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河内の式内社/御机神社
大阪府四條畷市南野字滝
祭神−−素戔鳴尊
                                                                 2008.10.3参詣

 JR学研都市線・四条畷駅の北東約1.2q。四条畷神社大鳥居前の細い道を北行約500m、権現川に突き当たると神社への橋が架かっている。社名はツクエと訓む。

 社頭の由緒には、
 「当社は延喜式神名帳(927)に載る古社で、奈良朝時代に鎮座されていたものと推察される。永禄3年(1560)、三好長慶が飯盛山に居城した頃には飯盛城鎮護の神として崇敬が厚かった。御机神社古案内文には、“古くは現在地の東方字宮地にあったが、文禄年間(1692〜96)にこの地に移転した”と記されている』
とある。
 また大阪府全志には、
 「御机神社は茶臼山と一渓を隔てた山腹オコリ地蔵にありしが、延喜式内の神社にして須佐之男命を祀れり。もと牛頭天王(ゴズテンノウ)と称して字宮谷にありしが、元亀元年(1570)、今の大字清滝字城に遷座し来りしも、其の地は慶長19年(1614)大阪冬の陣に際し、軍用の御手当場となりしかば今の所に転座せり」と。
 また大阪府史蹟名勝天然記念物には、
 「初め飯盛の北麓なる字宮谷にと称する山谷にありしも、文禄年間大字清滝字城なる堂山の地に移し、更に大字南野字滝なる村里の側に移し、元禄13年(1700)に今の地に移せしこと、古来同社の祠官たる平尾家所蔵文書により明らかなり」
とある。
 古くから転々とした神社のようで、各文書間で多少の混乱がある。因みに宮谷とは、当社前の権現川を東・室池方面に約500mほど溯った辺りの旧字名という。

※祭神
 今の祭神はスサノヲとなっているが、元はゴズテンノウを祀っていた社で(大阪府全志・1922)、延享2年(1745、江戸中期)の郷神名帳には『氏神牛頭天王社』とある。
 ゴズテンノウとは、インド祇園精舎の守護神として知られ、わが国に伝来して武塔天王とも呼ばれる(備後国風土記)。本来は強力な疫神(疫病神)であったが、これを丁重に祀ることで疫病除けに威力を持つ防疫神へと変貌した神で、風土記で『吾は速須佐雄神なり』と名乗っていることからスサノヲと同体とされる。
 京都・祇園社(現八坂神社)の祭神として知られ、防疫神として各地に勧請されていったが、祇園社に残る伝承では、そのはじまりは貞観18年(876)というから、延喜式撰上時には知られていたことになる。ただ、当社の創建が奈良時代までさかのぼるとすれば、これを本来の祭神とするには疑問がある。

 当社社名・御机について、四条畷市史には一説として、江戸時代の儒者・伴信友の説をひいて、新撰姓氏禄の河内皇別に
 「河内国天孫 津夫江連(ツフエ ムラジ) 天津彦根命(アマツヒコネ)之後也」
とあり、この“津夫江”が“机”に転じたというが、ここから当社本来の祭神は津夫江氏の祖・アマツヒコネではないかともいう。
 アマツヒコネとは、アマテラスとスサノヲの誓約(ウケヒ)のとき、アマテラスの物実(モノザネ、持ち物)から生まれた5柱の男神の一神である。

 これに対して“水”が机“に転訛したとの説もある。当社がこの辺りの水源である室池の近くにあったことからみると、水源の守護神として水神が祀られたとも考えられ、水→机というのも妥当とも思えるが、ミズがツクエに訛ったとは少し無理ではなかろうか。

 いずれにしろ当社の祭神は、当初の神名不明の時代からゴズテンノウへ変わっていったことは確からしいだが、ゴズテンノウからスサノヲへの変更は、明治の神仏分離令によって、ゴズテンノウが邪神として排除されたことから、それと同体とされるスサノヲに替わったもので、その時、社名も延喜式当時の古名・御机神社に復帰したという(明治4年、四条畷市史)

※社殿
 社頭の由緒には、『現在の社殿は明治14年(1881)改築』とあるが、境内には昭和に入っての大修理の記念碑(昭和63年秋)が建っている。
 拝殿後ろに背の高い覆屋があり、中に檜皮葺きの本殿社殿の屋根が見える。

御机神社・参道石段
御机神社・参道石段
御机神社・拝殿
同・拝殿
御机神社・本殿覆屋
同・本殿覆屋

※末社
 社頭の由緒には、境内末社として神明社・稲田社・水神社・藤木社の4社を記す。四条畷市史に記す古文書(明治6年、1873)には、この4社に加えて猿田彦社が記されているが、今は見当たらない。

◎相殿社−−神明社(祭神:天照大神)・稲田社(祭神:稲田姫命)

 拝殿東にまだ新しい覆屋があり、隙間から覗くと大小2基の石祠がかろうじて見える。大きいのが神明社で小さいのが稲田社というが、猿田彦社とする見解もある(四条畷市史)

 稲田社の祭神・クシイナダヒメは、記紀神話で八岐大蛇の人身御供にされるところをスサノヲに救われ、其の正妻となった女神で、霊妙なる稲魂の女神とされる。祭神・スサノヲに併せて祀られたのだろうが、祭神をゴズテンノウとみれば、其の妃・婆利采女(ハノサイジョ)となる。

 覆屋横の記念碑には『滝用水の水株解消を記念して、滝地車(ダンジノ)を解体し神明社・稲田社の覆屋に改め造り、永く保存せんとす。平成13年夏』とあり、覆屋の屋根にはかつて地車のそれが転用され、地車を飾った龍の彫り物が軒下に飾られている。


神明・稲田相殿社

相殿社軒下を飾る
龍の彫り物

◎藤木社(祭神:玉津弁財天)
 神明・稲田相殿社の左にある小祠。
 弁財天はインド・サラスヴァーティー河を神格化した女神で、本来は水神で音楽・学芸を司ることから辨才天が本名。わが国に伝来した近世以降、福神と習合して辨財天と書かれ七福神の一柱となった。
 当社の弁財天むは、その字面からみて福神として祀られたのだろうが、当社が水に縁が深いことから本来の水神の可能性もある。
御机神社末社・藤木社

◎水神社
(祭神:水波能売神−ミズハノメ
 拝殿右手にあるコンクリート造の小祠。
 傍らに立つ石碑には、『当水神社は、水系の神として古く奉祀され、幾多の変遷を経て明治初年当社の摂社として合祀さる。その神殿は既に荒廃せるにより、滝谷水車製粉組合の解散に当たり、山林を本町に売却したる資金にて再建し、水域の守護神として永く祈願し奉る。昭和34年10月建之』とある。
 江戸時代、当社前の権現川流域には水車13基と水神の小祠数カ所があり、関係者が集まって祀っていたという(四条畷市史)。明治初年に、それらをまとめて祀ったのが当水神社だろう。当社の東にあったという旧御机社も、古くはその一社として水神を祀っていたのかもしれない。

 祭神のミズハノメとは、イザナミが火の神・カグツチを産んで病臥したとき、その尿から産まれたという女神で、水神とされる。
御机神社末社・水神社

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