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水 尾 神 社
滋賀県高島市拜戸
祭神--磐衝別命・比売神
                                                              2017.04.16参詣

 延喜式神名帳に、『近江国高嶋郡 水尾神社二座 並名神大 月次新嘗』とある式内社。

 JR湖西線・近江高島駅の西北約3km、駅から北へ出て県道296号線を西へ進んだ南側に鎮座する。
 社名・水尾は“ミオ”と読む。

※由緒
 頂いた参詣の栞には、
  「水尾神社は水尾川(今の和田内川)を隔てて河南社(カウナミ)と河北社(カウホク、現在は河南社内に遷座)の二社あり。
 河南社本殿の御祭神は人皇11代垂仁天皇の第10皇子・磐衝別命(イワツワケ)、また河北社本殿の御祭神は人皇第26代継体天皇の御母君・振姫命(フリヒメ)であります。

 磐衝別王は猿田彦命の天成神道(アマナリシントウ)を学ぶため猿田彦を祀る三尾大明神(今の永田村の長田神社)を遙拝されたので、この地を拜戸(ハイド)と称し、その御住居を土地の人は拝所御所と云っていました。
 磐衝別命は当地で亡くなったので、その御子の磐城別王(イワキワケ)は背後の三尾山の中腹杣山に葬り、父君を奉斎する水尾神社(ミオ)を当地に創建されました。
 それから約百年後に人皇15代応神天皇の第11皇子・速総別王(ハヤフサワケ)も天成神道を学ぶため拜戸に来住され、その4世の孫・彦主人王(ヒコウシ)は磐衝別王の五世の孫・振姫を迎えて妃とし、振姫は当社の拝殿を産所として天跡部王(アマアトベ)・男迹部王(オトアトベ)・太迹部王(オオアトベ)の三児を同時に安産されました。太迹部王は後の人皇26代継体天皇であります。

 河北社は三児出産の時、父の彦主人王が北の仮社を建てて北極星に安産を祈られた仮社跡に、天迹部王が両神を奉祀する三重生大明神(ミエナリダイミョウジン)を創建されたもので、後年、これが河北社として比売神(振姫命)のみを祀る社となりました。

 当社の創建年支は不詳でありますが、既に奈良朝時代、称徳天皇の天平神護元年(765)に神封十三戸(神田)を作る氏子13戸の奉充があり、桓武天皇の延暦3年には従五位下に除せられました。これは近江の神社として叙位の正史に出た最初の神社であります(以下略)
とある。

 また、当社関連の古資料には次のようにある
*延喜式神名帳頭註(1503・鎌倉中期)
  「高島郡 水尾 彼郡内に大河有り。件の河南水尾猿田彦命、河内社(河南社の誤記か)と名づく。河北天鈿女命也。両社水尾川を分けて勧請也」

*近江輿地志略(1734・江戸中期)
  「下拜戸村にあり。御水尾山の麓也。
 川を隔てて二社あり。祭神二座。南は猿田彦命、河南社と号す。北は天鈿女命、河北社と号す。延喜式神名帳に所謂水尾神社二座並名神大月次新嘗是也。
 今当社の間五町(約550m)を隔つ。相伝、古昔三尾川両社の間を流る。故に河南河北の名ある也。・・・
 古昔は社領も多く有りて繁栄なりしに、今は僅かに其の形のみ残れり。・・・」

*神社覈録(1870・明治2)
  「祭神 猿田彦大神 天鈿女命。下拜戸村三尾山麓に在り。
 日本紀・垂仁天皇34年3月2日、綺戸辺(カニハタトベ)を召して後宮に入れ磐衝別命を生む、是三尾君の祖也、古事記・垂仁天皇巻に石衝別王は三尾君の祖とある。

