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庚申信仰/四天王寺・庚申堂
大阪市天王寺区堀越町
本尊:青面金剛童子(ショウメンコンゴウドウジ)
                                                           2007.7.24(庚申日)参詣

 大阪・四天王寺南大門から南へ約200mにあり、以前は四天王寺の末寺だったが、今は独立して『総本山四天王寺庚申堂』と称し、『本邦最初の庚申尊』を誇っている。

四天王寺庚申堂−山門
庚申堂・山門
  四天王寺庚申堂−本堂
庚申堂・本堂

※創建縁起
 庚申堂由来記によれば、
  『今から1300年ほど前、文武天皇の御代(697〜707・飛鳥時代)、わが国にはいろいろ疫病が流行り諸人が多いに悩み苦しみ、良医の薬や高僧の祈りを求めるなどさまざまなことをおこなったが何の効験もなかった。
 この頃、津の国四天王寺に僧都・豪範という貴い御僧があって、慈悲の心深く、広く人間の悩みを助けようと天に祈りつづけていた。
 そしたら天宝元年(701)庚申年の正月7日庚申の日に、年の頃16才くらいとおもわれる一人の童子が現れ、「帝釈天が、汝の人の悩みを憐れむ至誠を感じて、除災無病の方便を与えよ、との命により天から降ってきた」と告げた。
 豪範が、その時感得した青面金剛童子を祀ると、さしもの疫病も退散した』(大意)とあり、これが当庚申堂のはじまりであり庚申信仰のはじまりだという

 この大宝元年・庚申年の7日・庚申日をもって庚申信仰のはじまりとする縁起は、各種の庚申縁起等に引用されて半ば定説化しているが、大宝元年の干支は“辛丑”(カノトウシ)で正月7日のそれは“辛未”(カノトヒツジ)であってカノエサルではない。
 また教えをうけた僧の名も“豪範・住善・行法尊記”など縁起によって異なるし、その細部の内容にも開きが大きい。
 加えて、庚申信仰の本尊として青面金剛童子が登場するのは16世紀・室町時代からであって、飛鳥時代には礼拝対象としての神仏はなかったというのが定説となっている。
 また、この縁起には庚申信仰の原姿である三尸説の痕跡もみえず、庚申信仰が庶民の間に広まるにつれて疫病除けという身近な現世利益を求めるものに変貌していったことを示している。

 これらのことからみて、庚申信仰の始まりが飛鳥・大宝元年というのは、後の時代(室町時代か)になって作られた四天王寺関係者の偽作といわざるを得ない。ただ、室町時代の作といわれる「浪速往古図」に四天王寺庚申堂が描かれていることからみて、室町時代に実在していたのは確からしい。

※庚申堂本堂
 今の庚申堂は庚申日以外は閑散としているが、庚申日には蒟蒻炊きの出店なども出て参詣人もけっこう多い。初庚申日には護摩焚などもあって賑わうらしい。
 しかし江戸時代の「守貞漫稿」(喜田川守貞著1852)に『庚申日、大阪四天王寺庚申堂に群衆す。七種の麁菓(ソカ、お菓子)を紙三角形に包み12銭をもって参詣人に授く、毎戸々裡に張りて賊難の呪となす。又、庚申昆布と号て堂辺多く昆布を売り、また台を並べ燗酒に蒟蒻(コンニャク)の田楽を売る。是も盗難呪と云う』とあるように殷賑を極めたらしい。
 ただ盗難除けに験がある仏として信仰されていたようで、庚申本来の三尸説など影も形もみえない。

 今の本堂は、戦災で焼失して仮堂だったところへ千里万博の休憩所を移築したもの。
 普通の日は、正面奥の本尊を納める厨子の左右に四天王が立つだけの静かな雰囲気だが、庚申日には厨子の前に供物が並べられ、右前に本尊を描いた掛軸が掲げられている。天井からの灯籠に火が入るなど賑やかな雰囲気が醸しだされているが、普通の寺院のように林立する仏菩薩像からうける威圧感はない。
 仮堂時代には沢山の“くくり猿”が下がっていたというが今はない。当庚申堂には、庚申さんにつきものの“くくり猿”が見えないのが特徴といえる。

四天王寺庚申堂−青面金剛掛軸 ※青面金剛童子像・掛軸

 本尊・青面金剛童子像は秘仏として厳封されている。ご開帳は60年毎(庚申年毎、直近は昭和55年1980)とかで、堂に詰めておられる方も見たことがないという。
 ただ庚申日に掲げられる掛軸の絵で、その面影を見ることができる。
 この掛軸には、中央上段に火炎を背負う一面六臂の青面金剛童子が邪鬼(三尸虫か)を踏まえて立ち、その左右に童子2躰、その下に夜叉4躰、最下に三猿(見ざる・聞かざる・言わざる)が描かれている。かつて各地の庚申講で集まりの場に掲げ礼拝の対象としたものだという。
 なお下部の左右に4夜叉を配するのは、本尊を含めて経典「陀羅尼集経」に記す五夜叉を配したものといえる。
※三猿堂

 境内には木彫りの“見ざる・聞かざる・言わざる”を祀る『三猿堂』があり、庚申日には開帳されている。
 建物も三猿像もまだ新しい。

四天王寺庚申堂−三猿堂 四天王寺庚申堂−三猿

※庚申塔
 西壁沿いの一画には聖観音像(1960建立)を中心に、古い庚申塔や板碑が十数基集められている。
 資料(大阪春秋)によれば、江戸初期の寛文10年(1670)造立の塔が最も古く、ついで同12年・13年、元禄5年(1692)などがあり、最新は昭和15年(1940)の造立のものという。

