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小 野 神 社
滋賀県大津市小野
祭神--天足彦国押人命・米餅搗大臣命
境内摂社小野篁神社
祭神--小野篁命
境外摂社:小野道風神社--滋賀県大津市小野
祭神--小野道風命
境外末社:小野妹子神社--滋賀県大津市水明1丁目
祭神--小野妹子命
                                                                 2016.12.21参詣

 延喜式神名帳に、『近江国滋賀郡 小野神社二座 並名神大』とある式内社。
 式内社としては小野神社のみだが、後年創建された小野氏関連の篁神社・道風神社・妹子神社を加えた4社を以て構成されている。

 小野神社(境内に篁神社あり)は、JR湖西線・和邇駅の南約900m、JR線の東側を南北に走る国道161号線を南下、和爾川を超えた先・今宿交差点を右(西)へ入った左手(南)に鎮座する。
 なお、小野道風神社は小野神社の南約400mに、小野妹子神社は道風神社の南約800m・小野妹子公園内に鎮座する。

※由緒
 小野神社社頭に掲げる案内によれば、
  「小野神社は、延長5年(927)完成の延喜式に『小野神社二座名神大』とあり、日吉神社と並ぶ官幣大社であった。 
 祭神は、明治時代の小野神社明細帳によると、第五代孝昭天皇の第一皇子・天足彦国押人命(アメノタラシヒコクニオシヒト)と、その七世の孫・米餅搗大使主命(タガネツキオオオミ)である。
 米餅搗大使主命は、応神天皇の頃に日本で最初に餅をついた餅作りの始祖といわれ、現在ではお菓子の神様として信仰を集めている。
 この神社は、小野妹子(オノノイモコ)・小野篁(オノノタカムラ)・小野道風(オノノトウフウ)などを生んだ古代の名族・小野氏の氏神社である。推古天皇の代(592--628)に小野妹子が先祖を祀って創建したとつたえる。
 平安時代、小野篁のときに、同族が小野神社に集まって氏神を祀ったことは、続日本後紀にくわしく載っている」
という。

 また社務所配布の参詣の栞には、
  「小野神社は小野一族の祖であると共に、餅及び菓子の匠・司の始祖である第5代孝昭天皇の第一皇子・天足彦国押人命と、同命から数えて7代目の米餅搗大使主命の二神を祀る。
 今から1100年前の延喜式神名帳に滋賀県大三座のうち小野神社二座、名神大社(官幣大社の意)とある古社である。
 古事記によれば、天足彦国押人命は孝昭天皇と尾張国の連の娘・余曽多木比売との間にお生まれになった第一皇子で、春日・大宅・粟田・小野・柿本・大坂・安濃・多岐・羽栗・都怒山・伊勢・飯高・一志・近江の国造の祖であると記されている。
 また、日本書紀には大和和邇の祖であるとも記されている。
 大和朝廷成立以前この地において、今の大阪府・京都府・奈良県・三重県・愛知県・滋賀県の広い地域を統治されていた名族であり、諸国に多い小野の地名・氏族の発祥地・祖神でもある」
とある。

 江戸中期の地誌・近江輿地志略(1734)には
 【小野神社】 
  小野村にあり。土俗相伝、祭神伊弉諾伊弉冉尊といふ、此説信用し難し。
  姓氏録曰、小野朝臣天足彦国押人命の後也。按ずるに、饒速日命三世孫天忍男命、葛木姓祖剣根命の女・賀奈知姫を娶り、世襲足姫命を生む。孝昭天皇之を立てて皇后と為し、小野祖・天足彦国押人命及び孝安天皇を生む。
 延喜式神名帳曰、近江国滋賀郡八座小野神社二座名神大といふは此社の事也(以下略)
 【小野篁神社】
  同処にあり。篁は小野岑守の長男也。参議に補す故に野相公といふ(以下略)
 【小野道風神社】
  同処にあり。道風は小野葛絃の男にして篁の猶子也。書を能くす。世に謂う所の三蹟の一とは是也。
とあり、

