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獅子窟寺−ロゴ

参詣日:2007.10.7

所在地:大阪府交野市私市
本尊 :薬師如来座像(国宝)
宗派:真言宗高野山派

 『普見山獅子窟寺』は、JR学研都市線・河内磐船駅および京阪交野線・河内森駅から東南約1.6kmの山中に位置する。

※創建縁起
 寺伝によれば、
 「開基は役小角〈エンノオヅヌ、役行者ともいう〉と伝えられ、聖武天皇の勅願をうけた僧・行基が堂舎を建て(8世紀前半か)、その後、空海がこの寺で修行した」
という。
 室町時代には堂舎12坊をもつ大寺であったが、大阪夏の陣(1615)の直前、当寺が大阪方への荷担を拒否したため兵火にかかり、全山の堂舎・記録の一切を焼失したため、確たる縁起・規模などは不明。

 当寺は人里離れた山中にある山寺である。わが国仏教徒による山岳修行は7世紀半ば頃から始まったというが、律令政府は私度僧による山岳修行を禁じる一方で、官僧には一定の統制のもとでのそれを許し、各地に修行拠点としての山寺を建てられたという。当寺も、そのひとつだったと思われ、聖武天の勅願による行基創建というのはほぼ妥当かと思われるが、その規模は不明。
 なお、当寺の本尊・薬師如来座像(カヤ一本造・H=93cm)が、その様式から9世紀中期以降の作と推定されることからみると、9世紀はじめには本格的な堂舎を備えていたと思われる。

※巡拝記

 駅から寺までの道筋、初めの1qは住宅地内を通るが、参道にかかると、ややきつい坂道が続く。山腹を切り通した参道の両側には樹木が生い茂り、見通しはよくない。
獅子窟寺−参道入口の石碑 【参 道】
 参道入口には、地蔵像(1741年建立の銘あり)をはさんで石碑2基が立つ。摩耗しているが、左の石碑は「獅子窟寺」、右のそれは「従是(是より)六丁」(約600m余)と読める。
 参道脇には“丁石”が4基残っているが、1基を除き半ば土に埋もれていて、注意しないと見おとす。
 途中に、赤い涎掛けをかけた“地蔵像”が立っている。肩から上が欠けているのは、明治初年の神仏分離によって上部を打ち欠いたものという。地元では「安産地蔵」と呼び、臨月の妊婦が安産と豊かな乳の出を祈ったという。
  
獅子窟寺−仁王門跡 【仁王門跡】
 かつての獅子窟寺山門跡。山門両脇の仁王像が立っていた跡を示す石組みは古来からのものだが、周りの石組みは近世のものという。
 境内に入った処に、『聖武天皇御願、行基菩薩開基、役行者、弘法大師修行旧跡』との石碑および『当山禁殺生、制酒辛』と刻した結界石あり。
 なお、当山門に立っていた仁王像2躰は、今、本堂内に移されている。
獅子窟寺−本殿 【本 堂】
 今、往古からの堂舎のうち残っているのは『本堂』(薬師堂)のみ。鎌倉時代、当寺の薬師如来に病気治癒を祈った亀山上皇(1274〜86)が、平癒を感謝して、その頃荒れていた当寺を再建したと伝える。大阪夏の陣で焼失、その後、江戸時代なって再々建したが、往時の十分の一にも及ばなかったという。今の本堂はその時のものというが、星霜を経た今は屋根など各処にだいぶ痛みがみえる。
なお本堂の右手はなれた処に、国宝・薬師如来座像を収める収納庫がある(事前に連絡しておけば拝観できる)
獅子窟寺−本殿内陣 【本堂内陣】
 薄暗い内陣には仏像2躰が並んでいる。左の如来形立像は古くから当寺に伝わる『薬師如来立像』(高約1m、国宝とは別の薬師像)だろうが、右の菩薩系座像の尊名不詳。当寺が真言宗に属することからみて“大日如来像”かもしれない。


