トップページへ戻る

神泉苑(京都市)
京都市中京区神泉苑町東入る門前町
                                                                 2009.01.参詣

 京都・二条城のすぐ南に位置する『神泉苑』は、今、北は押小路通、南は御池通に挟まれた小区画(南北約100m、東西約70m)に押し込められているが、創建時(延暦13年-719)のそれは、三条通付近から北へ南北4町・東西2町にも及ぶ広大な禁苑(天皇専用の庭苑)だったという。

 延暦13年、長岡京から平安京へ遷都した桓武天皇(在位781--806)が、内裏の南に広がる沼沢の地を拓いて造ったのがこの禁苑で、常に清らかな泉が湧き出ていたことから、これを神泉として『神泉苑』(シンセンエン)と名づけられたという。
 苑内には泉・池・林などの自然が取り込まれ、南寄りに広がる「大池と中嶋のほか、乾臨閣や釣殿・滝殿などもあり、歴代天皇や貴族たちは舟遊びや花見・賦詩・弓射・相撲などを楽しんだ」(社頭案内)という。
 平安時代の神泉苑は、天皇の遊苑であるとともに雨乞いの霊池、御霊会の霊苑として栄えたというが、中世以降、打ちつづく戦乱による京の都そのものの荒廃に伴って当苑も荒廃し、周囲を民家等に浸食され縮小していったという。
 また江戸時代にはいると、徳川家康による二条城築城(慶長8年-1603)によって苑の北部分を一部削除され、慶長12年(1607)に再興されたときの規模は、当初の十分の一にも及ばなかったという。

神泉苑/位置図

◎雨乞い祈祷
 平安時代の神泉苑は雨乞いの霊池として知られていた。中でも有名な話として、今昔物語(12世紀初頭刊という)に『弘法大師 請雨経法を修して雨を降らせたる事』との一章がある(14巻・41話)。簡単に意訳すれば、
 「今は昔、○○天皇の御世に、天下旱魃(カンバツ)して天皇以下人民に至るまで嘆き悲しんだ。
 その時、弘法大師・空海という人がいた。天皇が大師を招いて『この旱魃を止めて雨を降らせ、世を助ける法はないか』と問うたところ、大師は『吾に降雨の法有り』と答えた。
 天皇の『その法を修すべし』との勅をうけて、大師が神泉苑にて7日間にわたって請雨経法を修したら、壇の右に五尺ばかりの金色の蛇が現れた。
 しかし、この蛇は常人には見えず、修行を積んだ伴僧4人のみにしか見えなかった。その伴僧の一人が、『蛇が現れたのはいかなる相か』と問うと、大師は『此は天竺(インド)にある阿耨達智池(アクノダツチ池)に住む善如竜王(ゼンニョリュウオウ)である。その竜王がこの池にやってきたのだから、修法の験(シルシ)が顕れるであろう』と答えた。
 そうしているうちに、俄に空が陰って戌亥の方角から雲が湧き出で、国中に雨が降り出し、旱魃が止んだ。
 此より後、天下旱魃の時には、大師の流れをうけて、この法を伝える人が、神泉苑にてこの法を修すれば必ず雨が降る、と伝えられている」
という。他にも、高野大師行状図会などに神泉苑での降雨の図会が描かれ、弘法大師関連の年表にも「天長元年、神泉苑にて祈雨法を修す」とあるから、雨乞い修法をしたのは確かかもしれない。なお弘法大師には、水に困っていた処に清水を湧き出したなど水に係わる伝承が多く伝わり、祈雨修法も生涯51回修したという。

 一方、今、神泉苑に伝えられている話は、
 「淳和天皇・天長元年(824)の大旱魃の時、天皇の勅により、東寺の空海(792?--835)と西寺(山階寺の僧ともいう)の守敏(シュビン、生没年不詳)との間で雨乞いの法力を競った。
 まず守敏が7日間祈祷したが、都に少しの雨が降っただけだった。
 次いで空海が7日間請雨経法を修したが、守敏が呪力によって竜神を水瓶に閉じこめていたため、雨が降らなかった。しかし、唯一善女竜王のみが守敏の手を逃れていることが分かり、これを北インドの無熱池(ムネツチ)から呼び寄せ、三日間にわたって国中に雨を降らせることに成功した」(概略、バリエーションあり)
と、法力争いが加わった面白い話となっている。この手の話は、話が広まるにつれて枝葉がつくもので、法力争いなどはそのひとつであろう。

