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都久夫須麻神社(俗称:竹生島神社)
付--宝厳寺(ホウゴンジ)
滋賀県長浜市早崎町(竹生島)
祭神--市杵島比売命・宇賀福神・浅井比売命・竜神
                                                      2018.10.24参詣

 延喜式神名帳に、『近江国浅井郡 都久夫須麻神社』とある式内社。
 社名は“ツクフスマ”と称するが、これを“チクブシマ”と読む資料もある。

 当社が鎮座する竹生島は、わが国最大の湖・琵琶湖の北部にある周囲2kmほどの島で、琵琶湖東岸の長浜港の北西約15kmに位置し、島全体が花崗岩からなり、ほとんどが切り立った崖で囲まれている。
 南側に唯一の港(竹生島港)があり、琵琶湖東岸の長浜港から定期便(一日5往復・片道30分)で渡島(西岸の今津港からもある)、上陸した目の前の高台の右に都久夫須麻神社(竹生島神社)が、左に宝厳寺が鎮座する。


竹生島・全景 
   

中央右下部に社寺鎮座
(資料転写)

※由緒
 鎮座地・竹生島の成り立ちについて、近江国風土記・逸文には、
 「竹生島  霜速比古命(シモハヤヒコ)の子・多々美比古命(タタミヒコ)、これを夷服岳(イブキガタケ)の神という。娘は比佐志比売命(ヒサシヒメ)、これは夷服岳の神の姉で、久恵(クエ)の峰においでになる。つぎに浅井比売命、これは夷服の神の姪で浅井の岳においでになった。

 夷服岳と浅井岳とは お互いにその高さを比べあったが 浅井岳は一晩のうちに高さを増した。夷服岳は非常に怒って剣を抜いて浅井比売の頭を斬った。 頭は江の中に落ちて江ノ島となった。竹生島と名づけるのは その頭であろうか」
 (浅井岳は、伊吹山の北西-浅井町にある金糞山-1,317mに比定され、伊吹山より首一つほど低いことから、首を切り落とされたとの伝承が生まれたのではないかという

 また、風土記以外の古資料して
*竹生島縁起(応永22年-1414・室町前期、。別に承平元年-931年・平安中期撰の竹生島縁起があるが未見)にも
 「人皇第7代孝霊天皇の御宇25年乙未、湖水を湛え而して此島顕出す。此御宇、霜速彦命三児(気吹雄命・坂田姫命・浅井姫命)を生む。
 気吹雄命(イブキオ)・坂田姫命・浅井姫命、豊葦原水穂国に天降ります。箇中気吹雄命・坂田姫命二神 淡海国坂田郡の東方に下り座す。浅井姫命浅井郡の北辺に下り座す。

 爰に浅井姫命と気吹雄命 勢いを競い力を争い、(浅井姫命)更に北辺に去りて 海中に下り坐す。其の海を下る音 都布都布(ツブツブ)と云。故に都布失嶋(ツブクシマ)と云。
 即ち件の神 水沫を凝めて盤と為し、風塵を積みで嶋と化す。又諸魚を召して重き石をもたらしむ。字今魚崎と云、魚の集まる処なり。また諸鳥を召して殖草木の種を落さしむ。今猶衆鳥の集り来る峯なり。巌長じて林を成す時 先ず其の最初に竹篠出生す 故に竹生嶋と云。

 一伝に云 行基菩薩当嶋経行の時、明神霊応を垂れ地分を示して云、此嶋金輪際よりの出生にして金剛宝座石也云々。則ち行基携え持ちたる竹を地に立て誓って云う 若し此地が三宝住持の地ならば 此竹則ち成長すべしと。顧みる時 滋茂出生竹の如し。故に竹生嶋と号す云々(以下略)(漢文意訳)

*近江国輿地志略(1734)
 「琵琶湖中にある一島なり。縁起に曰く、竹生島人皇12代景行天皇12年8月24日、一夜にして出現の霊島也。
 又縁起和讃に曰く、役の優婆塞は龍樹の浄土を感見し、是日の本の内ならば再び見んと、試みに地に挿し残す竹の杖、後此山に得てしより、千藏生なる島の名を竹生島はいふとかや。
などがある。

◎都久夫須麻神社(竹生島神社)由緒
 当社の創建由緒・時期は不詳だが(境内案内板なし)、総国風土記に
 「雄略天皇3年に浅井姫命を祀る小神祠ができたのが始まり」
 神社覈録(1870)には、
 「都久夫須麻神社 雄略天皇3年已亥2月 始めて神礼を行い 圭田を捧ぐ」
とあるが、いずれも由緒についての記述はない。
 これによれば、当社は5世紀後期(西暦478年に宋に使者を派遣した倭王・武は雄略という)の雄略天皇の御代に創建されたとなるが、この頃、常設の社殿を設けての祭祀がおこなわれた痕跡はなく、どういう根拠に基づくものかは不明。

 一方、江戸中期の地誌・近江国輿地志略(1734)には
 「竹生島神社  竹生島にあり、祭神宇賀御魂神なり。社五間四面 辰巳(南東)向なり。
 竹生島縁起略に曰 人皇第30代欽明天皇6年乙丑(545、飛鳥中期)4月 初の巳の日に 弁才天女大内に示現して曰く 我は竹生島の弁才天 天照大神の分魂なり 天にあっては日の御魂 地にあっては富貴の御魂 此の地にあっては五椿(ゴチン?、竹生島を指すか)の御魂なり。妙弁財天女と名づく。
 巳の月の初の巳の日には地に下りて人間の福を行ひ 亥の月の初の亥の日には天に上がりて天人をやしなふ。其巳の日には我を迎へて祭り 其亥の日には我を祭りて餞したまへ。天皇は我が皇胤なり 我五椿に鎮座して宝祚を守らんと。天皇大ひに悦び玉ひて 五椿の島に各宮社を営み 弁財天女を祭り給ふ。

 45代聖武天皇・天平3年(731・奈良後期)、天女また大内に現じて 此の島の霊異並びに御本地の徳を示したまへば 天皇悦びたまひて 行基菩薩と共に竹生島に幸ましまして 天女の宝殿・忍穂耳尊・大己貴尊の三社を営みたまひ 又天女の御本地弥陀観音の尊容を鋳て ふかく御正体の箱に秘して宝殿に安置したまふと云々(以下略)
として、当社創建について二つの伝承があるという。

 ただ、これらは弁才天顕現とそれに伴う社殿等造営についての伝承であって、厳密にいえば、都久夫須麻神社の創建由緒というより、神仏習合期に当社と一体であった宝厳寺の由緒とみるべきであろう。


 弁才天とはインドのサラスヴァティ河を神格化した女神が仏教に入って天部の一尊となったもので、わが国へは奈良時代(8世紀)には入っていたというが、書紀によれば、わが国への仏教公伝は欽明天皇13年(552)といわれ、欽明6年には弁才天は未だ知られていなかったはずで、縁起志略が弁才天の大内(天皇の御所)示現を欽明6年という根拠は不詳。

 聖武天皇は仏教を尊んだといわれることから、天平3年に弁才天を竹生島に祀ったことを否定はできないが、行基とともに竹生島に行幸したというのには疑問があり(下記)、輿地志略がいう天平3年創建説をそのまま受け入れることはできない。

 なお竹生島縁起(応永)によれば、天平宝宇8年(764)の恵美仲麻呂(押勝)の叛乱に際して、
 「都布失嶋神に神力を発して天孫の国を助け守らしめよと乞うたところ、神は憤りを発し急に東風を出して仲麻呂の船を吹き返し、高嶋の濱に着かしめたので、将軍は仲麻呂の首を得ることができた。因って、将軍はこの事を天皇に奏上し、従五位上勲八等を授け奉った」(大意)
とある。
 これによれば、当社は奈良中期頃にはあったとなるが、続日本紀・天平宝宇8年条には、恵美仲麻呂の叛乱について縷々記した後、
 「11月20日 朝廷は使者を派遣して近江国の名神の社に幣帛を奉った。仲麻呂叛乱に際しての神助へのお礼である」(大意)
とある。
 ここでいう名神の社の中に当社が含まれたかどうかは不明で、また、神階綬叙の記録もなく、当社が奈良時代中頃にあったかどうかは不詳。