 その他の資料として
*神社覈録(1870)
  小野神社二座名神大  祭神小野氏祖其神号詳ならず 和邇庄小野村に存す(以下略)
*神祇志料(1871)
  小野神社二座  今和爾庄小野村にあり 蓋し天帯彦国押人命を祭る、即ち小野臣の祖神也(以下略)
*特選神名牒(1876)
  小野神社名神大  祭神:天足彦国押人命(アマタラシヒコクニオシヒト)・米餅搗大使主命(タガネツキオオオミ)
  姓氏録・左京項別・小野朝臣の注に「大徳小野妹子、家干近江国滋賀郡小野村、因以為氏」とあるにて、近江国に小野氏ありしこと知るべく、また続日本後記・承和元年二月に小野氏神社近江国滋賀郡に在り・・・と云るにて、小野氏の祖神を祭ること明ららむべし
などがあり、当社が小野氏の祖神を奉祀する神社であることに異論はない。

 小野氏とは、当地・滋賀郡小野郷を本貫とし(他に、山城国宇治郡小野郷を本貫とする小野氏がある)、飛鳥後期から平安中期(7世記後半~9世紀)にかけて活躍したといわれる古代氏族で、古事記(孝昭記)
  「天皇、尾張連の祖・奥津余曾(オキツヨソ)の妹、名は余曾多本毘売命(ヨソタホビコヒメ)を娶りて生みましし御子、天押帯日子命(アメオシタラシヒコ)、次に大倭帯日子国押人命(オオヤマトタラシヒコクニオシ・孝安天皇)。・・・
 兄・天押帯日子命(=天足彦国押人命)は・・・小野臣・・・の祖なり」
とあり、
 また新撰姓氏録(815)に、
  左京皇別    小野朝臣  大春日朝臣同祖  彦姥津命(ヒコオケツ)五世孫米餅搗大使主命(タガネツキオオオミ)の後也
     (左京皇別  大春日朝臣  孝昭天皇皇子天帯彦国押人命=天足彦国押人命より出る也)
  山城国皇別  小野朝臣  孝昭天皇皇子天足彦国押人命(アメノタラシヒコクニオシヒト)の後也
    同      小野臣    天足彦国押人命六世孫人花命の後也
とあるように、大春日朝臣と同祖、即ち古代の豪族・和爾氏の流れを汲む氏族という。
 また、我国最初の遣隋使である小野妹子(607派遣)、学者・小野篁(802-53)、能筆家・小野道風(894--967)、美女・小野小町(9世紀末頃)などを出したことで知られる。

 古代豪族・和爾氏(現奈良県天理が本貫)と同族である小野氏が、何時のころ当地に進出したかは不明で、郷社小野神社由緒記との古文書(成立時期不明)に、
  「天足彦国押人命は、この地に早くから居住した」
とあるというが(日本の神社5・)、父・孝昭天皇の実在が疑問視されていることから(欠史8代)、命の実在も信用できない。

 ただ、当社の周辺一帯に前期から後期に及ぶ古墳が密集すること、当社近くの山中に古代の産鉄遺跡が散在することなどから、鉄製品生産を背景として、古墳を造るだけの力をもった首長が居たことは確かで、式内社調査報告は
  「4世紀から6世紀頃にかけての古代氏族制度成立期において、小野氏一族の奉祀に始まっているものとみられる」
とあり、日本の神々5は
  「製鉄遺跡の存在は、古墳群の存在とあわせて、6世紀段階での小野氏の繁栄をしのばせ、当社の創祀がきわめて古い時代に遡ることを裏付けている」
として、いずれも当社祭祀が古墳末期には始まったというが、その当時の祭祀遺構が確認されていないことから、何らかの神マツリの場はあったことは推測できるものの、それが当社に連なるかどうかははっきりしない。
 また案内は、“推古天皇の御世(在位・592--628)に小野妹子が創建した”というが、これも確証はない。

