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石 坐 神 社
滋賀県大津市西の庄
祭神--八大龍王宮:豊玉比古神・彦坐王命
正霊天王宮:天智天皇・大友皇子(弘文天皇)・伊賀宅子媛命
                                                               2016.07.14参詣

 延喜式神名帳に、『近江国滋賀郡 石坐神社』とある式内社。社名は“イワイ(古くはイハヒ)”と読む。

 京阪電鉄石山坂本線・錦駅の北約350m、駅改札を出て左へ、二つ目の角を左折、滋賀大付属小学校東の小道を北上、小学校北東角を右に曲がったすぐ北側の鎮守の杜の中にある。付属小学校までの道路やや輻輳していて地図必要。

※由緒
 鳥居脇に掲げる由緒書(大津東ローターリークラブ)によれば、
 「当社は、天智天皇8年旧9月9日神奈備山(御霊殿山-ゴリョウドヤマ)の磐座に湖中より龍灯が飛来し、御神託のまにまに勅使を遣わし、大石の上に小祠を建てて祭祀なされた。
 壬申の乱ののち、持統天皇朱鳥元年旧5月1日、粟津の王林の地・石坐野(イハスノ・現錦駅周辺)に八大龍王宮(豊玉比売命・彦坐王)と正霊天王社(天智天皇・大友皇子・伊賀宅子媛)との両殿が創建された。(以下略)
という。

 当社について記す古資料は少なく、管見した資料によれば、
 ・近江輿地志略(1734・江戸中期)
  【八大龍王社】 
   西の庄にあり。或いは高木宮といふ。一株の楠高二十丈ばかりなる霊木といふ。故に宮の名とするにか。
   海神を祭る事あれども、龍王を祭るとは未だ惟一神道のきかざる処也。・・・(中略)
   土俗に云ふ、佐々木高綱宇治川を渡すの後勧請する所なりと。
   卜部記に曰、故老相伝、天智天皇御守(宇の誤記か)初めて示現と。
   当時龍燈時々山上に現る。野老之を怪しみ高山に登りて之を窺望の時、龍燈及び神大樹の上に現る。・・・(中略) 
   是に於いて仮殿を山上に構え、神宇邑里として永く氏神と為す。殿を山上に構ふるとは今の御霊殿山なるべし。今尚山上に一檜樹あり。
   延喜式に近江国滋賀郡八座の中に石座神社(石坐神社)といふあり。疑ふらくは此の神なるべきか。然れども明かなる証なければ決定し難し。(以下略)
  【石神】 
   木下村の内、川より西の田の字也。按ずるに今の西の庄八大龍王社初在の地なるべし。
   此の八大龍王の事、延喜式神名帳に所謂石坐神社なるべし。
   此神初め御霊殿の峯に鎮座し、後此地に社を建て、其後又今の西庄に遷せる也。此の事は古老人物語に伝はれり。
   此地を石神といふを以て見れば、愈石坐神社とする説是ならむか。
   (今、石神の町名はないが、今の錦駅付近の地を、昔は石坐野-イハスノ、後に石神町と呼んだという)

 その後、明治初頭の資料として
 ・神社覈録(1870)
   石坐は伊波比と訓べし、祭神詳ならず、今は廃亡せり。
   日吉社外百八社記云、磊井宮又白井宮辛崎同神、上坂本大和荘社、本社の北に井あり、是を白井と云。秘密参社記に大和庄壮にて西向て拝す、今は社なしと云り
 ・特選神名牒(1876)
   今按石坐神社は、鵜川村白鬚明神なりといへ共、こは三代実録にみえたる比良神にませば石坐神社ならぬこと明かなり
   又錦村高木神社なりと云うも、古は社地の五町余り南字石神に鎮座なるを文永中今の地に遷されたりと云のみにて、他に証なければ従い難し
   神社覈録に、日吉社外百八社記に云、磊井宮又白井宮辛崎同神、上坂本大和荘社、本社の北に井あり、是を白井と云云々、今は社なしと云りとあれば、廃絶したるなるべし
とあり、当社は鎮座地不明となっていたというが、江戸時代には高木神社或いは八大龍王社とよばれていたらしい。

 当社が八大龍王宮と正霊天王宮から成ること(当社案内)、また上記諸資料からみて、当社は御霊殿山(ゴリョウドヤマ)山頂にある巨岩を拝する磐座信仰に発したと思われ、日本の神々(1986)
  「社伝は、この巨岩を八大龍王としているが、これは当社の旧称に通ずるものであり、また八大龍王とは本来、密教の晴雨法の本尊である。
 おそらく、当社は原始的な磐座信仰から出発したが、やがては、この磐座が雨乞い信仰の対象となり、神仏習合の過程で八大龍王の御神体とされるようになったのであろう」
という。