 このように、当社の創建時期ははっきりしないが、正史上での初見は、三代実録・陽成天皇元慶3年(879・平安前期)3月2日条にある
  「近江国言しけらく、木の連理せる 筑夫嶋神社の前に生えき」
との記録に筑夫嶋(竹生島)神社とみえることから、平安初期にあったことは確かであろう。ただ、その創建が何時頃まで遡るかは不詳。

 なお、当社刊・都久夫須麻神社の由緒には、
 「この弁才天と申しますのは、佛教と共に印度より渡来したもので、『水の精』とかいう意にて、当社御祭神が湖中に鎮座せらるる事や、・・・又御祭神が竜神に在らせらるるという伝説等によりまして、中世には弁才天として信仰されました」
とあり、中世以降の竹生島は神ノ島(神社)であるよりも、弁天さんの島・観音の霊場として知られていたという。


◎宝厳寺縁起
  巌金山宝厳寺(ガンコンサン ホウゴンジ)  真言宗宝山派 

 宝厳寺公式HPには、
 「竹生島宝厳寺は、神亀元年(724・奈良前期) 聖武天皇が夢枕に立った天照皇大神より、『江州の湖中にある その島は弁才天の聖地であるから寺院を建立せよ。すれば国家泰平・五穀豊穣・万民豊楽となるであろう』というお告げを受け、僧行基を勅使として遣わし、堂塔を開基されたのが始まりです。
 行基は、早速弁才天像を彫刻し、ご本尊として本堂に安置、翌年には観音堂を建立し、千手観音を安置しました」
とあり、当寺は神亀元年、聖武天皇の命をうけた行基による開山という。

 竹生島縁起(応永)には、行基の竹生島渡島について
 「天平10年(738)戌寅 招提寺僧行基 此の嶋に到りて霊異を感歎し 巌石に跡を留め草庵を結びて経行閑座 聖朝安穏国家鎮護の為に 長二尺の四天王像を造り奉り 小堂を構えて之を安置す」
として、天平10年僧行基による開山という。

 近江国輿地志略には、
 「大神宮寺  竹生島にあり。竹生島神社の別当社僧なり。何れの日の神主といへる事をとり失ひ 今は社僧となれり。其寺を神宮寺と号す。
 縁起略に曰、45代聖武天皇天平3年に天女又大内に現して、此島の霊異並びに御本地の徳を示したまえば、天皇悦びたまひて、行基菩薩と共に竹生島に幸ましまして、天女の宝殿並びに忍穂耳尊大己貴尊の三社を営みたまひ、又天女の御本地阿弥陀観音の尊容を黄金に鋳て、ふかく御正体の箱に秘して、宝殿に安置したまふ。
 行基菩薩は手づから千手観音の大像を刻して 大神宮寺を建立し給ふ。七間四間 南向きの堂なり。霊験甚しかりければ、終に西国霊場三十番の札所となりたまふ」
とある。

 これらの資料によれば、神亀元年・天平3年・同10年と年次は異なるものの、何れも聖武天皇の御世(奈良前期)、僧行基によって開かれたもので、弁才天と千手観音を祀る霊場だという。
 ただ、資料・竹生島宝厳寺(1980)には、“竹生島縁起にいう天平10年開山が当寺に関する最も古い伝承”とあり、とすれば、神亀元年・天平3年開山説は伝承によるもので、その信憑性は低いとみるべきかもしれない。


◎創建時期
 都久夫須麻神社及び宝厳寺の創建時期は、上記由緒にみるように
 *都久夫須麻神社--雄略3年(5世紀後半・総国風土記)・欽明6年(569・輿地志略)・天平3年(731・輿地志略)
 *宝厳寺--神亀元年(724・当社HP)・天平3年(輿地志略・宝厳寺HP)・天平10年(738・竹生島縁起)
など諸説があり、
 式内社調査報告(1981)には、
 「社伝では、雄略天皇3年に浅井姫尊をまつる小神祠ができたのが当社の始まりであるとしている。
 縁起によると神亀元年3月15日、天照大神の神託により都の守護神として竹生島に市杵島姫が命がまつられ、
 天平3年には聖武天皇自ら参拝され、神殿を新築し社前に天忍穂耳命・大己貴命をまつられたという」
とある(日本の神々5も同意)

 宝厳寺が都久夫須麻神社の神宮寺とすれば、宝厳寺開山以前から都久夫須麻神社があったとなるが、その時期を示唆する確たる資料はない(国史等に当社・当寺についての記録はみえない)

 上記由緒等によれば、宝厳寺は神亀元年(宝厳寺)又は天平3年(輿地志略)に僧・行基がかかわって創建されたとなる。
  しかし、行基(668--749)が朝廷から公的に認められたのは、天平10年(738)以降で(この時「行基大徳」の尊号があたえられたという)、それ以前の行基は、多くの人々を糾合して近畿を中心に墾田開発・貧民救済・道路整備・治水・架橋などの活動を遂行し、民衆からは行基菩薩と崇められてはいたものの、続日本紀に
 ・養老元年(717)条--行基の活動は僧尼令に反するとして、「小僧・行基」と名指しして活動を禁止する詔を出した
 ・天平2年(730)条--行基集団の活動は、国法に背き衆人を惑わすものであるとして禁止令を出した
とあるように、朝廷からすれば、行基およびその集団は禁圧すべき対象であったという。

 その禁圧が緩みだしたのが天平3年で
 ・天平3年(731)条--行基集団に属する優婆塞・優婆夷で、男61歳以上・女55歳以上の者の得度を許した
ことから、彼等を正式な僧侶として、その宗教活動も正当なものとして認め、行基がもつ統率力をいろんな事業に利用しはじめたといわれ、それが天平10年の行基大徳の尊号授与、同15年(743)の大仏建立の勧進役起用、その成功に伴う同16年(745)の大僧正就任へと連なっている。

 この行基略伝からみると、宝厳寺縁起にいう神亀元年(724)に行基が勅使に任じられたというのは疑問で(禁圧対象時代)、また行基略伝に
 ・天平13年(741)--恭仁京郊外泉橋院(現木津川市加茂の辺り)で、聖武天皇がはじめて行基と会見(続日本紀には見えず、行基菩薩伝によるという
とあることから、輿地志略がいう、天平3年 聖武天皇が行基と共に竹生島に行幸して神殿を造営したというのも疑問があり、宝厳寺開山に行基がかかわったというのが史実であれば、それは天平10年以降であった蓋然性は高い。

 また、行基は生涯600寺を開いたといわれるが、史料等から行基開山がほぼ確実とされる49寺の中に宝厳寺の名はなく、宝厳寺の開山に行基がかかわったというのは、当寺の開山を奈良前期の著名な僧・行基に仮託した伝承とみるべきであろう。

 なお、竹生島縁起(応永)に、
 「延暦7年(788)伝教大師が桓武天皇のために根本一条止観院を創建し(比叡山延暦寺の創建)、聖朝安穏・皇帝本命・仏法繁昌を祈ったとき、件の堂の乾方(北西)に大辨財天が忽然と化現し、・・・『今より巳後湖中の霊嶋に住み、此の山の仏法を守り奉るべし』と告げた」
とあり、これを以て宝厳寺の開基とする資料もあるが、同縁起に延暦7年以前のこととして、
 ・天平勝宝2年(750)元興寺僧泰平・東大寺僧賢圓が勝地を尋ねて此嶋に到り所願を祈誓、願いに応じて悉く成就
 ・同3年 件の神 泰平の童子穂積有本丸に『我乾の宮に居るが故に 法を聞くに遠し 須く我が社を遷し 巽の宮に置くべし』との託宣があり、これにより、泰平・賢圓等は社殿を島の東南に設けて 神を島の北西から東南の現在地に遷した
とあることからみて、これは採れない。


