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御 上 神 社
滋賀県野洲市三上
祭神--天之御影命
                                                          2016・01.26参詣

 延喜式神名帳(927)に、『近江国野洲郡 御上神社 名神大 月次新嘗』とある式内社。

 JR東海道線・野洲駅の南約2km、駅南から県道150号線の新幹線ガード下をくぐって国道8号線へ出て、駅口の交差点を右(西)へ、道なりに進んで三上交差点のすぐ先、右側(北側)に鎮座する。

※由緒

  頂いた参詣の栞によれば、
  「当神社は、わが国著名の古社にして、社記によると、古来より御上神社と称し、また三上大明神とも称され、琵琶湖の東方・湖南平野の連山に悠然として美しく聳え立つ三上山を、古くより神体山として崇めている。
 三上山は標高432mで高い山ではないが、全山青々とした美林は神の山に相応しく、遠くからは円錐形の孤峯にみえるが、男山女山の二つの峯からなり、山頂には巨石の磐座があり、奥宮の祠が祀られている。
 その姿の麗しき様より『近江富士』と称され、俵藤太の百足退治の伝説に因んで百足山とも呼ばれる。

三上山(当社社頭より遠望)

 当社の起源は第7代孝霊天皇の6年6月18日に、御祭神・天之御影神(アメノミカゲ)が三上山に御降臨され、それから約一千年の間、御上祝(ミカミノハフリ・神主)等は三上山を清浄な神霊の鎮まる厳の磐座(イワクラ)と斎定めて祀っており、古事記・開化天皇の段に『近つ淡海の御上祝がもちいつく天之御影神』と記されている。
 奈良朝初期・天正天皇の養老2年3月15日(718)に藤原不比等が勅命を拝し、榧木原(カヤノキハラ)と称された現在の鎮座地に社殿を造営して、ご遷座された。
 以来朝野の崇敬極めて篤く、・・・(以下略)
という。

 近世の諸資料には、次のようにある。
*近江輿地志略(1734)
  延喜式神名帳に、御上神社名神月次新嘗のあり、往古甚だ大地のよし。楼門拝殿今に在り、楼門は養老年中に建てられたるにて殊勝なる体なり。
 所祭の神は伊弉諾尊・天照大神なり。
 古事記に曰く、近淡海国の御上祝もちいつく天御影命の女・息長水依比女(オキナガノミズヨリヒメ)云々
 社家相承曰く、伊弉諾尊天照大神との両座也。依りて天御影日御影社と称す。
 神社考曰、旧記曰、御上明神は元正天皇養老年中天より此処に降る。名を日本第二の忌火と曰く。・・・(中略)
 盛衰記に云、麓の森に神住む。三上明神と名付けたり。此の神と申すは、元正天皇の御宇養老年中に天降る。日本第二の忌火にて、此処に住み給ふ。
  (忌火--火鑚具で切り出された清浄な火、第二の忌火--伊勢神宮に次ぐ忌火で、それだけ重要な社との意味か)

*神名帳考証(1813)
  大御影命也、此命天津彦根命の子なり。姓氏録(先代旧事本紀の誤り)に、饒速日尊(ニギハヤヒ)天降の時、卅二神伴奉る内の(天御蔭命)凡川内直(オオシカワチノオビト)らの祖と見ゆ。
 古事記に曰、近淡海の三上祝がもちいつく天之御影神の女・息長水依比売を娶りて、丹波比古多々須美知能宇斯王(タニハノヒコタタスミチノウシ)を生む、と
 日本略記に、天延2年5月7日近江国解曰、兵主三上神社去る3月より大鼓並に鉦を打ちて、その音日を経ても絶えず。依りて御卜あり、と。
      ・・・中略・・・
 社家縁起に曰、江州野洲郡三上大明神は養老元年此所に天降り、三上に就く。古今の文字有り。
 系図に自他の両流あり、凡そ其の本源を尋ねれば、堂館に於て円頓八講あり、毎日異人来りて聴聞、其の出所は兜率天(トソツテン)の化の来る也。
 秋津洲内二火一水の明神也。

