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獅子窟寺
大阪府交野市私市
本尊 :薬師如来座像(国宝)
宗派:真言宗高野山派
                                             2017.10.07参詣・2020.11.26再訪

 『普見山獅子窟寺』は、JR学研都市線・河内磐船駅および京阪交野線・河内森駅から東南約1.6kmの山中に位置する。

※創建縁起
 境内掲示の「獅子窟寺とその周辺」との案内には、
 「この寺は普見山獅子窟寺(フミサン シシクツジ)といい、真言宗高野山派に属する。
 開基は役小角(エンノオヅヌ)と伝えられ、本尊薬師如来座像は弘仁期(810--24・平安前期)の榧材(カヤザイ)の一本造りで国宝である。
 聖武天皇の勅願を受けた僧行基が堂塔を建て金剛般若窟(コンゴウハンニャクツ)といった。その後に空海もこの山で修行した。

 亀山上皇(1249--1305)は、この薬師仏に病気平癒を祈られ全快された喜びに、荒廃していた寺を立派に再建された。
 嘉吉3年(1305)上皇崩御の時、その徳をしのんで王の墓が建てられた。

 元和元年(1615)兵火のために全山十二院が焼失し(大坂夏の陣に際して、当寺が大坂方への加担を拒否したため焼かれたともいう)、中興光影和尚によって再建されたが、以前の十分の一にも及ばなかった。現在の寺は、その当時のものである。
 百重原の地名が示す地形の優秀さと、国宝薬師仏がこの寺のよさを教えている」

 大阪府全志(1922)には、
 「普見山は北河内郡磐船村の東部にあり。山峯秀麗にして層巒畳翠せり。
 山名は獅子窟寺の山号普見山に因めるものならん。寺は山の半腹にありて其の名は復た獅子窟のあるに依れり。
 真言宗大覚寺派山城国槙尾山西明寺末にして薬師如来を本尊とす。僧正行基の開基なり。
 寺伝にいふ、初め役小角金剛山より錫を飛ばして此に来りて薬師如来の浄土となせしが、
 聖武天皇の御宇行基は勅命を承けて此に来り、梵刹を草創して自作の薬師仏を安じ、堂塔の外僧坊十二院を置き、荘厳佳麗を極め、
 後、天長年中弘法大師も此に寓し、壇を立てて仏眼明妃の法を修し、降て文応・弘長の頃に至りて大に衰兆を呈せしが、
 偶亀山上皇は御不予中霊夢に感じて臨幸し、祈願あらせられて御平癒ありしかば、有司に命じて既廃を興し、殿堂門廡復た煥然として復旧一新せり。
 正平年間に至り、当寺衆徒は津田城主中原範高に属して、尊延寺衆徒・津田寺衆徒及び交野の三十九士と共に楠正儀に扶持せられしといへば、其の衆徒は武人に伍して兵馬の巷に威を振ひしものならん。
 文禄・天正の頃より復た衰微し来りしも、南遊紀行に仏堂美麗なりと見ゆれば、元禄の頃迄は昔の俤を残せしものなるべし。今は荒廃して凄燈の低く迷へるのみ。(以下略)
とある。

 また、河内名所図会(1801)には、当山記に曰くとして
 ・寺の主山の形 獅子が蹲った姿に肖(ニ)たり。(中略) 昔、役行者が金剛山に居られたとき、遙か、この山に五彩の霊気が立ちのぼるを見て、錫を飛ばして此の地に至り、切り拓きて、一日、窟中に宴座し、首をあげて観見すると、この地が浄瑠璃世界に変じた。爾後、この山を指して薬師如来の浄土とす。
 ・聖武邸の御宇、僧正行基、勅願を承けて梵刹(ボンサツ・堂舎)を創し、宸旦(シンタン・中国)の五台に準じて、四隅の峰を四台と標し、この山を名づけて中台とす。復命じて、金剛般若窟といふ。
 ・窟前に広堂数間を構(カマ)ふ。又、経蔵・鐘楼・食堂(ジキドウ)・僧寮・二層の塔婆・鎮守の神祠・弁財天祠等を建て、堂の左右に列る。又一堂あり。中に聖徳王・役小角・行基の三像を安ず。
 ・外に 二金剛の門を設く。山場四至の結界に各(オノオノ)宝篋印塔を造立して、当山の鎮とす。
 ・山間に観音巖・徳雲石・大黒石・掛笈石(オイカケイシ)・鏡石・龍窟等の霊蹟あり。其の僧坊、全て十二院
とあるが(抄紀)、これは大坂夏の陣での焼失以前の有様であって、その後再建された堂塔はかつての規模には遠く及ばなかったという。