◎神仏分離
 江戸時代までの当社は、神と仏が混在した神仏習合の社寺とはいうものの、その実態は弁才天と観音の霊場であって、本堂(弁才天社)には弁才天像を、観音堂に千手観音像を安置し、すべての行事は僧侶によって執りおこなわれるなど仏教色一色におおわれたもので、神職は一人もいなかったという。

 そこへ降りかかったのが明治政府による神仏分離令で、
 ・明治2年(1869)、大津県庁から、延喜式に都久夫須麻神社とあるとして、同社に関する縁起・古記録等の提出が命じられた
 ・寺側では、資料をとりまとめて提出するとともに、「現在 島内には都久夫須麻神社と称する神殿はなく、現存する弁才天・島守大明神・小島権現のいずれも都久夫須麻神社とは比定しがたい」との意見を提出し、寺として存続することを求めた
 ・明治4年、大津県庁は、資料を検討した結果として、寺に対して「竹生島弁財天社は今より都久夫須麻神社と改称すべし」と命じてきた
 ・これに対して寺側は、「元来弁才天女は最勝王経弁才天女品等にある天部の仏尊であり、これを都久夫須麻神社と改称することは、かえって神仏混淆をもたらすものではないか」など数項目の意見を付して再考を求め、
 ・且つ、式内・都久夫須麻神社を復興するのであれば、島内の別地に新たに社殿を造営するよう具申したが、
 ・これらはすべて拒否され、県庁側は指示通りに神社への改称を強く求めたため、
 ・寺側はやむなく、社地と寺地との境界を確定すること、弁才天像は観音堂に移して従来通りに僧侶による奉仕をおこなうこと(その後、妙覚院に遷座)、常行院住職が還俗して神職として奉仕することを条件として分離を受諾し、都久夫須麻神社・宝厳寺の2社寺併立が決まったという。
 ・その後、土地の境界の確定、仏像・什器・備品等の区別け引き渡しなどが終了し、竹生島での神仏分離が完了したのは明治16年(1883)という(資料・竹生島宝厳寺他より要約)
 なおこの時、都久夫須麻神社の御神体となるものがなかったので、宝厳寺から寺宝2品を譲りうけて御神体としたというが、これが如何なるもので、その後どうなったかは不明。

※祭神
【都久夫須麻神社】
 当社HPには
 ・市杵島比売命[弁財天]
 ・宇賀福神
 ・浅井比売命[産土神]
 ・龍神
の4座とあるが、延喜式には祭神一座とある。

 当社祭神について、管見した資料に
 ・市杵島比売--神名帳考証(1813)
 ・宇賀御魂神--近江国輿地志略(1734)・神社覈録(1870)・近江国名跡図絵(1891)
 ・浅井比売命--竹生島縁起(1414)・神祇志料(1871)・特選神名牒(1876)・東浅井郡志(1901)
とあるように祭神名として3説があり、現在の祭神はこれら3神を網羅して龍神を加えたたもので、当社本来の祭神名は不明であることを示唆する。臆測すれば、延喜式にいう祭神一座とは弁才天に代わる市杵島比売であろう。

*市杵島比売命
 記紀神話で、天ノ安川の畔でおこなわれたアマテラスとスサノオの誓約(ウケヒ)によって成りでた所謂・宗像三女神の一で(宗像大社辺津宮の主祭神)、水神 特に航海の守護神とされるが、当社との直接的な接点はない。
 ただ、古くから同じ水神である弁才天と習合し、弁才天即ち市杵島比売として祀られることが多く、当社(当寺)本来の祭神が弁才天であったことから、神仏分離に際して水神である弁才天に代わって同じ水神である市杵島比売を以て祭神としたものであって、その意味では神仏分離されたとはいうものの、依然として仏教的色彩が残っているといえる。

 なお、HPには[弁財天]との注記があるが、弁財天とは、中世以降に弁才天が水神から財宝・富貴の神へと変貌したものであって、今の当社が弁財天と注記することは、今の祭神・市杵島比売は水神というより財宝富貴をもたらす福の神として信仰されているのかもしれない。

*宇賀福神
 所謂・宇賀神(ウガジン)と呼ばれる神で、その神名“ウガ”が食物をあらわす“ウカ”と通じることから、記紀にいう食物の神・宇迦之御魂神(ウカノミタマ・稲荷神)と習合して宇賀御魂神(ウガノミタマ)と称して穀物神・福神として信仰されたという。

 この宇賀神が、鎌倉中期頃から財宝富貴の神としての稲荷神と習合し、更に弁財天と習合して宇賀弁財天へと変貌し、これに祈れば福徳を得るとして広く信仰されたといわれ、この神にも仏教的色彩が残っているといえる。

 なお、宇賀神は通常 トグロヲ巻いた白蛇の頭が、白鬚をはやした老翁の顔に化した人頭蛇身像として表されるが、今、宝厳寺弁天堂にある“お前立弁財天像”や後陣に並ぶ弁才天像からみると(下記)、嘗て当社の御神体であった弁才天像は、頭上に宇賀神を頂く宇賀弁財天であったかと思われる。

 今、当社が宇賀神というのは、宇賀神(宇賀弁財天)がもつ富貴の神という神格を強調したもので、これも福神・弁財天の神格を引き継いだものといえる。


 

宇賀神像(井の頭公園)

*浅井比売命
 浅井姫命とは竹生島生成伝承などからみて竹生島の地主神と思われるが、市立長浜城歴史博物館編の「竹生島宝厳寺」(1992、以下「資料・宝厳寺」という)には、
 「竹生島縁起によれば、当地には古来より浅井姫命が鎮座し、水神として崇められていた。特に、付近を通る船の安全航行とこの神とは密接なかかわれがあると考えられていた」
とあり(ここにいう竹生島縁起とは、承平3年-931成立の竹生島縁起と思われるが、図書館等に所蔵なく確認できない)
 また五来重氏は、
 「浅井姫は水の神様である。湖北三郡(浅井郡・坂田郡・伊香郡)の人々は、浅井姫のおかげで農耕ができるのだという信仰があって、浅井姫を農耕に必要な水をもたらしてくれる水神として祀っていた」(西国巡礼の寺・1995)
として、いずれも水神との神格を加上している。

 なお、東浅井郡志には
 「市杵島比売・宇賀御魂神・浅井比売の3神は、いずれも竹生島の造島神話や弁才天信仰をもとにした後世の付会で、竹生島神こそが本来の祭神であって、この神は祖先崇拝もしくは英雄崇拝の神ではなく、自然崇拝の神である」(日本の神々5・2000)
とあり、この自然崇拝の神の具体神名として竹生島の地主神であり水神でもある浅井比売命が充てられたのであろう。

 また古寺巡礼・竹生島宝厳寺(1980、以下「資料・竹生島宝厳寺」という)には、
 「中世以降、弁才天信仰が隆盛になるに及んで、浅井姫命の神格は弁才天の中に吸収・融合せしめられ、竹生島は仏教一色の霊場となり、古来の社名や祭神はほとんど忘れられていった」
とある。

 これらからみると、当社本来の祭神は浅井姫命であった蓋然性が高い。

*竜神
 竜神は、琵琶湖一帯に古くからある水神信仰・竜神信仰によるもので、本殿南方の琵琶湖畔に面する竜王拝所から遙拝される琵琶湖の竜神を祭神の中に加えたものであろう。

 ただ、竜王拝所には「琵琶湖水神 八大竜王拝所」との扁額が懸かっており、八大竜王が法華経に仏法の護法善神として登場することからみると、この神にも仏教的色彩がみえる。

 竹生島と竜神とのかかわりについて、能・竹生島(伝・金春禅竹作)では、
 延喜帝の命により参詣に訪れた廷臣の前に弁才天(前シテ)が現れてやりとりの後、最終場面で湖中から波を沸きたたせて竜神(後シテ・右写真)が現れ、
 「ありがたかりける奇特かな、もとより衆生済度の誓い様々なれば、あるひは天女の形を現じ、有縁の衆生の諸願をかなへ、または下界の竜神となって国土を鎮め、誓ひを現し、天女は宮中に入らせ給へば、竜神はすなはち湖水に飛行して、波を蹴立て水を返して、天地に群がる大蛇の形は、竜宮に飛んでぞ入りにける」
との謡とともに華麗な舞を舞いながら湖上を飛び、大蛇へと変身して琵琶湖中(竜宮)に消え失せた、とある。