 今、神泉苑の池を『法成就池』、赤い太鼓橋を『法成橋』と呼ぶ。いずれも空海の雨乞い修法が成就したことからの命名という。

*善女竜王
 古代インドの非アーリア民族にあったナーガ(蛇)崇拝が、仏教とともに中国に入って四神のひとつ龍信仰(青龍)と混淆して生まれた「龍神」(竜王)のなかの一尊。雲を呼び雨を降らす水神(八大竜王)として祀られることが多いが、密教では、請雨経法の修法に際して、その本尊として『善女竜王』を祀るという。
 ただ善女竜王についての造像儀軌はなく、高野大師行状図会には“池の上に顕れた大蛇の頭上の乗る小さな金色の蛇”として描かれているが、一般に知られている善女竜王像は、“冠を戴き中国風の衣服をまとって雲に乗る男性像”で、衣服の裾から尾が見えることで竜王であることを示しているという(未見)
 

◎御霊会(ゴリョウエ)
 三代実録(清和天皇-858〜光孝天皇-887までの事蹟を記した国史、901年撰上)・清和天皇・貞観5年(863)閏六月条に、
 「廿日壬午 神泉苑に於いて御霊会を修す。・・・所謂御霊とは崇道天皇(早良親王−光仁の皇子)・伊予親王(桓武の皇子)・藤原夫人(吉子−文武の皇后)・観察使(藤原仲成)・橘逸勢・文屋宮田麻呂是也。事に座して誅を被り冤魂と成りし霊也。近年以来、疫病繁発、死亡甚だ多し。天下の人、此の災は御霊の生む所と為す。京畿より始まりて悉く外国(畿外の諸国)に及び、毎年夏から秋にかけて御霊会を修す」(意訳、括弧内は挿入)
との記載がある。
 御霊会とは、天変地異・流行病(ハヤリヤマイ)など社会生活を脅かす疫病・飢餓・地震・雷災などの発生を御霊(怨霊)の仕業とうけとめ、これを慰撫・鎮魂して遷却することによって平穏を回復しようとする鎮魂儀礼をいう。
 民間では、同種のものが平安初期頃からあったというが、朝廷主導の公的なものとしては、貞観5年・神泉苑で行われた御霊会が最初で、この時、御霊の最たるものとして畏れられた崇道天皇以下の6柱を神として祀ることで、疫病の禍を鎮めようとした。これらの御霊は、いずれも政争に敗れ、あるいは無実の罪を着せられて憤死した人物の霊。
  御霊会の儀礼は、祭壇への献供・金光明経・般若経典の読経などによって荒ぶる御霊を鎮めるものだが、併せて諸種の芸能が奉納され、それを多くの人々が鑑賞して熱狂することもまた御霊の慰撫には必要だったという。神泉苑で御霊会でも、「此の日、勅して四門を開かせ、都邑人の出入りを許した」とある。
 この御霊会が神泉苑で開かれたのは、鎮めた御霊を、神泉苑の水辺から淀川を経て最終的には難波津の海へと流しやる、換言すれば、彷徨える御霊を外界(異界)へ遷却しようとしたためともいう。

 その後、各地で疫病・天災などが多発する度に御霊会が行われたというが、著名なものとして、貞観11年(869)の祇園御霊会(元禄元年-970-以降は毎年6月14日に恒例化−祇園祭の原点)、正暦5年(994)の北野船岡御霊会、長保3年(1001)の紫野今宮御霊会などがある。

 なお、御霊会の対象となる御霊には、上記6柱の他に菅原道真(天満天神)・他戸親王(光仁の皇子)・井上皇后(他戸親王の母)・吉備真備・崇徳上皇なとが挙げられるが、誰々を祭祀対象の御霊とするかは時代・地域によって変わっている。また天神さん(菅原道真)のように単独で祀られるもの(北野天満宮)や、民間主導の牛頭天王(祇園信仰)・平将門(関東中心)などがある。
 

