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白 鬚 神 社
滋賀県高島市鵜川
祭神--猿田彦命
                                                   2018.11.07参詣

 JR湖西線・近江高島駅の南約2km、駅の東、琵琶湖沿いに走る国道161号線を南下した右手(北側)に鎮座し、国道を挟んだ南側の湖中に朱塗りの大鳥居が立つ。

 駅より老人の足で徒歩約40~50分。乗り合いタクシーがあるらしいが予約制とかで利用には不便。

※由緒
 当社の創建由緒について、参詣の栞には、
 「近江最古の神社で、社記によると垂仁天皇の25年、皇女・倭姫命が社殿を御創建(再建ともいう)、天武天皇の白鳳3年(675)勅旨を以て『比良明神』の号を賜るとある。
 当社の縁起は、謡曲・白鬚(観阿弥作)にも謡われ、今日、全国に約300の分霊社が祀られている。

 御祭神の猿田彦命は、天孫瓊々杵尊降臨の際に先頭に立って道案内された神で、導き・道開きの神として知られている。
 当社にお祀りされている猿田彦命は白髪で白い鬚を蓄えられた老人のお姿で、御社名の由来にもなっている長寿神である」
とある。

 参詣の栞がいう垂仁天皇25年云々とは、垂仁紀25年3月10日条にある
 「天照大神を豊耜入姫命(トヨスキイリヒメ)から離して倭姫命(ヤマトヒメ)に託された。倭姫命は大神を鎮座申し上げる処を探して、宇陀の篠原に行った。さらに引き返して近江国に入り、美濃をめぐって伊勢国に至った」
を指すと思われ、そこには、倭姫命が大神の鎮座地を求めての巡幸の途中に近江国を経由したとあるが、近江国の何処を経由したかは記されていない。

 これに対して、鎌倉時代に編纂されたという倭姫命世紀には、近江国での巡幸の途上、
 ・淡海(近江)の日雲宮に4年間
 ・  同    坂田宮に2年間
滞在したとある。
 この日雲宮・坂田宮の比定地については諸説があるが、有力なものとして
 ・日雲宮  滋賀県甲賀市水口町の日雲宮
          同      頓宮の甲賀日雲宮
 ・坂田宮  滋賀県米原市坂田の坂田神明社
がある。しかし、これらはすべて琵琶湖東岸の地であって、当社が鎮座する西岸に滞在あるいは通過したとの記述はない。

 ただ、当社の北方・高島市今津町桂に鎮座する櫟原神社(イチハラ)では、
 「社伝によれば、垂仁天皇25年倭姫命が天照大神を伊勢国に遷された時、この地に御逗留になり、里人が御膳等をお供えしたとの縁により、垂仁天皇30年に天照大神を祀った・・・」
との伝承を以て創建由緒としている(滋賀県神社庁HP)
 参詣の栞が垂仁25年に倭姫命が社殿を再建したというのを、この櫟原神社由緒にいう倭姫命の今津滞在中の出来事とみればつじつまは合うが、倭姫命世紀には今津に滞在あるいは経由したとの記述はない。
 また、垂仁天皇は5世紀中頃の天皇というが、その頃、今のような社殿を擁しての神マツリの場があったとは思えず、当社創建時期を垂仁朝に求めるのには疑問があり、当社創建時期は不詳とするのが妥当であろう。

 なお、倭姫命世紀との古文書は、伊勢外宮の祭神・豊受大神を内宮の祭神・天照大神と同格、あるいは天照より上位に置かんとする外宮の神官たちによって編された伊勢神道の根本経典・神道五部書の一であって、史実の裏付けのない恣意的な創作で、これを以て当社の創建由緒とするのには疑問がある。

 なお、当地・三尾は第26代継体天皇の生母・振姫の出身地であり、天皇の皇妃のひとりに三尾君加多夫の妹・倭比売があることから、当社を再建したのは、時代は異なるが、この倭比売ではないかともいう(飯田道夫・サルタヒコ考1998)

