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庚申信仰/四天王寺庚申堂
大阪市天王寺区堀越町 2-15
本尊:青面金剛童子(ショウメンコンゴウドウジ)
                                              2007.7.24(庚申日)参詣・2021.03.06再訪改訂

 大阪・四天王寺南大門から南へ出て旧庚申街道を南へ進んだ西側にある。
 以前は四天王寺の末寺だったが、今は独立して『総本山四天王寺庚申堂』と称し、『本邦最初の庚申尊』と称している。

※創建縁起
 頂いた参詣の栞には、
 「庚申堂は四天王寺南大門より南200mのところにあり、本尊は青面金剛童子を祀る。
 今から1200余年前、人皇第42代文武天皇の御代(697〜707・飛鳥時代)、大宝元年(701)春庚申の日はじめて本地を示し、我朝に降臨し給う。
 その由来をたずねると、この前、日本にいろいろ疫病が流行り、諸人大いにこれになやみ、良医の薬をもとめ、高僧の祈りなど様々であったが、なんの効果もなかった。

 この頃、津の国・四天王寺に民部の郷僧都・豪範(ゴウハン)という貴い御僧があって、慈悲の心深く、広く人間の悩みを助けようと天に祈る丹誠のあまり、あらたなる霊験を得て、諸人の悩みをまぬがれしめた。
 時に正月七日庚申の日であったが、年の頃16才くらいとおもわれる一人の童子が現れ、僧都の前で『帝釈天のおつかわしの者であるが、天の命によって汝の人の悩みを憐れむその至誠を感じて、我を天より下さしめ除災無病の方便を与えよう』とのお告げがあった。
 以来毫範阿闍梨の感得した青面金剛童子を祀ることになった。

 庚申の日は一年に6度或は7度あって、この日に青面金剛童子に祈れば必ず一願がかなえられ、特にこれを申の刻に行うと身も心も清浄になり、又百味の飲食を供えて本尊に念ずると、このよの罪科速やかに滅し、宿願が成就するのである。 
 これすなわち庚申の霊験といって、我が国庚申の始めであり、庚申を祀ろうとする者は、皆当寺に来て免許を得、尊天の分身を勧請するのを例としたのである」
とある

 この縁起の原本と思われるものに「庚申縁起」なるものがある。
 30数種の異本があり細部には異同もあるが、大筋は当社に残る「四天王寺庚申縁起」によっているという。

 その四天王寺庚申縁起の原本は見あたらないが、管見した四天王寺庚申縁起(飯田道夫著・庚申信仰-1989所載)によれば、
 ・文武天皇の御代、庚申の年・庚申の日に当たる大宝元年正月7日、四天王寺の行法尊記上人のもとに、年の頃16・7歳の童子が忽然と現れ、『我は帝釈天の使いなり。当寺は仏法最初の霊地なり。よって庚申の法を遍く弘めよとの勅旨なり。この法は天竺・震旦でも行われているものである』として次のように告げた。
 ・三界の衆生は迷い多く悟りも少ない。そのため現世で災難を受け、後生で悪道に沈むが、庚申待を行えば現当二世の諸願が成就する。

 ・庚申は年に6度ある。最初の庚申待で地獄道の苦を免れ、二度目で餓鬼道の苦を、三度目で畜生道の苦を、四度目で修羅道の苦をのがれ、五度目で人間の八苦の罪が減る。最後の庚申待は天上の五衰躰没の苦しみを救うためである。

 ・祭式は、灯明をともし、花を飾り、珍しい菓子などをお供えし、夜半には“まろき供物”と酒を供える。
 ・同夜は雑談などせず、腹を立てず、欲張ったことをいわず、色事を考えず、四足・二足・五辛のたぐいを口にしない。
 ・経に、庚申の夜、もし人が寝ると、三尸九虫が害をなすと書かれている。三尸九虫の害とは癲狂(テンキョウ)・癩瘡(ライソウ)・狂気の三病である。
 ・この虫を退治する呪文は、彭候子(ホウコウシ)・彭常子(ホウジョウシ)・命児子(ミョウジシ)・悉入窈冥(シツニュウヨウメイ)・去離我身(コリガシン)、これを正南に向かって三度唱える。
 ・また、“夜もすがら 我は寝ざるの此床に 寝たるも寝ぬぞ しんはまさるぞ”と、歯をならしながら三片唱う。これ、心中清むる大善根なり 
 ・こう言うと、童子は正面金剛の本体を現わし、姿を消した。