※参詣記

◎善女竜王社(ゼンニョリュウオウ)
 当苑の南を東西に走る御池通に立つ大鳥居をくぐり、小さな石橋を渡って直進すると、法成就池に突き出た堤道の先に『善女竜王社』が鎮座する。空海が雨乞いのために勧請したという善女竜王を祀る社で、竜王(竜神)が水を司ることからか、三方を池水に囲まれた島の中に、疎林に覆われて鎮座している。神泉苑の原点ともなる小社といえる。
 竜王社といっても特段変わったところもない清楚な社殿で、その前に拝殿を兼ねた舞殿が建っている。社頭の案内には“心願成就”とあるが、農耕に必要な水をもたらす竜神に五穀豊穣を願ったものが、一般化したのであろう。

神泉苑/大鳥居
御池通に立つ大鳥居
神泉苑/景観
左:法成橋・中:善女竜王社・右:恵方社
神泉苑/善女竜王社・社殿
善女竜王社・社殿
神泉苑/善女竜王社・社殿正面
善女竜王社・社殿正面
 当苑には、源平合戦の立役者・源義経とその愛妾・静とが出合ったという話がある。

 「ある年、後白河法皇ご臨席のもとおこなわれた雨乞いの時、百人の白拍子が神殿に舞を奉納したが、99人までは雨が降らず最後に静が舞ったときに雨が降った。これを見た後白河法皇が『日本一の舞』と絶賛した。
 この雨乞いの儀式に参列していた義経は、静の美しさが忘れられず、その夜、堀川の館に静を呼んで宴を催した。これが義経と静との最初の出会いである」
というもので、静が舞った処が善女竜王堂の舞殿で、義経とは池の畔で出合ったという。
神泉苑/善女竜王社・舞殿
善女竜王社・舞殿
 一方、この話の原典と思われる、室町初期の軍記物・義経記(ギケイキ)によれば、
 「吉野家まで義経と別れた静は、山中をさまよって金峰山寺にたどり着いた。寺では法要が催され、各種の芸能が奉納されていた。静も僧たちに強要されて義経を偲ぶ舞を舞ったが、それを見た僧侶たちは『この女人は夫を恋い慕っているが、夫は誰だろう』といぶかしがった。その時、治部の法眼という者が、『舞が上手なのは当然だ。この女人こそ、あの有名な静御前だ。一年ほど前、都で日照りが続いたとき、後白河法皇の御幸があって、百人の白拍子が雨乞いに集まった。そのなかで静が舞ったあと3日間も大雨が降ったので、日本一との宣旨が下された』といった。(この後、静が捕らえられて京へ送られたと続く)
とあり、義経との出会いは記されていない。

 ある資料によれば、静が舞った雨乞いは寿永元年(1182)のこととあるが、この年の都は平家の天下であり、義経はまだ都に現れていない(義経が都に現れたのは寿永3年)。両者とも、“講談師、見てきたように講釈し”の類であろう。

◎本堂:観音堂
 苑内の左手(西側)、池を挟んで善女竜王社の左に建つのが、当苑の本堂にあたる『観音堂』で、本尊は“聖観音菩薩”。
 当本堂の建立時期・由緒などは不明。堂前の石燈籠に“弘法大師”とあることからみて、東寺の管轄下に入った後の建立かもしれない。

 因みに、観音菩薩は水辺の岩上に立つなど水に縁が深く、当苑の本尊とされる縁はある。
 なお、本堂と善女竜王社を結ぶのが真紅の太鼓橋・『法成橋』(ホウジョウバシ)で、傍らの案内には、
 当苑の守護札を胸に抱き。「心に願いを念じながら橋を渡り、橋向こうの善女竜王様にお願いすると叶うといわれている(願い事は一つだけ)」
とある。その横に小さく「守護札は寺務所にあり、500円」とあるのが面白い。

◎恵方社(エホウシャ)
 大鳥居から善女竜王社へ至る堤道の途中に、『恵方社』なる小祠がある。
 案内には、
 「日本唯一の恵方社。神泉苑の歳徳神。平成21年の恵方は寅卯(東北東)の方角です。その方角に向かって礼拝し、幸福を授かって下さい」
とある。毎年、社殿を礼拝すれば、その方角が、その年の恵方に向かうように、社殿の向きを回すらしい。
 恵方とは、古くは正月の神(先祖の霊でもある)がやってくる方角を指したが、後には、その年の歳徳神(サイトクシン、福徳を司る吉神)の居る方角を指すようになり、その方角に向かって礼拝すれば福を授かるとされた。その年の恵方の方角にある神社に初詣するのは、この俗信による。