 当庚申堂所蔵の庚申縁起に
  『一座と申すは三年に十八度なり。両三年目には供養を致すべし。供養といふは道の辺に塚をつき四方正面の卒塔婆(ソトバ)をたて供物をととのへ、往来の旅人にいたるまで是を施し、云々』
とあるように、庚申塔造立は古くからの風習という。
 これらの庚申塔・板碑は市内各地から集められたもので、大阪でも庚申信仰があったことを示唆している。

 並んでいる庚申塔には文字や三猿・鶏などが刻まれている。三猿は判別できるが文字はほとんどが摩耗していて判読困難。かろうじて判読できる天和4年甲子年(1685、江戸初期)のそれには、上に南無青面金剛、真ん中に三猿があり、下には「願主・江戸堀五丁目住民梶木勘治郎外二名・宿房秋野坊本願」と読める。
 また最近の昭和15年造立のそれには、三猿の下に「あしきこと見ざるきかざるは我身安全、親に庚申(孝心の意)、七十二歳、翠涛」とあるという(大阪春秋)。“あしきこと云々”からみて処世訓の一つともいえる。“我身安全、親に庚申”の文字は読めるものの、あまりの達筆のため他は読めない。

四天王寺庚申堂−庚申塔 四天王寺庚申堂−庚申塔 四天王寺庚申堂−庚申塔 四天王寺庚申堂−庚申塔

※蒟蒻・七色菓子・昆布
 先述の「守貞漫稿」に“庚申の日に七色菓子・昆布・蒟蒻を売る”とある。
 当庚申堂では、庚申日には出店が出て、大鍋で煮込んだコンニャクを売っているが(八坂の庚申堂でも売っていた)、七色菓子は三角形の“お守り”として授けている。ただ昆布は見かけなかった。

◎コンニャク
 俗信では『庚申の日に、心の中で願いことを念じながら北を向いて黙って食べると、その願い事は必ず叶う』という。また“良いご利益がある”“運が強くなる”“霊験あらたかである”“頭痛が治る”などともいう。
 何故、北を向いて蒟蒻を食べるかといえば、“庚申さんは南を向いているので、北を向いて祈る”のだとも“三尸の虫はコンニャクが嫌いだから”ともいうが、コンニャクは体内の砂を下すという俗信から、腹中にいる三尸の虫をコンニャクでもって払おうとするマジナイというのが本音であろう。

 また江戸時代、“労咳(ロウガイ、今の肺結核)の原因は三尸の虫とされ、医者は、それを予防するためにコンニャクを食するのを薦めた”という。当時、肺結核は『伝尸病』(デンシビョウ)とも呼ばれたから、三尸・サンシと伝尸・デンシの音が似ていることからの俗信という。

 この風俗は“北を向いて無言で”というのがミソだが、その由縁は不明。道教では、庚申日に天帝とされる北辰(北極星)へ無病息災を祈願したというから、それが形を変えたのかもしれない。
 この風俗がいつ頃からのものかも不明。ただ、江戸時代の風物誌などの庚申の項には必ずといっていいほどコンニャクが出てくるから、だいぶ古くからのものらしい。


コンニャクの出店

大鍋のコンニャク

◎七色菓子
 七色菓子とは、三猿を刷りこんだ三角形の包み紙に7種の駄菓子を包んだもので、江戸末期頃から盗難除けとされていたという。
 「天王寺伽藍記」(元禄2年1689刊)には、
  『庚申堂で、菓子を一銭で七色売るは、一心一念をもって仏の七徳を買うと申すこころなり』
とあるというから、これも古くからの風俗といえる。

 七色菓子は、もともと庚申尊に備えていた七種の供物を模したもので、そのお下がりをお菓子の形で売ったとか、中国で三尸の虫を除く良薬とされた“七物薬”が七種の菓子に変わったとか種々いわれているが、いずれも確たるものではない。。

◎昆布
 守貞漫稿には“昆布を売る”とあるが今は見かけない。
 江戸時代には、「庚申に求めた昆布を細く365筋(一年の日数)に切り、毎日食するとご婦人の髪の毛が濃くなる」との俗信があったという。
 せっかくの黒髪を茶色などに染める現今と違って、女性の髪は「カラスの濡れ羽色」すなわち真っ黒がいいとされていた時代性が感じられる俗信である。

◎盗難除け
 江戸時代の四天王寺庚申堂は“盗難除け”として信仰されていたらしいが、その由来は不明。
 盗難といえば、庚申信仰には次のようなタブーがある。
 例えば、「庚申尊縁起」には『さて庚申祭の前夜より肉食五辛を断ちて、精進潔白にして不浄の行をなさず。云々』とあり、また「下学集」(室町期・文安元年1444)には『此の夜夫婦淫を行へば、則孕む所の子、必ず盗となる。故に夫婦慎む所の夜なり』とある。
 これらでいっているのは、庚申の夜に孕んだ子供は必ず盗人となるから、男女同衾してはならない、ということで、同じことが近世の「女庭訓」(オンナテイキン)などにもあるという。
 このタブーは、江戸歌舞伎の“三人吉三郭初買”(サンニンキチザ・クルワノハツカイ)などの白浪(盗賊)ものの台詞に取り込まれるほど、巷間にひろく知られていたという。

 これらのコンニャクや七色菓子・食昆布といった風習は、いずれも三尸説では説明できないことで、特に、庚申の夜に男女同衾を禁ずるなどは、わが国のカミ信仰(祖霊信仰)にともなう厳しい精進に連なるものともいう。

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