 加えて、参詣の栞は天武天皇3年に比良明神号を賜ったというが、天武紀にそれらしき記述はなく、明神号の国史上での初見は、日本後紀・嵯峨天皇・弘仁5年(814)条の『9月戌子 奉幣明神 報豊稔也』といわれ、天武朝に明神号を賜ったというのにも疑問がある(明神号は9世紀後半頃から一般に弘まったという)

 このように当社の創建年次は不詳だが、三代実録・貞観7年(865)正月の
 「18日庚子 近江国无位(無位)比良神に従四位下を授けき」
にいう比良神が当社とすれば、当社が9世紀中頃にあったとみてもいいだろう。

 これらからみると、当社は天照大神(倭姫命)の伊勢鎮座に関係した神社と思われ、また猿田彦も伊勢に来た倭姫命に良き宮地を案内したという伝承(下記)から倭比売命と無関係ではないが、無理矢理にこじつけたとのニュアンスが強くしっくりこない。
 また、近江最古の神社という当社の神階が従4位下という低位であること、延喜式内社から漏れているのも解せない。


 因みに、当社祭神・猿田彦について、古事記には
 ・天孫瓊々杵尊(ニニギノミコト)が天降られた時、天の八衢(ヤチマタ)に異様な神があり、天鈿女命(アメノウズメ)にその素性を問わしめた
 ・天鈿女に問われた神は、『吾は国つ神、名は猿田彦なり。ここに出てきた所以は、天つ神の御子が天降りますと聞きつる故に、御前に仕へ奉らむとして、参向し候ふ』と答えた
 ・猿田彦は瓊々杵尊を筑紫の日向の高千穂まで案内し、その後、天鈿女を伴って伊勢に帰った(この項・書紀)
 ・その後、猿田彦が阿耶訶(アカザ)で漁をしていたとき、比良夫貝(ヒラブカイ)に手を挟まれ海底に沈み溺れてしまった
とあり、天孫瓊々杵尊を案内したことから“道開きの神”“道案内の神”とされるが、正体のはっきりしない神で、後世、衢神(チマタノカミ)・塞神(サイノカミ)・道祖神(ドウソシン)などいろんな神と習合している。


 当社は延喜式内社から漏れているため、参考となる古資料は少ないが、管見したものに次の資料がある。
◎近江国輿地志略(巻30、1734・江戸中期
 「白鬚大明神社  
   鵜川・打下二村の間にあり。打下村は高島郡也(今の当社は高島郡に属しているが、嘗ては南に隣接する滋賀郡に属していたという)
   祭神・猿田彦命也。縁起に曰、白鬚大明神は、皇祖天津彦火々瓊々杵尊降臨のとき、天のやちまた(八衢)にて、天鈿女命に逢い、吾是猿田彦太神なりと名のり、伊勢長田の五十鈴川の川上に到る。
   垂仁天皇25年、倭姫命に逢ひて曰、翁が世に出る事既に280万余歳とのたまふ。亦斎の内親王に、われ寿福を人に授く故に太田神と名づくと云ふ。
   然る後国々をめぐり、此の国に来たりて釣りを垂る。湖の三度変じて桑原となりしを見たり(長い時間が経過したことを指す比喩)
   老翁のかたちを現じては白鬚の明神といふ。山門(比叡山)の横川にも釣垂石あり、もとより当社前にも釣垂れの大石あり」
というものの、
 肝心の著者は
 「按ずるに、当社に今存在する所の縁起には孟浪荒唐の言多く、採用するにたらず。
  其の中に白鬚の神は湖水の主にて、七度変じて芦原となるを見るといふは、事文類聚・列仙伝(中国道教系の説話集)等に記せる、麻姑が東海の桑田になれるを見ると云事を假て、設けたるのみ・・・」
として、上記縁起は中国説話集の焼直しにしかすぎないとしている。