 これについて、五来重氏は「竜神も弁天も共に観音の化身であって、あるときは天女の形を現して弁天となり、あるときは竜神の姿となって国土を鎮めるわけで、竹生島では弁天と竜神は同体で、琵琶湖の水神と同一だということになります」(西国巡礼の寺)という。
 

竜神
(能・竹生島)

 これらからみると、当社祭神は、表面上では市杵島比売以下の神々を祭神としてはいるものの、浅井比売命を除けば、依然として仏教的痕跡が残る神々であり、神仏が分離されたとはいうものの、嘗ての神仏習合期の痕跡が今もって残っているといえよう。


【宝厳寺】
◎本堂(弁天堂)--本尊:弁才天像(秘仏)

 弁才天とは仏教の守護神である天部の一尊で、その出自がインドのサラスヴァティ-川を神格化した女神であることから、一義的には水の女神とされる。
 更に、水の奏でる“せせらぎの音”が、爽やかな音楽あるいは巧みな弁舌に通じることから音楽・芸能・弁舌才智の神(妙音弁才天)とされ、更に室町時代に入ると、水が豊穣をもたらすことから財宝を弁ずる(もたらす)神すなわち弁財天へと変貌し、その課程で、豊穣の神である食稲魂神(ウカノミタマ)・保食神(ウケモチ)と習合して宇賀弁財天へと変貌するなど、人々に福財をあたえる天部の神としての信仰が弘まったという。

 弁才天の尊像には大きく3種がある。
 ・妙音弁才天--二臂で、琵琶を弾いているもの
   金光明最勝王経などにみえる弁才天で、智恵・弁説・音楽などを掌るという(胎蔵曼荼羅図にも妙音菩薩として描かれている)
 ・八臂弁財天--八臂で、8本の手に弓・箭・刀・矟・斧・長杵・鉄輪・羂索を持つもち(持ち物には諸説あり)、眷族である十五童子を伴うもので、財宝・富貴をもたらすという
 ・宇賀弁財天--八臂弁財天の頭上に人頭蛇身の宇賀神像を乗せたもので、人頭は通常は老翁であらわされる
   中世の頃に生まれた尊像で、弁天と記すように信ずる者に財宝・福徳をもたらすという。
 なお、八臂弁財天像は少なく、ほとんどが宇賀弁財天として造像されている。

 
妙音弁才天
 
八臂弁財天
 
宇賀弁財天(頭上注意)


   宇賀弁財天の尊像にについて、経典(わが国で作られた偽経という)には、
 「其の形天女の如し、頂上に宝冠有り、冠中に白蛇有り、其の蛇の面老人の如くして老人の眉白し(宇賀神)、此れ即ち諸仏出世の毎に逢ひ奉り、衆生を利益すること年久しき瑞相也」
とあり、八臂には、通常の弁財天像とは一部異なって、鉾・宝輪・宝弓・宝珠・剣・棒・鑰(カギ)・宝箭を持つという(異神・2003)

*宝厳寺の弁才天像
 本尊の弁才天像は秘仏とされていて一般には実見はできず(60年に一度の御開帳で、次回は2037年)、当社本尊の弁才天像が如何なるものかは不明。

 ただ、当寺には弁才天を描いた画像3幅が所蔵されており、資料・宝厳寺所載の写真によれば
 ①弁才天座像--南北朝時代 絹本着色(県指定文化財)
  上半分に、岩上の蓮華座に坐す八臂弁財天像が、下部には、稲積の上にトグロヲ巻く白蛇が(頭に三本の角がある。下写真・右)が描かれ、画幅の左右には弁財天の眷族である十五童子をはじめ大黒天・吉祥天など20余りが配されている。
  頭上部分を拡大すると、トグロヲ巻く人頭蛇身の宇賀神が見えることから、宇賀弁財天を描いた画像と思われる。
 ②弁才天立像--室町時代 絹本着色
  琵琶を手に持って立つ二臂の妙音弁才天立立像
 ③弁才天座像--江戸時代 絹本着色
  琵琶を手に持って岩上に座す二臂の妙音弁才天座像
の3幅があるが、そこには宇賀弁財天・妙音弁才天の2種があり、この画像から当寺弁才天像の推測はできない


①弁才天座像
 (南北朝時代) 
 
同左・拡大
 
②弁才天立像
(室町時代)
 
③弁才天座像
(江戸時代)


 いま宝厳寺内陣は、一般が入室できる前室と須弥壇との間が目の細かい鉄製の網格子で区切られており、内部の様子は見えないが、資料によれば、嘗ては厨子に入った弁才天像が置かれていたという。

 ただ、前室にある売店横に、頭上に、鳥居の中に宇賀神を頂く弁才天像2体がが安置されている。

 
前室左の弁才天像
 
同・頭部
 
前室右の弁才天像
 
同・頭部

 また、須弥壇背後の後陣には、竹生島最大の行事である蓮華会(レンゲエ・下記)で奉納された弁才天像が十数体並んでいるというが、今は拝観できない。
 それら全てが頭上に人頭蛇身の宇賀神を戴く八臂の弁才天座像で、底面の墨書から奉納年次がわかるものとして
 ・弘治3年(1557・室町時代)--頭上に翁面白蛇身の宇賀神を戴き、前面に鳥居を配した宝冠を載せる八臂の像で、像高38.5cm
            江州浅井郡河道村の惣兵衛奉納、坂田郡平方庄の物資・重清の作 最古の弁財天像という(県指定文化財)
 ・永禄8年(1565・室町時代)--八臂像 像高145cm 戦国大名・浅井家2代目浅井久政(1526--75)奉納と推測されている
 ・慶長19年(1614・江戸初期)--八臂像
他にも、元和・寛永・正徳・天保の紀年銘のあるものがあるという。

 
後陣奉安の宇賀弁財天像
(弘治3年銘・宝物殿に奉安)
 
同 左
(永禄9年銘・宝物殿に奉安)

同 左
(慶長19年銘) 

 これらの諸像からみて、秘仏とされている弁才天像は宇賀弁財天像ではないかと推測されるが、
 平家物語(巻7・竹生島詣)
 「北国で蜂起した木曽義仲の討伐に出兵した平家の副将軍・平経正(ツネマサ)が、その途上 竹生島に参詣した折、僧に勧められて琵琶を弾じたところ、それに感応した明神が経正の袖の上に白龍として現れた」(大意)
とあることからみると、竹生島宝厳寺の本尊としては琵琶を抱いた二臂の妙音弁才天が相応しいともいえる。

*蓮華会
 蓮華会については、宝厳寺公式HP、
 「竹生島の最大行事として『蓮華会大法要』というのがあります。
 これは、貞元2年(977・平安中期)に円融天皇(969--84)によっておこなわれた五穀豊穣・国家安穏・万民豊楽を祈念した法要(雨乞い法会ともいう)が起源とされ、天皇の御意志を継いだ心ある信者の中から、この法要をおこなう主宰者(頭人という)が決定され、法要の結願日(8月15日)に弁才天のご分身のお像を宝前に奉納し、主題願題を祈念するものであります。
 円融天皇以来、1000年間途絶えることなく続いてまいりました」

 明治28年(1895)宝厳寺報告書
 「当寺蓮華会は 毎年6月15日 太陽暦発行後は8月15日とす。・・・頭人親族 新造の弁才天女の尊像を供奉して当寺に詣でて 宝前に安置し 舞楽を奏し法会を修する式法にして 天下泰平五穀豊穣の祈祷会なり」
 昭和30年代の蓮華会関連文書
 「頭人は弁才天女像を奉りて高き石段を練り山上の弁才天御殿に参入、尊像を段上に奉安して 方丈導師のもとに一山の大法要嚴修 舞楽奉納 参詣者多数なり」
などがある。