 正史にみえる当社は、光仁天皇・宝亀3年(772)4月29日条に
  「西大寺の西塔に落雷した。これを占ってみると、近江国滋賀郡小野神社の神木を伐採して、それで塔を建てたための祟りであると出たので、当滋賀郡の2戸を神戸に充当した」(続日本紀・797)
とあるのが初見で、新抄格勅符抄所載の大同元年牒(806)
  「小野神 二戸 近江国 宝亀2年奉充」
というのがこれにあたると思われる(ただし、宝亀2年は3年の誤記か)

 当社が小野氏が奉祀する神社であったことは、続日本後記(869)にある
 ・承和元年(834)2月条
   小野氏官人で五位以上の者は、近江国滋賀郡の小野神社でおこなわれる毎年春秋の氏神祭に際して、その都度の官符を待たずに往還することを許す
 ・承和3年(836)5月  
   無位小野神に従五位下を授く、遣唐副使・小野篁の上申に依る
 ・承和4年(837)2月
   大春日・布瑠・栗田三氏で五位以上の者は、近江国滋賀郡にある氏神社(当社)の春秋の祭祀に際して、小野氏と同じく官符を待たずに詣でることを許す
などの記述により確認される(漢文意訳、なお小野氏は平安遷都に伴って当地を去ったといわれることから、祭祀にあたって旧地に集まったのであろう)

 なお、三代実録・貞観4年(862)12月22日条に、
  「近江国正五位上小野神に、従四位下を授く」
とあるが、その後の昇格記録はみえない。

 その後の当社は、小野氏が奉祀する神社として存続したが、南北朝に入った建武3年(1336)、神主・小野好行が南朝方に荷担し敗れたことから足利氏に神領を没収され、小野氏は衰滅したという

 ただ、その翌年・延元2年(1337)、近江守護職・佐々木高頼が、小野神社の前面に小野篁神社(大宮)を、南方飛地に小野道風神社(岡宮)を創建したという。
 ただ、佐々木氏と小野氏との関係は不詳で(系譜的には無関係)、佐々木高頼(六角高頼とも称す)が小野篁・道風を祀った由縁等は不明。

※祭神
【小野神社】
   祭神--天足彦国押人命(アメノタラシヒコクニオシヒト)
          米餅搗大使主命(タガネツキオオオミ)

 天足彦国押人命(古事記-押帯日子命:アメノオシタラシヒコ)とは、第5代孝昭天皇の皇子で、記紀には
  古事記--天押帯日子命は、春日臣・粟田臣・小野臣・・・・の祖なり(16氏)
  書紀--天足彦国押人命は、和珥臣の祖なり
とあるだけで、事蹟については記されていない。

 米餅搗大使主命は、天足彦国押人命七世の孫といわれ、新撰姓氏録(815)には
  「左京皇別 小野朝臣 大春日朝臣同祖 彦姥津命五世孫米餅搗大使主命之後也
                 大徳小野臣妹子、家干近江国滋賀郷小野村 因以為氏」
とあり、管見した小野氏系図(Wikipedia)によれば
  孝昭天皇--天足彦国押人命--彦姥津命-(3代)-米餅搗大使主命-(6代)-小野妹子-(4代)-篁--道風
という(関係者のみ、世代数には異同あり)

 ただ、境内に掲げる小野氏系図には
  敏達天皇(在位・572--85)--春日皇子--妹子王-(4代)-篁--小町
                                       |--道風
とあり、出自が異なっている。
 これによれば、小野氏の氏神社といわれる当社が祭神として上記2座を祀る理由はなく、何故当社がこの系譜を掲げるのか理解に苦しむ(この系譜があるのは事実)

