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河内の式内社/忍陵神社
旧津桙神社・旧大将軍神社・旧馬守神社
大阪府四條畷市岡山2−7−12
祭神−−熊野皇大神・藤原鎌足公・大将軍大神・馬守大神
                                                          2008.9.24・10.3参詣

 JR学研都市線・忍ヶ丘駅の西約200m、駅前から西へ延びる旧商店街を10分ほど進んだ北側に残る、前期古墳・忍岡古墳(シノブガオカ)の後円部頂上に鎮座する。

 社頭に掲げる由緒には、
 『当神社は、今から1200有余年前より当地区(岡山・岡山東・砂地区)の守護神、熊野皇大神(所願成就・災難消除)・藤原鎌足公・大将軍大神(日本最古の方除の神)・馬守大神(交通安全・家業繁栄)をお祀りしている。古くは津桙社・大将軍社・馬守社と別々にお祀りしていたが、明治大正時代に三社が合祀され、現在の社名に改名された』
とある。
 明治末期から大正にかけて進められた中小神社の整理統合政策によって、明治44年(1911)、忍岡上にあった津桙神社(ツホコ)に他の2社(大将軍社・馬守神社)を合祀したもので、当地の古称・忍の陵(シノブノミササギ)に因んで『忍陵神社』(シノブガオカ)と称したという。
 合祀したときには、この地が古墳(前方後円墳だったらしい)とは知られていなかったが、地元では“忍の陵”あるいは“王子の墓”とも呼んだというから、貴人の墓という伝承があったと思われる。

忍陵神社・南参道の石段
忍陵神社・南参道の石段
忍陵神社・東参道・大鳥居
同・東参道・大鳥居
忍陵神社・社標石柱
同・社標
忍陵神社・拝殿
同・拝殿
忍陵神社・本殿
同・本殿
忍陵神社・拝殿内陣
同・拝殿内陣

 忍陵神社に合祀されている各社について概説する。

◎津桙神社(ツホコ)
 延喜式神名帳(927撰上)に『河内国讃良郡(サララのコオリ) 津桙神社』といある式内社で、南参道石段の踊り場に掲げられている案内(以下、上記案内という)には、
  『旧鎮座地 甲可村大字岡山字八幡山』
とある。
 諸資料では、旧社地は現在地の東方約900mの坪井地区・通称赤山にあったという。甲可村とは四条畷の古称で、明治以降、甲可村→四条畷村→四条畷市と変遷している。
 津桙社の現在地への遷座時期ははっきりしない。元和年間(1615〜24、江戸初期)以降との資料もあるが、当地には、藤原鎌足を祀る鎌足社が寛永11年(1634)から祀られていたというから、それ以降かもしれない。いずれにしろ江戸初期・17世紀前半頃であろう。藤原鎌足を祀った由縁は不明。

*祭神
 今、忍陵神社の祭神は熊野皇大神以下の4柱となっているが、藤原鎌足が津桙社遷座前からの神で、大将軍大神・馬守大神が下記するように合祀された2社の祭神とすれば、津桙社本来の祭神は熊野大神といえる。
 上記案内には、
 『創建時は当地の豪族津桙氏の氏神であったが、人王40代天武朝(673〜86)に熊野三山より熊野大神を勧請してお祀りしたと記され』
とあり、
 また赤山津桙神社縁起書(江戸期、以下「赤山縁起」という)には、
 『夫れ河内国讃良郡甲可庄岡山村新宮大権現(津桙社)の濫觴は、人王40代天武天皇の御宇、役優婆塞(役行者)の開基なり。抑も、新宮大権現と申奉るは、遠く本地を尋るに薬師如来の国跡熊野三山の一所なり。人王12代景行天皇の御宇、何処ともなく小船漂い来る。其の船の中より裸形上人といへる人熊野山に登り、則ち、本宮三所を移して新宮権現を草創す』
とある(「日本の神々3」)

 上記案内・赤山縁起ともに、天武朝のころ熊野大神を津桙社に勧請したというが、熊野の神が正史に現れるのは8世紀中頃であって、天武朝には未だ中央には知られていない(熊野では、三神別々の形で祀られてはいたとおもわれる)。熊野の神々が一般に知られ、多くの人々が熊野詣に出かけるようになったのは、白河上皇以下の上皇方が何度も熊野に詣で(11世紀初頭)、それが武士階級・庶民階級に広まった平安末期・鎌倉期(12世紀末〜13世紀)以降のことで、津桙社がその街道筋にあったことから、当地に勧請されたのではないかという(四条畷市史)
 また赤山縁起で津桙社のことを新宮大権現(熊野新宮大社の主神・速玉大神)と呼んでいるが、本地垂迹説によって神に権現号をつけはじめたのも平安後期以降といわれ、これも天武朝とは繋がらない。
 蛇足ながら、赤山縁起にいう裸形上人の渡来伝承は、熊野那智に残る裸形上人渡来伝承をほとんどそのまま写したものだが、“小船漂い来る”とあることをみれば、赤山にあった旧社が河内湖と呼ばれる湖畔にあった頃の伝承に、熊野信仰が付加されたものと思われる。