 今、当社あるいは旧社地・石神の近傍に神奈備山とおぼしき山はなく、当社の原点といわれる御霊殿山の所在地は不詳だが、日本の神々5は
 「当社の西南約4kmの相模川(当社の東を流れる川)上流にあり、その三角形の山容は神体山に相応しい」
という。
 当社の西南約4kmにある山といえば、相模川上流近く(京都府との府県界近く)にある音羽山(H=593.4m)かと思われるが、大津市中心部の西から南に拡がる山中(相模川の水源地近く)にあり、相模川によって連なっているとはいうものの、神奈備山とみるには集落地から離れすぎているのが難点(神体山は集落に近い姿形のよい山である場合が多い)

 ただ、当社と音羽山を結ぶ線上にある大津市秋葉台(当社南西約1km弱、茶臼山公園内)に、茶臼山古墳(前方後円墳・L=120m・4世紀末)・小茶臼山古墳(円墳・径18m、茶臼山古墳の南西約180m)があることから、4世紀末には古墳を築くだけの実力を持った首長がいたことは確かで、その首長等に率いられる人々が当地の磐座信仰を担ったとも思われるが、その実体は不明。

 なお、この茶臼山古墳を、当社の祭神である弘文天皇の陵とする伝承があるが、7世紀の人物である大友皇子(弘文天皇・648--627)に充てるのは年代的に有り得ない。
 弘文天皇陵は、公式には大津市御陵町にある“長等山前陵”(考古学上では円城寺亀丘古墳・円墳)とされるが、これも4世紀の古墳という。

 案内は、御霊殿山への神霊降下を天智天皇8年というが、当社の始まりが古墳時代から続く磐座信仰であるとすれば、天智以前に遡れるともいえるが、その形態は磐座の前(あるいは山麓)に神籬(ヒモロギ)を設けての神マツリであって、恒常的な社殿を有したとは思えない。
 ただ、当社創祀を天智朝に持ってきた理由は不明で、特に9月9日と月日まで特定していることをみると、この由緒は後世の創作と思われる。

 当社の鎮座地は、御霊殿山山頂→石神→西の庄(現在地)と遷ったといわれ、輿地志略・石神項には
  「此の神、初め御霊殿の峯に鎮座し、後此の地(石神)に社を建て、其の後又今の西庄に遷せる也」
とある。
 御霊殿山から遷った石神の地とは、その昔、“石坐野(イハスノ)の王林”と呼ばれた地で、今の京阪石山坂本線・錦駅付近(現昭和町・相模町)という。
 また、その遷座時期は、案内は天武天皇・朱鳥元年5月(正確には天武14年5月、朱鳥改元は7月)というが、傍証となる史料はない。

 石神にあった神社について、式内社調査報告は、
  「石神の地に大津宮関係の神々を祀り、大津宮に関係のあった氏族たちが表向きは龍王神祠として、大友皇子をはじめとする壬申の乱に敗れた近江朝廷方の神霊を慰めたともいわれている」
とあることからみると、御霊殿山は龍神を祀ったもので、石神に移ったときに、正霊天王宮と称して天智天皇以下を合祀したのかもしれない。

 石神から現在地への遷座時期は不詳だが、
 ・日本の神々5
  「現在の本殿は重文指定の鎌倉時代の建築で、その棟札の写しから、文永3年(1266)8月に粟津八宮の一つとして再建されたことがわかる。 現社地への移転もこの頃になされたと考えられる」
 ・平成祭データー(1995)
  「亀山天皇文永3年8月29日、神主・佐々木守安社殿を湖辺に遷し更に造営す、今の社殿是なり」
 ・上記由緒書
  「この社殿は、棟札の写しによって文永3年に建造されたことが知られ、鎌倉時代の社殿建築として貴重なもの」
などがあり、鎌倉中期の文永3年に何らかの動きがあったのは確からしい。

 なお、これに関連して、佐々木高綱(1160--1214)が宇治川の合戦で先陣をつとめたのち、この地に勧請したという伝承があるというが、現在地への遷座が文永3年とすれば、高綱死後50年もたった後のことで平仄があわない。

 案内に、
 ・光仁天皇宝亀4年(773)旧12月3日、正一位勲一等の神階を賜り給い鎮護国家之神也と御勅宣あり
 ・同5年12月3日、勅祭を行わせ給う
とあるが、続日本紀・光仁天皇宝亀4年条に是を示唆する記述はみえない。
 正一位勲一等は神階の最高位であり、始めて神階を賜る無位の神には授けられないはずだが、光仁天皇(在位7770--81)は天智天皇の孫にあたることから(この天皇から、皇位が天武系から天智系に変わっている)、特別の配慮(光仁の意向)があったのかもしれない。ただ、正史にみえないのが気にかかる(神階綬叙記録は正史に記載されるのが普通)

※祭神
 当社は八大龍王社・正霊天王社の2社からなり、その祭神も次の2系に別れる。
 ・八大龍王宮--豊玉比古神(海津見神-ワタツミの幸魂)
             彦坐王命(ヒコニイマス王)
 ・正霊天王宮--天智天皇(38代)
             大友皇子(弘文天皇・39代
             伊賀宅子媛命(イガノタクコノイラツメ・大友皇子の母)

