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河内(丹比郡)の式内社/阿麻美許曽神社
大阪市東住吉区矢田7丁目(旧矢田枯木町)
祭神−−素盞鳴尊・天児屋根命・事代主命
                                                               2010.03.04参詣

 延喜式神名帳に、『河内国丹比郡(タジヒノコホリ) 阿麻美許曽神社(アマミコソ) 鍬靫』とある式内社。

 近鉄南大阪線で大和川を渡って最初の駅・河内天美下車、北北西方約1.1km、大和川左岸に近接して鎮座する。鉄道が大和川を渡ってすぐの右手(西方)に、こんもりとした鎮守の森が見える。
 今、大和川左岸東部は松原市に属するが、当社の周辺と南北に細長い参道とその両側部分のみは大阪市東住吉区に属している。
 江戸時代・宝永元年(1704)の大和川付け替えによって旧矢田村が二分されたためだが、当社が旧中河内郡矢田村に属する鎮守社だったことから、大阪市域に留まったともいう。

 当社社頭に掲げる由緒によれば、
 「開運松原六社参りのひとつ、素盞鳴尊(スサノヲ)・天児屋根命(アメノコヤネ)・事代主命(コトシロヌシ)を祭神とする。古くは阿麻岐志(アマキシ)の宮ともいい、天美の地名の由来となった古社である。
 創建は平安初頭の大同年間(806〜809)と伝えられる。10世紀前半に、当時、祈年祭にあたって国家から幣帛をうけることができた由緒深い延喜式内社にも定められた」
という。社務所無人のため、これ以上の詳細は不明。

神社・位置図:

 当社に関する資料は少ないが、大阪府誌(明治36・1903、大阪府神社史資料−昭和8年・1933所収)によれば、
 「矢田村大字枯木の東南天見丘に在り、延喜式内の旧社にしてスサノヲを祀り、俗に天岸(アマキシ)の宮と称し、今は郷社たり。
  創建以来の沿革は社記の紛失に依りて今知る由なく、又名称の由来も詳ならず」
とあり、その後刊行された大阪府全志(大正11・1922)他の資料にも同旨の記述がある。

 当社名のアマミコソの“アマミ”は、その所在地・天見丘からとも思われるが、逆かもしれず、祭神からとの説もあり、定説はない。
 なお“許曽”(コソ)について、大阪府誌は「許曽は尊親の意をあらわすものなれば・・・」と記すが、古代韓国語で聖なる地=マツリゴトの場=社(あるいは社叢=鎮守の森)を意味するともいわれ、とすれば当社は、地名を冠する“アマミの社”となる。
 ただ、今の当地は堤防下に広がる平地であり“丘”の面影はない。

※祭神
 今、当社祭神はスサノヲ他2座となっているが、これは明治以降と推考され、江戸後期刊の河内名所図会(享和元・1801)には
 「祭神は中に牛頭天王、東(向かって右)は春日、西(左)は蛭子(エビス)
とあり、また河内志(享保19・1734・江戸中期)にも
 「一名阿麻岐志、今、天王と称す」
とあるように、江戸時代にはゴズテンノウを祀る社(天王社)として知られていたらしい。

 ゴズテンノウはインド祇園精舎の守護神ともいわれるが、その本姿は猛烈な疫病神で、備後国風土記にいう蘇民将来伝承と習合することによって強力な除疫神として京都・祇園社(現八坂神社)に祀られ、そこから疫病除けの守護神・除疫神として各地に祀られてきた(特に江戸時代には一種の流行神だったらしい)。当社を天王社とするのも、このような時代の潮流を受けてのものであろう。
 このゴズテンノウは、明治初年の神仏分離政策によって邪神として強制的に排斥され、神名を、習合していたスサノヲに変えられている。今、当社がスサノヲを祭神とするのもこのひとつであり、そういう意味では江戸時代以降、祭神の神格は変わっていないといえる。

 なお、併祭神とされる2座のうち、アメノコヤネとは枚岡神社(東大阪市)あるいは奈良春日大社に祀られる中臣氏(藤原氏)の祖神で、大阪府全志に、
 「伝に云う。春日神社は大治2年(1127)2月15日、大和国奈良春日神社よりの勧請にして、・・・」
とあるように、平安末期に勧請された神であり、当社本来の祭神ではない。
 また、残る一座・コトシロヌシはエビス神としての勧請であり、その勧請由緒・時期などは不明。

 当社の主祭神をスサノヲとするのは、上記のように江戸時代のゴズテンノウをひきついだもので、当社本来の祭神ではない。当社本来の祭神については、幾つかの考証がある。

@、中臣氏の祖先説
 「神名帳考証(文化10・1813)は此の社の下に註して、
  『按中臣祖大小橋命子、阿摩毘命』
 といひ、毘は美と転ずるは普通にして、・・・昔時は或ひは阿摩毘を祀りしか、但いまだ確証を得ず」(大阪府誌)
とあるように、中臣氏の祖神・アメノコヤネ13代の後裔・阿摩毘(阿麻眦舎卿とも書く)とする考証が多い(大阪府史蹟名勝天然記念物−1928、式内社調査報告−1933)