※巡拝記
 駅から寺までの道筋、初めの1㎞は住宅地内を通るが、参道にかかると、ややきつい坂道が続く。
 山腹を切り通したような参道の両側には樹木が生い茂り、見通しはよくない(途中に展望台あり)

     
河内名所図会・獅子窟寺

◎参道 
  一般道から分岐する参道入口には、赤い前掛けを付けた小さな地蔵尊像(1741年建立の銘あり)をはさんで石碑2基が立つ。
 摩耗しているが、左の石碑は「獅子窟寺」、右の丁石(目的地までの距離を示す石碑)は「従是(是より)六丁」(約600m余)と読める。
 曾ての参道には一丁毎に丁石が立っていたが、今は此所の六丁丁石と途中の三丁丁石のみが残っている。

 
獅子窟寺・参道入口(右へ進む)
 
地蔵像と丁石 

 参道は山腹を切り開いた山道で(滑り止めを施したコンクリート舗装)、途中に「子安地蔵尊」が祀られている。
 この尊像は肩から上が欠けているが、これは明治初年の神仏分離に際して首から上を打ち欠いたためという。
 地元では「安産地蔵」と呼び、臨月の妊婦が安産と出産後の豊かな乳の出を祈ったという。

 
参道
 
同・三丁・丁石箇所
 
子安寺蔵尊像
 
同 左

◎仁王門跡
 三丁・丁石を過ぎた先の小広場にある低い基壇の中に、「仁王門跡」と書した木柱が立つ。
 かつての獅子窟寺山門跡で、両脇の仁王像が立っていた跡を示す石組みは古来からのものだが、周りの基壇は近世のものという。
 傍らに小さな石仏が立つ。地蔵尊像かと思われるが烈しく摩耗していてはっきりしない。
 なお、当山門に立っていた仁王像2躰は、今、本堂内に移されている。


仁王門跡 
 
同 左
 
地蔵尊像

◎本堂
 境内左に、大坂夏の陣で焼失したのを江戸時代に再建したという本堂(薬師堂)が南面して建つ。

 
本 堂
 
本堂側面 

 薄暗い内陣には仏像2躰が並んでいる。
 左の如来形立像は『薬師如来立像』(高約1m強、国宝とは別の薬師像)だろうが、右の菩薩系座像の尊名不詳。当寺が真言宗に属することからみて“大日如来像”かもしれない。
 下左の写真は10年前のもので、その時も見づらかったが、今は仏像前に設置された格子戸の格子が狭く、尊像は殆ど見えない。

 *後戸の佛
  内陣須弥壇背後の板戸に菩薩像が描かれ、その前に幾つかの位牌が置かれている。
 菩薩像は、右手に剣を立て、左手には羂索(数珠か)をもって蓮華座の上に座し、真っ赤な大輪と水色の小輪を背負っている。
 普通、須弥壇背後に祀られている神仏を“後戸(ウシロト)の神(仏)”と呼ぶが、その性格は多種多様で一様ではない。
 この菩薩もそのひとつだろうが、尊名・鎮座由来などは不明。

*国宝・薬師如来座像
 当寺本尊である国宝・薬師如来座像は、本堂右手の離れた処に建つ国宝薬師如来保存堂に納められていて自由拝観は不可能(正月3ヶ日に一般公開されるというが、通常は社務所横に門柵があって近寄れない)
 この薬師如来座像は、榧(カヤ)の一木造で高さ92cm、平安前期・弘仁期頃(810--24頃)を代表する座像という。
 この座像(下図右・資料転写)は、役小角(役行者、伝634--701)が一刀三礼のもと3年3ヶ月を費やして作製したとの資料もあるが、当座像が弘仁期(9世紀)の作であれば時代があわず、役行者に仮託した伝承とみるべきであろう。

 
内陣に坐す尊像
 
後戸の佛
 

*仁王尊像
 かつて仁王門にあった像で、今は本堂内の左右に坐す。
 仁王(二王)とは、もともと釈尊を傍らにあって守護する単独の尊格(執金剛神)だったものが、中国に入って、寺門(仁王門)の左右にあって、邪霊の侵入から寺院(本尊)を護る一対の尊格となったという。
 その性格から、他を威嚇する表情・姿態を誇張して表し、口を開けた阿形(向かって左)は怒りを表に顕した姿、口を閉ざした吽形(右)は怒りを内に秘めた姿を表すという。
 また阿形が死を、吽形が生(再生)を象徴するともいわれ、本来は1躰のものが2躰に分かれて表現されたという。

