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大 田 神 社
A:大田神社

滋賀県高島市新旭町太田
祭神--大年神・菅原道真
B:太田神社
滋賀県高島市安曇川町青柳
祭神--大田神・宇須売命
                                                           2017.04.16参詣

 延喜式神名帳に、『近江国高嶋郡 大田神社』とある式内社だが、論社として上記2社がある。

 大田神社--JR湖西線・新旭駅の南東約3km、駅から東へ出て新旭交差点を右折(南へ)、国道161号線を南下、北畑交差点を過ぎた次の辻を左折(東へ)、県道303号線を東へ進んだ道路の北側、民家にはさまれて参道入口がある。

 太田神社--JR湖西線・安曇川駅の北東約1.2km、駅東へ出て直進、安曇川駅口交差点を左折して北へ進み、船木口交差点を右折し、国道161号線との交差点・靑柳の北東角に残る社叢の中に鎮座する。

※由緒
【大田神社】(新旭町太田)
 本殿横に立つ「滋賀県指定有形文化財大田神社本殿」の案内の中に、
  「大田神社は、安曇川下流北岸の太田集落の中央北端に所在し、・・・祭神に大年神と菅原道真を祀る。
   社伝によると、延暦年間(782--806)の太田村の開村に溯り、延喜式内社に列する古社とされる」
とあるが、
 当社の神社明細帳によれば、
  「創立年月日 弘仁元年(810・平安前期)4月11日
 大田神社は、延暦の頃大田宿弥の裔である大伴福美麿河行紀が此の地に来たりて開拓し、祖先の名を地名とし、弘仁元年祖神・天押日命を祀りて大田社を創立した。
 当社は延喜式所載の神社であって、一に大年神を祀っている。
 文永元年(1264・鎌倉中期)6月11日に国子六所大明神を祀って社殿を再建し、応安元年(1368・北朝年号)頃には既に菅公を合祀して天満天神社と称していたが、応永31年(1428・室町中期)9月25日には山城国曼殊院法親王の令旨によって菅原道真の霊を勧請し、爾後大田天満宮と称していた。(中略)
 明治5年(1872)6月には天満宮なる名称を改め、式内・大田神社と旧に復した」
と、やや詳しく記載している(式内社調査報告5)

 また高島郡誌(1927)には
  「村社 新儀村大字太田字柳原に鎮座す。太田の氏神なり。祭神大年神、菅原道真を配祀す。
 大年神勧請の年代詳ならず。一説に云、延暦の頃大伴大田宿弥の裔此の地に移住して太田村を開き、氏神を祀りて大田神社とす。嵯峨天皇の弘仁元年4月大伴福美麿・河行紀の建立なり。
 祭神は大伴氏の祖神・天押日命なること明らかなり。本大字には太田氏・林氏多し、共に大伴姓にして太田氏は村祖なり。
 菅原道真の勧請は応永31年2月25日、此地の慈雲庵沙門明了が造立供養したるところにて、神体は木造なり。(中略)
 本社は爾来大田天満宮と称したりしを、明治元年(1868)旧領主郡山藩主より式内社と確定し、大田神社と復興する旨公示せらる。(以下略)
とある。

 当社創建の弘仁元年を証する資料はないが、上記資料からみて9世紀初頭の創建とみるのは妥当かと思われる。
 当地を開拓し当社を創建したという氏族・大伴大田宿弥氏とは、新撰姓氏録(815)
  「右京神別(天神) 大伴大田宿弥 髙魂命六世の孫・天押日命之後也」
とある氏族で、神武天皇の東征に従って活躍したという伝承をもつ軍事氏族・大伴氏の後裔という。
 ただ、当社を創立したという大伴福美麿河行紀が一人の人物をさすのか、二人(福美麿と河行紀)をさすのか不明。

 なお、江戸中期の地誌・近江輿地志略(1734)には
  「天満天神社  太田村にあり、祭神・菅丞相の霊なり。
 按に、此処 延喜式神名帳に載せるところの大田神社の地なり。
 物換わり星移りて、式内社多く其の名を失ふ。当社も右の大田の社地に天満天神社鎮座せしなるべし」
とあり、江戸時代の当社は、本来の祭神・天押日命(或いは大年神)が忘れられ、学問の神・菅原道真を祀る天満天神として知られていたことを示す。