 ・そこで民部の僧都、正面金剛尊を絵に写し、木像をつくり、堂を建立して庚申の法の普及に努めた。
 ・この法によって、今生にては無病息災・子孫繁栄・寿命長達を得、来世にては極楽浄土の悟りを得ることができる。(以下略)
とあるという。

 この縁起は、前半は青面金剛尊の顕現、即ち当堂創建の由来となっているが、後半に記す庚申待祭祀の行法に重点が置かれているところが、一般の寺院縁起書とは異なっている。


 この大宝元年・庚申年の7日・庚申日をもって庚申信仰のはじまりとする縁起は、各種の庚申縁起等に引用されて半ば定説化しているが、大宝元年の干支は“辛丑”(カノトウシ)で正月7日のそれは“辛未”(カノトヒツジ)であってカノエサルではない。
 また教えをうけたという僧の名も“豪範・住善・行法尊記”など縁起によって異なっている。
 加えて、庚申信仰の本尊として青面金剛が登場するのは16世紀・室町時代からであって、飛鳥時代には礼拝対象としての神仏はなかったというのが定説となっている。
 また、この縁起には庚申信仰の原姿である三尸説に関する部分が少なく、庚申信仰が庶民の間に広まるにつれて疫病除けという身近な現世利益を求めるものに変貌していったことを示している。

 これらのことからみて、庚申信仰の始まりが飛鳥・大宝元年というのは、後の時代(室町時代か)になって作られた四天王寺関係者の偽作といわざるを得ない。
 ただ、室町時代の作といわれる「浪速往古図」に四天王寺庚申堂が描かれていることからみて、室町時代に実在していたのは確からしい。

◎庚申信仰の原点とみられるものに「三尸説」(サンシ)というものがある。
 「三尸」とは人の体内に住むという三匹の虫で、それぞれ頭部・腹部・脚部に潜むとされる。
 三尸説の初出は中国の古書・抱朴子(ホウボクシ・東晋の葛洪著・317)で、そこには
 「人の身中には三尸という虫がいる。三尸とは形がなく、実は霊魂・鬼神のたぐいである。
 この虫はその人を早く死なせたいと思っている。人が死ねば虫自体は幽霊となって思いのままに浮かれ歩き、死者を祭る供物を食べることができるからである。
 そこで庚申の日になると天に昇って司令(人の命数を司る神)に申し上げ、その人の犯した過失を報告する。
 罪の大きな者に対しては紀(300日)を奪う。罪の小さい者に対しては算(3日)を奪う」
とあるというが、葛洪が信じていたわけではなく、当時の俗信を伝えたものだろうという。

 司令(天帝ともいう)は、庚申の日には門戸を開いて多くの鬼神たちから人々の善悪の業を聞き、その功徳や罪過の程度に従って賞罰を科すが、その最たるものが寿命の伸縮である。

 人間は誰しも過ちはあることで、それを60日ごとに天帝に報告されて寿命が短くなるのは困るわけで、そのために
  「庚申の夜、三尸の虫が体内から抜け出られないように徹夜して過ごすことが必要」
と説くのが庚申信仰の骨子で、特定の神仏に祈るものではなく、ただ寝ないで過ごすという特異な宗教行為で、これを『守庚申』あるいは『庚申待』といった。