*特選神名牒(1876)
  「今按に、神名帳頭註に彼の郡内に大河有り・・・(頭註記事を転記)・・・とあるに依りて、猿田彦神・天鈿女神を祭る由云えるは如何あらん。こは垂仁紀に綺戸辺を後宮に入れ、磐衝別命を生む、是れ三尾君の始祖也、
 古事記に石衝別王は三尾君の祖とみえ、此の氏人の近江国にありしことは同書・長谷列木宮段(武烈記)に、袁本杼命(オホド)云々、また玉穂宮段(継体記)に袁本杼命云々、天皇三尾君の祖・若比売を娶りて云々とあるは、近近江国にます時のことなるを知るべし」

 これら参詣の栞・古資料によれば、嘗ての当社は水尾川(当社の北を流れる和田内川)を隔てた南北の地に鎮座する河南社・河北社二社を以て成り立っていたという。
 このうち河北社について、頂いた「高島地方の古代史話」(1971当社刊、以下「古代史話」という)には
  「河北社は伊勢湾台風(昭和34年)で倒壊し再建困難なので、昭和45年河南社本殿玉垣内向かって右側に小社を新築して遷座した」
とあるが、今の本社玉垣内には本殿一宇のみであり、この中に河南社・河北社共に合祀されていると思われる。
 また、旧河北社鎮座地については
  「河北社跡は田圃と化し、水尾神社と刻した石標のみが立っている」
として右写真を掲げているが、これは昭和40年代のもので、現在どうなっているかは不明。 

伝・旧河北社跡

◎由緒について
 当社(河南社)創建に関して参詣の栞は、「磐衝別王が猿田彦の天成神道を学ぶため当地に来住し、ここで亡くなったので、御子・磐城別命が亡骸を三尾山に葬り、当社を創建した]という。

 ここでいう猿田彦の天成神道(アメナルミチと読むらしい)が如何なるものか不明。
 古代史話には、
  「猿田彦は伊勢国御裳裾川(ミモスソカワ)の辺で新田を開拓し、挾長田里(サナガタノサト)と名付け住った。土民はこれを喜んで彼の存寿二百万歳(32才)の祝いをした時、天照大神もこれが祝品として、猿田彦に天成神道と祭事宗源の秘伝を伝授し、また金鈴・埴活・鼓笛の三つの神器を授与し、将来神道の興隆に努める人が出たら、その者に授けよとの詔を賜った」
とあるが、それがどのような神道理論をもっていたかは不明。

 ただ、この古代史話なる冊子は、著者が“はしがき”のなかで
  「大同3年(808)赤井重彦氏謹記の「和解三尾大明神本土記」には教えられることが多かった」
というように、三尾大明神本土記との古文書に準拠しているようだが、この本土記もまた、近世の頃、和邇估容聡(ワニコヤストシ)との修験者が秀真伝(ホツマツタエ)なる古文書を下書きとして記したものという。

 その秀真伝とは、秀真文字(ホツマモジ)という記号のような文字によって書かれた謎の文書で、律令制と仏教興隆によって消された日本固有の民族信仰を伝えるものともいうが、その信憑性については従来から論議があり、江戸時代(安永年間1772--80ともいう)に書かれた偽書というのが大方の見方という。

 なお、古代史話には
  「磐衝別命は、猿田彦の天成神道を習得するために当地に来て三尾山麓に家を造り、三尾大明神に神戸を寄進し、神職・山崎氏の祭祀を援助し、同氏から天成神道を学び、朝夕住居から三尾大明神を遙拝された。因ってこの地を拜戸と称した。
 磐衝別命は、この地に永住して亡くなられたため、その子・磐城別命等は御父君を奉祀する社を住居近くに創建し(約1640年前)、水尾大明神と尊称された」
とあるが、伝承のひとつであろう。

 案内は、磐衝別王は当地に住まわれ、当地で亡くなられたというが、記紀には磐衝別王の御子に磐城別命があったというだけで何らの記述なく、王と当社(或いは当地)との関係を証するものはない。
 また、王の後裔という三尾氏についても新撰姓氏録等にその名が見えず詳細は不明だが、諸資料によれば、安曇川南岸から鴨川流域にかけての一帯を本拠とした古代豪族といわれ、その三尾氏が始祖である磐衝別王を奉祀したのが当社の始まりとなる。