【太田神社】(安曇川町青柳)
 当社境内に案内・社務所なく、創建由緒・年代等は不明。
 当社は同じ地区にある日吉神社(安曇川町靑柳)の境外社(飛地境内社ともいう)として取り扱われているため(日吉神社社頭の案内には「境外社 太田神社」とある)、当社単独の神社明細書等はなく、日吉社の神社明細書にも当社のことは記されていないという(式内社調査報告5)

 当社に関する資料としては、高島郡誌に、
  「太田神社  青柳村大字青柳字貫正寺に鎮座す。祭神大田神・宇須売命(ウズメ)。旧(モト)新宮と称せり。(中略)
 文政5年(1822)旧満木村の人・中江千別、式内大田神社なりとて太田神社古蹟に碑を建てたり。碑今存せず唯礎石のみ存せり。(以下略)
とあるのみで、他に当社に関する古資料はみえない。

 郡誌によれば、当社は元々大田神(猿田彦神)と宇須売命(天鈿女命)を祀って新宮と称していたものを、江戸後期になって式内・大田神社としたもののようだが、中江千別が如何なる根拠を以て当社を式内・大田神社としたのかは不明。

 これによれば、当社を式内・大田神社とするには無理があり、特選神名牒(1876・明治9年)は、
  「青柳村にも太田神社ありと云るは、唯近頃かける碑文あるのみにて、証とするに足るものなし」
として、当社が式内社であることを否定している。
 ここでいう碑文とは、中江千別が立てた大田神社古蹟との石碑を指すとおもわれるが、今の境内にそれらしきものは見えない。

※祭神
【大田神社】(新旭町太田)
  祭神--大年神(オオトシ・大歳神とも記す)・菅原道真

 大年神とは古事記にのみ出てくる神で、素戔鳴命と大山祇神の娘・大市比売(オオイチヒメ)の子で、兄弟神の宇迦之御魂神(ウカノミタマ)また御子の御年神(ミトシ・御歳神とも)とともに穀物豊穣の神という。

 しかし、明細帳・郡誌共に、祭神は大伴大田宿弥一族が祀った祖神・天押日命(アメノオシヒ・天忍日とも記す)とする。
 天押日命とは、天孫・瓊々杵尊の降臨に際して、
 ・古事記--天忍日命・天津久米命(アマツクメ)二人、天の石靱(イハユキ)を負い、頭椎(クブツチ)の太刀を佩き、天のはじ弓を持ち、天の鹿児矢(カゴヤ)を手挟(タハサ)み、御前に立ちて仕へ奉りき
 ・書紀(9段・一書4)--大伴連の遠祖・天忍日命、久米部の遠祖・天槵津大久米(アメクシツオオクメ)を率いて、背には天磐靱(アマノイワユギ)を負い、臂には高鞆(タカトモ)をつけ、手には天梔弓(アメノハジユミ)・天羽羽矢(アメノハハヤ)をとり、八目の鏑矢(カブラヤ)をとりそえ、また柄頭(ツカガシラ)が槌のような形の剣を帯び、天孫の前に立って降って行き・・・
とあり、両書ともに天降る瓊々杵尊を先導した武神・天押日命で、古代の豪族・大伴氏の遠祖という。

 当社が大伴大田宿弥一族が創建したのであれば、その祭神は祖神・天押日命であるのが自然であり、本来は天押日命を祀っていたと思われる。

 それが大年命に替わった経緯は不詳だが、
 ・集落が、大伴大田宿弥一族が中心であったころには、その祖神としての天押日命を祀ていたが、
 ・集落が発展拡大して一族以外からの住民が増えるにつれ、一族の祖神を祀る社という認識が薄れ、
 ・それに代わって、より身近な穀物豊穣神である大年神へと奉祀対象が替わっていった
のではないかと推測される。

 菅原道真は後年の合祀らしいが、その勧請年次などは不明。

◎六所大明神
 明細帳に「文永元年6月、国子六所大明神を祀って社殿改築」とあり、平成祭礼データーにも「亀山天皇・文永元年6月に本殿を改築、この時の祭神は六所大明神(リクショダイミョウジン)である」とある。
 これは、当社祭神が六所大明神と呼ばれる6柱の神々とされた時期があったことを示唆する。

 この六所大明神とは、嘗ての境内社・六所船魂大明神社を指すと思われるが、今、境内にそれらしき社はみえない(本殿内に合祀されているのかもしれないがはっきりしない)
 
