      2011.08.24参詣

 延喜式神名帳に、『摂津国八部郡(ヤタベノコホリ) 汶売神社』(汶:サンズイに文)とある式内社。神名帳には“汶売”とあるが、今は“敏馬”と記し、いずれも“ミヌメ”と訓む。古くは、汶売・敏売・敏馬・美奴売・三犬女などの文字が充てられ、今の社名・敏馬は摂津志(1733)にいう敏馬神社を充てたものか。

 阪神本線(神戸線)・岩屋駅の南約100m、市街地のなか国道2号線の北側に接して鎮座する。

※由緒
 当社創建の由緒として、摂津国風土記(713)・美奴売の松原条に、
 「いま美奴売(ミヌメ)と称するは神の名である。その神は能勢郡の美奴売山(大阪府豊能郡三草山に比定)に居ました。
 昔、息長帯比売の天皇(神功皇后)が新羅へ出征されるとき、神前(カムサキ)の松原に神々を集めて出征の幸い(成功)を祈願された。その時、この神もやってきて、『わが山にある杉の木を伐採して我が乗る船を造れ。その船に乗って新羅へ行かれるなら幸いするであろう』と告げられたので、教えのままに船を造り新羅へ出征されると、この神の船は新羅を征伐した。
 新羅から帰られたとき、この神をこの浦に鎮座さして祀り、船も一緒に留めて神に奉納し、この地を美奴売と名づけた。
 又云う、船が牛のように吠えながらひとりでに対馬の海から此所まで帰ってきて動かなくなったので占うと、神の欲するところと出たので、此所に留めおかれた」(大意)
とあり(当社由緒も同じ)、当社の創建を神功皇后摂政元年(201)としている。

 この伝承は、神託によって神を祀ったという住吉大社・広田神社・生田神社・長田神社の創建伝承(書紀・神功皇后紀)と略同趣旨で、大阪湾を巡って点在する海洋祭祀の一環として、神功皇后の新羅遠征に仮託したものと思われる。
 奈良時代以前(6~7世紀)の当地が海に突きだした高台で、その海辺を“敏馬の浦”、その東側が“敏馬の泊”(由緒には、「神戸最初の港」とある)として知られていたことからみて、港の守護神としての水神を祀ったのがはじまりかと推測される。

 当社創建後の経緯として、延喜式の小社に列したとこと以外は不明。また神階の授叙なし。

◎敏馬の浦・敏馬の泊(ミヌメノウラ・トマリ)
 敏馬の泊について、社頭の案内に、
 「都のあった大和の人々が九州や朝鮮・中国(例えば遣隋唐使)へ旅立つとき、大阪から船出して敏馬の泊で一泊した。船出に際しては生駒山地を最後に遠望できる港であり、帰還の時には生駒の山を最初に望める港として、大和の都人にとり特別の思いをもつのが敏馬であった」(大意)
とある。
 古く、敏馬の泊は、大和・難波から西国へ向かう海路にある最初の港であるとともに(畿内最西端の港でもある)、風待ちの港・荒天時の避難港として、西国あるいは外つ国へ至る沿岸航路上の重要に位置を占めていたといわれ、その後の航海術の進歩などで港が大輪田泊(神戸市兵庫区・9世紀初頭築港という)に移った後も、敏馬の浦は白砂青松の美しい和歌の名所として知られていたという。

 右図--摂津名所図会(寛政10年・1789刊)に載る江戸時代の絵図。
 左の一段高くなった境内に敏馬神社社殿が、参道の前には白砂の海岸が拡がり、“敏馬の浦”とある。その右に龍泉寺(当社神宮寺)が、右奥に求塚(モトメツカ・前方後方墳・L=98m)が見える

岩谷邑 敏馬社・求塚の絵図
(参詣の栞より転写)

 敏馬の浦にかかわって、延喜式玄蕃寮新羅客条に、
 「凡そ新羅の客入朝せば、神酒(ミキ)を給え。その酒を醸す料の稲は、・・・大和国の片岡の一社、摂津国の広田・生田・長田の三社、各五十束、合わせて二百束は生田社に送れ。・・・生田社で醸す酒は、敏馬崎において給え。・・・」
との文がある。

 新羅などの海外からの使節が入朝したとき、使節等に神酒と肴を給付する儀式が難波館(現大阪市内)とともに敏馬崎でも催されたが、そのとき敏馬崎で出される神酒は生田神社で醸造したものを用いよ、というもので、7世紀初頭の推古朝頃に始まったと考えられている。
 この儀式の目的については諸説があるが、遠来の客(使節)の慰労のほか、“神酒”と書かれる点に注目して、何らかの呪術的・宗教的な狙いがあったとみるのが大半で、そのなかで最も通説的なものは、外国人の都入りの直前に神聖な酒と肴を与えることにより、彼らがもたらす“ケガレ”を除去しようとする“払え浄め説”(穢祓)であり(神戸市史他)、当社社頭の説明でも「敏馬泊は、外国人が畿内に入るためにケガレを祓う港でもあった」という。