◎近江国名所図会(1815・江戸後期)
 「白鬚神社
  小松村大字鵜川明神崎にあり。延喜式には高島郡志呂志神社とあり。又比良明神とも云ふ。垂仁天皇27年の創建なり。
  昔、聖武天皇の代(724-49)、良弁僧正霊夢により石山に到る。岩上に一老翁の釣を垂たるあり。僧正怪しみ問ふて曰く、汝何人ぞやと。老翁曰く、我は比良の明神なり。この山は八葉蓮華の如くなり、紫雲常に掩ふて観音利生の地なりと、言終えて消え失せけり。
  良弁乃ち奏聞して比良明神に此地を乞ひ、仏閣を建てける由石山寺縁起に見えたり。 
  又、康安2年(1362・北朝年号) 天下旱魃し湖水減少したる時、社前町余りの沖に石の鳥居顕はれけること太平記其他の書に見えたり。若し事実とすれば、湖水増量して陸地を犯せしならんか」
 
 図会は当社を志呂志神社とみているが、この神社は高島市鴨に鎮座する志呂志神社(祭神:瓊々杵尊、別稿・志呂志神社参照)に比定されている式内社で、その諸説ある祭神の一つに白鬚大神かあるのは確かだが、それは志呂志と白鬚の読みの類似からくるものといわれ、この志呂志神社を当社にあてるのは無理であろう。

◎白鬚大明神縁起絵巻(宝永2年・1705、当社蔵・要点抄記)
 ・近江国志賀郡、白鬚明神と申すは、往昔、天孫瓊々杵尊が天降りまします時、一の神 天の八街におれり。其の鼻長さ七咫、背丈七尋、亦口も隠れ所も赤く照れり、眼は八咫の鏡をかけたらんさまに照り輝くこと赤かかちに似たり。天鈿女命に仰せて問はしめ給ふに、はじめて猿田彦大神と名乗り、命の天降りましましを迎へ奉りぬ、と申し給ひぬ(第1段)

 ・垂仁天皇25年、倭姫命が伊勢にいきまして、よき宮所もとめられ給ふ時、猿田彦大神に逢ひ給ひければ、大神のたまはく、南の大峯に良き宮所あり。宇遅の五十鈴の川上は大八洲の内の目出度き所也と語り給ひき。
 その地を訪れた倭姫命は、この地こそ天照大神鎮座の地に相応しいとして宮所として定めたもうた(第2段)

 ・あるとき、猿田彦大神は内親王・神主等に、
  『吾は天下の土君なれば、国底立神と名付く。吾は時に応じて機にしたがひて化生出現しつれば気神と名付く。吾は亦、根国底国より荒備疎備来たらん物に相したがひ守護となるゆえに鬼神と名付く。吾は復、人の為に寿福を授け与ふるゆへに大田神と名付く。吾は、よく人の魂魄をかへすゆへに興玉神と名付く』
と語った(第3段)

 ・それより、国々地々をみてまわり近江国に至るに、その国に大きなる湖あり。嵩峯神山が四周を囲み、槙の葉の浮かぶが如くして凡境にあらざれば、大神、この所にめでて小艇を造り、釣りをたれ遊びたまふだに、吾此の湖の三度桑原となれるをみし、となむ語り給ひぬ(第4段)
 ・土俗 其神霊を祠りて神社をたつ。老翁の貌を現し給へば、白鬚の神と申しぬ。亦比良の神と申すは、かの山の麓に跡を垂れたまへばなり(第5段)

 ・聖武天皇、東大寺を建立いたし、盧舎遮那仏をつくらせ給ふに、わが国いまだ黄金なかりし故、帝、僧正良弁に和州金峰山は其地皆黄金也。金剛蔵王に祈り金を求め銅像の落を助けよ、と詔し給ふ
 僧正、彼の山に登り祈念し給ふに、夢中に、此の山の黄金は弥勒出世の時、大地に敷かむためなれば、欲しいままにしがたし。江州、湖の南の勢多といふ所に一の山あり。故、彼に至り持念せば、必ず黄金を得む、と告げ給ふにまかせて、勢多に赴きぬるに、老翁一人巨石の上に座して釣りたるあり。
 其のかたち凡人とみへざりければ、僧正、何人と尋ねられしに、我は此の山の主・比良明神也。
 此地如意輪観音霊応の地ぞかし。これにて祈念せば汝が願いはやく成就すべしと告げて、たちまち見へずなりぬ。其の石の傍らに草の庵を結び観音の像を安置す。石山寺是也(石山寺縁起と同じ)
 程なく陸奥国より金を貢調奉りし。是蔵王の擁護・観音の霊応のみに限らず、当社明神も加助の力を添へ給ふゆへ也(第6段)
 ・比叡山横川に明神釣垂岩とてあり。亦 社の前にも巨石ありて、其の釣垂れし時 坐し給ふ跡とて今に残れり(第7段、以下略)
という。