 従来は、蓮華会の中心となる頭人が弁才天像を新造し、これを弁天堂に持参して一山あげての開眼法要をおこない、その後弁才天像を奉納したというが、蓮華会そのものを恙なく遂行するには莫大な経済力を必要としたことから、今は簡略化されているようで、弁才天像は新造せず、堂内にある像を借用して是に充てているらしい。
 (平成3年の写真をみると、厨子に入った弁才天立像が運ばれているが、既存のものを借用しているらしい)

 蛇足ながら、竹生島の弁才天に関して、古今著聞集(13世紀後半)
 「都良香(ミヤコノヨシカ、834--79、平安前期の貴族で文人)竹生島に参りて 『三千世界眼前盡』(サンゼンセカイハガンゼンニツキ)と案じ侍りて 下句を思ひ煩い侍りけるに 其夜の夢に弁才天 『十二因縁心空虚』(ジュウニインエンハシンクウニムナシ)とつけさせ給ひける やんごとなきことなり」
との話が載っており、ここでの弁才天は学芸の神(妙音弁才天)として登場している。

◎観音堂
  本尊--千手観音菩薩像

 仏教にいう菩薩の一尊である観音菩薩の変化身の一つで、インドで十一面観音・不空羂索観音の後に成立したと考えられる。無限を意味する千という数からもわかるように、それまでの変化観音を多面多臂の姿を発展させることで、観音がもつ慈悲の力を最大限に強調した菩薩像という。
 千手観音は、合掌する本体の背後に、通常40本の手を船の帆の形に広げた姿で造形され(全体で42臂となる)、千手千眼経によると、この尊は「一切衆生を利益し安楽ならしめるために、千手千眼を生ぜしめよ」と願って、このような姿になったという。

 40本の手をもって千手というわけは、40本の手それぞれが25の世界を救うということからで(40×25=1000)、25世界とは、佛教でいう三界二十五宇、すなわち天上界から地獄までの間に25の世界(欲界14宇・色界7宇・無色界4宇)があるという教義によるという。
 また、千手千眼観音と呼ばれることもあるが、40本の手それぞれに目をもち、どんな些細なことでも見逃さないという功徳を表すという。

 関西には、西国三十三所巡礼に代表されるように観音霊場は多く、当寺もその30番札所になっているが、33霊場のうち半数近くの14霊場が千手観音を本尊としている(以下多いものは十一面観音・如意輪観音のそれぞれ6霊場)
 観音霊場で千手観音が多いことについて、五来重氏は
 「厳密には分けられないが、水に縁があるところは千手観音が多く、山に縁のあるところには十一面観音が多い」
といわれ(西国巡礼の寺)、とすれば、琵琶湖中の島にある宝厳寺観音堂の本尊が千手観音であるのは当然かもしれない。

 当堂の本尊・千手観音立像について、竹生島縁起(応永)に、
 「天平勝宝5年(753) 浅井郡大領・直馬(浅井直馬養・アサイノアタヒ ウマカヒ) 行基の薫風を慕ひ 金色の観音像を造る。爰に件の観音 此の神と光を放ち 人の祈念に応じ霊験を施す 奇特甚だ多し 今の千手観音是也」
とあり、天平勝宝5年に祀られたというが確証はない。

 今、観音堂の本尊・千手観音立像(高さ1.8m)は秘仏であって実見はできないが(60年に一度御開帳、次回は弁才天像と同じく2037年という)、資料・竹生島宝厳寺所載の写真(右写真)によれば、
 “頭上に仏面及び天冠台上に二段十面(うち一面欠)を頂き、正面に合掌手及び宝鉢手、左右に脇手各19手を配する十一面四十二臂の等身大千手観音像”で、鎌倉時代の作と推定されるという。

  


※社殿等
 竹生島南部に位置する竹生島港のすぐ北側一帯が境域で、右側(東南側)に都久夫須麻神社が鎮座し、中央から左上(西側)にかけて宝厳寺本堂(弁天堂)以下の諸堂舎が点在する。


都久夫須麻神社区画・遠景
(中央下の茶色屋根が神社社殿。
左上に宝厳寺の赤い三重塔がみえる)
 
 
主要建物配置図(右下が神社区画、資料転写)

 しかし、鎌倉末期の古絵図・菅浦与大浦下荘堺絵図(乾元元年-1302の奥書あり、以下「乾元絵図」という)をみると
 絵図の右側に、弁天堂(現都久夫須麻神社本殿)・拝殿・舞台、両側に楽屋(経所)、左側下方に仁王門、その上方に懸造りの観音堂、奥に三重塔・鐘楼がみえ、弁天堂と観音堂の間には両者を繋ぐ太鼓橋が描かれている。

 また、江戸時代初期(17世紀初頭)の竹生島祭礼図には、
 絵図中央に弁天堂・観音堂を中心に乾元絵図とほぼ同じ堂舎が大きく描かれているが、弁天堂と観音堂を繋ぐ渡廊が追加され、太鼓橋・仁王門が消えているなどの違いがある。

 この絵図を見るかぎり、嘗ての当社は、下方に鳥居は立つものの(神仏習合の証)、弁才天霊場および観音霊場を中心とした寺院(宝厳寺)であって、当社はその鎮守社的存在ではなかったかと思われる。

 
菅浦与大浦下荘堺絵図(部分)
(鎌倉時代末期)
(資料・竹生島より転写)
 
竹生島祭礼図(部分)
(江戸時代初期)

(資料・宝厳寺より転写)

【都久夫須麻神社】(俗称:竹生島神社)
 宝厳寺正面石段の1段目踊り場を右(東)(案内表示あり)、琵琶湖に接した石垣の下に設けられた朱塗りの鳥居2基と両側の朱塗り欄干からなる参道(橋)を進んだ先が境内。
 この参道は、琵琶湖に接する石垣下に架けられていることから、明治の神仏分離で、当社が独立したときに架けられたものかと思われる。
 なお境内へは、2段目踊り場から右へ、宝厳寺唐門・観音堂・渡廊を通って行くこともできる。


参道・側面
(石垣上が唐門へ至る参道)
 
参道(西より東を臨む

◎本殿--国宝
 参道をすぎて左に折れた先が境内で、狭い境内の左手正面、石段を上がった上に建つ。

 神仏習合時代、弁才天を本尊として祀っていた宝厳寺本堂(弁才天社)で、神仏分離により、弁才天像を観音堂に移して都久夫須麻神社の本殿としたという。


本殿・全景 

本殿部・拡大
 
本殿・内陣

 旧宝厳寺本堂について、竹生島縁起(応永)には、
 ・貞観2年(860) 慈覚大師 弟子僧・眞静を遣わして神殿を改造せしむ 
 ・仁和3年(887) 天台僧尋明・慶詮・雲晴等共に此嶋に行き 珍宝を施入して神殿を修造
 ・延長元年(923) 皇太子慶頼王家扶・春柯が五間の神殿に改造
とあるが、ここでいう神殿とは、貞永元年(1232)焼失時の記録に弁才天宝殿(三間四面)云々とあるように(式内社調査報告・1981)、弁才天を奉安する宝殿、言い換えれば仏教色の強い神仏習合の社殿であって、一般にいう神社本殿とは性格が異なっている。

 現在の本殿について、当社HPには
 「今から450年前、豊臣秀吉が寄進した伏見桃山城の束力使殿を移築したもので国宝。
 本殿内部は、桃山時代を代表する優雅で煌びやかな装飾が施され、天井画は60枚で狩野永徳光信の作、黒漆塗りの棟長押には金蒔絵(高台寺蒔絵)が施され、要所には精巧な金の金具が打たれています」
とある。

 今、本殿は内陣拝観禁止であり、今、外から見える内陣には、正面に金色の御幣が立つだけで、その奥は幔幕が張られているため内部の様子は実見できないが、竹生島[琵琶湖に浮かぶ神ノ島](2017、以下資料・竹生島という)には、図面を掲げて次のようにいう(大意)