 また、継体天皇の后妃7人のうち、出自を三尾君とする妃が2人(若比売・倭比売)あり、当地方(三尾君)は継体天皇との関係が深かったと推測され、それにかかわるのが河北社の由緒で、
 参詣の栞は、河北社に関連して、“応神天皇の御子・速総別命(ハヤフサワケ・書紀では隼総別命)の四世の孫・彦主人王が磐城別命五世の孫・振姫を娶って継体天皇を生んだ”という(創建由緒・時期等については記述なし)

 しかし、釈日本紀(鎌倉末期)が引用する上宮記(推定7世紀頃)にみる彦主人王の系譜は、
  応神天皇--若野毛二俣王(ワカノケフタマタノミコ)--大郞子(オオイラツコ、亦名:意富富抒王-オオホドノミコ)--
                                  --汙斯王(ウシノミコ=彦主人王)--男大迹王(継体天皇)
とあって(大郞子と汙斯王の間に乎非王を入れた系譜もある)、その祖は同じ応神の御子ではあっても若野毛二俣王であって速総別命ではない。
 (継体の系譜としてはこれが通説のようになっている。ただ、記紀には若野毛二俣王・意富富抒王の名は見えるが、乎非王・汙斯王の名は見えないことから、この系譜を否定する説もある)

 この相違について、本居宣長は
  「意富富杼王が若野毛二俣王の子であることは、古事記中巻・応神記の終わりに見え、上宮記にもあるから論ずまでもないものを、速総別皇子の子としたのは、どんな紛れがあったのか。昔そういう伝えがあったのか。いまは古い書物にこの伝えが見えることはない」(古事記伝・1799)
として、彦主人王の祖は速総別命ではなく若野毛二俣王としている。

 この速総別命(書紀では隼別皇子)について、記紀共に、
  「仁徳天皇が異母妹・雌鳥皇女(メトリノヒメミコ)を妃に入れようと異母弟・速総別命を遣わしたが、命は皇女を自らの妻としてしまった。天皇はこれを黙認していたが、皇女が『空高く飛びかけるハヤブサの名をもつ王よ、あのオオササキ(鳥の名で仁徳天皇の別名)を取り殺してしまいなさい』と唆したと聞いた天皇は軍勢を出して二人を殺した」(大意)
とあるのみで、その他の事績特に当地との関係などは見えず、宣長がいうように何らかの伝承があったのかもしれないが、何故、彦主人王の祖に命の名が出てくるのかは不詳。

◎創建時期について
 当社創建時期について、神社明細書には
  「本社の創立年次は詳なざざれども、磐衝別命の御子・磐城別王この地に御父命を奉斎し給ひ、後、応神天皇の皇子・隼総別王これを御尊崇あり、社殿を再興し、神田神地を寄せ給ひ、御子孫長く之を奉斎したまへりといふ」
とある。
 これによれば、当社は垂仁又は景行期に創建され、応神又は仁徳期に社殿再興されたとなるが、4世紀後半頃(古墳時代前期)に恒常的な神社があったたとは思えず、何らかの神マツリがあったとしても、それは仮設の神籬等を設けてのそれであったと思われる。

 ただ、新抄格勅符抄引用の大同元年牒(806)
  三尾神 十三戸 近江 神護元年(765)九月七日符
とあることから、8世紀に実在したのは確かで、神階綬叙記録としては
 ・延暦3年(784)8月3日--近江国高嶋郡三島神を従五位下に叙す(続日本紀)
 ・貞観5年(864)閏6月27日--近江国正五位下三尾神に従四位下を授く(三代実録)
とあるが、その後の昇叙記録はみえない。