 
仁王像(阿形)
 
仁王像(吽形)

◎地蔵堂
 本殿の右にある堂舎。
 今は、前部に小さな地蔵像を祀る前堂が建ち、まわりも小像・切り紙などでにぎにぎしく飾り立てられているが、10年前の堂には錫杖をもった地蔵尊像1躰が立っているだけの簡素なものであった。


地蔵堂 
 
同・前堂(子供の地蔵像2躰が祀られている)
 
10年前の地蔵堂

◎磐座(イワクラ)
 当寺は、境内や本殿背後から左手にかけて巨岩が数多く座っている。
 これらの巨岩は磐座と呼ばれるもので、古く、その岩にカミが降臨するとされた霊地で、そこで神マツリがおこなわれるなど神聖なものとして崇拝された。

 本殿右前あるいは左の高所に数個の巨岩があり(下記)、本殿背後の崖にも幾つかの磐座が座っているが、これらは樹木に覆われていてよく見えない。

 磐座の前あるいは上に宝篋印塔や石仏を置くものがあり、当磐座が単なる自然現象としての岩場ではなく、聖なる霊地であることを示している。

*天福岩
 境内・本殿の右手にある巨岩で、案内には
 「当山境内には巨岩が数多くあります。これらの岩にはそれぞれ名前がついております。
 この岩は天福岩と云い、昔から災いを転じて福となすと伝えられております。
 お願いごとの時は、この岩を両手でしっかりと抱いて、自分の願いを一つだけ3回お唱えして下さい。そうすると諸願成就されると伝えられています」
とあり、巨岩の上に宝篋印塔(ホウキョウイントウ)が立っている(境内・参道の各所に印塔がある)

 
天福岩

岩上に立つ宝篋印塔
 
宝篋印塔

 宝篋印塔とは仏塔の一種で、宝篋印陀羅尼(ホウキョウインダラニ)を納めた塔をさし、インドのアショカ王が釈迦の遺骨を別けて納め全土に配った小塔が起原といわれ、わが国には中国を経て伝来し、鎌倉時代頃から墓あるいは供養塔として建立されるようになったという。
 宝篋印陀羅尼とは罪障消滅・延命長寿の功徳があるとされ、もし地獄へ堕ちても、子孫がこの経を唱えると、地獄の灼熱の池は一転して極楽の池となり、地獄の門は破れ、悟りへの道が開けるという。

 印塔は、大きく下から基礎・塔身・笠部・相輪に別れ、笠部の四隅に隅飾がついているのが普通の形で、時代が下るにつれ、隅飾の先端が四方に反ったというから、天福岩上の印塔は後年のものであろう。

*獅子岩
 本殿左の一段高い処に巨石数個が座っている。
 当地の磐座の中心となるもので、金剛般若窟あるいは獅子宝窟と呼ばれる。
 伝承では、「弘法大師が私市の観音寺で修行されていたとき、ある夜、山の手に光明が輝いた。夜が明けて山に登り、獅子窟寺の獅子の窟で仏眼尊の秘法を修されると、大空から七曜の星(北斗七星)が、星田の高岡山にある星の森、光林寺の森、妙見山の頂きの3ヶ所に降ってきた」(星田妙見縁起)とあり、大師がこの巨岩の前で仏眼の秘法を修せられたというが、案内表示なく詳細不明。

 3基のうち右の大小2基は接しており、その隙間に小さな仏像が置かれている。赤い前垂れを付けているが尊名は不祥。

 また、左の1基の前には梵字で“アビラウンケン”と刻した石碑が立ち、案内には
 「胎蔵界の大日如来の御真言で、この五つの文字は宇宙の要素〔地・水・火・風・空〕を表し、大日経には四魔を降伏し、一切智々(すべての諸尊)を満足する金剛の文字であると釈している。
 この五字を「□オン・帰依)・阿毘羅吽欠(アビラウンケン)・莎婆訶ソワカ・成就)」と唱えると、すべての事が成就されると云われている。
 蓮華座の下に、「永禄6年(1563)3月12日、逆修供養(ギャクシュウクヨウ・死んで極楽にいけるように生前に仏事を納める事)の為に建立した」
とあり、結衆11名の名が刻してあるというが判読不能。


表側の巨石3基 
 
右の2基
 
小仏像

巨岩の前に立つ石碑
   
アビラウンケン
の石碑
   
同・梵字

 上記巨石の裏・一段高くなった処にも数個の巨岩があり、最も大きな岩の前に「弁財天」と白抜きした赤い幟が立ち、巨岩を巡らした注連縄の下に小さな宝篋印塔がある。
 名所図会には、本堂左手に聳える巨岩の下に「ベン天・コンピラ」とあり、この巨岩を指すと思われる。

 その左隣の巨岩の下にも赤い前垂れを付けた尊像が座り、その左手の岩上にも宝篋印塔1基がみえる(下右)


弁天岩? 
 
