トップページへ戻る

河内(渋川郡)の式内社/横野神社
旧鎮座地−−大阪市生野区巽西3丁目9
祭神−−印色入日子命
巽神社(合祀先)−−大阪市生野区巽東3丁目17
                                                                2009.7.23参詣

 延喜式神名帳に『河内国渋川郡  横野神社』とある式内社だが、明治末年は同郡内の“巽神社”に合祀され、町中に残る旧社地には「式内 横野神社 社地跡」との石碑が建つのみ。

※旧鎮座地
 大阪市地下鉄谷町線の終点・南巽駅の北西約700m、密集住宅地内の一画・巽西3丁目9番地の西側道路に面して残っている。東大阪朝鮮中級学校の西側ブロックに当たる。
 狭い敷地の正面奥に、“式内 横野神社社地跡”と刻した自然石の祈念碑が、右前に“式内 横野神社跡地”との石柱が立っている。民家に囲まれた狭い敷地の道路側には柵が設けられているが、柵門を開けて自由に出入り可能。記念石碑左前に
 「紫の根はふ横野の春野には 君をかけつゝ鶯鳴くも」
   (紫草の根を張る横野の 春野では あなたを想って鶯が鳴いていますよ−−万葉集no1825)
との歌碑が立つ(原文・万葉仮名)

横野神社/旧社地全景
横野神社・旧社地全景
横野神社/旧社地記念石碑
同・記念石碑

◎祭神
  印色入日子命(イニシキイリヒコ命

 記紀によれば、イニシキイリヒコ命(書紀では五十瓊敷入彦命)は第11代・垂仁天皇と皇后・日葉酢媛との皇子で、12代・景行天皇の兄君。その事蹟として、日本書紀・垂仁紀には
 ・30年条−−天皇が、イニシキイリヒコとオオタラシヒコ(景行天皇)の兄弟に「それぞれ欲しいものを申せ」といわれたとき、イニシキイリヒコは“弓矢を”と、弟は“皇位を”と答えたので、天皇は兄に弓矢を与え、弟には“わが位を継げ”と仰せられた(古事記なし)
 ・35年条−−秋9月、イニシキイリヒコを河内国に遣わして、高石池(タカシのイケ)・茅渟池(チヌのイケ)を造らせた(古事記では血沼池・狭山池・高津池)。この年諸国に命じて池や溝を800余り開かせた。これによって百姓は富み豊かになり、天下泰平であった。
 ・39年条−−イニシキイリヒコは菟砥の川上宮においでになり、剣一千口を造らせられ、石上神社に納められ、勅により石上神社の神宝を掌られた(古事記も同じ)
との記述がある。
 35年条の池溝築造のすべてがイニシキイリヒコの仕事ではないが、タカシ池・チヌ池あるいはサヤマ池などを築造したことから、農業に必要な水を掌る守護神的存在として崇拝され、仁徳朝に築かれたという“横野堤”の守護神として祀られた(下記)のではないか、という。また命が石上神社の神宝を掌ったこと、当地辺りが物部氏の勢力圏だったことなどから、物部氏との係わりが深いのでは、との推測もある(式内社調査報告1979)

◎鎮座由緒
 当社の鎮座時期・由緒は不明だが、古くは河内志(享保20年1735)に、
 「渋川郡大地村西に在り、印色宮と称す。仁徳天皇13年冬10月に築いた横野堤此なり。この郡は今なお海潮が溝渠に到り、土また鹹鹵(潮味)有り」(大意)
とあり、近世の史書・大阪府全志(大11年1922)には
 「(当社のある大字大地は)古の横野堤のありし所にして、西方なる横野神社のありし附近其れならんといふ。今其の址は詳ならざれども、堤は日本書紀仁徳天皇の条に『13年冬10月 造和珥池。是月築横野堤』と見ゆるもの是なり。今も附近の土地は低湿にして、井水は鹹味(潮味)を帯ふるを以て見れば、思うに堤は難波玉造江の潮水を防ぎ給ひしものならんか」
と記す。
 古平野川(あるいは、その本流・大和川)の治水のために築かれた横野堤の保全を祈って、傍らに創建されたのが当社というのが定説となっている(今、旧社地の東すぐに平野川分水路が流れている。また同種の神社として、門真市に堤根神社がある)
 ただ、横野堤などが仁徳朝に造られたと記すのは、仁徳が万民のために治水事業をおこなった聖天子であることを示唆するためのもので、実際の築造はもすこし後世か、とも思われ、当社の創建も10世紀以前とはいえるが実年代は不詳。