 ただ、青面金剛王垂迹記との古文書には、三尸について
 ・上尸−−彭侯子(彭光子)といい、その形、人の手の如く、その色は青黒く三億の眷族を領し、人の頭中に居り、名聞を好み、庚申の夜、人眠れば即ち青鬼と成り来たりて、命根の糸を繰り出し、人をして短命ならしむ
 ・中尸−−彭常子といい、その形、人の足の如く、色は青赤で三億の眷族を領し、人の腹中に居り、五臓を伐ち、悪事をなすことを好み、庚申の夜、人眠れば即ち馬形鬼と成り来りて人の気を吸い、横死或は頓死せしむ
 ・下尸−−命氏子(命児子)といい、その形、鶏子の如く、三億の眷族を領し、色白く人の足中にあり、色欲を好む。庚申の夜、人眠れば即ち白鬼と成り来りて男女の淫根を捜し、人をして淫乱ならしめ、流転の業を増さしむなり
と解説している。
 ここでの三尸虫は、庚申の夜に人の過失を天帝に報告するのではなく、三尸そのものが人を短命・頓死させ淫乱にするとあるり、三尸説が世を経るに従って変貌したものと思われる。

※本尊
    青面金剛童子(ショウメンコンゴウドウジ)

 本尊・青面金剛童子像は秘仏として厳封されている。
 ご開帳は60年毎に巡ってくる庚申年で(直近は昭和55年1980、次は2040年、本堂に詰めておられる方も見たことがないという。
 ただ庚申日に掲げられる掛軸の絵で、その面影を見ることができる。
 その掛軸によったと思われる下右の図会によれば、中央上段に火炎を背負う一面六ての青面金剛童子が邪鬼(三尸虫か)を踏まえて立ち、その左右に童子2躰、その下に夜叉4躰、最下に三猿(見ざる・聞かざる・言わざる)が描かれており、庚申待の場に掲げ礼拝の対象としたものという。

 なお当堂には「刺繍青面金剛画像」と称する掛軸(縦:152.3cm、幅:40.5cm、大阪市指定有形文化財)が所蔵されている。
 これは、延宝5年(1677)に信者が原本を写して製作し奉納したもので、庚申の日に本堂に掲げられる掛軸が是かと思われる。 

 
青面金剛童子
(参詣の栞転写)
 同 左
(資料転写)
 
刺繍青面金剛
画像
 
青面金剛像
(資料転写)

 青面金剛とは、仏教辞典(岩波版)によれば
 「庚申の日に祀られる夜叉神。帝釈天の使者で羅刹とともに毘沙門天の眷族となって北方を守護するとされ、三尸説と習合して庚申信仰の本尊となった。
 一身四手、頭部には髑髏を頂き、顔は3面、左の上手に三股叉 、下手に棒を握り、右の上手は輪、下手は羂索をとる。全身を青色で彩り、怒髪天をつく憤怒の相を現す」
というが、陀羅尼集経(第9)には
 「三眼の憤怒相で四臂、それぞれの手に三叉戟・棒・弓・矢・剣・錫杖・ショラケ(人間)を持ち、足下に二匹の邪鬼を踏まえ、両脇に二童子と四鬼神を伴う」(要約)
とあるといわれ(原文未確認)、他にも六臂・二臂・八臂のものもあり持ち物にも異相のものが多く、当堂本尊が如何なる儀軌によったものかは不明。

 青面金剛は庚申信仰の本尊というが、本来は無関係な神仏であり、
 ・元々、青面金剛は悪質な伝染病である伝尸病(デンシビョウ・現在の肺結核)を除く加持祈祷の本尊とされていた
 ・この病気にかかれば数ヶ月の内に死亡し、墓に葬られることもなく、山川荒野に捨てられたといわれるほど怖れられていた
 ・一方、陀羅尼集経によると、この病気を直すには、まず体内の三尸九虫を禁滅したのち薬を飲めば効果があると記され
 ・その三尸九虫を禁滅するということから、平安時代以降、青面金剛は三尸の虫を押さえ込む庚申信仰の本尊と考えられるようなったのではないか
という。

※境内
 四天王寺南大門から旧庚申街道を南に進んだ西側に東門が、次の辻を西へ入った北側に南門(正門)があり、傍らに『本邦最初 庚申尊』との標柱が立つ。

 
四天王寺庚申堂・南門(全景)
 
