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苗村神社
滋賀県蒲生郡竜王町綾戸
祭神--那牟羅彦神・那牟羅姫神・国狭槌尊
相殿神--大国主神・事代主神・素戔鳴尊
                                                                  2016.01.26参詣

 延喜式神名帳に、『近江国蒲生郡 長寸神社』とある式内社の論社2社の一社(一社は蒲生郡日野町にある長寸神社)
 社名の苗村・長寸、いずれも“ナムラ”と読む。

 JR東海道線・近江八幡駅の南南東約7km、東西に入る国道8号線と、JR篠原駅・近江八幡駅の中程をほぼ南北に走る県道541号線との交差点・東川町を南下、約5km強いった所に鎮座する。
 当社は、県道をはさんで両側(東西)に立地し、それぞれに東本殿・西本殿が鎮座している。

※由緒
 社務所で頂いた参詣の栞によれば、
  「当社の御鎮座は上古に属し、平安時代の延喜式神名帳に列座された長寸神社(ナムラ)にして、格式の高い式内社であります。
 社伝によれば、垂仁天皇の御代に当地方を開拓された御祖をお祀りしたのが創祀とされます。
 即ち、当社神域に現存する古墳或いは域内外より出土する陶物(スエモノ)は、何れも古墳時代の遺跡或いは遺品であり、当時既に先祖の偉業に励んだ部民の聚住(シュウジュウ)を物語っています。
 これらの先人達は、先祖に対する報恩の念により祖霊を神として、当神域の東の社にお祀りされ、この祭神こそ当地方最高の祖神と心得、地名である那牟羅(ナムラ)と同音になる長寸(長は最高位、寸は村の古字)の字に替えて長寸神社と申しあげました。
 この御社は后の世になって東本殿と申すようになりました。

 その后、時代の経過と共に稲作農耕が愈々盛んとなってきました平安時代の安和2年(969・平安中期)3月28日、大和国芳野金峰山に鎮まり給うた国狭槌尊の御神霊が、この神域の西の社に御遷座になるようになり、社殿を御造営申しあげ、此処に御鎮座になりました。この御社を東本殿に対して西本殿とお呼びしています。

 現時の社名・苗村の称号は、社蔵されている社蔵の古文書によりますと、元この地域は日本書紀垂仁紀3年3月新羅王子・天日槍命(アメノヒホコ)の条に曰う吾那邑(アナムラ)でありましたが、その后、那牟羅(ナムラ)に改まり、更に長寸(ナムラ)に替えられました。
 次いで寛仁元年(1017)正月、朝廷に門松用の松苗を献上することの栄に浴して以来、年々の吉例となり、時の帝・後一条天皇はこれを嘉(ヨ)みせられ、苗村(ナムラ)の称号を賜り、以後苗村神社と呼ぶ、と記されています。
 斯くして、創祀以来社運年毎に栄えてきましたが、何時の時代も苗村郷三十三ケ村の総社と、人々の信仰の中心となった大宮であります」
という。

 また近江蒲生郡志(大正11・1922)によれば、
 「苗村神社は苗村大字綾戸に鎮座す。延喜式神名帳本郡十一座中の長寸神社にして、鎮座年代は上古に属す。
 那牟羅彦神(ナムラヒコ)・那牟羅姫神(ナムラヒメ)・国狭槌尊(クニノサツチ)を祭神とす。
 日本書紀垂仁紀3年3月の新羅王子天日槍(アメノヒホコ)来朝の条に、『天日槍は宇治川を遡って、近江国の吾名邑(アナムラ)に入って暫く住んだ。云々』とある。
 吾名邑は後に那牟羅(ナムラ)と略称され、長寸の假字を用ひ、其他(地の誤記か)の主神たるにより長寸神社と称し、やがて神名帳に加列されたり。
 長寸神社は苗村の字を用ひしは何れの時代に始まりしや詳ならず。現存の史料にては明徳2年(1391・北朝年号)の鐘銘を最古とす」
という。