◎高島地方の古代史話(水尾神社刊・1971、[括弧内]は注記)
 琵琶湖周辺に散見される猿田彦に関連する伝承を、水尾神社を中心としてまとめたもの
 ・猿田彦の祖先は豊国主尊の三男・国底立命で、土民農業の祖神で土君(ツチノキミ)と称し、代々相続しこれが通称である、として、
   天御中主神(アメノミナカヌシ)-国常立尊(クニノトコタチ)-国狭槌尊(クニノサツチ)-豊国主尊(トヨクニヌシ)
                                         -国底立命(クニノソコタチ)----猿田彦命
との系譜を記している。
 [この系譜からみると、猿田彦は天御中主尊から続く天つ神となるが、古事記での猿田彦が「吾は国つ神なり」と自己紹介したのと整合しない。
  系譜にいう天御中主尊とは、古事記では天地開闢のとき最初に顕れた神とあり、書紀では国狭槌尊の別名とあり、
  国常立尊も、書紀では開闢時に顕れた神代七代の最初に顕れた神とあるが、古事記では別天神五柱に続いて顕れた神代七代の最初に顕れでた神という。
  また、猿田彦の祖先という国底立神とは古事記には見えず、書紀一段一書1には国常立尊の別名とある。
  上記系譜は、記紀神話で混沌に中から成りでた18柱(古事記)・11柱(書紀)の神々のなかから幾柱かの神々を(その最後がイザナギ・イザナミ)、あかたも親子関係があるかのように繋いだものだが、記紀によるかぎり、これらの神々はそれぞれ単独に顕れた神で、そこに親子関係はない]

 ・天照大神の御代、土君は農業の道に詳しい指導者として知られたが、その貌が猿の如く原始的であった。
  しかし、田作りの業を教え導くにつれて人相が良くなり、土民は田作り指導者である土君を猿田彦と称して尊敬し、天照大神はその教導の功を賞し、衢神(チマタノカミ)の称号を授けられた。
 [衢とは“道が分かれる処・分岐点・四方から来る道の合流点・辻”などを意味する言葉で、そこは人・物は当然、神・精霊なども通ったとされる。
  衢の神とは、衢にあって外からくる悪霊・邪霊等の侵入を阻止する神といわれ、塞の神-サエノカミ・岐神-フナドノカミ・道祖神-ドウソシンなどがこれに当たる。
  猿田彦が天の八衢に登場していることから衢の神と称しても可笑しくはないが、それが農業指導の功績によるというのは牽強付会の説といえよう]

 ・猿田彦は長田(オサダ)の里に永らく住まわれたので、長田の土君とも呼ばれた。
 [長田里とは、当社の北方にある高島市永田に比定され、長田神社(祭神:事代主神)が鎮座する。なお、この長田を伊勢の長田とするものもあるが、伊勢では次とは繋がらない]

 ・天孫・瓊々杵尊は、天照大神の許しを得て諸国を巡幸され、北の高志国(越国・コシノクニ)から近淡海国(チカツアフミ・近江国)の高島まで来られたとき、音玉川(現小田川)の川口まで猿田彦が出迎え、櫨川(ウカワ、現鵜川)の仮宮に宴を設けてお待ちしていますと述べ、前駆して巡幸の前路の障害を排除して案内した。因って、尊より幸前馭神(サイノカミ)の賞号を賜った。
 [猿田彦は天降る天孫・瓊々杵尊を案内した道開きの神・道案内の神であることから、前駆神といってもおかしくはないが、それをサイノカミと読ませるのは解せない。サイノカミとは通常“塞の神”と書かれ、衢の神と同じく、道の辻・橋の袂などの境界にあって外からの悪霊・邪霊の侵入を遮り防ぐ神とされ、書紀では岐神-フナトノカミの名で登場する。
 なお、天孫瓊々杵尊が越国から当地へ巡幸されたというが、記紀等には日向の高千穂に天降った尊が諸国を巡幸したことを示唆する記述はない。下記する三尾大明神本土記による伝承であろう]