 この穢祓説に対して、神戸市史は
 ・外国人に対するケガレ観念が肥大化していく時期は、一般に9世紀以降であったこと
 ・古代における“祓え浄め”は、弊物(人形-ヒトガタなど)や供献品にケガレを付着させ、それを河瀬や海に流し去る方法が普通であって、神酒による祓い浄めは一般的なやり方ではないこと
 ・この儀式では、神酒・肴が与えられるが、何らかの理由で筑紫(太宰府)からそのまま帰国する場合にも、同じように与えられることになっていたこと
などからみて、儀式の目的をケガレの除去のための祓え浄めとみるのには無理があり、又、この儀式に“共食者”(アイタゲヒト)という朝廷からの使者が同席して饗宴が開かれていたことから、
 ・この儀式は、外国からの使節と共食者との共同飲食を通じて、異質な集団を相互に結びつけ、双方の一体化・同質化を可視的に確認・強化する狙いがあったと考えられ、
 ・使節らが入京・朝貢が許されるのは、擬制的ではあるものの“大王の臣下”と目されたからであって、その意味では、都入りする使節等の“大王の臣下集団への仲間入り”を確認する意味ももっていた
という(大意)

 この儀式が、穢祓説・共食説のいずれが主目的かの判断は難しいが、いずれにしろ、外国使節の入京に際しておこなわれた恒例の儀式であったのには違いがない。
 ただ、当社がこの儀式にかかわっていたかどうかは不明だが、当社神前でおこなわれたのかもしれない。

※祭神
 今の祭神は、素盞鳴命(スサノヲ)・天照皇大神(アマテラス)・熊野坐大神(クマノ大神)を祀るが、その創建伝承からみて“美奴売神”(ミヌメ神)とみるべきであろう。

 しかし、寛文4年(1664・江戸前期)4月付の“本殿覆修覆棟札”に
 「摂津路菟原郡都賀荘敏馬神社は岩屋村大石味泥三村の氏神と謂う
  往昔より 中央に牛頭天王 左右に天照大神・熊野権現の三座相殿」
とあることからみて、江戸時代以前からスサノヲ以下の三神が祀られていたと思われる。

 この棟札にいう3神以外にも
 ・美奴売神を祀る。蓋し素盞鳴尊也--神祇志料(1871・明4)
 ・天照大神・熊野権現・牛頭天王三社を祀る--摂陽神社巡覧(発刊時期不明)
 ・牛頭天王祠素盞鳴尊を祀る--須磨明石名所記(発刊時期不明)
などがある。

 当社が、これら三神を祀る由緒は不明だが、主祭神・スサノヲは、中・近世の頃、疫病除け・災難除けの神として勧請された行疫神・ゴズテンノウが、後に、同じ神格とされるスサノヲと改称したものと思われる(正式にスサノヲになったのは、明治の神仏分離以降であろう)

 本来の祭神・美奴売神の出自・神格は不明。能勢・弥奴売山からのやってきたという伝承からみると、山の神・木の神とも思われるが、由緒の境内末社項には
  水神社--弥都波能売神(ミズハノメ):元の御祭神
とあり、元の祭神は水神・ミズハノメとされている。当社が港の守護神を祀る社とすれば、ミズハノメであってもおかしくない。
 ミズハノメとは、イザナミがカグツチを生んで病臥したとき、古事記ではイザナミの尿から成った女神、書紀ではイザナミが亡くなる前に生んだ水神とあり、水の女神という。

※社殿等
 国道2号線に面した鳥居を入った先の石段を上がった先に拝殿(入母屋造・千鳥破風唐破風付・銅板葺)が、その背後の神域内に本殿(流造・間口三間奥行六間・銅板葺)が鎮座する。
 式内社調査報告によれば、昭和20年の戦災により焼失、同27年(1952)本殿再建、同33年(1958)拝殿再建とある。平成7年(1995)の阪神大震災で被害があったはずだが、その後の経緯は不明。

敏馬神社/鳥居
敏馬神社/鳥居
敏馬神社/拝殿
同・拝殿
敏馬神社/本殿
同・本殿

◎末社等
 境内には次の末社が鎮座する。
 ・水神社--ミズハノメ命、当社創建時の主祭神と伝承されるという、
         本来の祭神が祭神の変動により末社に貶められた例は多く、当社のその一つであろう。
 ・奥の宮--イザナギ・イザナミ命、水神社の後ろにある古びた小石祠。江戸時代以前より本殿の裏に祀られし古石祠という。
 ・后の宮--神功皇后、当社創建の神という
         祠の右前に“神宮皇后祠”と刻した自然石碑が立つ、昭和13年(1938)付近の民家から発掘されたものという。
 ・松尾社--大山祇命・金山彦命・舟玉神、当地が灘五郷のひとつ(西郷)であり、また酒を江戸に送る回船業が栄えたため、
                            酒造業・回船業の守護神として祀ったという。
 ・白玉稲荷社--倉稲魂命(ウカノミタマ)、所謂稲荷神で商売繁昌の神とある。
 ・閼伽井(アカイ)--ミズハノメ命、神仏混淆時代の遺物、清らかな水の湧く井戸ということで、
                      神仏分離後は当社の末社となり、眼病に霊験ありと参拝する者が多いという。
             社務所の説明では、大震災以前から涌水量が少なくなっていたが、震災後は完全に涸れたという。

敏馬神社/末社・水神社
末社・水神社
敏馬神社/末社・奥の宮
末社・奥の宮
敏馬神社/末社・后の宮
末社・后の宮
敏馬神社/末社・松尾社
末社・松尾社
敏馬神社/末社・稲荷社
末社・稲荷社
敏馬神社/末社・閼伽井
末社・閼伽井

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