*神社覈録(1870)
  祭神天御影神  三上荘三上山麓三上村に在す 以下・上記古事記の記事を記す

*神祇志料(1871)
  古三上村三上嶽にあり、後之を山下に移す。凡河内国造等が祖・天津日子根命の子・天御影神を祭る。社家伝説に、伊弉諾尊天照大神を祭る故に天御影日御影社といふとあるは、天御影神を誤り伝へたるものにて、取るに足らず。
 天御影命亦明立天御蔭命といふ。丹波比古多々須美知能宇斯王の母・息長水依比売は此の神の御女也。・・・
 凡そ本社齋官尤も火を慎み、瓦窯にて炊き、陶器を以て食ふ。日本第二の忌火(イミヒ)といふ。
 古は御上祝此の神を斎き祭りき、即御影命の神裔也

*特選神名牒(1876)
   祭神--天御影命
  この祭神は、古事記中巻に、近淡海の御上祝がもちいつく天之御影神と見え、新撰姓氏録に額田部湯坐連天彦根命の子・明立天御影命の後也とある神におはしませり。
 さて此の神の御女は息長水依比売と申す、息長は本国の地名なるを思ふに此の神の御末の此の国に住るを以て、祖神と斎きまつれるなるべし。
 又、彦根と云地名あるも、此の神の父神の御名に由あるを思ふべし
   所在--三上村三上山


 これらからみると、当社は現鎮座地の東に位置し姿形の美しい三上山(H=432m)を神体山として崇拝する古代祭祀(磐座祭祀)に発するもので、その祭祀は、多分に、山頂の磐座前あるいはしかるべき処に神籬(ヒモロギ)を設けての神マツリだったと思われるが、詳細は不明で、
 当社由緒がいう、元正天皇・養老2年の現在地への遷座を以て当社創建とみても可笑しくはなかろう。

 三上山に降臨された天之御影命を祀ったという御上祝とは、古く当地一帯を支配した安国造(ヤスノクニノミヤツコ・近淡海安国造とも)と同族(安直氏・ヤスノアタヒ)といわれ、安国造については、古事記・開化天皇段に、
  「(開化天皇皇子・日子坐王が)近淡海(チカツオウミ)の御上祝がもちいつく天之御影神の女(ムスメ)・息長水依比売を娶(メト)して生みし子、・・・次に水穂之真若王(ミズホノマワカノキミ)・・・。水穂真若王は近淡海の安国造の祖なり」
とあり(書紀には記載なし)、系譜的には次のようになる。
  

 この系譜によれば、当社は安国造(御上祝)がその祖・水穂真若王の母方の祖父・天之御影命を奉齊した神社となるが、日子坐王と息長水依比売とでは世代的に離れており(アマテラスから数えて日子坐王は15代、水依比売は4代)、いかに神話上の話としても平仄があわない。
 近江国の北部にあった坂田郡(現米原市付近)が古代の有力豪族・息長氏(オキナガ)の根拠地とされることから、その一族とされる息長水依姫を自家系譜の中に取りこみ、その父・天之御影命を祖神として作られた系譜かもしれないが確証はない。
 (ただ、天之御影神の後裔に水依比売がいたとすれば平仄はあうが、それを示唆するものはない。又、開化天皇の実在も疑問視されていることから、この系譜は後になっての創作であろう)

 なお安国造(安直氏)は、氏族名・安(ヤス)が地名・野洲と音通するように、古代近江国の東部(琵琶湖東岸)を本貫とする豪族といわれ、当社旧鎮座地である神体山・三上山の周辺に群在する古墳群は安国造一族にかかわるものだろうという。
 ただ、先代旧事本紀(9世紀前半)や新撰姓氏録(815)に安国造(安直氏)の名はみえず、その実態は不明(資料によれば、後に近江国西部を本貫とする淡海国造-同じ彦坐王の後裔氏族で、父方では安国造と同族-の支配下に入ったというから、9世紀より以前に吸収されたと思われる)

 諸資料ともに、当社祭祀の始まりを孝霊天皇(7代)の御世にもってきているが、同天皇は実在しなかったというのが有力で(欠史8代)、この創祀時期はとれない。
 ただ、当地は弥生時代の銅鐸祭祀がおこなわれており、それを行うだけの実力をもった首長が居たことは確かで、それらの人々が秀麗なる三上山を山の神・水の神として崇敬し、何らかの神マツリをおこなっていたことは否定できない。
 その山頂での神マツリの場・本宮(山宮)に対する里宮が当社とも解されるが、社殿が真東に位置する三上山を拝するようになっていないことから(社殿は南面している)、古代の祭祀が当社祭祀に連なるものかどうかは不詳。