 ・更に南行すると、比良山系の尾崎三(今の打下から明神崎付近)で道が塞がっていたので、猿田彦は鎧・吹卸(今の打下)・東の鏡崎などを切り開いて案内した。三つの尾崎を啓発した功により尊より三尾大明神の称号を賜った。
 ・それで猿田彦は、その辺りを三尾里と名づけ、そこに住んだ。今の高島町一帯であったらしい。

 ・後年、猿田彦がまさに神となろうとする時(亡くなられるとき)、三尾郷(今の白鬚神社の処)に洞窟を掘り、歿する日を太占(フトマニ)で定め、三人の子を招いて 、自分が歿する早苗の日(5月5日)には、夜半過ぎまで大声で自分を祀る祭歌を謡え、そうすると自分は清気陽明の境に入り、自分の魂は肉体を離れて神に化生すると言い終わって、洞窟内に入り神となられた。
 これは丁度垂仁天皇の29歳(西紀268年)の庚申5月庚申5日に当たる。これ三尾大明神(猿田彦)を祭るのを庚申待(コウシンマチ)とする所以である。
 [庚申待ちとは、年に6回(60日ごと)に廻ってくる干支・庚申の夜に、講中の人々が集まり延命長寿を願って眠らずに一夜を過ごした風習をのことで、江戸時代には盛んだったという。その庚申神を神道系で猿田彦としたことから(仏教系では青面金剛)、猿田彦と庚申信仰とは無関係ではないが、三尾大明神(猿田彦)祭祀を以て庚申待ちというりは解せない](庚申信仰については別稿・「庚申信仰とは」参照)

 ・白鬚神社は、垂仁天皇の25年(西紀289年、猿田彦没後21年目)に伊勢におられた倭姫命が、猿田彦命が入り神となられたこの洞窟の地に、猿田彦を創祀されたものと伝えられている。
とある(大要)

 一読して荒唐無稽・牽強付会色の強い話だが、古代史話の“はしがき”に、「大同3年(808)赤井重彦氏謹書の和解三尾大明神本土紀には教えられることが多かった」とあり、古代史話は三尾大明神本土記との古文書を参考にして書かれたものと思われる。
 この三尾大明神本土紀(時期不明・著者:近世の修験者・和邇估容聰-生没年不明)の内容は検索不能だが、資料によれば、この書は江戸中期頃(安永7年-1779頃という)に世に出たといわれる謎の古文書・秀真伝(ホツマツタヘ)を下書きとして記されたものという。

 秀真伝は、記紀等には記されていない真の歴史を伝えるというが、その内容については従来から議論があり、偽書というのが大方の評価だが、資料少なく詳細不明。
 古代史話の基が本土紀ひいては秀真伝だとすれば、そこに記す猿田彦関連の記述に信憑性はなく、当地に残る根拠不明の伝承に基づくものといえよう。