 現東大阪市枚岡付近を本貫とする中臣氏は、平安時代には、その勢力を大阪市東南部地域に広げていたことからの推測だろうが、府誌もいうように確証はない。
 また、平安末期に春日神を勧請したというのも、当社を中臣系とすることからのものとも考えられる。

A、依羅氏の祖先説
 今、大和川左岸の当社以南一帯を“天美”(アマミ)と呼ぶが、平安初期には“河内国丹比郡依羅郷”、あるいは、それに接する摂津国住吉郡大羅郷に属していたと想定され、そこから当社も、この辺りを根拠としていた依羅氏(ヨサミ)がその祖先を祀ったのでは、というものだが、それを証する史料はない。

 依羅氏とは、新撰姓氏禄(弘仁6・815)に、
 「饒速日命命十二世孫懐大連之後也」(左京神別)
 「饒速日命十世孫伊己布都大連之後也」(右京神別)
 「饒速日命之後也」(河内国神別)
とあるように、物部系の氏族とされるが、同じ姓氏禄の河内国諸蕃(百済)の項に、
 「依羅連 出百済国人素弥志夜麻美乃君」
とあることから渡来系氏族だった可能性が強く、当社に関係するとすれば、依網池開鑿に功のあった渡来系の依羅氏であろう。
その依羅氏の祖・“夜麻美”が訛って“阿麻美”となり、“天見”と転じたともいうが、これも確証はない。
 なお、この依羅氏に関係する式内社として、当社の約1kmほど東に大依羅神社がある(住吉区庭井−別稿・大依羅神社参照)

 また、@Aはともに、その祖神名・阿摩毘あるいは夜麻美が社名・阿摩美と類似することからの、語呂合わせ的な色彩が強い。

B、天津彦根命後裔説
 これには
 (イ)、「河内国式内社目録稿本に、『所祭未詳 俗称天津彦根命、少彦名命、天児屋根命』を挙げ。・・・」(式内社調査報告)

 (ロ)、「姓氏禄に天津彦根命・男天戸間見命見ゆれど、此の祭神と関係あるを見ず」(大阪府誌)

 (ハ)、「河内国式神私考は『彦己蘇根命』とし、『旧事紀云、彦己蘇根命を以て凡河内国造と為す。春原政包之記に凡河内国造祖己曾根之命、丹比天見丘に葬る、是其処歟』と考証している」(式内社調査報告)
というように、アマツヒコネ命・天戸間見命(読み不明)・コソホリ命の3説がある。

 天津彦根(アマツヒコネ)とは、アマテラスとスサノヲの契約(ウケヒ)によって生まれた五男神の一座で、凡河内国造(オオシカワチノクニノミヤツコ)の祖とされる(古事記)

 凡河内氏(オオシカワチ)は、摂津・河内・和泉国に勢力を張っていた古代豪族で、イ・ロ・ハ3説ともに、凡河内氏がその祖神を祀ったとするものだが、凡河内氏系図上では、(ロ)にいう天戸間見命はアマツヒコネの子で額田部氏の祖、(ハ)にいう彦己蘇根命(ヒコ コソホリ・己曾保理とも書く)は曾孫に当たり、凡河内氏の祖とされている。
 また、(ハ)にいう“旧事紀云云々”とは、先代旧事本紀(9世紀前半頃)の国造本紀に
 「神武天皇の御代、彦己曽保理命を凡河内国造と為す。即凡河内忌寸の祖也」
とあるのを受けてのことだが、この命を天見山に葬ったとの記述は確認不能。

 以上、管見した限りの考証を列記したが、いずれも本命とすべき確証はない。
 これらからみて、当社本来の祭神は不明とするのが妥当で、不明であるがゆえに、何時の頃かに除疫神・ゴズテンノウが勧請され(江戸時代か)、明治以降、同体とされるスサノヲに変わった、と理解すべきであろう。

※創建由緒
 当社社頭の由緒に、
 「創建は、平安時代初頭の大同年中(806--809)と伝えられる」
と記すが、社記など紛失しているため確証はない。
 ただ大阪府全志には
 「境内は南北六拾間、東西参拾九間三尺にして、文禄3年(1594)より除地(租税免除地)となり、真言宗の神宮寺ありて奉仕し、南木本・北木本・・・・・八カ村の産土神なりしが、明治初年の神仏分離に依りて神宮寺は廃絶し、社は同5年郷社に列し、同40年1月神饌幣帛料供進社に指定せらる」
と簡単な沿革を記している。