恵方社
 関西(大阪中心)で、節分の夜に恵方に向かって、巻き寿司を無言で丸かじりすれば福が来るという。巻き寿司に七種の具を巻き込むことから、七福神を呼び込むともいうが、ここ近年に始まった俗信。
 “恵方の向かって”というのは一理あるとしても、本来、恵方と巻き寿司とは関係なく、“寿司(あるいは海苔)を売らんかな”という商魂からきたものだろう。

◎弁財天堂
 大鳥居を入って右手(東側)、池を背に建つ小堂。案内には
 「神泉苑の弁天様は、安岐の宮島・京都繁昌神社の弁財天と同体で日本三体といわれており、悪縁を切り、良縁を結び、商売繁盛の神様」
とあり、堂前の木札には『増運弁財天』とある。
 弁財天の原姿は、インドの聖河・サラスヴァティを神格化した女神で、仏教では『弁才天』と記す。川の女神・水の女神から展開した弁舌の神・音楽の神・芸術の神というのが本来の神格だが、水→豊穣→富貴ということから福神的神格が付加されて『弁財天』として信仰されることが多い。福を招くとされる七福神中唯一の女神。案内には、
 「滞りない弁舌を以て、仏を広め、寿命を守り、財宝を得させてくれる無碍融通の神」
とあり、また
 「弘法大師が大日如来に祈願して、『最上の護法神には誰が相応しいか』と尋ね、『弁財天に如くはなし』との教示をうけて祀った」
とあるが、弘法大師云々は後付で、本来は、神泉苑・法成就池の守護神として水の女神・弁才天を祀ったものであろう。

神泉苑/弁財天堂
弁財天堂
神泉苑/弁財天堂・本殿
弁財天堂・本殿

◎矢剱大明神社ヤツルギ ダイミョウジン
 弁財天堂を過ぎた先、池の東南畔に鎮座する小社。朱塗り鳥居の奥に朱塗りの社殿が鎮座しているが、何らの案内もなく、祭神の神格・鎮座縁起など不明。

 社名“矢剱”からみて
、「当苑で行われた雨乞い祈祷に敗れた守敏が、空海に向かって矢を放ったとき、黒衣の僧が身代わりとなってその矢を受け、空海は難を免れた。その黒衣の僧とは、実は地蔵菩薩で、いつしか『矢取地蔵』と呼ばれるようになった」
との伝承に関係するのかもしれない。矢取地蔵は、いわゆる“身代わり地蔵”の類で、誰かの身代わりに、地蔵(あるいは観音など)が禍を引き受けたという話は各地に多い。矢取地蔵は、既に別の処(現−市バス・羅生門前)に祀られているから、当社は“大明神”(仏教からみた神名)と名づけて祀ったともとれる。
神泉苑/矢剱大明神社

◎謡曲・鷺
 大鳥居脇の御池通沿いに立つ案内板に、
「源平盛衰記には、醍醐天皇の時代、(天皇の)宣旨に鷺さえも羽をたたんでかしこまった話があり、それを元にしたのが謡曲・鷺である」(大意)との説明がある。

 謡曲・鷺の粗筋は、
 「夏の夕暮れ、神泉苑に行幸した帝が、琵琶湖に似た美景をみせる池を讃え、池の畔にいる鷺を捕らえよとの宣旨を下す。蔵人が近づくと鷺は驚いて飛び立つが、勅令の旨が伝えられると、羽根を垂れ地に伏した。蔵人が抱きかかえて帝の叡覧に供したところ、御感あった帝は、蔵人と鷺の両者に五位の位を授けた。官位をうけた鷺は喜びの舞を舞い、飛び去っていった」
というもので、ここで五位の官位が下されたことから、“五位鷺”(ゴイサギ)の名が生まれたという。

 未だ実見していないが、面(オモテ)をつけない直面(ヒタメン)のシテ(主役=鷺の霊)が、全身真っ白の衣装で舞う“鷺乱”(サギミダレ)の舞は優雅だという。
謡曲・鷺/鷺乱の舞
鷺乱の舞(資料転写)

トップページへ戻る