◎能・白鬚(作者不明、当社案内には観阿弥作とあるが確証はない)
 その粗筋は以下の通り。
 ・春のある日、天皇の命を受けた勅使が白鬚明神の参詣にやってきた。
  宮に着くと、湖岸で釣りをしている翁と出会い、翁は白鬚明神の縁起を語りはじめた。
 ・釈迦が都率天(トソツテン)におられたとき(この世に現れる前)、仏法流布に相応しい土地を探していると、波の声が一葉の葦に凝り固まって島となった所があった。この島が今の大宮権現(日吉大社)の橋殿である。
 ・入滅後、その島を眺めると、比叡山の麓・志賀の浦あたりで釣りをしている翁がいた。
  釈迦が『翁よ、汝がこの地の主ならば、仏法の地としたいから、この山を譲ってくれ』と頼まれた。
 ・それを聞いた翁は、『自分は6千年も前からこの山の主で、この湖が7度まで葦原となったのを見てきた。この地を仏法結界の地とするならば釣りをする処がなくなる』と譲ることを惜しんだので、あきらめた釈迦は帰ろうとされた。
 ・その時、東方から薬師如来が現れ、『釈迦よ、この地に仏法を弘められるのは非常に良いことである。自分は2万年の昔からこの地の主だが、この翁は私を知らない。私はこの山を惜しみません。私もこの山の主となって共に仏法を守護しましょう』と約束して西と東に別れて去っていかれた。
 ・これを見た翁は、この山を譲ることを承諾した、と。
 ・勅使は話の詳しさに驚いて翁の名を問うと、翁は自分がその明神であることを明かし、勅使を慰めにやってきたのだと告げ、社檀の中に入っていった。
 ・夜も更けたころ、社檀の中から白鬚明神が現れ、勅使のために舞楽を奏しはじめ、空から天女が天燈を、湖水から竜神が竜燈を掲げて現れて舞い、夜明けとともに帰って行った。

 能・白鬚の成立経緯は不詳だが、基となったのは太平記(巻18・比叡山開闢事、14世紀後半頃か)のようで、そこには、能・白鬚と同意のことが記された後に、「この釣垂の翁、実は、ここにある白鬚神社の祭神で、琵琶湖の主・白鬚明神である」とあり、能・白鬚のシテは猿田彦ではなくて白鬚明神ということになる。


 当社祭神は、今は猿田彦命となっているが、当社本来のそれは貞観7年の神階綬叙記録にあるように、“比良神”(あるいは比良明神)であって、比叡山・比良山・琵琶湖一帯の地主神とされていたという。
 そこに白鬚明神との神名が加上されたのは、少なくとも鎌倉時代といわれ、古文書上では応永2年(1395・南北朝末期)前後に描かれた比良荘相輪絵図に“白ヒゲ大明神”とあるのが初見という(日本の神々5・2000)

 上記の縁起類の中で猿田彦が登場するのは縁起絵巻および高島地方の古代史話で、他は比良明神あるいは白鬚明神とあることから、当社祭神が猿田彦になったのは案外新しいのかもしれないが、その時期を推測できる資料はない。

 当社境内の奥に岩戸社との小祠(末社)があり、その傍らに注連縄で囲われた中に三角錐形の磐座があり(下記)、背後の山中にも幾つかの巨石が積み重なった磐座があるという(未見)
 岩戸社についての案内がないため詳細は不明だが、当社はこの磐座を地主神・比良明神が降臨する聖地として崇敬したたことに始まるとも思われ、そこに猿田彦が加上されて主祭神となり、本来の比良神が末社におとしめられたとも思われる。

※社殿等
 国道161号線の北側、朱塗りの大鳥居(柱の下に各2脚の控え柱がついた両部鳥居)を入って、正面に拝殿・本殿が前後に連なって建ち、境内左側奥の山麓に境内社11社が並ぶ。

 また、当社のトレードマークとなっている湖中大鳥居は、国道を挟んだ南側の琵琶湖中にあり(湖岸より約58mの沖合、高さ:湖面より約10m、柱間約8m)
 参詣の栞には、
 「往古、神社前の湖中に鳥居があったという伝説や絵図があり、これを知った大阪道修町の薬問屋・小西久兵衛氏が昭和12年(1937)に復興寄進されたもので、琵琶湖を代表する景観となっている。
 (現在の鳥居は昭和56年-1981に、琵琶湖総合開発の補償事業で再建されたもの)
とある。


白鬚神社・境内案内図(社頭掲示) 