 内陣須弥壇背後の板戸に菩薩像が描かれ、その前に幾つかの位牌が置かれている。菩薩像は、右手に剣を立て、左手には羂索(数珠か)をもって蓮華座の上に座し、真っ赤な大輪と水色の小輪を背負っている。太陽と月を表しているのかもしれない。
 普通、須弥壇背後に祀られている神仏を“後戸(ウシロト)の神”と呼ぶが、その性格は多種多様で一様ではない。この菩薩もそのひとつだろうが、尊名・鎮座由来など不詳。
獅子窟寺−後戸の神
獅子窟寺−仁王像 【仁王像】
 かつて仁王門にあった像。今は本堂内の左右に坐す。
 仁王(二王)とは、もともと釈尊を傍らにあって守護する単独の尊格(執金剛神)だったものが、中国に入って、寺門(仁王門)の左右にあって、邪霊の侵入から寺院(本尊)を護る一対の尊格となったという。
 その性格から、他を威嚇する表情・姿態を誇張して表し、口を開けた阿形(向かって左)は怒りを表に顕した姿、口を閉ざした吽形(右)は怒りを内に秘めた姿を表すという。
また阿形が死を、吽形が生(再生)を象徴するともいわれ、本来は1体のものがふたつに分かれて表現されたものという。
獅子窟寺−イワクラ1 【磐座(イワクラ)
 交野地方には、磐座神社をはじめとして巨岩が多い。それらの巨岩を磐座と呼ぶ。磐座とは、古く、その岩にカミが降臨するとされた霊地で、そこにカミを招いて祭祀が繰りかえされることから、その巨岩自体も神聖なものとして崇拝された。
 本堂左に数個の巨岩が重なりあった磐座がある。当地の磐座の中心となるもので、金剛般若窟あるいは獅子宝窟と呼ばれる。伝承では、「弘法大師が私市の観音寺で修行されていたとき、ある夜、山の手に光明が輝いた。夜が明けて山に登り、獅子窟寺の獅子の窟で仏眼尊の秘法を修されると、大空から七曜の星(北斗七星)が、星田の高岡山にある星の森、光林寺の森、妙見山の頂きの3ヶ所に降ってきた」(星田妙見縁起)とあり、大師が仏眼の秘法を修せられた地が、この磐座だという。
 注連縄を張った磐座の前に宝篋印塔を置くもの、隙間に石仏が置くものなどがあり、当磐座が単なる自然現象としての岩場ではなく、聖なる霊地であることを示している。
 本堂の周りにも幾つかの磐座が座っている。これらもまた、カミが坐す霊地として崇拝されていた磐座であろう。
獅子窟寺−イワクラ2
獅子窟寺−梵字イワクラ 【梵字(ボンジ)石碑】
 道路側の磐座前に「梵字」を刻した石碑が立ち、蓮華座の上に「アビラウンケン」との梵字・五文字が刻されている。大日如来の真言(マントラ)といわれるもので、説明には、「この五文字は宇宙の要素(地水木風空)を表し、四魔を降伏させる金剛(最強)の文字である。この真言を唱えることで、すべてのことが成就する」とある。真言とは、インドで神に捧げられたサンスクリット語(梵語)で唱える神聖な呪句をそのまま写したもので、意味は不明。その意味を云々するより、所願成就を信じてただ唱えることが大切なのかもしれない。
 蓮華座の下には「永禄6年(1563)3月12日、一結衆11名が逆修供養のためこれを建立した」と刻されているというが、判読不能。逆修供養とは、生きているうちに死後の浄土往生を願っておこなう仏事。
[下写真]
 梵字石碑拡大およびアビラウンケンの五文字(梵字)
獅子窟寺−天福岩 【宝篋印塔(ホウキョウイントウ)−−天福岩
 本堂右手に磐座があり、その上に『宝篋印塔』が1基立っている。宝篋印塔とは、陀羅尼(ダラニ)などを収める仏塔の一種だが、後世には供養塔・墓碑として用いられた。当寺の境内や参道脇にも古いものがいくつか見うけられる。
 この塔が立っている巨岩は『天福岩』と呼ばれ、説明には「昔から災いを転じて福をなすと伝えられ、この岩を両手でしっかりと抱いて、願い事を3回唱えると所願が成就すると伝えられている」とある。古代の磐座信仰が形を変えたものといっていい。
獅子窟寺−王の墓 【王の墓(百重ガ原陵)
 往路、仁王門跡の脇から左へ、藪の中の小径を下った先に『王の墓』がある(標識あり)。亀山上皇とその皇后の墓と伝えられている。
 この墓陵について交野市史には、「亀山上皇は疾病をお持ちであったが、熊野に参詣されたとき叔父の静仁法親王にお逢いになり、法親王が祈願されて験のあった獅子窟寺の薬師如来の話をお聞きになったので、交野の私市に行幸になり、獅子窟寺下の行在所に滞在して病の治癒を祈願されたところ、平癒された。喜ばれた上皇は、荒れていた当寺を再建し寺領を寄進された。
 上皇が崩御されたとき(1305)、上皇の徳をしたっていた住民たちが寺領内の百重が原を均して上皇とその后のために2基の宝塔を建てて供養した」(大意)とある。
 簡単な竹矢来に囲まれ一段高くなった区画に2基の墓碑が並んでいる。本来は古式の五輪塔かと思われるが、下から2段目の水輪部(丸形)を欠いているので、ずんぐりとうずくまった感じを与える。百重ガ原陵ともいうが、公式の陵ではなく地元民が祀る私的な墓陵である。 
獅子窟寺−墓碑群 【墓碑群】
 王の墓への小径の脇に十数基の墓碑が並んでいる。いずれも古いもので、卵形・墓石形・宝篋印塔もあるが五輪塔が多く、脇に“六地蔵”が並んでいる。資料では『獅子窟寺累代住職の墓』というが、何らの標識もない。ただ各墓碑には、まだ新しいマキの小枝が捧げられていたので、お詣りする人はあるらしい。

