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大笹原神社
滋賀県野洲市大篠原
祭神--須佐之男命・稲田姫命・八柱御子神
     宇多天皇・敦実親王・佐々木高綱

                                                                    2016.01.26参詣

 JR東海道線・野洲駅の東約4kmにある式外社。
 野洲駅の南、JR線に沿って走る国道8号線を左(東北東)へ、大笹原交差点を右(南)に入って約1km弱、鏡山(H=385m)北西麓に続く森の中に鎮座する。

※由緒
 当社に関連する資料なく、創建由緒・年代など詳細不明だが、参道脇の案内には
  「国宝 大笹原神社、 寛和2年(986・平安中期)越知諸実が社領を寄進し、社殿を造営したと伝えられ、祭神は須佐之男命ほか6柱を祀る」
とあり、これによれば10世紀末の創建となる。

 滋賀県神社庁のHP(神社紹介)によれば、
  創祀は明らかでないが、
  ・寛和2年(986・平安中期)-- 越知(越智とも)諸実が社殿再建・社領寄進と伝う
  ・中世(12末--16世紀)を通じて、佐々木氏の氏神として、社領の寄付・社殿の修復あり
  ・康元元年(1256・鎌倉中期)--篠原六郎光友が社殿修復
  ・応永21年(1414・室町中期)--岩倉城主・馬淵定信が本殿を再建(棟札あり)
                     吉備国から須佐之男神・稲田姫神を勧請、本殿に祀り牛頭天王総社と称す
  ・享保12年(1727・江戸中期)--神階・正一位を授与
とある。

 当社案内と神社庁HPとでは、寛和2年(平安中期)は当社創建・再建と異なっているが、神社庁HPに「明治41年(1908)に鎮座一千年祭を催した」とあり、とすれば延喜8年(908)頃の創建となり、寛和2年は改めての再建とみるのが妥当かもしれない。
 なお、再建したという越知諸実の出自・経歴は不明。

 当社を氏神としたという佐々木氏とは、宇多天皇(在位887-97)の第8皇子・敦実親王(893--967・平安中期初)の子・雅信が源の姓を賜って臣籍降下し(936)、その子・扶義(スケヨシ・950--98・平安中期)が蒲生郡佐々木荘(現近江八幡市安土町付近)に下向土着し、その曾孫・経方(生没年不詳・平安末期)の頃に武士化し、地名をとって佐々木を名乗ったという。

 馬淵氏とは、佐々木定綱(1142--1205・経方の曾孫)の5男・広定が野洲郡馬淵に住んで馬淵と名乗った佐々木氏の傍流で、後に佐々木氏の嫡流・六角氏(佐々木氏は定義の孫の代に六角氏・京極氏などに別れている)に仕え馬淵城・岩倉城(野洲市大篠原小字岩倉)の城主だったという。

 これからみると、当社は宇多源氏の本流ともいうべき佐々木氏によって奉祀された神社で、その創建は、扶義の近江下向(10世紀後期)以降となろうが、諸資料によれば、その頃(986)に越知氏による社殿再興・社領寄進があったというから、既に前身となる神社があったかとおもわれる。

 この旧社の祭祀権を握り氏神社としたのが佐々木氏と思われ、それは経方の曾孫で近江国守護職としての権威を確立した定綱(1142--1205、1187初代守護職就任)の頃かもしれない。

 鎌倉時代・康元元年の社殿修復について傍証となるものはないが、篠原氏とは古代の名族・橘氏の流れを汲む一族で、野洲郡篠原郷(当地)を根拠としたというから、佐々木氏と何らかの関係があり、佐々木氏の意を受けて社殿を修復したのかもしれない。なお篠原氏は、戦国時代になると、四国阿波の雄・三好氏に仕え重臣として三好氏を支えたというが詳細は不明。

 当社が鎌倉幕府の重臣・佐々木氏の氏神社であるとすれば、それなりの結構をもっていたと思われるが、今は国宝・重要文化財指定を受けた幾つかの社殿はもつものの、そう大きな神社ではない。