同・南門(正面)
 
同・東門

◎本堂
 境内中央、南門の正面に宝形造・銅板葺きの本堂が南面して建ち、堂の周囲には紺地に白く「四天王寺庚申堂 青面金剛童子」と染め抜いた幟が林立している。

 普通の日は、正面奥の本尊を納める厨子の左右に四天王が立つだけの静かな雰囲気だが、前回庚申日(2007.07)に訪れた際には、厨子の前に供物が並べられ、右前に本尊を描いた掛軸が掲げられ、天井からの灯籠に火が入るなど賑やかな雰囲気が醸しだされていた。ただ、普通の寺院のように、林立する仏菩薩像からうける威圧感はない。(本堂内は写真撮影禁止、下の写真は正面扉の外から撮ったもの)
 仮堂時代には沢山の“くくり猿”が下がっていたというが今はない。当庚申堂は、庚申さんにつきものの“くくり猿”が見えないのが特徴といえる。

 
同・本堂(正面)
 
同・本堂(側面)
 
同・内陣(正面扉の外より)

 当堂本殿の建立時期について、資料によれば
 ・元和4年(1618)−−本堂建立
 ・昭和20年(1945)−−戦災により焼失 その後は仮堂を以て是に充てた
 ・昭和45年(1970)−−大阪万博時に会場内に休憩所として設けられた法輪堂を、万博終了後に庚申堂本堂として移築
というが、元和4年以前の様子は不明。

 なお、摂津名所図会(1798)に「天王寺 庚申堂」として下の絵図が載せられており、広い境内中央に描かれている重層屋根の堂々たる建物が元和4年建立の本堂と思われる。

   
本堂部分・拡大

◎三猿堂
 本堂の左、境内西側に「三猿堂」があり、中に、向かって左から“聞かざる・言わざる・見ざる”の「三猿像」が鎮座し、拝所の壁には願い事を記した絵馬が掛かっている。
 見ざる・聞かざる・言わざるとは、“悪いことは見ない・聞かない・言わない”という教えを、目・耳・口を塞いだ3匹の猿の姿で表したもので、処世訓のひとつである。

 
三猿堂
 
三猿(左から聞か猿、言わ猿・見猿)
 
三猿の絵馬
(裏に願い事を書く)

 庚申信仰には三猿が付きものだが、その由縁は不祥。
 管見した数少ない資料によれば、概略
 ・7世紀の古代インドに既に三猿像があったといわれ、三猿の発祥地は古代オリエントと推測できる
 ・それが中国を経てわが国に伝来したようで、その招来者は天台系の僧侶ではなかったか
 ・三猿が庚申信仰に取り込まれたのは室町時代頃といわれるが、江戸時代になると庚申塔などに三猿像が描かれるようになった
 ・一時は、三猿を以て庚申信仰の本尊と目されたようだが、青面金剛が本尊化するにともない、その神使と化していった
というが、その由縁等については諸説があって判然としない。

◎庚申塔
 境内西の壁沿いの一画には聖観音像(1960建立)を中心に、古い庚申塔や板碑が十数基集められている。

 
庚申塔・板碑集積場

聖観音像 
 
観音像左の庚申塔(板碑)

 庚申塔とは、上記の四天王寺庚申縁起に
 「庚申待は3年に18度で、これを一座という。3年目には供養しなければならない。
 供養といふのは、道のほとりに塚を設け、四方正面の卒塔婆(ソトバ)をたて供物をすることで、往来の旅人もこれを施しをすることで、そうすれば七難即滅・七福即成のご利益がある」
とあるように、3年18回の庚申待を滞りなく行った記念として建立したものという

 これらの庚申塔・板碑は市内各地から集められたもののようで、並んでいる庚申塔には「奉○○」との文字だけのものもあるが、大半の塔には三猿像が刻まれている(下部に鶏を刻むものもある)。三猿は判別できるが文字はほとんどが摩耗していて判読困難。