 米餅搗大使主について、参詣の栞は“タガネツキオオオミ”と呼び、
  「新撰姓氏録(815)によれば、応神天皇の時、我が国初めて菓子・餅の元である餈(シトギ)を作られたので、米餅搗(タガネツキ)の姓を賜ったと記されている」
というが、新撰姓氏録にそれらしき記述はみえず、この出所は不明
 (資料によれば、姓氏録に米餅搗大使主を鏨着-タガネツキ-大使主と記したものもあるというが、確認できない)。

 参詣の栞は、シトギを作ったのでタガネツキの姓を賜ったというが、その理由は記されておらず、シトギとタガネとの関係は不明。
 シトギ・餈(粢とも記す)とは、水に浸した生の米を搗いて粉にし、それを水で捏ねて丸めた食べ物のことで、辞書に、
  「神前に供える餅の名。古くは米粉を清水で捏ねて長卵形としたものを称したが、後世は粳米(ウルチゴメ)を蒸し、少し搗いて餅とし、楕円形にして供えた」(広辞苑)
とあるように、神前に供える餅の形をした供物をいう(食べ物としても食される)

 参詣の栞には
  「餈・シトギという言葉は、中国の周王朝の神饌品の中に出てくるが、この餈はウルチ米を飯に炊き固めた団子であり、餅の元祖ではない。
 餅の品種は、小野の祭神がウルチを品種改良して創りだされたもので、餅米はウルチとは全然異なった品種である。
 ただ、現在では、わざとウルチを加えた餅を祭神の名であるタガネの名を冠してタガネ餅と称している」
とあり、祭神名・タガネツキとはタガネ餅から来たことを示唆している。

 今もタガネ餅と称する食べ物が残っているが、これは餅米の中にウルチ米(1~3割)を加えて搗いて作る餅状の食べ物であって(間食あるいはお菓子として食べられるらしい)、ウルチ米で作る神饌としてのシトギ餅とは主たる材料が異なる。

 参詣の栞によれば、当社の祭礼・餈(シトギ)大祭(10月第3土曜日)で神前に供えられる神饌について、
  「水に浸した新穀の餅米を生のまま木臼で搗き堅め、納豆のように藁のツトに包んだシトギを中心に・・・」
とあり、その材料は餅米であり、シトギ餅ではなくタガネ餅と呼ぶべきかと思われる。
 しかし、祭礼の呼称を餈大祭と称することからみると、本来はシトギ餅が供えられていたとも思われ、そこからいうと、神名はシトギツキオオオミと呼ぶのが本来かと思われる。

 これに対して、タガネとは金属や岩石の加工に遣われる鉄製のノミのことで、その場合、表記は鏨着大使主(タガネツキオオオミ)となる。
 これに関して谷川健一氏は、
  「(米餅搗がタガネツキである)証拠として、志賀町(現大津市小野)の小野神社の近くにタタラ谷や金糞(カナクソ)といった小字名があること、また湖北のマキノ町でも、古代の鉄穴跡が発見され、夥しい鉄滓(カナクソ)が散乱しているが、そこにも小野神社があることなどから、鏨着大使主こそ実は鉱山掘り(カナヤマホリ)の技術を伝えた鍛冶神、あるいはそれを司祭する鍛冶シャーマンそのものではないか」
という(青銅の神の足跡・1989)

 米餅搗大使主命が鍛冶神・鏨着大使主命だとすれば、当社周辺に産鉄遺跡が散在することとも整合し、その後裔である小野氏も鍛冶職・鉄製品製造にかかわった氏族であり、それが小野氏を繁栄を支えていたということができる。