 当社の祭祀が、初めから三上祝の手で行われていたとすれば、その始まりは、早くとも開化あるいは崇神天皇以降のことだろうが、古墳時代前期とされる両天皇の御世に神社があったとは思えず、また開化天皇の実在性も疑問視されることから(欠史8代)、当社の創建年次を此の辺りにもってくるのは難しい。

 通常、神社社殿の造営は6世紀の仏教伝来以降ということから、三上山麓に当社が造営されたのは7世紀以降とおもわれ、諸資料がいう養老2年(718)を以て当社創建とみるのが妥当かもしれない。
 なお、新抄格勅符抄所載の大同元年牒(806・奈良時代以降、社寺へ与えられた封戸の記録)に、
   御上神 二戸近江国
とあることから、9世紀初頭に実在していたことは確かといえる。

 上記案内は、当社は清和天皇の御代に正一位を綬叙されたというが、三代実録(901)には
 ・清和天皇貞観元年(859)正月27日--近江国従五位下・・・三上神・・・に従五位上
 ・  同   貞観7年(865)8月28日--近江国従五位上三上神に正四位下
 ・  同   貞観17年(875)3月29日--近江国正四位下三上神に従三位 を授く、
とあるのみで、正一位を綬叙された記録はみえない。

※祭神
   祭神--天之御影命(アメノミカゲ、天御影命・明立天御影命ともいう)
 天之御影命とは、アマテラスとスサノオの誓約(ウケヒ)によって成りでた五男神の一である天津彦根命(アマツヒコネ)の御子で、アマテラスの孫にあたる。
 古事記には
  「天津彦根命 これは凡川内国造・額田部湯坐連・山代国造・・・等の祖なり」
とあるのみで(書紀には凡川内直・山代直の祖とある)、御子の名まではみえない。
 ただ、新撰姓氏録(815)
  「左京神別(天孫) 額田部湯坐連(ヌカタベユエノムラジ) 天津彦根命之子・明立天御影命之後也」
とあり、古事記に額田部湯坐連の祖はアマツヒコネとあることと、姓氏録のこの記録からみて、アメノミカゲはアマツヒコネの御子となる。

 アメノミカゲの出自がはっきりしないのと同じく、その事績も不詳だが、一般には天目一箇命(アメノマヒトツ)と同体とされ、谷川健一氏は
  「近江には天目一箇命をまつる神社がある。それが近江富士と称せられる三上山を神体山とする三上神社(御上神社とも書く)である。
 祭神は天津彦根命の御子の天之御影命であるが、それは天目一箇命の別名であるということが社伝に記され、今も我国の鍛冶の祖神として崇敬を受けている。三上山の麓からは銅鐸が出土している。
 ちなみに天之御影命の娘が息長水依比売であり、更にその子孫に息長帯比売命(神功皇后)があって、ここに息長一族との血縁関係をたどることが可能である」
という(青銅の神の足跡・1989)

 祭神・アメノミカゲについて、参詣の栞には、
  「御祭神は天目一箇神と御同体にして忌火神、二火一水の霊神と称し、古来金工鍛冶の祖神と崇められ、浄火水徳の霊験あらたかな神として尊崇され・・・」
とある。

 天目一箇神(天一目・天麻比都祢とも)について、古史料には
 ・先代旧事本紀及び古語拾遺の天岩屋段に
  「天目一箇神をして諸々の刀・斧及び鉄鐸(サナギ)を作らせた」
 ・書紀・国譲りの段に
  「天目一箇神を鍛冶の役とされた」
とあり、俗説では“片目の神”といわれる。

 これについて、谷川健一氏が
  「タタラ炉の仕事に従事する人たちは、一願を失する者がきわめて多く、それ故に、彼らは金属精錬の技術が至難の業とされていて古代には、目一つの神とあおがれたと考える。 
 つまり、炉の炎の色を見つめすぎた結果、眼を悪くして一眼を損したと考えるのがもっとも妥当で、この片目のタタラ師こそが天目一箇神であったに違いないと私は思う」(谷川前掲書)
というように、金属精錬の神であり“鍛冶職の守護神”とされる。