 上記案内・赤山縁起が熊野大神の勧請を天武朝とするのは、時代を古く見せて古社であることを誇ろうとするものであろう。
 ただ本地垂迹説によれば、熊野の速玉大神の本地仏は薬師如来となっている。江戸時代の人々は、当社の祭神が新宮大権現すなわち薬師如来ということで、神というより、災いを除き病を治してくれる仏・“お薬師さん”として親しまれたのかもしれない。

 一方、拝殿前に掲げる縁起書には、
 『応神天皇・素戔鳴尊(スサノヲ)・国常立命(クニノトコタチ)・藤原鎌足公・熊野新宮大神・熊野大神』
とある。ここには大将軍大神・馬守大神は記されておらず、津桙神社の古い祭神と思われる。
 この縁起書が何時の頃のものかは不明。祭神名からみて明治44年の遷座後のものと思われる。
忍陵神社・拝殿前縁起書
拝殿前・縁起書
 スサノヲは防疫神・ゴズテンノウと同体とされる。ゴズテンノウが防疫神・疫病防御の神として祀られるようになったのは9世紀後半頃からで(伝承では、ゴズテンノウを祀る京都・祇園社の創建は貞観18年-876)、これも延喜式以前となる。津桙社に祀られた時期は不明だが、何時の頃からか当社に祀られていたゴズテンノウが、明治の神仏分離令によって排除されたため、同じ性格をもつスサノヲに変更されたのであろう。

 クニノトコタチは、天地開闢のとき混沌に中から成り出でた造化三神の一で、観念的な神であって一般の神社に祀られることは少ない。ただ、明治の神仏分離に際して、それまでの祭神を著名な記紀神話の神々に替えることで社格を上げようとする動きが多かったことからみて、当社もイザナギ・イザナミの6代前の神を祭神としたのではなかろうか。

 これらの3神が、今、どのように扱われているかは不明。また、熊野新宮大神と熊野大神を別神としているが、通常は熊野の本宮・新宮・那智の3神を併せて熊野大神というから、新宮大神は熊野大神の中に含まれる。

 以上のように、当社の祭神については諸説があってはっきりしない。式内社調査報告(1977)に記す
 「祭神は応神天皇・熊野皇大神。当初はこの地の豊穣を祈願して、農業神を祀ったものであろうが、後、岡山地域の豪族・津桙氏の祖神を祀っていたが、改新政府の成立によって国家神としての応神天皇を氏族神とするに至ったと考えられる。平安期になって熊野詣が流行するようになって、そのご利益を願って熊野大神を合祀するようになった。縁起書(赤山延喜)に“役行者開基”とあるのは、社の傍らに行者堂が建っていたからと思われる」
というのが妥当なところかもしれない。

 なお、社名・津桙の津を港=水と解し、鉾をカミが降臨する高い柱と解すれば、津桙とは水神が降臨し宿る高所=水分(ミクマリ)とも解され、そこに祀られる神は水神的性格をもつともいえる。
 これらからみて、五穀豊穣をもたらす水神を祀る人々の素朴な信仰が津桙氏の祖神へと変身し、後に熊野大神以下の神々が加わったともいえる。

◎大将軍神社
 上記案内によれば、旧鎮座地は
 『甲可村大字砂字中道。創建年代不詳、方位の神として日本最古の方除(カタヨケ)守護神である大将軍神を祀る』
とある。
 今、忍陵神社が鎮座する岡山町の西隣が砂町だが、古くは砂岡山と呼ばれた一村で、元和4年(1616江戸初期)に砂村と岡山村に別れている。四条畷市史によれば、当社の旧社地は、砂村の西方約300mほどの水田の中にあったというが、今どうなっているか不明。