下に宝篋印塔がみえる
 
左の巨岩

 ◎王の墓(百重ヶ原陵)
 仁王門跡から少し上った処に「王の墓」との案内が立ち、傍らの小路を下ってだいぶ行った先に墓所がある。

*お大師さまの水
 小路を入り少し行った処にある水場で、傍らの案内には、
 「何時の時代か、誰が云うとはなしに、この谷(男石と女石)から出る水を弘法大師の水やと云われてきた。
 この度、弘法大師1150年を記念して、有志の方々によって大きな石を動かし、その上に大師の石像を鎮めました。
 この水で手を洗い口をすすぎ禊ぎをし、大師さまのお徳をしのぶ滴水になれば幸せです。昭和59年1月吉日
とある。
 弘法太子像(何故か、赤い帽子を被り赤い前垂れを掛けている)足許の岩の間から湧き出る水を、竹筒で受けて流している。

 
王の墓への入口(左の小路を降る)

お大師さまの水 
 
同 左

*墓石群
 大師の水場前を過ぎた右手に、六地蔵像が並び(頭部の欠けたものもある)、その先に十数基の墓石が並んでいる。
 いずれも古いもので、卵形・墓石形・宝篋印塔・五輪塔などがあり、資料によれば『獅子窟寺累代住職の墓他』というが、何らの標識もない。


六地蔵 
 
墓石群(一部) 

*王の墓(百重ヶ原陵)
 墓石群前を過ぎ、細い山路を少し行った処に位置する(現地に案内等なし)
 これについて、大阪府全志には
 「獅子窟寺の本堂前なる亀山院の御寄附に成りしと伝ふる石磴を下り、仁王門の側より右折して細徑を進めば、二町許にして字・百重ヶ原に至る。
 鬱蒼せる老椎の下に拾弐坪許りの坦場あり、一段高くして前面に石垣を築き、背後は小丘を為せり。
 裡に二基の石塔あり、是れなん旧記に見ゆる亀山院の百重ヶ原御陵にして、里人は伝へて同院及び同皇后の御陵なりといふ。
 然れども亀山院は城州嵯峨亀山の上にて火葬し奉り、御骨を浄金剛院・南禅寺・金剛峯寺の三ヶ所に蔵められしといへば、名所図会の記せるが如く、車駕を廻せ給ひしとき御喜捨ありしを以て、其の報恩の為めに同天皇及び同皇后の塔を建てしものならんか」
とある。

 亀山上皇と当寺との関係について、河内名所図会には
 「適(タマタマ)、亀山上皇玉体不予なり。これを熊野権現に祈る。権現、夢に告て曰く、聖躬の安康を保たんとならば、則ち獅子窟の薬師仏に祈るべし、と。
 是に於いて、上皇、車駕をめぐらして臨幸し給ひ、至誠祈請したまふ。幾ばくならずして皇疾頓瘳す。叡慮情大ひに歓びたまひ、即ち有志に命じて、重ねて蕨廃を興す。(中略)
 又、山右崙崖の下に古石塔婆二基あり。荒草涼煙の中に屹立す。其一は皇陵たり、其一は后墓也」

 また交野市史には、
 「亀山上皇は疾病をお持ちであったが、熊野に参詣されたとき叔父の静仁法親王にお逢いになり、法親王が祈願されて験のあった獅子窟寺の薬師如来の話をお聞きになったので、交野の私市に行幸になり、獅子窟寺下の行在所に滞在して病の治癒を祈願されたところ、平癒された。喜ばれた上皇は、荒れていた当寺を再建し寺領を寄進された。
 上皇が崩御されたとき(1305)、上皇の徳を慕っていた住民たちが寺領内の百重が原を均して上皇とその后のために2基の宝塔を建てて供養した」
とある(大意)

 因みに、亀山天皇の公式陵墓は京都右京区の天龍寺内にあるという。

*現状
 今、墓域は荒れていて、崩れかけた石垣の上に2基の墓石が並んでいる。
 本来は古式の五輪塔かと思われるが、下から2段目の水輪部(丸形)を欠き、上部の傘高も低いためろ、ずんぐりとうずくまった感じを与える。
 百重ガ原陵ともいうが、公式の陵ではなく地元民が祀る私的な墓陵である。 

     

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