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河内(志紀郡)の式内社/志紀長吉神社
大阪市平野区長吉長原2丁目
祭神−−長江襲津彦命・事代主命
                                                                 2009.7.23参詣

 延喜式神名帳に『河内国志紀郡 志紀長吉神社二座 並大 月次新嘗』とある式内社で、「日陰明神」とも称する。

 大阪市地下鉄谷町線・出戸駅の東南約600m(長原駅の北西約300m)、旧長吉村集落の中に鎮座する。今、長吉はナガヨシと読むが古くは“ナガエ”とも読んだ(住吉を、古くスミノエと読んだのと同じ)

※祭神
◎長江襲津彦(ナガエソツヒコ)
 主祭神の長江襲津彦とは、武内宿禰(タケウチスクネ)の子で葛城氏の祖とされる葛城襲津彦を指す。
 古事記・孝元記に
 「孝元天皇の孫・タケウチスクネの子并せて九(ココノ・男七・女二)たり。・・・次に葛城長江曽都毘古(カツラギノナガエノソツヒコ)は玉手臣・的臣(イクハのオミ)・生江臣・安芸那臣等(アキナのオミ)の祖なり」
とある。
 大和国の葛城地方を本拠とする葛城氏が河内国に属する当地に係わることについて、大阪市史(1988)には
 「葛木長江曽都毘古の“長江”とは大和川を意味し、ソツヒコは本拠の葛城の地から大和川に沿って大阪平野に進出し、長江襲津彦と呼ばれ、河内政権(応神・仁徳)とともに大和川を支配して、河内王権の大きな支えになったと解される」
とあり、葛城氏が旧大和川を通じて河内に進出していたと推測している。
 また新撰姓氏禄(815)・河内国皇別氏族にも、
 「山口朝臣・林朝臣  武内宿禰之後也」
 「的臣・塩屋連・小家連・原井連  武内宿禰男葛木曽都比子命之後也」
と、武内宿禰に連なる氏族の名が記されている。

 これらの記述から、タケウチスクネあるいはナガエソツヒコを祖神とするこれらの一族が当地の辺りに居住したと推測され、大阪府全志(大正11年1922)
 「此等縁由の諸姓中にて其の祖を祀り初めしものならん」
というように、これらの氏族が祖神・ナガエソツヒコ(カツラギソツヒコ)が祀ったのであろう。
 なお当地の地名・長吉を古く“ナガエ”の読んだことも、ナガエソツヒコを当地に祀る由緒と解され、当社由緒には、長吉村の由来として
 「長吉の名は昔の長吉郷、さらに志紀長吉神社の名をとり、明治22年(1889)に村名となった」
とある。

 ただ、タケウチスクネは景行から仁徳まで5代の天皇に仕え、大臣として国政を補佐したとされる伝説的人物というのが一般的認識で、そこから、その子・カツラギソツヒコもその実在が疑問視される。しかし、記紀に記すソツヒコの事蹟(朝鮮半島との外交交渉など)の一部が百済記などの半島系史書の記述と一致するとみなされること(異論もある)から、実在した可能性もあるという。
 ソツヒコの娘に仁徳天皇の皇后・イワノヒメがある。イワノヒメは、自分の留守中に、仁徳が他の女性を宮中に入れたことに怒って葛城の実家に帰ってしまい、詫びにきた仁徳にも逢わず、葛城で亡くなったとの伝承がある。仁徳の頃の葛城氏は、皇后を出し、その皇后が天皇の不貞に怒って帰ってしまっても咎められなかったほどの勢力があったことを示す伝承だが、そんな葛城氏も仁徳から5代後の雄略天皇期には没落している。

 なお社頭に掲げる由緒には
 「長江襲津彦命は、第8代孝元天皇の孫に当たり、武内宿禰の6番目の子供として生まれた。神功皇后の摂政時から応神・仁徳に仕え、政治軍事に参与し、誠の心で国に貢献された。
 晩年に幽宮を長吉の里に定められ、二百余歳をもって静かにお隠れになり、この里の守り神また軍神長寿の神として神霊幸い永久に鎮座することになった」
とある。神功皇后云々は仮構としても、葛城氏が応神・仁徳朝の対半島外交・軍事に関与していたことは事実のようで、それがカツラギソツヒコとの名で総括されたのであろう。

◎事代主(コトシロヌシ)
 コトシロヌシは出雲の主神・オオクニヌシの子とされるが、その原姿は、葛城地方に古くから祀られていた神ともいわれ、そこからカツラギソツヒコ(ナガエソツヒコ)の本拠地・葛城の神として祀られたのであろう。由緒には
 「この長吉の里においても、古くから守り神として鎮まっておられます」
と記すが、当地との直接的な関係は見あたらない。それよりも、コトシロヌシはエビス神と習合しているから、何時の頃かに、福の神・エビスとして祀られた可能性が強い。

※鎮座由緒
 当社創建の年代は不詳だが、諸資料に、平城天皇・大同4年(809)に“日陰大明神”の神号と、
 『神山の日陰の蔓かざすてふ 豊の明かりの わけてくまなき』
との御製を贈られたこと、清和天皇・貞観元年(859)に従五位上の神階を授かっていることなどからみて、延喜式撰上(927)以前からの古社であることは確からしい。また、平安末期、後朱雀天皇(1016--45)・後冷泉天皇(1045--68)の祈願所ともなった大社で、大旱魃の折に雨を祈れば必ず霊験があったという。

 当社を“日陰明神”と呼ぶ由縁は、古来から、大嘗祭の度毎に、当社の東の地(現長吉東2丁目付近)に生える“日陰の蔓”を奉るのを恒例としていたからという。このことから、当社は“日陰蔓”を以て神紋としている。
 ヒカゲノカズラとは常緑の蔓性シダ植物で、2〜3mに達する細長い茎に密生する葉が地面を這うことから蛇を連想させ、生命繁殖のシンボルとみなされたという。
 大嘗祭の度に日陰蔓を奉納したというのは、大嘗祭や新嘗祭などの神事に奉祀する官人が、冠に付けた笄(コウガイ)の左右に垂らした髻花(ウズ)としてヒカゲノカズラを用いたためであろうが、後には、青又は白色の絹糸(日陰糸)に代わったという。

 このことから、当社の祭神を『天宇受売神(アメノウズメ)・草津比売(カヤノヒメ)』とする説がある(河内国式神私考)。アメノウズメは、古事記の天岩屋戸神話で、天日陰を以て手次(タスキ)にかけ、天の眞折(マサキ)を鬘(カヅラ)とし、神憑りして舞ったという伝承からの付会で、草の神であるカヤノヒメは、日陰蔓の生育の神として祀ったのであろう、という。
志紀長吉神社/神紋・日陰蔓
志紀長吉神社/神紋

※社殿

志紀長吉神社/二の鳥居
志紀長吉神社・二の鳥居
志紀長吉神社/拝殿
同・拝殿
志紀長吉神社/本殿
同・本殿

 民家密集地に鎮座するため、南側道路脇に立つ一の鳥居から、境内入口の二の鳥居に至る間、両側には民家が櫛立し、境内もそんなに広くない。
 本殿について、大阪府全志(大11、1922)には“神明造檜皮葺”とあるが、式内社調査報告(昭54、1979)のそれは“銅板葺平屋建神明造”とある。一見するところ、拝殿を含めてまだ新しく、木造を模した鉄筋コンクリート造のように見える。戦後の改築かもしれない。

 社殿の裏手に“琴平社”(オオモノヌシ)・“稲荷社”(稲荷大神)の末社、および“神宮遙拝所”がある。

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