 大将軍神とは、陰陽道で“その年々によって異なる各方位の吉兆を司る”といわれる八将神の一神で、“万物を殺伐する凶神”という。十二支で数える年々によって3年ずつ一方向に止まり(例えば十二支の亥子丑の3年は西方が凶、その後3年毎に時計回りに回っていく)、行動を起こすときには、その方角は避けねばならないというもので、その方角を“方忌み”(カタイミ)あるいは“方塞がり”(カタフサガリ)といった。
 この方忌みを避ける方法が“方除け”・“方違え”(カタタガエ)で、例えば目的地が方忌みの方角にあった場合、一度方忌みでない方向へ行って泊まり、そこから改めて目的地へ向かうなど煩雑な手段がとられたという。この方忌みは人の移動だけでなく、カマドの造作・家の改築など生活全般にわたって制約を加えたという。
 この凶方を支配する大将軍神を祀ることで、凶を転じて吉としようとしたのが当社の信仰であろう。

◎馬守神社(マモリ)
 上記案内によれば、旧鎮座地は『甲可村大字砂字宮田』にあった村社で、
 『創建年代は不詳。当地域は婆羅羅馬飼部(サララ・ウマカイベ)・菟野馬飼部(ウノ)の居住地であったことから、馬の成育を祈って建立されたと語り伝えられている。又、斉明天皇行幸地、神功皇后軍馬の安全祈願所ともいわれている』
とある。
 また当社には、
 『清和天皇の皇子貞純親王が夷賊征伐の詔を奉じて大将軍に拝せられたる折、摂津住吉神社の末社馬守神に祈願し、凱旋ののち、同神を勧請して兵馬の神と祀り、のち大字砂全部と岡山の内西山下、奈良田の産土神となせり』
という伝承がある(大阪府史蹟名勝天然記念物)
 いずれも馬に関する伝承だが、この地域の発掘調査では、馬の骨や製塩土器・製塩炉などが出土し、5・6世紀頃、この地で馬の飼育と製塩がなされていたことが証されている。この辺りは生駒山系の西麓に当たり、海水と淡水が混ざり合う半鹹水状態だった河内湖畔だったといわれ、そこから製塩と馬の飼育がなされたという(馬の飼育には塩が必要だったらしい)

※忍岡古墳
 忍陵神社の鎮座位置を後円部の墳頂とする前方後円墳で、全長約80m、後円部の直径約45m、高さ6m、古墳軸(南北)と平行する細長い竪穴式石室(約7m弱×1m)を有し、古墳時代前期後半の古墳とみられる。

 昭和9年9月に近畿地方を襲った室戸台風によって倒壊した忍陵神社社殿の復旧工事の際、10年4月に拝殿下から偶然に石室の一部が出土し、発掘調査により前期古墳と認定され石室を修復保存したもので、今、東参道の石段を登った正面覆屋のなかに平石を積んで造った典型的な竪穴式石室を見ることができる。

忍陵古墳・平面図
忍岡古墳・竪穴式石室
忍岡古墳・竪穴式石室
忍岡古墳・覆屋
忍岡古墳・覆屋

 発掘調査時、既に石室の北半分が壊され盗掘されていたとかで、石釧(イシクシロ・腕輪の一種)・鍬形石(腕飾りの一種)・紡績車(糸紡ぎ用器具)・剣など若干の出土品があったのみで、被葬者不明。
 古代の渡来系氏族・宇努連(ウノ)、河内皇別の早良臣(サハラ)あるいは当地を開発したといわれる佐良々連(サララ)といった氏族に関係する墳墓ではないかという。

※行者堂
 本殿右手、一段下がった平地に行者堂がある。「岡山行者堂」が正式名称のようで、本尊は不動明王。
  行者堂への入口横の石碑には、
 『この行者堂は、以前、赤山の頂上に建立されていたが、当地に移動した。昭和37年建立』
とある。津桙神社の遷座に伴い、当地へ移ったものだろう。
 津桙神社の縁起に、『(津桙神社は)天武朝のころ、役行者開基』と記すのは、この行者堂があったためだろうが、役行者は、続日本紀・文武3年(699)条に『5月24日、役行者を伊豆嶋に配流した』とあるように、7世紀末頃に活躍した修験者であって、その2代前の天武天皇の頃には未だ知られていない(生まれてはいたらしい)
 各地に残る修験道に関係する寺院で役行者開基というのは多く、当行者堂もそのひとつで、修験道の開祖とされる役行者を持ち出すことで社格を上げたのかもしれない。

 扉に張られた案内には、毎月、役行者の命日に当たる7日には堂内で護摩を焚くとある。堂前すこし離れて護摩壇があり、4・9月の7日に屋外での護摩炊きがおこなわれるという。
 忍陵神社の境内(?)にはあるものの、今は関係がないと思われる。訪れた朝、堂内から勤行の声が聞こえていた。
忍陵神社・行者堂

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