【小野篁神社】
   祭神--小野篁命(オノノタカムラ)
 参詣の栞には、
  「学問・使節の神  小野篁神社
 平安前期、参議岑守の子、漢学者・歌人、西暦834年遣唐副使を命じられ、836年出発したが暴風雨にあって遣唐使の目的を断念する。
 838年再度遣唐副使に任じられたが、大使・藤原常嗣との折り合いが悪くなり渡唐をとりやめる。この時、『西道謡』を作って遣唐の役を風刺したため、嵯峨上皇によって隠岐島へ蟄居される。
 3年後許されて帰京、昇進を重ねて参議・従三位となる。参議は太政官の官名、政務審議の構成員で大・中納言につぐ要職である。
 篁は漢詩文にすぐれ、勅を奉じて『令義解』の撰進に参加している。篁の詩は経国集・和漢朗詠集・扶桑記・本朝文粋に収められ、和歌は古今集に6首。篁日記は後人の作で、篁の歌を中心とした歌物語である。野相公・野宰相ともよばれている。
 百人一首に『わたのはら八十島かけてこぎいでぬと 人には告げよ あまのつりぶね』の歌があり、境内に歌碑が立っている
 社殿は祭神の古墳上にある。建物は旧国宝、現在重要文化財である」
とある。

 小野篁(802--53)は、わが国最初の遣隋使・小野妹子5代の孫とされる公卿で、淳和天皇・仁明天皇に仕え、最終官位は参議・左代弁・従三位。
 令義解(833・律令の解説書)編纂に参加するなど明法道に明るく、且つ政務能力に優れていたといわれ、加えて、漢詩文・和歌にも優れ、代表作として、隠岐島へ配流されたとき都の友人等に贈った歌といわれる
  わたの原 八十島かけて漕ぎ出ぬと 人には告げよ 海人の釣り船 (百人一首)
が知られ、境内に歌を刻した石碑が立っている。

 篁には「冥界往来譚」との伝承が残っている。
  この伝承は、篁は昼間は朝廷に仕え、夜になると東山・六道珍皇寺(東山区大和大通四条下ル、延暦年間創建という)にある井戸を通って冥界に行き、閻魔大王の冥官として死者の裁判にかかわるのを日常としていたというもので、帰路に使ったといわれる井戸が福正寺跡から発見されたともいう。
 今昔物語集に、病死して閻魔大王の前に引き据えられた藤原良相が、篁の取りなしで蘇生したとの話があるというが、手持ちの物語集にそれらしい話はみえない。

【小野道風神社】
  祭神--小野匠守道風命
 参詣の栞には、
  「西暦894~966、平安中期の書家、小野篁の孫。父は太宰大弐をつとめた葛絃(クズオ)。醍醐・朱雀・村上三朝に歴任。
 柳に飛びつく蛙の姿(当摂社の入口にはこの作り物がある)を見て発奮努力して、文筆の極地に達せられ、藤原佐理(スケマサ)・藤原行成(ユキナリ)と共に日本三大文筆、三蹟の一人として文筆の神として崇められている。66歳の時に天徳詩合の清書をして『能筆之絶妙也、義之再生』と賞賛されている。
 祭神道風の書風はこれまでの中国の書風を離れ、穏やかな整った和様、日本的な書の典型として長く後世まで尊ばれている。真跡として“屏風土代”・“玉泉集”などがある。

 また、祭神は菓子の体型を想像された事により匠守の称号を賜わられ、菓子業の功績者に匠・司の称号を授与することを勅許されていた。匠・司の免許の授与は現在は絶えているが、老舗の屋号に匠・司が使用されることは現在もその名残として受け継がれている。
 匠・司の称号が祭神から出ていることを鑑みても、遠く祖神が餈(シトギ)をつくられた小野一族からの継承が窺える。
 建物は旧国宝、現在重要文化財」
とある。

【小野小町神社】
  祭神--小野妹子命
 参詣の栞には、
  「推古朝の廷臣・妹子は遣隋使として外国を行かれた先駆者である。西暦607年、聖徳太子が中国の隋朝とと外交を開くに当り、遣隋使となり図書をもって渡海する。
 それには『日出ずる国の天子、日没する国の天子に書をいたす』と記され、大国・隋へ対等の外交交渉を拓り開き、日本の力を海外に示された、外交史上有名な、御神徳の高い御祭神である。
 妹子は、華道の創設者として、今も華道家元“池の坊”によって免許の授与が受け継がれている。
 社殿は古墳上にあり、・・・」
とある。