※祭神
 頂いた参詣の栞には
  南本殿(旧河南社)--磐衝別命(イワツクワケ・垂仁天皇第10皇子)
  北本殿(旧河北社)--比咩神(継体天皇の御母君・振姫)
 とあるが、今の本殿は一宇のみであり、両神共に本殿に併祀されているらしい。

 南本殿祭神・磐衝別命とは、
 ・古事記(垂仁記)--山代の大国之淵の女・弟苅羽田刀弁(オトカリハタヒメ)を娶りて生みましし御子・石衝別王
              石衝別王は羽咋君(ハグヒノキミ)・三尾君の祖
 ・書紀(垂仁34年条)--綺戸辺を召して後宮に入れ、磐衝別命を生んだ。これは三尾君の先祖
とある命で、いずれも垂仁天皇の御子で三尾君の祖という(ただ、新撰姓氏録に三尾君の名は見えない)

 北本殿(旧河北社)祭神・振姫とは、
 ・書紀(継体即位前記)--
   (継体天皇の母)振姫は垂仁天皇七世の孫である。(継体)天皇の父王(彦主人王)は振姫が大そうな美人であると聞いて、近江国高島郡の三尾の別業から越前国坂中井の三国に使いを使わし、召し入れて妃とされた。そして天皇が産まれた。
 天皇が幼年のうちに父王が亡くなられた。振姫は嘆いて『私は故郷を遠く離れていて、よく養育できないので、高向(越後国坂井郡高向郷)に帰って、親の面倒をみながら天皇をお育てしたい』といわれた。
とあり、継体天皇は近江国・三島で生まれて。越後国・高向で育ったという。
 なお上宮記に、垂仁天皇--磐衝別命--磐城別王--○--○--○--○--振姫との系図が載っている。

 彦主人王の別業(別邸)の所在地は不明だが、別業があったという高島郡三尾の地とは、当社の北を流れる鴨川下流域一帯を指すともいわれ、その一画・高島市安曇川町田中には、宮内庁によって彦主人王の陵墓参考地に指定される田中大塚(王塚)古墳(直径約58m、高約10mの円墳又は帆立貝式古墳)があり、未調査ながら、推定築造時期・5世紀後半から彦主人王の墓というのが有力視されているという。

 今の当社では、祭神を磐衝別王・比売神(振姫)とするが、延喜式神名帳頭註(1503)に、
  「高島郡 水尾  彼郡内に大河あり。件の河南水尾猿田彦神、河内社(河南社の誤記)と名付く。河北天鈿女命也。両社水尾川で分かれて勧請也」
とあるのを嚆矢として、猿田彦命(河南社)・天鈿女命(河北社)とする説があるという。
 これに関して、高島郡誌(1927)
  「県社 高島村拜戸字宮西に鎮座す。祭神南本殿磐衝別命、北本殿比咩神なり。
   従来、南は猿田彦命、北は天鈿女命、河北の社と称せり。されど三尾君の族か其の祖を祀れるるなり」
として、猿田彦・鈿女祭神説を否定しており、
 日本の神々5(1986)
  「この両説は神社の古い記録が殆ど現存しないので何れとも決しがたいが、共に早くより行われていたようである」
としながらも、
  「一応猿田彦命・天鈿女命を考慮に入れながらも、三尾君の祖説に重点を置くことが現在の考え方であろう」
 式内社調査報告(1981)は、
  「継体天皇の妃に三尾君等祖・若比売や三尾君加多夫の妹・倭比売などの名が見え、これら記紀の記事その他からして、この地を三尾君の地とし、その祖を磐衝別命とすることは早くよりおこなわれており、従って水尾神社の祭神は三尾神の祖・磐衝別命とされたのである」
という。