 ・当社は創建以来何度かの大火に見舞われ、その都度再建されているが、現本殿(旧弁天堂)は、永禄元年(1558)の全山焼失後、同10年(1567)に再建されたもの
 ・本殿は、正面五間・側面四間で南面して建つ。中央に方三間の身舎(モヤ・右平面図の中央三間部分)を置いた入母屋造で桧皮葺。
 ・身舎の周囲に一間造りの庇を巡らせ、四方に縁を巡らす(大屋根の下に庇があることから、一見して二層屋根にみえる) 
 ・現存する慶長7年(1602)の棟札・地垂木の墨書などから、身舎部分は慶長7年に豊臣秀頼によって移築された建物であることは疑いなく、豊国廟(慶長4年建立の豊臣秀吉墓廟、豊臣家滅亡後廃廟)の遺構である蓋然性は高い

 本殿正面・模式図

同・平面図

◎龍神拝所
 本殿の反対側、琵琶湖畔の岩場の上に建つ入母屋造(間口五間・奥行三間)・桧皮葺きの建物。

 拝所内部は、その中央奥に金色の御幣を立てた祭壇が設けられ、その奥には琵琶湖を見通せる窓が開いている(中央手前はカワラケ売り場)
 祭壇の手前左右には、通常の狛犬に代わって、トグロヲ巻いて頭を持ち上げた阿吽(アウン)一対の龍が鎮座し、阿形の龍(右側)は口に宝珠をくわえ、吽形のそれ(左側)は口を閉ざしている。

 拝所の裏・琵琶湖側には、手摺りのついた縁が廻らされ、その前方、琵琶湖へ突き出た岬の途中に小鳥居と小祠(これが何かは不明)がみえ、その先の琵琶湖を遠望できる。
 なお古図をみると、岬の先端に「聖武天皇塔」との記述があるが、拝所からはみえない。
 ただ、海上からみると、白い岩場の上に白い塔らしきものがみえ、これがそれかと思われる。

 
龍神拝所・琵琶湖側

拝所・祭壇 
 
龍像(吽形)
 
龍像(阿形)

拝所から琵琶湖を望む 
 
拝所地区・側面
(右手先端に白い塔らしきものがみえる)

 今の竜神拝所は、“カワラケ投げ”の聖地として多くの参詣者(観光客)を集めており、拝所から投げたカワラケが鳥居の間を通ると願いが成就するという。
 ただ、江戸時代の古絵図・昭和55年の鳥瞰図には建物そのものがみえず、近年になって造営されたもので、カワラケ投げも他社での流行にのって始まったのかもしれない。


◎境内社
 本殿前の石段の左右に鎮座する小祠で、
*天忍穂耳命神社・大己貴神社--石段の左
  祭神--天忍穂耳尊(アメノオシホミミ)・大己貴命(オオナムチ)
 社伝には、「天平3年に聖武天皇が参拝され、神殿を新築し、社前に天忍穂耳命・大己貴命をまつられた」によるとあるが、この2柱が当社に祀られる由縁は不詳。

*厳島大神社・江島大神社--石段の右
  祭神--厳島大神・江島大神
 厳島・江ノ島及び当社は、日本三大弁才天社であることから、厳島・江ノ島両弁才天を祀ったと思われるが、詳細不明。

 

左:天忍穂耳・大己貴合祀社
右:厳島・江島合祀社
 
天忍穂耳命・大己貴命合祀社
 
厳島・江島合祀社
 この2社は 神仏習合時代には「島守大明神」・「小島権現」と称していた小祠で、江戸初期の竹生島祭礼図で本堂前石段の左右に描かれている2棟の小祠が是に当たるが(右絵図)、島守・小島の両神が如何なる神かは不明。
 大明神・権現が仏教からみた神の尊称であることから、明治初年の神仏分離以降に現在の社名に変更されたものであろう。 

 なお小島権現は、竹生島の東に近接する小島にも鎮座していたともいうが(鎌倉末期の乾元絵図には小祠が描かれている)、今はなく詳細不明。

*招福弁財天社
  祭神--妙音弁才天

 参道から境内に入ってすぐの右、簡単な覆屋の中に鎮座する小祠。

 祠内に、琵琶を奏でる彩色弁才天像が祀られていることから、祭神は弁才天の本姿である妙音弁才天と思われる。
 これに対して社名・招福弁財天は、その表記からみると財宝富貴をもたらす八臂弁財天と思われ、細かくいえば、祀られている妙音弁才天とは神格を異にし、社名と祭神像とは整合しない。

 また祠の右に、『日本五大弁天  安芸国:厳島大神 大和国:天川大神 近江国:竹生島大神 相模国:江ノ島大神 陸前国:金華山黄金山大神』と列記した木額が立っている。
 いずれもわが国で著名な弁才天社で(五大弁才天)、当社はこれら5柱の弁才天を祀るのかもしれず、とすれば、祠内に妙音弁才天像を安置してもおかしくはない。 

招福弁財天社 

祭神・妙音弁才天

*白巳神社

 祭神  白巳大神
 招福弁財天社の左隣りに独立してある小社で、正面上部に「白巳大神」、右の柱には「金宝冨貴」とある。

 内陣にはトグロヲ巻く阿吽の蛇像2体が安置され、各銘柄の酒が奉納されているが、背後の祠内がどうなっているのかは不明。

 ネット資料によれば、
 白巳大神とは弁財天の神使
 蛇と龍とは同じもので、隣の龍神拝所に出向いて、琵琶湖の神使の役も帯びています
とあるが、現地には案内等なく詳細不明。 

白巳神社
 
同・内陣

*黒龍堂
 参道から境内に入る直前にある朱塗りの小祠。鳥居あり。
 傍らの案内には
 「黒龍は八大竜王の一尊。竜王は大海に住み雨を降らす神である。また、釈尊の誕生時に歓喜の清浄水(清めの雨)を降らせたと伝えられ、修行者の修道無難・道念増進の守護神でもある。
 横に立つ大木は、黒龍が湖より昇ってくると伝えられている神木である。
 当堂は、昭和45年大坂・岡橋氏によって建立されたが、近年痛みが激しいので、平成7年に改修された」
とあり、琵琶湖一帯に伝わる竜神信仰にかかわる小祠のひとつであろう。

 
黒龍堂社
 
同社殿


【宝厳寺】
[本堂周辺]
◎本堂(弁天堂)
 宝厳寺正面の長い石段(163段という)を上りきった左手、最高所の平地(境内は思っていたより狭い)に鎮座する宝厳寺の中心となる本堂で、本尊・弁才天を奉安する。但し秘仏であって通常は実見出来ない(60年に一度の開帳)。以下、弁天堂という。

 傍らの案内には、
 「宝厳寺弁才天堂  昭和17年建築
 竹生島宝厳寺の本尊は弁才天。寺伝によると、神亀元年(724)聖武天皇が天照皇大神の神託により、僧行基に勅命して弁才天を祀ったのが始まりといいます。

 本尊の弁才天像は、江戸時代まで島の東側にあった弁財天社(現都久夫須麻神社本殿)に安置されていました。
 しかし、明治政府の神仏分離によって弁財天社は都久夫須麻神社本殿と定められたため、明治4年、せんなく弁才天像は塔頭妙覚院の仮堂に仮安置され、以来66年間、弁才天堂の造営は未着手のまま時は流れましたが、昭和12年6月ようやく起工式を執りおこなうに至りましたが、翌月には盧溝橋事件が発生、日中戦争が勃発して事業も中止状態になりました。

 この事態を憂慮した東京在住の事業家滝富太郎が、自ら再建局長の任に就き、広く篤志を募る一方巨万の私財を投じ、遂に昭和17年(1942)10月、太平洋戦争中にもかかわらず完成されたのが現在の弁才天堂です。
 なお、設計監督は文部省の乾兼松。堂内には法隆寺金堂壁画模写事業の主任画家を務めた荒井寛方筆の飛天が描かれています」
とある。

 建物本体は身舎(モヤ)五間四方の建物だが、四方に千鳥破風を有する入母屋造・桧皮葺きの大屋根の下に、裳階(モコシ、軒下にあるた庇状の構造物)が巡らされているため、外見は二層屋根・七間四方の建物とみえる。