 なお、社名(及び村名)が苗村となったのは、村田家文書との古文書(1761・江戸中期)によれば、
 「寛仁元年(1017・平安後期)正月、門松用の松苗を朝廷に献じ、以後それが恒例となり、依って後一条天皇(在位1016--36)より苗村の称を賜った」
ことに始まるといわれ、また明徳2年との鐘銘は、近江八幡市赤尾の覺永寺所有の鐘に見えるという(式内社調査報告・1981)

 社記は、当社創建を崇神朝というが、これは、書紀・崇神天皇7年条に、
  「八十万(ヤオヨロズ)の群神を祀った。よって天社(アマツヤシロ)・国つ社・神地(カムトコロ)・神戸(カンベ)をさだめた」
とあるのを承けて、当社もそのなかに含まれるとしたものだろうが(創建を崇神朝とする古社は多い)、これは神祇儀礼の始まりを御肇国天皇(ハツクニスメラミコト)としての崇神天皇に集約しようとする編集方針によるものであって、古墳時代中期とされる崇神朝に恒常的な神社があったとは思えない(ただ、必要に応じて仮設の神籬を設けての神マツリがあったのは否定できないだろう)

 当社の創建を崇神朝とみるのは論外としても、その創建時期を示唆する史料はない。
 ただ、
 ・当社は、延長5年(927)編纂の延喜式神名帳に長寸神社として列するものの、
 ・それより古い、奈良時代以降の社寺に与えられた封戸(神封)の記録である大同元年牒(806、新抄格勅符抄所収)に当社の名が見えないこと(近江国では御上神社以下13社の名が見える)
 ・三代実録・貞観元年(859・平安前期)正月条にみえる神階授叙記録に当社の名が見えないこと(当時知られていた殆どの神社に綬叙されている)
などからみると、当社は9世紀中頃には未だ存在していなかったともとれる(あったとしても、朝廷に知られていなかった)

 これらからみて、当社は在地の人々(渡来系か)による神籬形態の祭祀をうけていたものが(祭神が地主神的神名をもつことからも伺われる)、次第に神社としての形態を整えたことで中央に知られて延喜式にも列記されたもので、その時期は10世紀初頭頃ではないかと思われる。

 当社の創建について、近江輿地志略(1723・江戸中期)に次のような伝承が残っている。
  「苗村大明神社 綾戸村にあり。
 社記に曰く、当社擁護の由来を考へ奉るに、人皇63代冷泉院御宇安和二年(969)同郡河守村安吉山雪野寺の御仏、今新巻村領内巌馬寺の本尊毘沙門天王の宝前に来臨ましましてのたまわく、我進んでは萬民の罪悪を滅せしめ、退いては貧窮無福の輩に財宝を授けむが為に、卑劣の偏境に来れり。
 然れども身を休むべき神社もなく、足を留むべき瑞籬もなし。天王宜しく計らひ給へと示し給ひければ、多聞天(毘沙門天の別名)答へてのたまわく、我は鞍馬の□取として久しく此処に住せり。今図らざるに明神此処に跡を垂れ給はむ事、尤以て我望む所也。
 御鎮座に就て思案するに、爰に綾の尼といふ故老の富裕の者侍り。それに尋ね給はば必ず其しるしますべしと告給ひけるによって、明神彼尼を御尋ありけるに、今の綾戸の里に一人の禅尼あり。
 此旨を仰せ付られけるに、尼答へて申さく、『我此在所の田代を知行せり、此内八反を我持て君に譲り奉るべし。御姿を見奉るに直人にましまさず、此処にましまさむと思召さば、一の新なる不思議を現じ給へ』と望みけるにより、明神然らばと汝が為にと、苗を植置かしめ給ふ。
 夜明けて見るに、其苗悉く大なる杉村と変じて誠に森々たり。爰に尼奇異の思をなし、やがて出現の森をひらいて社壇の厳扉を開きしより以来年序相移り星霜押積りて今八百年に及べり。是によりて苗村大明神と号し奉りけると也」

 この伝承によれば、当社の創建は安和二年(969)以降となるが、それ以前の延長5年(927)編纂の延喜式神名帳に長寸神社として載せられているのをみれば、この伝承はHPにいう国狭槌神勧請にかかわるものかと思われる。

