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河内の式内社/細屋神社
大阪府寝屋川市太秦桜ガ丘(旧大字秦字神楽田)
祭神−−不明
                                                                 2008.12.12参詣

 高宮神社から北へ、太秦の低い丘を越えた先、寝屋川左岸の畑地の中にある小さな雑木林の中に鎮座する。反対側は市道18号線・その先に打上治水緑地が広がる。
 道路・治水緑地は新しいもので、寝屋川市誌(1971刊)には、「寝屋川堤防南の低湿な水田中にあり」と記し、一面田畑の写真が載っている。

 道路脇の森に中に鳥居と古びた社殿(覆屋)があり、中に古びた祠が鎮座している。祀る人もないのか、大分荒れている。森の周りに何らの標識もなく、誰も、ここに神社があるとは気がつくまい。

細屋神社の森
細屋神社の森
細屋神社・鳥居
疎林に中の鳥居
細屋神社・社殿
社殿(中に本殿の祠あり)

 当社は、延喜式神名帳(927撰上)に、『河内国茨田郡(マムタノコホリ) 細屋神社 鍬』とある式内社で、旧所在地は旧門真三番村字細屋というが、比定地不明。

 茨田郡にあった神社が讃良郡(現在地の旧郡名)に遷ったということらしいが、その由緒は不明。その由緒について、
 @茨田郡門真三番村細屋から、洪水によってご神体が流され、秦村の人が拾いあげて当地に祀った、
 A細屋をコヤと読み、木屋(コヤ)の地にある鞆呂岐神社(寝屋川市木屋町)の奥津宮が洪水か何かで流され、この地に漂着し、秦一族が祀った、
という二つの伝承があるというが(ネット資料)、いずれも確証はない。

 両伝承ともに、ご神体あるいはそれに代わる何かが、洪水によって当地に漂着して祀られた、というものだが、@の門真三番にかかわって、現門真市の南端に三番との地名があるが、当地から遠く離れた寝屋川下流域であり、ご神体が上流部へ流されたというのは解せないし、Aの木屋町も淀川べりの町であって不自然。
 この伝承が何らかの痕跡を語るとしても、どちらからか移住してきた人がもってきた社であろう。

 また「日本の神々3」によれば、平安時代の辞書・和名類聚抄(930年代)に“茨田郡幡多(秦)郷”との地名が見えることから、“茨田郡秦郷が、延喜式編纂後に境界を接していた讃良郡に所管替えになったのであろう”というが、これも、茨田郡は讃良郡の南にあった郡で、讃良郡の北寄りにある秦の地が境界に接していたというのは解せない。
 奈良時代の茨田郡は、枚方市から守口市・大阪市の一部を含む広い区域を含んでいたことからみると、その頃の茨田郡幡多郡にあった細屋神社を、讃良郡に変更しないまま延喜式に記載したとも考えられる。

※祭神
 通常、当社の祭神は不明とされるが、社頭の古案内には
 「秦村の記録に天神・星辰・星天宮と記され、先祖からの天体崇拝の風俗をここに伝え、星を祀ったと考えられる」
とあり(日本の神々3)、今の案内にも
 「天を祀る神社・星を祀る神社と考えられる」
とある。
 天神信仰・星辰信仰は、中国・道教で北極星を天帝として祀るもので、当地に盤踞した渡来人・秦氏が持ち来たって祀ったものであろう。
 なお当社は、江戸時代には“天神さん”と呼ばれていたというが、この場合は同じ天神でも、天の神というより天神即菅原道真とする素朴な庶民信仰である。

 当社の西・国松町に“秦河勝の墓”と伝える五輪塔があるという(未見)
 河内名所図会(江戸後期1801刊)には、「秦村にあり。土人(土地の人)、秦河勝の墓という。詳かならず」とあり、また「鍛冶行綱宅址 秦村にあり。後鳥羽上皇、諸州の名匠を徴して刀剣を造らしむ。行綱、その第一に選ばる」とある。
 秦氏が朝鮮から伝来した生業の一つに鍛冶技術があるという。古代の鍛冶職は一種のシャーマニチックな職種で星辰信仰と深く関わっているから、当社が鍛冶職としての秦氏が祀った星辰信仰の社だったといえる。
 ただ、五輪塔が供養塔とされるのは平安末期頃からというから、飛鳥時代に聖徳太子に仕えた秦河勝の墓が五輪塔というのは時代的に合わない。

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