 宝厳寺内陣は、一般が入室できる前室と奥の須弥壇とに別けられ、その間を目の細かい鉄製の網格子で区切られているため、須弥壇内部が暗いこともあって内部は見えないが、資料によれば、嘗ては奥の秘仏を納めた厨子の前に、これまた厨子に入った弁才天像が十数体置かれていたという。

 本尊・弁財天像については上記。


宝厳寺・本堂 
 
同・内陣
 
旧須弥壇付近(資料転写)

◎五重石塔--重要文化財

 石造の五重塔(高さ2.47m)で、今は弁天堂の反対側に位置しているが、以前は竹生島西側の湖畔(弁天浜か)にあったが、大正末期に唐門横に移り、昭和47年の台風による崖崩れで湖中に転落、その後引き上げられて現在位置に復旧されたという。
 石造五重塔としてはごく普通のものだが、その様式から鎌倉時代中期頃の建造と推測されるという。

 傍らの案内には、
 「初重塔身の四方には四仏が配され、台石の格狭間(ゴエザマ)の形や、各層の反りの形状などから鎌倉時代の特徴がみられます。
 五重石塔で重要文化財の指定を受けているものは全国で七基しかなく、これはその一つです。
 石材は、比叡山中から採掘される小松石がもちいられています。
 豪雨による土砂崩れにより水没し、未だ発見されていないため、相輪の下部のみは後補となっています」
とある。

五重石塔

 なお、五重石塔などの石造層塔について、五代重氏は
 ・日本人が仏教以前に霊を祀り回向するためには、その依り代として常磐木の枝を立てて神籬とし、石を積んで磐境とした
 ・磐境の積石が三重・五重・七重・九重の石造層塔へと変貌するとともに、密教思想と結合して五輪石塔が造られた
 ・これらの石造層塔は、ただ美術として鑑賞するだけでなく、それを造立した人の願いと、その石造物に斎い籠められた霊の存在を忘れてはならない
という(石の宗教・1988、大意)

◎龍神堂

 本尊--徳澤惟馨善神・閏徳護法善神・福寿白如善神

 弁天堂の左奥にある小堂で(右写真)、古い絵図等には『三龍堂』とあるが、今は参道に「奉納 竹生島弁財天」と染めぬいた赤い幟が林立しており、内陣の扉も閉まっていて内部はみえず、龍神を祀る雰囲気はない。
 また、弁天堂の左奥にあることから、当堂に気づく人は殆どないであろう。

 本尊は、仏教にいう護法善神としての龍神を祀るのだろうが、資料なく詳細不明。



 

◎三重塔
  本尊--金剛界大日如来

 境内東側の高台に立つ朱塗りの塔で、崖に沿った石段を登った上にある。 高さ:16.5m 一辺:3.2m
 建立経緯などは不詳だが、資料によれば、文明19年(1484)建立と伝えられ、江戸初期に焼失、平成12年(2000)の再建という。

  本尊の金剛界大日如来は、金剛界曼荼羅の主尊で智恵を象徴する尊像で(胎蔵界大日如来は慈悲の象徴)、胸の前に左手の人差し指を立てて、それを右手で包み込む智拳印(チケンイン)を結んでいる(胎蔵界大日如来は膝の上で指を組み合わせた定印を結ぶ)


三重塔 

本尊・大日如来 
 
側面からみた内部

◎雨宝堂
  本尊--雨宝童子(ウホウドウジ)
 三重塔の裏に建つ小堂だが、7月の台風で被災したようでブルーシートが掛けられていた。

 雨宝童子とは神仏習合思想によって生まれた尊像で、両部神道(神道と真言密教とが習合した教派神道の一つ)では、天照大神が日向に降臨したときの姿を示すとされ、大日如来の化身ともいう。
 弘法大師空海が伊勢・朝熊山で修行していたとき、天照大神の神託をうけて彫ったとの伝承があるという。

 今、天照大神は女神とされているが、これは近代に入ってから定着したもので、それ以前のイメージは多彩で、江戸時代まで遡ると、天照大神の尊像としての雨宝童子はポピュラーだったというが(アマテラスの変貌・2000)、所謂中世神話独特の解釈から生まれた尊像であろう。

 雨宝童子を祀る社寺は少なく尊容不詳だが、奈良・長谷寺本尊・十一面観音菩薩の右に立つ脇侍・雨宝童子像(右写真・資料転写)は、髪を角髪(ミズラ)に結った童子像(少年像)で、頭上には宝冠を戴き、右手で金剛宝棒を突きたて、左手には宝珠を載せて、じっと前方を凝視している。
 (なお、西国三十三所22番・総持寺でも本尊・千手観音の右脇侍として雨宝童子が立っているという)

 堂舎を覆ったブルーシートの脇に、「雨宝童子堂(天照大神)」との木札が置いてあるが、当寺に雨宝童子が祀られた由緒・像の尊容等は不明。 

雨宝童子像
(奈良・長谷寺蔵)

◎天狗堂
 石段を上りきった右手、御朱印所の左にある小堂で、立て札には行尋坊天狗堂とある。
 扉が閉まっていて内陣の様子は不明。

 竹生島には
 「行基菩薩が開基した当時、竹生島には多くの天狗が住みついており、菩薩の業を助けていた。
 なかでも頭領の行尋坊は片時もそばを離れず、『我死すとも長くこの島の守護を誓う』と言い、その証しとして指の生爪をはぎ差し出した」
との伝承があり、天狗堂は行尋坊を宝厳寺の守護神として祀ったもので(資料・竹生島)、竹生島守護を誓った時差し出した“行尋坊の爪”というものが、“天狗の爪”と称して宝物館に納められていたというが、今はない。
 (爪の正体は不明だが、ネッで検索した「サメの歯の化石」に似ている)

 
天狗堂
 
天狗の爪

◎観音奉拝所
 天狗堂前を右に進んだ処にある小堂で、西国三十三霊場観世音奉拝所とある。

 内陣には、西国三十三観音霊場の観音像33体を祀られており、当奉拝所に詣でれば三十三霊場全部を詣でたことになるという。
 堂内には千社札が多数貼られているが、整然と並ぶことから、参詣者が勝手に張ったものではないらしい。


観音奉安所 
 
三十三霊場観音像
 
千社札

[東側神社寄り周辺]
◎唐門(カラモン)--国宝
 正面石段の2段目踊り場から右(東)へ進んだ先にある門で、その背後(出口)は観音堂の屋根に食い込んでおり、今は観音堂の玄関のようになっている。
 この唐門は、正面及び背後の出口に唐破風を有する向唐門(ムカイカラモン)と呼ばれる様式で、構造形式は一間一戸向唐門。
 内部は極彩色の華麗な彫刻・花菱七宝繋門などで飾られ、豪壮且つ華麗な桃山建築を代表する建物という。

 今、唐門とそれに続く観音堂は工事中で足場を組みシートに覆われ、内外ともに見ることはではない(ただ、中を通り抜けることはできる)
 下の写真(右2枚)は資料より転写したもの。


工事中の唐門正面 
 
唐 門
 
左:観音堂・右:唐門

 この唐門は、桃山時代の慶長8年(1603)に、豊臣秀頼が京都東山阿弥陀ヶ峰にあった豊国廟の極楽門を移築したものではないかといわれ、唐門入口脇の案内には、
 「慶長7・8年(1602・3)豊臣秀吉の子・秀頼によって、京都豊国廟の建造物を竹生島に移築するかたちで、当寺荒廃していた竹生島の伽藍整備がおこなわれました。この時、豊国廟の極楽門が移築され現在の当寺唐門になったといいます。
 豪華絢爛と評される桃山様式の建造物の特徴がよく表れており、破風板内部の正面中央には大型の蟹股が置かれ、その内部は牡丹の彫刻で埋められています。蟹股の外部や脇羽目などにも多彩な彫刻で埋め尽くされ、極彩色で飾られています。
 現在は、長年の風雨によりその華やかな色もずいぶん褪せていますが、建立当初は、黒漆塗りの躯体と、赤・黄・緑などの極彩色とが鮮やかなコントラストで映えていたことでしょう(以下略)
とある。