 琵琶湖周辺一帯には、何故か猿田彦にかかわる伝承が多く、当社にかかわる猿田彦伝承もその一つと思われる。
 記紀にいう猿田彦とは、天孫瓊々杵尊の降臨に際して道案内をした国つ神として登場するが、古代史話では異なっており、、
 ・猿田彦の祖先は豊国主尊の三男・国底立命で、農業の祖神として代々土君と称した
として、これを天つ神とし、
 ・天照大神の御代に、農業に詳しい指導者として土民に田作りの業を教え導いたので、土民はこれを猿田彦と称して尊敬した。
 ・猿田彦は伊勢国御裳川の辺で新田を開拓し、挾長田里(サナガタノサト)と名付けて住まった。
 ・その後、垂仁天皇25年に郷里三尾郷に帰った(ただ、垂仁25年というのは次の記述と年代的に整合しない)
 ・天孫・瓊々杵命が諸国を巡幸して近江国高島まで来られた時、猿田彦が音玉川(現小田川)の川口まで出迎え、前駆して巡幸路の障害を排除して案内した。
 ・更に南行すると、比良山系の尾崎三ヶ所(現打下から明神崎付近)が道が塞がっていたので、猿田彦は鎧崎・吹卸(現打下)・東の鏡崎などを切り開いてご案内し、この功により、瓊々杵尊から三尾大明神の称号を賜った。
 ・それで猿田彦はその辺りを三尾里と名付けた。今の高島町一帯であったらしい。
 ・後年、猿田彦が正に神にならんとする時(亡くなる時)、三尾郷(現白鬚神社処)に洞窟を掘り、歿する日を太占(フトマニ)で定め、三人の子を招いて、自分の歿する早苗の日には夜半過ぎまで大声で自分を祀る祭歌を謡え、そうすると自分は清気陽明境に入り、自分の魂は肉体を離れて神に化成すると言い終えて、洞窟内に入り神となられた。57歳の5月5日である。
 ・これは垂仁天皇29歳の庚申五日に当たる。これ三尾大明神を祭るのを庚申待(コウシンマチ)とする所依である。
  (ただ、庚申待とは、干支にいう庚申の夜、徹夜して長命を祈る民俗信仰で、三尾大明神との関係はない)
 ・猿田彦には三尾郷の永田で三人の子(太田命・岐大人・山崎命)が生まれた。
 ・長男の太田命は、猿田彦が天照大神から伝授された天成神道と祭事宗源を授けられ、父が開拓した伊勢国挾長田里に行って、その地の土君(農業の神)となられた。
 ・次男の岐大人(クナトノウシ)は道拓きの秘伝を授けられ、尾張国を治めた。
 ・末子の山崎命は、疱瘡・皮膚病の療法を教えられ、赤杉山の裾野の東を流れる霊水(赤井水)の辺に住まった。現在の下拝戸の水尾神社の付近と推定される。
 ・命の子孫は皆この付近に住して代々山崎姓または赤井姓を用い、神職をする者が多かった。
とある。
  これを一読すると、神話と現実・時代・場所などを取り混ぜ、独断を以て編纂した荒唐無稽な話であり、これを以て当社が猿田彦を祀る由縁とするのは伝承の域を超えている。

※社殿等
 県道脇の鳥居を入り、少し長めの参道を進んだ先が境内。境内は広く、嘗ての隆盛が窺える。
 境内正面奥に拝殿(床のない入母屋造・銅板葺)が、その奥、中門と透塀に囲まれた本殿域の中央に一間社流造・銅板葺の本殿が鎮座する。一見して本殿はまだ新しく、近年の改築かと思われる。

 
水尾神社・鳥居

同・境内 
 
同・拝殿

同・本殿域正面 
 
同・本殿

 本殿域の右手に、境内社合祀殿が西面して建ち、八幡大神・天照大神・豊受大神・秋葉大神・速総別大神を合祀する。
 境内に入った左手に朱塗りの小橋が架かる池と石組からなる庭園があり、その右手に陰陽石と称する石組がある。

 
同・境内社合祀殿
 
同・庭園
 
同・陰陽石

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