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胡 宮 神 社
滋賀県犬上郡多賀町敏満寺
主祭神--伊弉諾尊・伊弉冉尊
配祀--事勝国勝長狭命
                                                                2016.02.11参詣

 多賀神社の南約1.5kmに鎮座する式外社で、多賀大社の末社とも奥宮ともいわれる。
 社名は“コノミヤ”と読む。

 多賀大社前の絵馬通りを東へ、多賀交差点を右(南)へ折れ、国道307号線を約1kmほど進んだ左手に胡宮神社との標柱が立つ。

※由緒
 境内入口に立つ案内石版・「胡宮神社のみ光を仰ぐ」によれば、
  「ご祭神  伊邪那岐大神・伊邪那美大神・事勝国勝長狭命
 悠遠な上古より青竜山のいただきにご鎮座。寿福・延命・授子授産などあらたかなご神徳は遠近にあまねく、みいずと慕って詣ずる人は今にあとをたたない。
 仏教の渡来によって、この地に天台宗敏満寺が創建されると、やがて山麓に社殿が営まれ、その守護神としてあつくまつられるに至った。
 平安の昔、女流歌人・赤染衛門は童子守護の願文を奉り、建久(養和の誤記)のはじめ、東大寺再建にあたって重源上人は、ご社頭に七日の参籠をおさめて延命し、後光厳天皇は美濃より都にお帰り途次、み車を留めまして一夜をご宿泊、戦国の世、元亀天正の兵火は社殿の大半を焼失させたが、徳川三代将軍家光公の篤志によって寛永15年復旧を見ることができた。江戸時代には、お乳人が参詣し皇子皇女のご安泰祈願がおこなわれるなど、ご霊徳の数々はあげるにいとまもないが・・・」
とある。

 また、近世以降の資料としては
 ・近江輿地志略(1734・江戸中期)
  「敏満寺村にあり、多賀大社の末社なり。多賀大社より午の方十四町にあり。社南向き、祭神国勝事勝長狭命なり。
 土俗、当社のことを以て命乞の社といひ、壽命の神といふ。南都俊乗坊重源齡を延べ命をのぶといふ」

 ・多賀神社史(1933・昭和8)
  「胡宮神社は本社の南方約拾五町、さきにいふ青龍山の中腹に位し、犬上郡多賀村敏満寺青龍山に属する。
 その祭神は伊邪那岐命・伊邪那美命二柱で、事勝国勝長狭命を配祀し県社に列する。
 現に行はるゝ敏満寺あたりの口碑によると、胡宮の鎮座地を以て元多賀といひ慣はせて居るが、之を過去の沿革に徴すると、多賀神社に於いては、中世の末頃より胡宮を末社と称し、寛政年中(1789--01・江戸中期末)に入り、胡宮側より之を否定して奥宮と主張したため、遂に相互の間に紛擾を生ずるにいたったことさへある。
 胡宮の称を以て児宮の謂とするは、末社説を助くるもの、これを古宮の義とするは、奥宮説を支持する所以とせらるゝ」

 ・日本の神々5(1986)
  「鎮座の時代については神代といわれ、あるいは聖徳太子の草創とも口碑にいうが確かでない。
 現在当社が氏子区域とする大字敏満寺は、古くは水沼村と呼ばれて東大寺の荘園であったことが正倉院所蔵の地図で明らかである。
 このミヌマに“敏万”あるいは“敏満”の佳字を宛てて村の名とし、そこに創建された寺を敏満寺と称した。この寺の草創も聖徳太子に仮託されているが、おそらく東大寺の荘園鎮守として設けられ、さらにその地にあった当社を寺の鎮守として“木の宮”と称したのであろう」
などがある。

 これらによれば、当社の創建由緒・年代等は不詳だが、背後の青竜山頂の磐座を「上代二神ご鎮座の神蹟」とすることをみると(案内石版)、山頂の磐座を神降臨の神蹟と仰ぐ磐座信仰に発するもので、何時の頃かに、その里宮として山麓の当地に社殿が設けられたと思われる。

 その創建時期について、案内石版には「仏教が伝来し天台宗敏満寺が創建されると、やがて山麓に社殿が造営され・・・」とあり、曾て当地にあったという敏満寺との関係が推測される。
 敏満寺の詳細は不詳だが(天正年間の兵火により焼失・廃寺)、資料によれば平安初期のころの三修上人(あるいはその弟子・敏満童子)の開基ともいわれ(諸説あり)、とすれば、その鎮守とされる当社も平安初期頃の創建かと思われるが、それ以前からあったのを鎮守としたのかもしれず、創建年代は不詳というべきであろう(当社に対する神階綬叙等の記録なく、公的記録からの創建年代の推測はできない)