 ただ、唐門の前身である極楽門は、豊国廟を飾る前は、秀吉築城の大阪城の本丸と二の丸との間に架かる極楽橋の一部で、それが豊国廟に移され、更に当寺に移されたものという。

 それについて資料・竹生島には、
 ・豊国廟の社僧・神龍院梵舜の日記・舜旧記の慶長7年6月11日条に、「今日より豊国極楽門、内府より竹生島へ寄進のため壊し始む・・・」とある
 ・豊国廟極楽門は、醍醐寺座主・義演の義演准后日記慶長5年(1600)5月12日条に「豊国明神の鳥居の西に廿間斗の二階門建立、大阪極楽橋を被引了」とあるように、大阪城本丸と二の丸間の内堀に架かっていた極楽橋(慶長元年-1596架橋、今は普通の橋が架かっている)を移築して楼門へと改造したもの

 ・豊臣秀吉時代の大阪城に関する資料は少ないが、2006年にオーストラリアのエッケンベルグ城で発見された「豊臣期大阪図屏風」に極楽橋が描かれ(右絵図)、その入口に当たる部分が当寺の唐門に極似している(同じ橋が大阪城図屏風・京大阪図屏風にもみえるという)
 ・この橋は華やかな廊下橋で、唐破風造・瓦葺き・渡り口の破風下には彫刻が施され、側面の壁には極彩色の花卉の彫刻がはめこまれている
 ・また、橋の中程には入母屋造・桧皮葺きの望楼が乗り、その壁面には彫刻がはめ込まれ、四周に縁が廻り朱塗りの高欄が付いている
 ・イェズス会の宣教師・ルイス・フロイスの記録にも、「橋の中央に小櫓があり、・・・太陽の光を浴びると素晴らしい輝きを放ち、櫓に新たな装飾を加える」

  

極楽橋絵図

 ・秀吉の偉業を讃えて建てられた豊国廟の極楽門は、亡くなってもなお秀吉の威光を感じさせるものであったことから、家康は、慶長5年に大阪城から移築したばかりの極楽門を、2年後の慶長7年 竹生島に移築させたのではないだろうか
 ・つまり、宝厳寺唐門は大阪城極楽橋の入口部分であり、豊国廟では極楽門の端部であったものを当寺に移築したもので、数少ない豊臣大阪城の遺構であり、豊国廟唯一の遺構なのである
 ・付け加えれば、都久夫須麻神社本殿と宝厳寺唐門の装飾等の共通点から、極楽橋中央にあった望楼が都久夫須麻神社本殿の身舎部分に転用されたとも考えられる
とある(大意)

◎観音堂--重要文化財
 唐門東側に接して建つ堂舎で、千手観音菩薩像を本尊とする西国三十三所霊場30番札所の本堂でもある。
 ・当社保存の棟札に「慶長8年(1603)6月 一島すべての再興が終わった」とあり、その時の頭領・西嶋但馬守家に伝わる年代記に、「慶長7年9月19日棟上、竹生島くわんのん堂天女堂(現本殿のこと)建立」とあり、この頃に完成したと思われる。
 ・建物は、桁行(間口)五間・梁間(奥行)四間・桧皮葺きの大きさで、外回りに幅一間の縁が巡らされており、外見上では間口七間とみえ、その西側は唐門と、東側は都久夫須麻神社境内へ至る渡廊(舟廊下ともいう)と連なっている。
 ・堂舎が急斜面に建つため、床下を井桁に組んだ柱によって支える懸造(カケヅクリ)構造となっている。

 今は工事中で全容は実見不能だが、通路部分のみは通れるようになっており、その途中、厨子に入った“お前立ちの観音像”を拝することはできる。
 ただ資料によれば、本尊を納める大きな厨子の前にお前立ち観音像が立ち、その左右は豪華に飾られていたらしい(下右写真)


観音堂・内陣 
 
資料にみる内陣

◎渡廊(舟廊下ともいう)--重要文化財
 観音堂の東側から延びる梁間一間の長い渡り廊下で、切妻造・桧皮葺き。東へ渡りきれば都久夫須麻神社本殿の横に出る。

 渡廊内部に立つ案内には
 「宝厳寺観音堂と都久夫須麻神社本殿を結ぶ渡り廊下。
 竪連子窓を両側に配し、彫刻や天井板を廃したシンプルなデザインは、唐門・観音堂・都久夫須麻神社本殿とは少し趣を異にします。
 豊臣秀吉の御座船『日本丸』の部材によって建てられたという伝承をもつことから、別名・舟廊下と呼ばれています」
とある。

 また、資料・竹生島によれば、
 ・全長が高低二つの部分、西側の低屋根部分(桁行八間・約18m)と東の高屋根部分(桁行二間・約5m)とに別れ、高屋根部分の床は一段高くなっている
 ・内部に高低差があることは、この渡廊が地形に合わせたものではなく、他所から移築されてきた建物であることを示唆している
 ・渡廊の両側は竪連子窓、天井は勾配をもつ化粧屋根裏で、豊臣秀頼のよる移築といわれ(豊臣秀吉の朝鮮出兵時の御座船・日本丸の廃材を転用したと伝わるが、極楽門の遺構ともいう)、彩色は剥奪しているが各所に桃山様式の面影が残っている
 ・なお、設置場所が観音堂から続く急斜面にあるため、床下は懸造構造となっている
という。

 
渡廊・外観
 
同・懸造り部(資料転写)
 
渡廊・内部


[正面石段周辺]
 竹生島港から宝厳寺本堂へ至る正面石段は、その途中に4ヶ所の踊り場があり、一段目踊り場に一鳥居が、二段目踊り場に二の鳥居が立つ。

◎神変大菩薩堂
 本尊--役行者
 二段目踊り場を右に入った処に建つ小堂で、江戸末期の絵図には『行者堂』とみえ、堂内には役行者像が安置されている。
 修験道の開祖としての役行者を祀るのだろうが、竹生島における修験行者の活動状況は不詳。
 なお神変大菩薩とは、役行者没後千年以上たった寛政2年(1799)に、時の光格天皇から贈られた諡号をいう。

 また、当堂の右手に宝篋印塔が建つが、詳細不明。

 
神変大菩薩堂
 
役行者像
 
宝篋印塔

◎護摩堂
 旧本尊--不動明王座像
 三段目踊り場左の小広場に建つ小堂。
 月定院の右奥に建つ目立たないお堂で、護摩堂というから、堂内で護摩を焚くらしいが、内部は真っ暗で何も見えない。

 不動明王座像は、嘗ては観音堂近くで祀られていたが、その堂が昭和31年頃に倒壊したので護摩堂に移して本尊とされたといわれ、今は宝物館に移されている。

 旧本尊の不動明王座像について、宝物館案内パンフには
 ・寺伝では天台宗園城寺智証大師円珍(円珍・814--91)作の不動明王という
 ・しかし、その作像様式からみると10世紀頃の作品である
 ・密教では、真言陀羅尼を一心に唱えると、その功徳は絶大で、いろいろの祈願が叶うという信仰がある
 ・その効力を象徴する存在が明王で、その代表が不動明王であるといわれている
とある(要点抄記)

 尊像は正面を向いた座像で(像高:54.8cm)、頭上に八葉蓮華をのせ、髪は総髪で左肩に辨髪(ベンパツ)を垂らす
 両眼は大きく見開いて、上の牙歯(ガシ)で下唇をかむ忿怒の様相を示す
 右手に宝剣、左手に羂索を握って結跏趺坐する通常の不動明王像で、宝厳寺では最古の彫像という(下写真右--宝物館パンフより転写)。 

 
護摩堂

旧本尊・不動明王座像

◎鐘楼

 三段目踊り場の右上に建つ朱塗りの鐘楼だが、全体が樹木に囲まれていてよく見えず、気づく人は少ないであろう(右写真)

 乾元元年(1302・鎌倉末期)の絵図にもみえるから古くからあったと思われるが、建立時期等は不明。





 
 

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