 建立年を刻したものが数基あり、最古の庚申塔とされる江戸初期の寛文10年(1670)の他、天和4年(1684)・元禄5年(1692)のものが、かろうじて判読できる。
 ・寛文10年銘庚申塔−−三猿像の下、中央に□州江戸住人、右に寛文十庚戌年、左に三月三日とあり、
 ・天和4年銘庚申塔−−青い平石の上部に南無青面金剛、右に天和四甲子年、左に二月六日とあり、その下・三猿像の右下に願主江戸堀川住人とあり願主3名の名が刻まれている。
 ・元禄5年銘庚申塔−−三猿の下に刻まれた元禄五年がかろうじて読めるだけで他は判読不能
 ・また、最近の庚申塔は平成3年建立のもので、梵字の下に「奉修三猿供養塔 二月吉日」との文字が刻まれている。
 なお、当庚申塔群は大阪市有形民俗文化財に指定されている(平成24年)

 
庚申塔群列

三猿像
 
寛文10年銘の庚申塔

三猿像 

 
庚申塔(紀年銘なし)

 
元禄5年銘の庚申塔(左)
(下に鶏2羽がみえる)


天和4年銘の庚申塔 (右)

◎庚申待(コウシンマチ)
 庚申の夜、講の人たちが集まり徹夜して供養することを「庚申待」といった。

 当庚申堂における庚申日について
*摂津名所図会(1798)
 「庚申堂  南大門の南にあり。青面金剛三申・梵天帝釈四鬼・薬師如来・如意輪観音・地蔵菩薩を安置す。
 庚申の日毎に参詣人大いに群をなせり。・・・」
とあり、当日の賑わいの有様を下図のように描いている。
 また
*江戸時代の「守貞漫稿」(喜田川守貞著1852)
 「庚申日、大阪四天王寺庚申堂に群衆す。七種の麁菓(ソカ、お菓子)を紙三角形に包み12銭をもって参詣人に授く、毎戸々裡に張りて賊難の呪となす。又、庚申昆布と号て堂辺多く昆布を売り、また台を並べ燗酒に蒟蒻(コンニャク)の田楽を売る。是も盗難呪と云う」
*近世風俗志(1867)
 「大阪の俗、庚申の日、四天王寺青面金剛童子に群衆す。堂に蒟蒻田楽店と昆布店多し。昆布は買うて家に携へ、蒟蒻は食を呪とすと云。近年今日は市中を庚申蒟蒻と売巡る也」
とあるように、江戸時代の庚申日にはおおいに賑わったという。

 
摂津名所図会・庚申日の賑わい

 前回訪れた庚申日には出店が出ていて、大鍋で煮込んだコンニャクを売っていたが(八坂の庚申堂でも売っていた)、七色菓子は三角形の“お守り”として授けていた。ただ昆布は見かけなかった。

*コンニャク
 俗信では『庚申の日に、心の中で願いことを念じながら北を向いて黙って食べると、その願い事は必ず叶う』、また“良いご利益がある”・“運が強くなる”“霊験あらたかである”“頭痛が治る”などともいう。

 何故、北を向いて蒟蒻を食べるかといえば、“庚申さんは南を向いているので、北を向いて祈る”のだとも、“三尸の虫はコンニャクが嫌いだから”ともいうが、コンニャクは体内の砂を下すという俗信から、腹中にいる三尸の虫をコンニャクでもって払おうとするマジナイというのが本音であろう。
 また江戸時代、“労咳(ロウガイ、今の肺結核)の原因は三尸の虫とされ、医者は、それを予防するためにコンニャクを食するのを薦めた”という。
 当時、肺結核は『伝尸病』(デンシビョウ)とも呼ばれたから、三尸・サンシと伝尸・デンシの音が似ていることからの俗信であろう。

 この風俗は“北を向いて無言で”というのがミソだが、その由縁は不明。
 道教では、庚申日に天帝とされる北辰(北極星)へ無病息災を祈願したというから、それが形を変えたのかもしれない。
 ただ、江戸時代の風物誌などの庚申の項には必ずといっていいほどコンニャクが出てくるから、だいぶ古くからのものらしい。