 ただ、その出自について“○○の御子”といった直接的な記録はないが、姓氏録に
 ・左京神別   額田部湯坐連 天津彦根命の御子・明立天之御影命之後也(上記)
 ・山城国神別 山城忌寸    天津比古祢命(アマツヒコネ)之子 天麻比都祢命(アメノマヒトツ)之後也
とあるように、この両神は共にアマツヒコネの御子であることから異名同神・アメノミカゲ=アメノマヒトツと解されたと思われる。

 当社が鎮座する旧野洲郡付近からは、銅鐸・銅鏡など銅製品の出土が多いことから、当地には弥生時代から鍛冶を業とする人々が多数住んでいたと推測され、それらの人々が守護神として天目一箇神を祀り、祭神名としては別名である天御影神としたのではないかと思われるが、・・・。
 (野洲市大篠原の大岩山遺跡から明治14年・昭和37年に合計24個の銅鐸が出土し、平成8年に島根県の加茂岩倉遺跡から39個の銅鐸が出土するまでは、一ヶ所としては全国最大の出土数であった。今、その大半が野洲銅鐸博物館で展示されている

※社殿等
 鳥居を入り参道を進んだ先に堂々たる重層の楼門が建ち、境内の中央に拝殿、その奥に本殿が南面して一直線に並ぶ。
 当社の主要社殿は・国宝・重要文化財に指定されており、由緒略記には次のようにある。
 ・楼門--重要文化財
   二階建の三間一戸の楼門で、入母屋造・桧皮葺。建立年代は上層階の墨書から庚安5年(1365)と考えられる
 ・拝殿--重要文化財
   桁行三間・梁間三間で入母屋造・桧皮葺。建立年代は様式などから鎌倉時代後期と考えられている
   旧本殿の部材を再利用して建立したものとみられ、本殿の柱間寸法と殆ど変わらない規模である
 ・本殿--国宝
   桁行三間・梁間三間の入母屋造で、向拝一間、桧皮葺で建立年代は不詳だが、様式手法からみて鎌倉時代後期と推定される
とある。

 
御上神社・鳥居
 
同・楼門
 
同・拝殿
 
同・本殿
 
同・本殿側面
 
同・本殿背面

 本殿は一見して仏殿のように見えるが、屋根には千木と堅魚木が乗っている。

本殿内陣も変わっていて
中央神座の後ろに壁で区画した一室があり(今、祭器庫となっている)
社殿の背面には出入り口が開く(上写真・右下)など
普通の神社建築ではみられない構造となっている
                                   (右略図・下が正面)

本殿構造略図

 この構造の由来は不明だが、仏殿(特に天台系)の場合、本尊の後ろに一室を区切り護法神を祀った仏殿があり(仏殿背後から拝する)、これを“後戸(ウシロト)の神”と称している。
 これに関係して、世阿弥の風姿花伝(第4・神儀篇)に、
  「インドの祇王精舎の落成祝いの時、釈迦如来が説法しようとすると、提婆達多(ダイバタッタ)が一万人の外道の徒を率いて邪魔をしたので、法要を続けられなくなった。
 そこで釈迦如来が弟子の舎利弗(シャリホツ)に目配せられると、舎利弗はその意を悟り、精舎の後戸で66番の物まねを催された。
 すると外道どもは、笛や鼓の音を聞いて後戸に集まり、物まねを見学して静になり、その間に、釈迦如来は法要をされた」
とあり(口語訳・大意)
 特に天台系寺院の常行堂の後戸には、守護神として秘仏・摩多羅神(マタラカミ)が祀られている、という(風姿花伝三道・2009)
 これを以て、当社背後の一室を仏殿の後戸の神を祀る処とはいえないが、本殿が仏殿と類似していることとも相まって、当社神宮寺の影響が強かったためかと思われる。

◎攝末社
 本殿の左に摂社・若宮神社が、右に三宮社が南面して鎮座する。
 ・若宮神社--摂社・重要文化財
   主祭神--伊弉諾尊(イザナギ)
   (配祀)--菅原道真・天石戸別命(アメノイワトワケ・門の守護神)・天御鉾命(アメノミホコ・機織の神)・野槌之神(ノツチ・野の神)
   一間社流造・桧皮葺 鎌倉時代後期
 ・三宮社--末社・県指定文化財
   祭神--瓊瓊杵命
    左脇に小祠があるが社名等不明

 
摂社・若宮神社
   末社・三宮社

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