 延喜式が撰上された延喜・延長(901--930)の頃から江戸中期・享保年間(1716--35)までの間、横野神社(印色宮ともいう)に関する史料はほとんどなく、慶長・萬治(1596--1661)の検地帳に田畑の字名として「ゐんじの宮」(印地宮)とあるのみという。それは、古平野川の河道や堤が変化・廃絶したため、村民に忘れられたためと推測されている。

 その忘れられていた横野神社(印色宮)を今の旧社地に比定したのは、江戸中期の国学者・地理学者の並河誠所(1668--1739)で、並河は幕府の許可を得て所在曖昧となっていた畿内の式内社を調べ、五畿内志との冊子にまとめたが、そのひとつ・河内志のなかで式内・横野神社を大地村印地(今現生野区巽西)に比定したという。
 その経緯について、横野神社由来記(元宮座・小野氏所蔵)には
 「河内国渋川郡大地村には昔から印色宮との宮地があったが、その後、荒廃し宮地も減少して守る人もなかった。享保14年(1729)、並河誠所が公儀の許可を得て畿内の旧地を調べたとき、この印地宮(印色宮)をイニシキイリヒコを祀る延喜式内の横野神社であると比定し、庄屋松永善左衛門に告げた。村民は、村老が寛文・延宝の頃(17世紀中葉)まであったという社の廃絶を嘆き、同村八幡宮の社地に移した。今末社のような小社がこれである。・・・享保15年公儀に申しあげ許しを得たので、同16年、横野神社の旧地と定め、公儀古跡帳に記載された」(大意)
とある(式内社帳報告)

 並河の調査時、宮地がどのような状態だったかは不明だが、この由来書を読むかぎり、並河は“印地宮と通称される池”の畔に残っていた小祠を式内・横野神社とし、それを村民が八幡神社に遷した、ととれる。
 しかし、
 「横野神社は一に印色宮と称し、イニシキイリヒコを祀る。寛文・延宝のころ、社殿いたく頽廃しければ、一時八幡宮の境内に移ししが、ついで享保16年(1731)3月村民官に請うて元の地に復せり。然るに明治41年神社整理のため、遂に大地の氏神八幡神社に合祀し巽神社と改称せり」
との資料もあり(大阪府史蹟名所天然記念物)、旧社地に社殿を設けたともとれる。

 なお調査報告には、
 「旧社地は、耕地整理のとき祈念碑のみが建立され面積124坪だったが、近傍の開発により民家工場が密集して狭められ、現在では碑のある5坪ほどになっている」
というが、それまでの状況および耕地整理施工の時期不明。道路が整然と区画された現状からみて、耕地整理とは戦後の区画整理を指すのかもしれない。

 今、横野神社を合祀している巽神社の由緒には
 「(式内横野神社は)昔は神威輝き、享保の頃までには衰退していたが、同16年再興せられた。その都度八幡神社へ移したことがあったという。(八幡神社は)明治5年7月村社に列らなり、同40年4月、横野神社他4社を合祀し、村の名をとって巽神社と改称した」
とある。

 当社創建にかかわる地元伝承として、
 「昔、印地宮の辺りに狭山池から流れる川があった。ある時、大雨が降って上流から御幣の入った湯桶が流れてきた。その桶に式内横野神社と書かれた神符があり、付近の住民が、吾が村に与えられた神だとして奪い合いになった。
 結局、大地・四条・田嶋の三ケ村でクジ引きで決めることになり、大地村が勝った。湯桶が流れ着いた場所に建立した小祠が横野神社である。
 一方、クジに敗れた四条・田嶋の村民は、その祠を“ねんじの宮”と呼んだ。“ねんじ”とは“捻れる”の意味で、字名・印地にも懸けられている」
というものがある。狭山池から流れ出る川とは古平野川を指すであろう、という。(式内社調査報告)