[八大龍王社]
*豊玉比古神(トヨタマヒコ)
 イザナギ・イザナミの神生みによって生まれた神で、古事記では大綿津見神・綿津見大神、書紀では海神・少童命・海神豊玉彦神と記す。読みはいずれもワタツミ。
 海神即ち水神であることから、山麓の農民にとっては田畑に豊穣をもたらす田の神であり、琵琶湖の漁民にとっては豊漁をもたらす漁猟神でもあったといえる。
 仏教の八大龍王と習合したともいわれ、当社を八大龍王宮というのは神仏習合による呼称。
 カッコ書きにいう幸魂(サチタマ)とは、穏やかな霊魂である和魂(ニギタマ)を機能によって区別した呼称の一つで、農耕・狩猟・漁猟などで獲物をもたらしてくれる霊魂をいう(神道事典・1999)

 なお、社頭に掲げる「八大龍王社の御縁起」には
  「当宮は、神奈備・御霊殿山の八大龍王(八柱の高貴な神々)が、移座なされ鎮まり給ふ神社であり、・・・
   八大龍王社は八柱の龍神で、主祭神・石坐大神は、海神(ワタツミ)豊玉比古神と申し上げ、他の高貴な神たちは、秘説七座として御神名は洩れ伝えられていない」
とある。

*彦坐王命
 開化天皇(第9代)の皇子で、記紀ともに事蹟についての記述はないが、母が和爾氏の出身であること、16ヵ国の国造の遠祖とされ、その御子神12柱もまた多くの氏族の祖とされる。
 彦坐王を当社に祀る由緒ははっきりしないが、近江国に関連する氏族として、彦坐王系氏族の息長氏(本拠:琵琶湖北岸)・淡海国造(本拠:琵琶湖西岸)・安国造(本拠:琵琶湖東岸)・蚊野別氏(本拠地不明)などがあり、そのいずれかが当地と関係し(淡海国造の可能性強し)、その祖神として祀ったのかもしれないが、八大龍王社に彦坐王を祀る必然性はない。
 ただ、開化天皇の実在が疑問視されていることから(欠史8代)、その皇子・彦坐王の実在も疑問かもしれない

[正霊天王社]
 祭神3座は、近江の地に都(近江宮・大津宮・667--72)した天智天皇とその御子・大友皇子(弘文天皇)、その母・伊賀宅子媛を祀った宮だが、大友皇子が壬申の乱(672)で敗死していることから、その霊を鎮めるために祀られたと思われる。
 また、その創建は、皇統が天智系に戻った光仁天皇以降(8世紀末以降)と思われるが、資料なく詳細不明。

 これらからみて、式内社調査報告は、
  「本来は水神または農耕神として地域社会の古代生活の中に生まれた古社に、大津宮関係の諸神が何等かの事情で合祀されたのではないかと考えられる」
という。妥当な見解であろう。

※社殿等
 滋賀大付属小学校の北東角を東(右)へ曲がったすぐ左手に、当社鎮守の杜がみえる。
 鎮守の杜の西端に石坐神社参道との案内看板があり、植え込みに挟まれた参道を入った右側(東)が境内。
 なお鳥居は、境内を突っ切った北側道路側に立つ。

 境内東側の中央に拝殿(柱と屋根だけの簡素な建物)が建ち、その背後、中門(四脚門・桧皮葺)から延びる瑞垣に囲まれた本殿域に一間向拝をもつ本殿(三間社流造・桧皮葺)が西面して鎮座する。


石坐神社・鎮守の杜 
 
石坐神社・鳥居(境内北側)
 
同・南側入口
 
同・拝殿

同・本殿域正面 
 
同・中門
 
同・本殿
   
同・本殿屋根

◎末社
 *彦坐王社
   本殿域の左にある小祠。というより、組石の上に座る神像(石製座像)を覆屋で覆ったという感じ。
   彦坐王社との提灯が下がっているから、神像は彦坐王だろうが詳細不詳。
 *弁財天社・稲荷社
   本殿域の左裏にある小祠だが勧請由緒など詳細不明。

 
彦坐王社
 
神像
(彦坐王か)
 
弁財天社
 
稲荷社

 南側参道から境内に入った右手に御神木(クス)が大きく枝葉を広げ、その傍らに「御霊殿山遙拝所」がある。
 遙拝所は、2本の竹に注連縄を渡しただけの簡単なもので、その前に「石坐神社八大龍王神」との青色の幟2本が立っている。
 傍らの案内には
  「石坐の大神は、海神豊玉彦命と申し上げます。
   淡水湖である琵琶湖の神様は、淡海(タイカイ)の大神と申し上げ、御子に坐します。
   神代の昔、大神様は御霊殿山に御鎮まりになられ、天智天皇御代8年旧9月9日御鎮際。
   神奈備山は奥宮の禁足地にあります。
   遙かに拝み奉り神恩感謝の祈りを捧げましょう」
とある。

 
御霊殿山遙拝所
 
御神木

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