 いま、当社と多賀神社との間には、攝末社といった直接的な関係はないが、
 ・当社祭神を多賀神社二座のうちの一座・イザナミとして、延期式にいう祭神二座とは、当社一座と多賀神社一座とを併せたものともいわれ、
 ・それを示唆するのが、上記・多賀神社史にいう末社・奥宮をめぐっての紛糾であり、
 ・日本の神々5は、「胡宮は“多賀大社胡宮大明神”と称されて多賀社の神威を背景に栄え、江戸中期以降になると多賀社の末社という形を厭うようになり、奥の院と称してその独立性を主張するに至った」という。

 当社が多賀大社の奥宮かどうかについて、多賀神社史は
  「奥宮伝説の発生に関しては、そこに至るらしめた深い事由が存するかと思はしめる。
 それについて一言したいのは両社の間に於ける祭事関係で、江戸時代の末までは、四月中辰日に胡宮の神輿敏満寺の丘陵を下って多賀神社の旅所に幸し、翌巳日に還幸あり、明くる午日を以て多賀社に年中一度の大祭を行ふを例とした。
 数少くない内外の末社中、独り胡宮との間に限って、かように例祭に先立つ神幸の儀の繰りかえされ来たったのを見ても、相互の間に於けるただならぬ関係を彷彿せしむるに苦しまないが、今日に之を確かむべき確的の史料を留めないのを頗る遺憾とする」
と記し、江戸末までは、多賀社祭礼に先だって当社神輿の多賀社御幸があり、その還幸を待って多賀社の大祭の始まりとされていたという(胡宮神輿御幸還幸儀礼の次第については日本の神々5に詳しい)

 これらからみると、当社と多賀大社との間に何らかの関係があったものが、明治以降になって分離独立したのであろう(多賀神社史には「胡宮神社は明治に入るに及んで独立した」とある)

※祭神
  今の主祭神は、多賀大社と同じく伊邪那岐・伊邪那美の二座で、事勝国勝長狭(コトカツクニカツナガサ)は配祀となっているが、ギ・ミ二神を主祭神とするのは、上記のように、当社と多賀大社との関係によるものと思われる。

 その祭神について、日本の神々5は
 ・多賀社は伊弉諾尊で胡宮は伊弉冉尊、すなわち延喜式の多何神社二座というのは両社の併称--諸社一覧他
 ・胡宮社は多賀の末社の一つで、「事勝国勝長狭尊、亦名塩土翁、伊弉諾尊の子也」としながらも「或胡宮両社と号す」と記す--多賀大社本末神名記
 ・事勝国勝長狭尊として「伊弉諾尊の御子にて御座」と一神のごとくいいながら、「宮の作、一社の内に両社を構え、御本地東の方は薬師如来、西の方は虚空蔵菩薩」と二座ともとれる記述をしている--多賀大社儀軏
などの異説があり、事勝国勝長狭一座ともとれるが、
 「胡宮社は本地が両菩薩で、社殿も両社を構えていたというから、通説のように多賀社と同神の二座とみるのが妥当であろう」
という。

 配祀されている事勝国勝長狭尊とは、書紀9段一書4に
  「天孫ニニギ尊が吾田の長屋の笠狭の崎に着かれたとき、そこに一人の神があり、名を事勝国勝長狭といった。天孫が『国があるか』と問われると、『あります。勅のままに奉りましょう』と答えて国を差し出した。
 その事勝国勝長狭神は伊弉諾尊の子で、またの名を塩土老翁(シオツチノオジ)という」
とある神を指す。
 この神の神格は不詳だが、別名・塩土老翁が、兄の釣り針をなくして困っている彦火々出見尊に海神の宮に行く路を、東征を志す神武天皇に東方に美地があることを指し示したことから、海路を司る神と思われる。

 当社祭神を事勝国勝長狭一座とするのは、社名・コノミヤを“児の宮”と解して、伊弉諾の御子である事勝国勝長狭を当社の祭神としたとも思われ、当社が琵琶湖(=海)に近いことから、琵琶湖を生活の場とした古代近江人が航行安全・豊漁の神として祀ったのかもしれないが、証拠はない。

※社殿等
 国道307号線の左に「胡宮神社」との標識があり、緩やかな坂道(裏参道)を登った左手の山腹に積まれた石垣上の平坦地が境内。
 境内は狭く、石段を登った上すぐに大きな拝殿(入母屋造・銅板葺)が建ち、その奥、塀に囲まれた中に幣殿をはさんで本殿が南面して鎮座する。
 本殿は、塀が高く中を覗けないため桧皮葺きの屋根だけしかみえないが、ネットでみた古い写真によれば、間口三間・奥行き二間の本殿と間口三間の向拝を一つの屋根で覆った、所謂三間社流造とみえる。
 案内によれば、「本殿は徳川家光(在職1623--51)の造営で、滋賀県重要文化財指定」という。

 
胡宮神社・裏参道入口
 
同・鳥居
 
同・境内図
 
同・拝殿

同・本殿 
 
同・本殿側面

 境内右手、社殿域の外に小祠2宇が鎮座する。社名表示はないが、案内に
  「境内社 天満熊野両社あり 後者の社殿は宝永4年(1707)彦根藩主井伊直興の造営による」
とある2社と思われるが、どちらがどの社殿かは不明。