 妹子派遣時(推古15年)の隋は煬帝(隋朝第2代皇帝・604--18)の時代で、「日出處天子 致書日没處天子 無恙・・・」との国書をみた煬帝が無礼だとして激怒したといわれ、その為か、煬帝からの返書は帰国時に紛失したとして天皇に差し出さなかったといわれ(緒説あり)、このことから一時流罪に処せられたという。

 妹子を以て華道の創始者とするのは、家元・池坊家が妹子の後裔とされることからというが真偽不明。

※社殿等
【小野神社・小野篁神社(摂社)
 鳥居を入り参道を進んだ左手に小野神社参道との矢印があり(参道を直進すれば篁神社本殿に至る)、小道を右に回った先に苔むした石段が伸びる。
 石段上の正面、石垣の上が小野神社・拝殿(拝所というのが似付かわしい)で、左右に透塀が伸びる。
 その背後、玉垣に囲まれた中央に切妻造向拝が付いた神明造の本殿が鎮座するが、案内なく詳細不明。

 通常、主祭神を祀る本殿が境内中央に鎮座するのが普通だが、当社では、主体である小野神社は境内左奥に蟄居させられ、その右前(境内中央)に境内社である小野篁神社の大きな本殿が鎮座するという異様な形態をとっている。
 知らない人には、これが小野神社の本殿で、左奥の社殿は格下の神社と間違うであろう。

 
小野神社・鳥居
 
同・参道石段
 
同・拝殿
 
同・本殿

 鳥居を入り、正面石段を上った上の境内中央部に、境内社・小野篁神社(摂社)の本殿が鎮座する。重要文化財
 社頭の案内によれば、
  ・本殿は桁行(正面)三間・梁間(側面)二間の切妻造平入りの建物で、前面に一間の向拝が付く
  ・建築年代は不詳だが、様式から道風神社本殿と同じく暦応年間(1228--42)と思われる
という。
 本社である小野神社の本殿より大きくて重厚。


篁神社への石段
(正面建物は篁神社本殿) 
 
篁神社・本殿
(左奥に小野神社社殿が見える)
 
社殿模式図

*その他
 ・八坂社・松尾社合祀殿
   篁神社本殿の右手にある小祠、勧請由緒等不明
 ・小野篁歌碑
   参道の途中・左手に立つ歌碑(歌は上記)
 ・小町塚
   正面石段の手前左に立つ石塔で、美女であったという小野小町の顕彰碑
   傍らの案内には、
  「小町は平安前期の女流歌人で、史料の乏しさと伝承の混乱があるが、本名は小野吉子とする研究者がある。 
 系図によれば小野篁の孫とされるが、年齢的に篁の娘とする学者もある。
 生没年は天長3年(826)~昌泰3年(900)頃と考えられるが、詳しいことは不詳。
 篁が隠岐配流から召還され本位に服した承和9年(842)17歳で宮中に入り、文徳天皇の更衣であったとする説があり、当時の有名歌人らと親交があり、上級女官として長年仕えたとある。
 寛平8年(896)71歳で正四位上に叙任し、昌泰元年(898)5月73歳の時に醍醐天皇の宣旨により雨乞いの歌を献歌した2年後に没したとされる。 
 彼女の歌は、後の紫式部ら王朝女流文学の草分けとなった。
 『花の色は 移りにけりな いたつらに わが身世にふる ながめせしまに』
の歌に見るように、美女であったことがうかがえる」
とある。

 また、小野神社拝殿前の左右、台座の上に、正月の鏡餅のような形をした物・餈餅が乗っている。
 祭神・米餅搗大使主命が、始めて餅の形をした餈を作ったとの伝承に因んたものであろう。