 因みに、式内・長寸神社論社の一つである日野町の長寸神社(祭神:事代主命・天照荒魂神・素戔鳴尊)は、社記によれば光仁天皇・天応元年(781)の勧請というが、それを証する史料はない。
 また、その社名が式内・長寸神社と一致するものの、この神社を式内・長寸神社とする確たる史料はなく、式内・長寸神社は苗村神社とみるのが妥当だろうという(日本の神々)

※祭神
 主祭神--那牟羅彦神(ナムラヒコ)・那牟羅姫神(ナムラヒメ)・国狭槌尊(クニノサツチ)
 相殿神--大国主神・事代主神・素戔鳴尊

 当社に東西2本殿があること、参詣の栞の記述からみて、上記主祭神3座は
  ・東本殿--那牟羅彦神・那牟羅姫神
  ・西本殿--国狭槌尊・大国主神・事代主神・素戔鳴尊
と祀られていると思われる。

 東本殿の主祭神、那牟羅彦神・那牟羅姫神の出自・神格は不明だが、
 参詣の栞には、
   「両神は、当地方に初めて工芸技術・産業を伝え広められた産土の神で、夫婦和合・諸願成就の神として、古来より篤く尊崇申しあげる祖神」
という。

 祭神名に地名・ナムラを冠するることから、特定の名をもつ神というより、在地の人々に崇敬された地主神(産土神)とみるのが順当で、あるいは生活・農耕に必要な水を司る神を、豊穣に連なる夫婦神(ヒコ・ヒメ神)として祀ったのが始まりで、その後、鍛冶業に携わる人が多くなり工芸技術を伝え広めた神とされたのであろう。

 ただ、当地に新羅王子・天日槍の伝承があり、近くに須恵・弓削・鏡などの古地名があったことから、造陶・造鏡などの工芸技術を有する渡来系の人々の居住が推測され、そのような人たちが、自分らの祖としての天日槍夫婦を祀ったとも考えられるという(式内社調査報告)

 国狭槌尊とは、
 ・書紀第1段本文--天地開闢の時に成りでた神代7代の神々のうち2番目に生じた
 ・古事記--イザナギ・イザナミ双神が生んだ山の神・大山津見神と野の神・鹿屋野比売神の間に生まれた(天之狭土神)
という神で、サツチのサは神稲を意味することから、神稲を植える土の神という。
 那牟羅神が水神・豊穣神として農耕に関係することから、それに必要な土の神を合祀したと思われるが、国狭槌神勧請の経緯を記した資料なく詳細不明。また、吉野金峰山の何処から勧請したかも不明。

  参詣の栞には、「国土を開発し、五穀の豊穣と財宝の恵みを垂れ給い、とりわけ子守大明神と申しあげ、幼児子供をお守り下さる御神徳は広大無辺、・・・」という。
 なお、西社境内入ってすぐの右手に「子守像」と称する小像があり、傍らの案内には
 「この子守像は、当神社の御祭神ご鎮座の縁起により、古来から大神様を福徳開運の神・子守大明神として崇められ・・・」
とあるが、国狭槌尊をを子守神とする由縁はなく、これは後世の付会であろう。

子守像

 西本殿に祀られる大国主命以下の3座は出雲神話の神々で(大国主命一家)
   大国主命--国造りし大神、
   事代主命--オオクニヌシの御子、
   素戔鳴--オオクニヌシの父神
だが、この3柱の神を当社(西本殿)に奉齊する由緒を記す資料は見あたらない。

※社殿等
 道路の西に鎮座する社(以下・西社)は広々とした境内を有するが、東側の社(以下・東社)は大きな叢林のなかに鎮座し、

【東社】
 道路の東側に鳥居が立ち、その傍らに“式内長寸神社”と刻した石碑が立つ。

 鳥居を入って杉木立にはさまれた参道を進んた先が境内で、中央に東本殿(一間社流造・檜皮葺)が南面して鎮座する。
 東本堂は国指定の重要文化財(大正13年4月指定)で、脇の案内には
  「建立年代は明らかでないが、向拝の蟹股の様式は室町時代のものであり、前庭にある永享4年(1432)在銘の石灯籠は本殿の建立と関係があると考えられる。・・・」
とある。