 ただ、馬淵定信によって再建されたという本殿が国宝に(昭和34年)、境内社・篠原神社(別名:餅の宮)の本殿が国の重要文化財に(昭和25年)指定されたことで、世に知られるという。

 神社庁HPは、享保12年(1727)に正一位の神階を賜ったというが、これは朝廷からの授叙ではなく、平安末期から鎌倉時代にかけての神祇界に勢力を拡げ、幕府の承認のもとで神階の授叙権を掌握した唯一神道(吉田神道)の宗家・吉田家からの授叙と思われ、平安時代のような国からの奉幣を伴った神階ではない。

※祭神
 今の祭神は、冒頭に記すように須佐之男命以下6柱だが、
  須佐之男命・稲田姫命・八柱御子神の一群
  宇多天皇・敦実親王・佐々木高綱の一群
とに別けられる。

 前者・須佐之男以下3柱が当初からの祭神であったとは思えない。
 神社庁HPに、「応永21年、吉備国からスサノオ等を勧請して牛頭天王社と称した」とあることからみて、本来は防疫神・牛頭天王(ゴズテンノウ)とその后・頗利采女(ハリサイジョ)及び八柱の御子神であったものが、明治の神仏分離に際して、牛頭天王は仏教色が強いとして排斥されたことから、同じ神格をもつスサノオ以下に替えられたものであろう(京都・八坂神社などと同じ事例は多い)

 牛頭天王信仰発祥の地は、諸説はあるものの備後国(現広島県福山市)とするのが有力で(備後国風土記逸文・蘇民将来説話)、神社庁HPが「吉備国(備前・備中・備後3国を併せた古称)より勧請」というのは頷けるが、「須佐之男・稲田姫を勧請」というのは、牛頭天王・頗利采女とすべきであろう。

 後者・宇多天皇以下の3柱は、
  ・宇多天皇・敦実親王--佐々木氏の先祖
  ・佐々木高綱(1160--1214)--源義仲と源範頼・義経とが戦った宇治川の合戦(1184)で、梶原景季との宇治川渡河の先陣争いを制して一番乗りを果たした勇者として名高い
の3柱を氏神として祀ったもので、これが佐々木氏氏神としての本来の祭神と思われる。

 いま、当社の祭神配列からみると、須佐之男命が主祭神ととれるが、上記の経緯からみて、主祭神は宇多天皇・敦実親王であって、須佐之男(牛頭天王)は応永21年の勧請合祀であろう。

※社殿
 朱塗りというより深紅の鳥居をくぐり、森の中の参道を進んだ突きあたりの左側が境内。
 境内中央に千鳥破風を有する拝殿が、その奥に本殿が鎮座する。
 ・本殿--国宝(明治34年指定)
        向拝付入母屋造・桁行三間・梁間三間・桧皮葺
        建造年次--室町時代(応永21年-1414)
 ・拝殿--千鳥破風付き入母屋造・桧皮葺 創建年次不明


大笹原神社・鳥居 
 
同・拝殿
 
同・本殿
 
同・本殿側面

◎境内社
 ・篠原神社--重要文化財
           一間社隅木入り春日造・桧皮葺、室町時代(応永34年・1427)
     祭神--石凝姥命(イシコリトメ) 
         天岩屋神話に登場する鏡作りの祖神といわれる神で、
         当地が鏡山の山麓に鎮座することから祀られたかと思われるが、
         祭祀由緒など不明。

 当社は別名・餅の宮ともいう。
 これは、篠原地区が篠原餅の原料である餅米の産地であったことに由来するもので、
 篠原地区は、古代から中性にかけて東山道の宿場であり、この地域で産する良質の餅米で作った餅が売られ、道行く人々にもてはやされたといわれ、この良質の餅米に感謝して餅の宮が建てられたと伝えられているというが、後付けの伝承であろう。    

境内社・笹原神社

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