 また、この2社の右手に「磐座参道」との石碑が立ち、磐座へ至る小路がある。入ってはみたが土止め丸太の階段が断続的に続き、整備不良で道も荒れていたので途中から引き返した(資料によれば20~30分で到達するという)

 入口脇の案内「胡宮の磐座」には、
 磐座(イワクラ)  
 青龍山の頂上に大きな岩がある。大昔から、この岩を磐座とよび深く信仰して龍宮を祭り、長寿・豊作・雨乞いをした。
 これを原始信仰と云い、麓から遙拝するための社殿を造ったのが胡宮であり、磐座は胡宮の奥宮であり、多賀大社の奥の院と呼んだ時代もある。
 頂上付近の神聖な場所を境界(イワキ)と呼び、一般の人は立て入らせなかった。
 途中の「お池」で身を清め、供物を洗い、祭典の広場で春秋の祭を行った旧跡もある。
 滋賀県内でも数少ない山岳信仰の聖域である。
とある。 
 
境内社

磐座参道・入口 
 
磐座(社頭の案内絵図より転写)

◎敏満寺跡
 境内右手の崩れかけた築地塀で区画された奥に堂舎2宇、大日堂・観音堂が建っている。
 何れも旧敏満寺に奉安されていた仏像を納めた堂舎のようで、掲げられた案内には
 ・大日堂--旧敏満寺御本尊 大日如来(厨子中に納められているようで実見不能)
 ・観音堂--御本尊 石像 楊枝観世音菩薩
とあり、観音堂脇の案内には、
  「元徳3年(1331)の敏満寺一山目録書に、本堂近くに観音堂があったと記されている。
 福寿院の南よりにあった時、寛永13年(1638)造営され、元禄12年(1699)修復されたのを、寛政9年(1797)ごろ福寿院別当声海のとき現位置に移築された。
 本尊石仏聖観音立像(別名揚枝観音菩薩ともいう)、高さ八尺五寸(2.5m)、自然石に線刻された聖観音石像は、滋賀県内で最も古く、鎌倉時代初期(1170年代)の作である・・・」
とあり、薄暗い内陣奥に観音像らしき石像があるが、高さ2.5mもあるとは見えない。

 大日堂・観音堂の間に小さい石仏群(数十基)があるが、集められた由来等は不明。

 また、裏参道から社殿に至る間の右側(南側)疎林の中に石積みの塚と古井戸がある。
 傍らの案内・「旧敏満寺跡 古井戸と焼石の塚」には、
  「天台仏教の法域として、1200年前から約700年間、堂舎48ヶ所余りあった敏満寺は、惜しくも元亀3年(1572)織田信長に焼かれて法灯は消えた。
 焼け跡を天正元年(1573)胡宮神社の境内として整備された時、散乱していた焼石や五輪塔をこの古井戸に投げ込んだ。
 平成の世となり、埋没していた古井戸を掘り返した時に出た石と五輪塔で、この塚を盛り上げだ。
 焼けただれた跡の見えるお塚の石や五輪塔は、敏満寺の遺物として貴重なもので、栄えていた寺院の姿を偲ばせてくれる」
とある。

 
大日堂
 
観音堂
 
石仏群
 
敏満寺跡(左:お塚・右:古井戸)
 
敏満寺跡・お塚
(よく見ると、小さな五輪塔が混じっている)

◎寿命石

 多賀大社と同じく、当社境内左側の石囲いの中に寿命石と称するものがあるが、表面が大小取り混ぜた小石に覆われていて寿命石そのものは見えない。 

 傍らの表示に「寿命石 枕石」とあるが、案内板の墨色が消えてしまって由緒等は不明。
 社頭の案内石版に「東大寺再建にあたって重源上人は社頭に七日の参籠をおさめて延命を祈り云々」とあることから、多賀大社寿命石の縁起と同じと思われる多賀大社参照

  

寿命石
 重源上人(1121--1206)が参籠したのが当社なのか多賀大社なのかは不明だが、建久9年(1198)12月19日付の“建久元年舎利寄進状”との古文書に、
 「俊乗坊重源が、東寺御舎利一粒(弘法大師将来)を金銅五輪塔に納めて敏満寺に施入した」
とあり、社頭の案内に
 「舎利塔  俊乗坊重源が延寿奉齊のため寄進したもので、社宝中の逸品、重要文化財に指定」
とあることから、重源上人と敏満寺との特別の関係が窺われ、参籠したのは敏満寺即ち当社ではなかったかと思われる。
 なお、東大寺は治承4年(1180)平重衡の南都攻めで焼失、翌養老元年(1181)から重源上人が再建勧進にあたり(61歳)、5年後の文治元年(1185)に大仏開眼供養がおこなわれている。  

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