 この大明神社について高島郡誌は
 ・境内に六所船魂大明神社あり。
 ・祭神--表筒男命・中筒男命・底筒男命(以上住吉社)・豊玉彦神・豊玉姫神・猿田彦神
 ・文永元年7月三間宝殿(社殿)を建立す。
 ・本社は安曇連の祖神にして、氏子は今の新庄・東河原・西河原・太田の各村なり。各村は安曇川北岸に属し、南岸青柳村に籠神社と称し、住吉神を祀れるあり[與呂伎神社なり]。ただ、今の與呂伎神社には住吉神は祀られていない
 ・其の祭神は何れも海川守護の神なれば、此の一帯は安曇連の領地なりしなるべし。
 ・六所明神神体は木像なりしを以て、明治維新神仏分離の際、誤りて仏像と認め火に歿したりしが、幸いに豊玉姫神の一躰は時の神官北川某が貰い受け、今に民間に存せり。
という。
 なお、神仏分離の混乱のなかで一躰だけ残ったという豊玉姫の像とは、いま当社に所蔵されている女神像(高:26.5cm、鎌倉時代と推定)を指すと思われる。

 これら祭神6柱のうち、猿田彦を除いた5柱は海神(ワタツミ)と呼ばれる神々だが、そこに猿田彦が加わるのは解せない(高島地区に多い猿田彦伝承によるものか)。
 記紀によれば、
 ・イザナギ・イザナミが生んだ神々の中に海の神・ワタツミがあり、古事記は大綿津見神(オオワタツミ)、書紀(5段・一書6)は少童命(ワタツミ)と記す。
 ・また、黄泉国から帰ったイザナギが筑紫のアワギ原で禊祓いをしたとき、水の表・水中・水底での濯ぎによって、上津綿津見神(ウハツナカツミ)と上筒之男命(ウハツツノオ)、中津綿津見神と中筒之男命、底津綿津見神と底筒之男命が成り出た(古事記、書紀は表記が異なるが呼称は同じ、以下古事記表記による)
 ・この三柱の綿津見神は、安曇連等が祖神として崇敬する神で、安曇氏は綿津見神の子・宇都志日金析命の子孫で
 ・三柱の筒之男命は、墨江(住吉)の三前の大神なり
とあり、
 式内社調査報告は
 「住吉三神は安曇連の祖神ではないが深い関係があり、海岸(ここでは湖)支配の神として注意すべき神である。さらに安曇川がその名からこの氏族との関連を考えることも行われている」
という。

 住吉三神とは摂津・住吉大社の祭神・表・中・底筒之男命を指すが、この神々は朝廷によって奉祀される神であり、これを祖神とする特定の氏族はない。
 調査報告が、「住吉三神は安曇氏の祖神ではないが・・・」というのは、住吉三神が綿津見三神とイザナギの禊ぎによって同時に成り出た兄弟神であることからの記述であろう。

 上記6神のうち、豊玉彦神とは大綿津見神の別名で、新撰姓氏録には
  「右京神別(地祇) 安曇宿弥 海神綿津見豊玉彦神の子・穂高見命の後也」
とある。
 また、豊玉姫は大綿津見神の女で、無くした兄の釣り針を求めて海神の宮を訪れた火遠理命(ホオリ・山幸彦)と結ばれ、鵜萱草不合命(ウガヤフキアヘズ・神武天皇の父)を生んだとあり、
 この二柱の神は、確かに海人族・安曇氏が奉祀する神である。

 高島郡誌は「此の一帯は安曇氏の領地なるべし」というが、寡聞にして、当地に安曇氏がいたとする資料はみえない。
 ただ安曇氏は、近江国では琵琶湖北部の伊香郡安曇郷を本拠としていたともいわれ、その一族が琵琶湖周辺に広がり、漁労・湖上交通に従事する海人等を統括していたともおもわれ、その安曇氏一族が当社に合祀したのが六所船魂明神かと思われる。

【太田神社】(安曇川町青柳)
  祭神--大田神・宇須売命(ウズメ)

 
大田神の出自・神格は不詳だが、大田神とは猿田彦大神、宇須売命とは天鈿女命(アメノウズメ)を指すと思われ、神社覈録(1870)には、「祭神祥ならず。猿田彦大神歟(カ)」とある(但し、その根拠は示されていない)