 
八坂社・松尾社合祀殿
 
小野篁歌碑
 
小町塚
 
餈餅(鏨餅)

【小野道風神社】--小野神社境外摂社
  祭神--小野匠守道風命

 小野神社から東へ出て、お寺(上品寺)の角を右折、しばらく進んだ右手に立つ案内表示“小野道風神社”の角を右へ、緩やかな坂を上った上・右手に鎮座する。

 鳥居を入り石段を上った上、境内奥に本殿が鎮座する。
 桁行三間・梁行二間・切妻造の本殿(南北朝時代・暦応4年-1341造営)は、小野篁神社本殿と同形だが、やや小振りとみえる。

 
小野道風神社・鳥居
 
同・本殿

 本殿の左右に、樹下社・八坂社・文珠社の小祠3宇が鎮座するが、案内なく勧請由緒など不明。


樹下社 

八坂社 
 
文珠社

 入口・鳥居の右手に切石で四角に囲んだ池らしきものがあり、真ん中の岩の上に蛙が鎮座している。
 一見して何を意味するのか分からないが、小野道風の“柳に飛びつく蛙”にちなんだもののようで、
 参道入口の左手に立つ案内には
  「小野道風といえば、誰でも柳に飛びつく蛙を、傘をさしてじっと見ている姿を思い起こすであろう。
 江戸時代の学者・三浦梅園(1723--89)の梅園叢書に、
  『小野道風は、本朝名誉の能書なり。若かりし時、手をまなべども進ざることをいとひ、後園に躊躇(サスライ)けるに、蛙の泉水のほとりの枝垂(シダレ)たる柳に跳び上がらんとしけれども届かざりけるが、次第に高く跳びて、終に柳の枝に移りけり。
 道風是より芸のつとむるにある事をしり、学んで止まず。其の名今に高く成りぬ』
とある。
 何事も努力すれば成し遂げることができるという話として、戦前の国定教科書にも載せられ、努力家道風の偶像を作り上げた」
とあるが、周りに柳の木はない。
 小生も、小学生時代に教わった記憶があるが、今、この話を知っている人は老人ばかりであろう。

   

【小野妹子神社】--小野神社境外末社
  祭神--大徳冠位・小野妹子命

 JR湖西線・小野駅の北北西約850m、綺麗に区画された住宅地内に残る小丘・小野妹子公園の頂上部に鎮座する。
 案内表示なく、公園への登り口を見つけるのにやや苦労した。

 社頭の案内には、
 「推古朝の廷臣、妹子は遣隋使として外国に行かれた先駆者である。・・・」
として、上記・参詣の栞と同文が掲げてある。

 公園の最上部にある狭い広場の北奥に鳥居が立ち、その背後、玉垣に囲まれた中に一間社流造の社殿が鎮座し、その右前に「唐臼山 妹子神社」と刻した自然石の石碑が立つ。
 当社の創建時期は不詳。社殿は一見して、そう古いものとはみえない。


小野妹子公園略図
(中央茶色部が妹子社) 
 
小野妹子神社・鳥居

同・社殿 

 社殿の背後、小高くなった処(古墳後円部跡か)には石材数個が散在している。
 当地には唐臼山(カラウスヤマ)と称する古墳があったといわれ、今みえる石材は墳丘削平によってあらわれた石室の残材と思われる。
 唐臼山古墳は径15mほどの円墳と思われるが前方後円墳だった可能性もあるという。
 また、主軸が真南に向く石室は、長:約6m弱・幅:1.5m・高:1.7m位というが、調査記録等なく詳細は不明。

 当古墳は7世紀前半頃の築造と推測され、とすれば、妹子在世期と整合するから、当古墳を妹子の墓とみてもおかしくはないが、他にも妹子の墓というものが大阪の科長神社南側の小丘にもあり(南河内郡太子町)、当古墳が妹子の墓かどうかは不明。

 
古墳石室残材
 
古墳石室残材

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