[追記](2008.12.21)
 江戸時代の観光ガイドブック・『河内名所図会』(享和元年1801刊、平成2年復刊)には、以下のように記す(抜粋)

 普賢山獅子窟寺  私市村の山峯八町にあり。真言立宗。
 清仁法親王獅子の岩屋に籠り侍る折に、まかりて帰るとて読侍ける。
  「夜もすがら わけつる道の露しげく 思ひおくにそ 袖はぬれける」(新後集)
 本尊薬師仏 行基作。 座像 長(ミタケ)三尺許(アマリ)。又 頻頭廬尊(ビンヅル尊)を本堂に安す。雨を祈るに、かならず霊応あり。夏日、旱魃(ヒデリ)の時、この尊像を鮎返の滝にさかしまにつりて、雨を祈る事数日なり。
・獅子窟(シシのイハヤ)  本堂の北にあり。中台金剛大般若窟と称す。
・亀山院陵  本堂より坂路壱町半許、北にあり。〔前王廟陵記〕に見へず。ここに車駕をめぐらし給ふ時、喜捨あり。其報恩の為に塔を建るものならん。亀山院は山州嵯峨亀山の上にて火葬し奉る。御骨を淨金剛院、南禅寺、金剛寺の三所に蔵(オサ)む。
・皇后墓  帝陵の側にあり。亀山帝の皇妃ならんか。これも酬恩のために建るもの也。
・鎮守  八幡宮 弁財天、金比羅権現、倶に岩上に祭る。
・宝篋印塔  当山の中に廿一箇所あり。

 当山記に曰く、寺の主山の形 獅子が蹲った姿に肖(ニ)たり。(中略) 昔、役行者が金剛山に居られたとき、遙か、この山に五彩の霊気が立ちのぼるを見て、錫を飛ばして此の地に至り、切り拓きて、一日、窟中に宴座し、首をあげて観見すると、この地が浄瑠璃世界に変じた。爾後、この山を指して薬師如来の浄土とす。
 聖武邸の御宇、僧正行基、勅願を承けて梵刹(ボンサツ・堂舎)を創し、宸旦(シンタン・中国)の五台に準じて、四隅の峰を四台と標し、この山を名づけて中台とす。復命じて、金剛般若窟といふ。
 窟前に広堂数間を構(カマ)ふ。又、経蔵・鐘楼・食堂(ジキドウ)・僧寮・二層の塔婆・鎮守の神祠・弁財天祠等を建て、堂の左右に列(ツラナ)る。又一堂あり。中に聖徳王・役小角・行基の三像を安ず。外に 二金剛の門を設く。山場四至の結界に各(オノオノ)宝篋印塔を造立して、当山の鎮とす。山間に観音巖・徳雲石・大黒石・掛笈石(オイカケイシ)・鏡石・龍窟等の霊蹟あり。其の僧坊、全て十二院。
 その後、百有余年を暦(ヘ)て、天長中、弘法大師がこの山に寓し、壇を立て、仏眼明妃の法を修す。三昧成就の時、七陽降下して山林に照輝す。又表して、獅子宝冠、仏母尊の居所となす。(中略)
 亀山上皇、玉体不予なり。これを熊野権現に祷(イノ)る。権現、夢に告げて曰(ノタマハク)、聖体の安康を保んとならば、獅子窟の薬師仏に祈るべし。上皇、車駕をめぐらして臨幸し給ひ、至誠祈祷したまふ。いまだ幾ばくならずして皇疾治癒し給ふ。叡情大ひに歓びたまひ、有司に命じて、重ねてその廃を興し、殿堂一新す。山下二里許に行宮の故基あり、今呼んで、院田里観音寺といふ。
 又、山右の下に古石塔婆二基あり。荒草涼煙の中に屹立す。其の一は皇陵たり。其の一は后墓也。
 其の後三百余の星霜を経て、文禄・慶長の騒擾の中、兵の為に毀(ヤブ)られ、金碧の区変じて瓦礫の場となる。

河内名所図会・獅子窟寺

 資料では、江戸時代再興の堂舎は往古の十分の一にも及ばなかったというが、図会の案内によれば、僧坊・堂舎の数も多く、境内中央に薬師堂のみを残す現状に比べて雲泥の感がある。ただ絵図には、中央薬師堂の右手に数棟の建物を記すのみで、案内と少し違う。簡略化したものか。
 絵図の薬師堂右手に宝篋印塔を戴く岩が見える。その位置からみて、今、天福石と呼んでいるものだろうが、案内では「天福石 一名・大黒石 阪路の半(ナカバ)にあり」とあり、位置が異なっている。また本堂左手奥に「八幡宮」がある。神仏習合時の鎮守社だが、今はない。明治の神仏分離で廃されたらしい。
 薬師堂裏に、誇張された巨巌がそそり立っている。その前に小祠があり、「ベンテン・コンピラ」の書き込みがあるが、現在、これに相当するものは見えない。

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