コンニャク売りの出店 
 
コンニャク鍋 

*七色菓子
 七色菓子とは、三猿を刷りこんだ三角形の包み紙に7種の駄菓子を包んだもので、江戸末期頃には庚申尊への供物というより盗難除けとされていたという。
 天王寺伽藍記(元禄2年・1689)には、「庚申堂、二重屋根なり。・・・叉菓子を一銭で七色売るは、一心一念をもって仏の七徳を買うと申す心なり」とあり、
 上掲庚申日の有様を描いた絵図に「七色受所」とあり(上部右の小屋)、店先に三角形の小袋がみえるから、江戸時代に七色菓子を売っていたのは確からしい。
 七色菓子は、もともと庚申尊に供えていた七種の供物を模したもので、そのお下がりを菓子の形で売ったとか、中国で三尸の虫を除く良薬とされた“七物薬”が七種の菓子に変わったとか種々いわれているが、いずれも確たるものではない。
 今の庚申堂には七色菓子はみえない。

*昆布
 守貞漫稿には“昆布を売る”とあるが今は見かけない。
 江戸時代には、「庚申に求めた昆布を細く365筋(一年の日数)に切り、毎日食するとご婦人の髪の毛が濃くなる」との俗信があったという。
 せっかくの黒髪を茶色などに染める現今と違って、女性の髪は「カラスの濡れ羽色」すなわち真っ黒がいいとされていた時代性が感じられる風習である。(近頃は茶色・金色・緑色などがみえ、ひどすぎる)

*盗難除け
 江戸時代の四天王寺庚申堂は“盗難除け”として信仰されていたらしいが、その由来は不明。
 盗難といえば、庚申信仰には次のようなタブーがある。
 例えば、「庚申尊縁起」には『さて庚申祭の前夜より肉食五辛を断ちて、精進潔白にして不浄の行をなさず。云々』とあり、
 また「下学集」(室町期・文安元年1444)には「此の夜夫婦淫を行へば、則孕む所の子、必ず盗となる。故に夫婦慎む所の夜なり」とある。
 ここでいっているのは、庚申の夜に孕んだ子供は必ず盗人となるから、男女同衾してはならない、ということで、同じことが近世の「女庭訓」(オンナテイキン)などにもあるという。
 このタブーは、江戸歌舞伎の“三人吉三郭初買”(サンニンキチザ・クルワノハツカイ)などの白浪(盗賊)ものの台詞に取り込まれるほど、巷間にひろく知られていたという。

 これら蒟蒻や七色菓子・昆布といった風習は、いずれも三尸説では説明できないもので、特に、庚申の夜に男女同衾を禁ずるなどは、わが国のカミ信仰(祖霊信仰)にともなう厳しい精進に連なるものともいえる。

◎その他
 本堂の右(東側)に宝篋印塔・七福神石像・九頭龍社があるが、いずれも鎮座由来等は不明。
*宝篋印塔
 5段基壇の上に宝篋印塔が鎮座している。
 塔身正面に役行者像が刻まれ、傍らに「神変大菩薩」と染め抜いた幟が立ち、庚申信仰と修験道との関係が示唆される。


宝篋印塔全景 

同・印塔部 
 
同・役の行者像
 
同・幟

*七福神石像
 宝篋印塔の前(南側)に石造七福神がまとまって祀られており、その左に馬に乗ったような石像があり、頭部が打出の小槌とみえるからエビスさんであろう。

 
七福神石像・全景
 
七福神石造
 
恵美須像

*九頭龍社
 宝篋印塔の東、大樹の下に立つ朱塗り鳥居の神額には「九頭龍大権現」とあり、その奥、朱塗り瑞籬に囲まれた覆屋の中に一間社流造の小祠が鎮座する。
 九頭龍大権現とあるから水神を祀った祠であろう。


九頭龍社・鳥居 
 
同・社殿
 
同・側面

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