※巽神社
 祭神−−主神:応神天皇(ホムタワケ)
       相殿:イニシキイリヒコ・イザナギ・アメノトコタチ・アマテラス・アメノコヤネ・菅原道真

 巽神社由緒記によれば、
 「当社は旧河内国渋川郡大地村にあって、八幡神社といった。創建年代は明らかでないが、当地の地名を大地と称えるのは、和名類聚抄(承平7年937、通称:「和名抄」)
  “河内国渋川郡竹淵(タコチ)邑智(オオチ)餘部(アトベ)賀美”
とあることから明らかである。
 わが国の風習として、昔から人が住めば必ず始祖神(氏神)を祀る。人皇62代村上天皇(1607)のとき編纂された和名抄に当地名が記載されていることは、当時既に神社が祀られていたことは疑う余地がないことである。
 延喜式神名帳は人皇60代醍醐天皇のとき編纂されたもので、和名抄編纂とは僅か数十年前である。故に、邑智の名称は延喜の頃すでに河内五郷の一として盛大な村落であったことは明らかである。
 それで、延喜式編纂当時に八幡神社が存在していたが、神名帳に洩れたのであろう。式に洩れた社を式外といい、有名な社もその間に多くある」
という(邑智=大地)

 10世紀初め頃に編纂された和名抄に、当地の古称・邑智(オオチ)があること、古い風習に、村内に始祖神あるいは氏神を祀る神社があったというのは頷けるが、延喜式編纂時(927)に八幡社が存在したというのは疑問。応神八幡神(応神天皇)奉斎が一般化するのは平安後期(10世紀末頃)からといわれ、式内社に八幡を名乗る神社は見当たらない(延喜式編纂時に存在していたと思われる宇佐八幡・石清水八幡宮も式内社ではない。当社の前身となる社が延喜式編纂時からあったとしても、それが八幡社と呼ばれたのは、応神八幡神信仰が流行した後世のことであろう。
 また、和名抄の編纂は村上天皇の時(947--67)とあるが、通説では、その先代・朱雀天皇の承平年間、特定すれば承平7年(937)とされ、延喜式編纂は和名抄編纂の10年前となる。

◎祭神
 主祭神・応神天皇(応神八幡神)は当社が八幡社となって以降の祭神で、当社創建時からの祭神かどうかは疑問。
 相殿に祀られる神々は、明治政府による神社統合(明治40年1907)によって合祀された祭神で、本殿への合祀社として
 ・横野神社(式内社)−−大地字印地−−祭神・イニシキイリヒコ
 ・天神社−−伊賀ヶ字伊賀ヶ−−同・菅原道真
 ・天照皇大神社−−西足代字葭の内−−同・アマテラス・八幡大神・アメノコヤネ
 ・熊野神社−−矢柄字宮の前−−同・イザナミ・アマテラス・アメノコヤネ・ホムタワケ・菅原道真
 ・天神社−−四条字山小路−−同・アメノトコタチ・ホムタワケ
の5社がある。

巽神社/二の鳥居
巽神社・二の鳥居
巽神社/拝殿
同・拝殿

◎社殿
 由緒記には、
 「元の建物は享保5年(1720、江戸中期)の建築だが、腐朽甚だしきため昭和50年6月造営する」
とあるが、すべてが鉄筋コンクリート造(内部木造)のため古社としての趣きはない。また、周りが民家で囲まれているため、本殿は屋根の上部がちらりと見える程度。
 また、当社西側を南北に走る内環状線の西側に、弘化2年(1845)建立の“一の鳥居”が立っている。

◎境内社
 社殿の裏手に、稲荷社2殿(伏見稲荷・豊川稲荷)と合祀殿(豊吉明神・玉広大神・熊鷹大神・伊勢大昇大神・アマテラス・トヨウケ、祭神からみて稲荷社的色彩が強い)がある。古く“塞神社”(ヤチマタヒコ・ヤチマタヒメ・クナト神−−明治25年、東大阪市若江から遷座)があったというが見当たらない。由緒記には“稲荷神社に相殿”とあるが、塞の神と稲荷神を一緒に祀る感覚はわからない。

トップページへ戻る