 東社には、拝殿と称する社殿はない。


式内長寸神社の石碑 
 
苗村神社(東社)・鳥居
 
同・参道

同・東本殿 
 
同・東本殿正面

 東本殿の両側の
 左--佐々貴社(一間社流造・銅板葺)
 右--天神社(一間社流造・銅板葺)
が、参道中程右手に、小祠・大神宮(一間社流造・銅板葺)がある。
 いずれも資料なく詳細不明。


左境内社・佐々貴社 
 
右境内社・天神社
 
末社・大神宮

【西社】
 道路から一区画西へ入った小川を渡った先に重層の楼門(三間一戸・入母屋造茅葺・一層目は柱のみ、重要文化財)が西面して聳え、広い境内へと入る。

 
苗村神社(西宮)・鳥居
   
同・楼門

 境内に入った右手の中央に拝殿(重要文化財・入母屋造桧皮葺)が、その奥、透塀に囲まれた中に、中門・幣殿・本殿が南面して一直線に並ふ。
 ・本殿--国宝(昭和35年指定)、向拝付三間社流造・桧皮葺、
        所蔵の棟札から徳治3年(1308・鎌倉後期)の再建と考えられるという


同・拝殿 

同・西本殿 
 
同・西本殿内陣

 西本殿の両側に境内社として
 ・左--八幡社(重要文化財-明治37年指定、一間社流造・桧皮葺)
        建立年代は明らかでないが、本殿・楼門などと同時代に境内整備に伴って建てられたと考えられる、という
 ・右--十禅師社(重要文化財-昭和46年指定、一間社流造・桧皮葺)
        社名が示すように、山王二十一社のうち上七社の一社・十禅師の分霊社で、天台宗護法神の一社であるから、
        台密勢力のもとに当社域に勧請された社である、という
があり、その前、本殿域の西南隅に綾之社(祭神等不明)、東南隅に恵比須社の小祠(いずれも一間社流造・銅板葺)がある。
 なお十禅師とは、日吉山王信仰で、神世七代筆頭の国常立尊(書紀)から10番目にあたる皇孫・ニニギ尊を、地蔵菩薩が垂迹した権現として十禅師と称するという。

 また、本殿域の右側に区画を別にして護国社(一間社流造・銅板葺)があり、 
 境内右手(東側)には神輿庫(切妻造・桧皮葺、重要文化財、元は勅使下向時の休憩所)がある。


境内社・八幡社 
 
同・透塀中央の中門

境内社・十禅師社 

綾之社 

恵比須社 
 
護国社
 
神輿庫

 境内の南側に不動堂があり、中に不動明王立像(重要文化財、H=96.9cm)が安置されている。
 傍らの案内には、
  「明治以前までは境内には苗村宮庵室と呼ばれていた僧坊があったといい、社蔵棟札に、天文2年(1533)冬より工を起こして翌3年に完成した護摩堂のことが伝えられています。
 このことから、重要文化財・木造不動明王立像は、神仏習合時代における苗村宮庵室の護摩堂本尊であったことが知れます。・・・」
とある。

 
不動堂
 
不動明王立像

 当社に存する文化財をまとめると、次のようになる。
 ・国宝--西本殿(鎌倉時代)
 ・重要文化財--東本殿(室町時代)・八幡社本殿(室町時代)・ 十禅師社本殿(室町時代)・ 楼門(室町時代)・神輿庫(室町時代)
             不動明王立像(室町時代)

 当社一帯には小型古墳が点在しており、東社参道に立つ案内には次のようにある。

 『東苗村古墳群』 
   東苗村古墳群は、苗村神社東本殿がある鎮守の森の中にあります。
   現在は8基の円墳が確認されていますが、
   境内地外側にも曾て多くの古墳があったと考えられます。
   現存する古墳の大きさは、いずれも墳径約12mから18m・高さ約2m程ですが、
   内部主体部の詳細はわかっていません。
   古墳造営時期は、古墳群周辺の発掘調査から6世紀後半と考えられています。

                        右写真・東苗村古墳群の1基(パンフレットから転写)
 

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