 10世紀初頭の当社が、祈年祭にあたって通常の幣帛とともに特別に鍬靫を奉献されたことからみて、それなりに重視された神社であったのは事実だろうが、上記のように、その後の沿革を示す資料などは一切残っていない。

※社殿等
 南側鳥居をくぐった境内正面に拝殿・本殿が縦に並ぶ。町中にしては広さがある境内には数本の巨木が立ち、大阪市の保存樹となっている。なお、境内東にも参道があり、鳥居が立っている。
◎本殿
 式内社調査報告によれば、明治はじめ頃の本殿は、方一間五尺の本殿と、それよりやや小さい春日社・恵比須社が並んでいたが、同34年に、大宮造の本殿と王子造の左右殿に縮小改造して一棟の覆屋(桁行七間五尺・梁行三間二尺)の中に収め、昭和35年に同じ規模の耐震耐火構造に改めたという(大意)
 大宮造・王子造の詳細不明。
◎拝殿
 唐破風を持つ桁行五間半・梁行二間の入母屋造・銅板葺。
 拝殿前左右の狛犬台座には、正面に「天見山」、背面に「阿闍梨快道之代 文化4年(1807)9月」の刻銘がある。神仏習合時代に神宮寺関係の僧侶によって奉献された狛犬であろう。

阿麻美許曽神社/鳥居(南側)
南側・鳥居
阿麻美許曽神社/鳥居(東側)
東側・鳥居
阿麻美許曽神社/社標
東鳥井脇に立つ社標
阿麻美許曽神社/狛犬
拝殿前の狛犬
阿麻美許曽神社/拝殿
阿麻美許曽神社・拝殿
阿麻美許曽神社/拝殿
同・拝殿
阿麻美許曽神社/拝殿・内陣
同・拝殿内陣

◎山門
 南・東の鳥居を潜った参道入口の門は、神仏習合時代の神宮寺の山門を残したものという(南門は、今、改修工事中)

阿麻美許曽神社/南側山門
南側・山門
阿麻美許曽神社/東側山門
東側・山門

◎摂末社
 摂社である春日社(アメノコヤネ)・恵比須社(コトシロヌシ)の2社は本殿覆屋内に収められているが、拝殿右手に末社である稲荷社・天照皇大神社・金刀比羅宮・三宝荒神社が並ぶ。天照社と金刀比羅社の間に平たい石碑が立っているが、日露戦争出征者の顕彰碑という。

阿麻美許曽神社/末社・天照皇大神社
皇大神社
阿麻美許曽神社/顕彰碑?
顕彰碑?
阿麻美許曽神社/末社・金刀比羅宮
金刀比羅宮
阿麻美許曽神社/末社・三宝荒神社
三宝荒神社

◎行基菩薩安住之地・石碑
 境内右手、東参道の北側に、「行基菩薩安住之地」と刻した石碑が立つ。

 社頭の由緒には、
 「江戸時代には、同地に奈良時代の高僧である行基が居住していたという伝承があった。
  神社北西の大和川に架かる橋を行基大橋と呼ぶのはこのためである」
とあり、
 また大阪府全志は
 「社頭は老楠古樹鬱葱し、東北隅に行基池あり。池の北方に行基塚といへるあり。東西弐間・南北壱間半・高さ五尺の封土なり。村老の口碑に依れば、昔行基の住せし処にして、塚はその墓なりといふ」
とある。
 
行基菩薩居住之地・石碑
行基安住地の石碑
 また、中河内郡誌(大正12-1923)には、“行基の開きし墓”として、
 「本郡内至る処に行基の開きし墓なりと云うものあれど、その証となるべきものを見ず。行基曩(サキ)に畿内五国に49院を開き、又開墾に疏通に築造等に力を用ひ田制を画し、海路を測り、墓地を開きたる等其の功極めて多し。
 当部落字北山の墓地はその一なり。北山には16戸の人家あり。その中福井姓を名乗る者2戸上林姓2戸天野姓1戸あり。これらは行基菩薩に従ひ来し者の遠孫といふ。
 墓地の傍らに以前三昧院弥明寺といふ寺ありしが、今は地名に阿弥陀屋敷を残して廃絶せり」
と記し、高さ三尺ほどの行基の墓があったという。

 行基(668--749)は渡来系氏族・西文氏(カワチノアヤ)の出身で、河内国大鳥郡(現大阪府堺市西区)に生まれたという。堺市西区家原寺町に残る家原寺が、その生家跡という。
 行基は、民衆を教化するとともに墾田開発や社会事業に尽くしたことから、始め、民衆を扇動する者として朝廷から糾弾弾圧されたが、後に聖武天皇の命により大仏造営に協力したことで、わが国最初の大僧正位を贈られている。
 行基の活動範囲は主に近畿一帯であったことから、各地に行基に縁があるとする寺院・遺構など数多く残り、上記伝承もそのひとつであろうが、いま現地に行基池・行基塚などの痕跡はみえず、上記石碑との関連も不明。

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