 当社祭神を、猿田彦大神・天鈿女命と推測する理由として
 ・倭姫命世紀(鎌倉時代)に、
  「倭姫が天照大神の鎮座地を求めて、伊勢国の五十鈴川まで来られたとき、猿田彦命の裔で宇治土公氏(ウジトコ)の祖である大田命が参上し、天照大神の鎮座地として宇遅(宇治)の五十鈴川上の地を献上した」(大意)
とあり、そこに猿田彦命の後裔として大田命の名があること
 (伊勢・猿田彦神社の神官・宇治土公家の系図には、猿田彦・・・大田命→宇治土公とあるという)
 ・天孫・瓊々杵尊の降臨に際して、天の八衢(ヤチマタ)に顕れた異貌の神の名を、天鈿女が猿田彦大神であるとあらわし、共に天孫を日向の高千穂まで案内し、その後猿田彦大神に従って伊勢に行ったこと
 ・天鈿女は、猿田彦大神の名をあらわした功により、天孫から猿田彦大神に因む猿女君の姓を与えられたこと
などとあり、猿田彦の蔭には常に天鈿女が寄り添っていること
などがある。

 また、高島地方の古代史話(1971)によると、
 ・猿田彦は、伊勢国の御裳裾川の辺に新田を開拓し、挾長田里と名付けて住み、その後、近江国の三尾郷に移った
 ・天孫瓊々杵尊が諸国巡幸の折、北の高志国から近江国高島まで来られたとき、これを出迎え、前駆して障害を排除し案内した。
 ・猿田彦が亡くなろうとするとき、三尾郷(今の白鬚社付近)に洞窟を掘り、亡くなる日を太占で定め、三人の御子を呼んで、自分が歿する5月5日には、夜半過ぎまで大声で自分を祀る祭歌を歌え。
 ・そうすると、自分は清明陽明の境に入り、自分の魂は肉体を離れて神に化成するであろうと告げて、洞窟に入って神になられた
といった伝承があり(一部省略改変)、これらが当社主祭神を猿田彦とする要因かもしれない。

 ただ、延喜式には当社祭神は一座とあることから、この二神が創建当初からの祭神かどうかは分からない。

※社殿等
【大田神社】(新旭町太田)
 道路の北側、民家にはさまれて当社への石畳の参道が延び、参道入口に自然石に「式内大田神社」と刻した大きな社標石が立つ。
 参道の先に立つ鳥居をくぐって境内に入り、境内正面に入母屋造の拝殿が、その奥、弊殿を隔てて本殿が南面して建つ。

 本殿について、脇に立つ案内には、
 ・当本殿は、棟札により享保3年(1718)5月に着工、10月完成、翌年3月に落慶・遷座したことがわかる。
 ・本殿の形体は、規模の大きい庇付き三間社流造で、縁を正側面にめぐらし、向拝は一間で中央に一間分の浜床を設ける。
 ・当本殿は、中世以来の滋賀県の伝統的な三間社流造を基本としながら、蟹股や妻飾り・脇障子などに透かし彫り彫刻を多用し、すべての柱上に木鼻を設けるなど華やかな装飾が施されている。
 ・近世の高島郡には、高い技術をもった大工集団が存在したことが知られているが、当本殿は、棟札に高島郡の太田組大工の名がみられ、高島郡大工が造営に関わったことが明確な建築としても価値が高い。
とある(一部省略)

 
大田神社(新旭町)・鳥居
 
同・拝殿
 
同・本殿
 
参道入口の社標石

 境内右手に大きな石碑が立つ。
 右上冒頭の文字は、かろうじて「菅公云々」と
 読めるが、以下の文字は摩耗激しく判読不能。

 また境内右手奥に白大夫社との境内社があり、
 道真に付きものの牛の座像がみえる。

 いずれも、当社祭神の一・菅原道真に関係する
 ものと思われるが、詳細は不明。


  

菅公歌碑 
 
白大夫社

本殿の背後に、皇大神宮豊受社合祀殿・春日社・太田護国社との境内社がある。

皇大神宮・豊受社合祀殿 
 
春日社
 
太田護国社

【太田神社】(安曇川町靑柳)

 田畑に囲まれた靑柳交差点の北西角に、嘗ての満木森の痕跡とも思われる、こんもりとした森があり、当社はその社叢内に鎮座する。

 社叢の南を走る東西道路脇に鳥居が立ち、その北が境内。
 境内正面奥に、向拝付の本殿覆屋が南面して建つのみで、他には何もない。
 本殿は一間社流造らしいが、正面格子の間隔が狭くてよくみえない。
  

太田神社・社叢(西より)
 
太田神社(靑柳)・鳥居
 
同・本殿覆屋
 
同・本殿

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