白鬚神社・大鳥居 
 
同・湖中大鳥居 

◎本殿・拝殿
 当社の本殿(重要文化財)・拝殿はいずれも入母屋造・檜皮葺きで、軒を接した両殿の間を弊殿で結んだ一体構造となっている。
 本殿について、参詣の栞には
 「現在の本殿は、慶長8年(1603)に太閤秀吉公の遺命により豊臣秀頼公とその母・淀君が、片桐且元を奉行として造営したものである。このことを記した棟札とともに、昭和13年(1938)国の重要文化財に指定され、今日に至っている」
 また、境内に立つ「謡曲白鬚と白鬚明神」との案内板には、
 「現在の本殿は、慶長8年に豊臣秀頼・淀君が建立し、後に改築された拝殿と一体となって、特殊な桃山建築の美をみせている」
とある。


左:本殿・右:拝殿
(いずれも側面) 
 
拝殿・正面

◎境内社
 境内左手奥の山麓に境内社11社が3群に別れて点在する。
 ただ、これら境内社の鎮座由来・祭神等の表示はない。
*若宮神社

 この小社のみが、他と離れて本殿左の石垣下に鎮座する。(右写真)

 傍らの案内板には、
 「高島市指定文化財 (昭和55年12月1日指定)
   白鬚神社末社 若宮神社本殿 一間社流造・こけら葺 (桃山時代)
とあるのみで、鎮座由緒・祭神等不明。



  

*皇大神宮(内宮)・豊受大神宮(外宮)・三社合祀殿
 本殿左奥の石段を登った左に、右から外宮・内宮・三社合祀殿(八幡神社・加茂神社・高良神社合祀)が並んでいる。
 内宮は天照大神、外宮は豊受大神を祀り、八幡社は応神天皇、高良社は武内宿禰を祀るのだろうが、加茂社の祭神は不明で、いずれも鎮座由緒等は不明。


三社合祀殿 
 
皇大神宮(内宮)
 
豊受大神宮(外宮)

*天満神社・浪除稲荷社・寿老神社・鳴子弁財天社
 皇大神宮等2社・合祀殿1社から石段を登った上に鎮座する小社。
 天満神社・浪除稲荷社(社前に朱鳥居2基が立つ)は独立した小社で、寿老神社・鳴子弁財天社は簡単な覆屋の中に並んで鎮座している。
 寿老神社に関係して参詣の栞には、
 「西近江七福神  寿老神を奉斎(御神体は境内社の寿老神社)
とある。

 
全 景
(左より、天満社・稲荷社・寿老社・弁財天社)
 
天満神社
 
浪除稲荷社
 
左:寿老社・右:弁財天社
 
寿老神社
 
鳴子弁財天社

*岩戸社
 弁財天社右の緩やかな坂を登った上の疎林に中に鎮座する小祠。
 由緒等不明だが、内部に古代古墳の石室の一部(遺体を納める玄室へ至る羨道の一部か)とおぼしきものがみえることから、当祠は削平された古墳の上に造営されたもので、石の上に古びた金属製の幣帛がみえることから、近世になっても何らかの祖先マツリがあったのかと思われる。

 穢れを忌む神道の社が穢れの最たるものである墳墓の上に建つのはおかしいといえばおかしいが、墳墓というのは一種の聖地であって、洋の東西を問わず、その聖地という性格は何時の世になっても引き継がれるもので、古墳上あるいは墳墓跡に神社が鎮座している事例は多々あり、当祠もその一つと思われる。


岩戸社全景
(右に磐座が見える) 
 
岩戸社・正面

同・側面
 
 
岩戸社内の石室
 
同 左
(この部分は羨道であって、
奥の暗い処が遺体を納める玄室かもしれない)
 

*磐座
 岩戸社の右手に注連縄を巡らした大きめの磐座が鎮座し、
 また、岩戸社の裏、木柵で囲われた中にも大小2基の磐座が鎮座する。
 後者の位置は古墳玄室の上に当たるかとも推測され、石室を覆っていた石蓋の残欠かもしれない。
 なお、背後の山中にも磐座があるというが、入っていく通路なく未見。

 
岩戸社右手の磐座

同・背面
 
岩戸社裏の磐座

*その他


三社殿前からみた境内
(左:本殿、右小祠:絵馬殿) 
 
絵馬殿
絵馬等は掛かっていない)

 境内には、紫式部の歌碑以下6基の歌碑・句碑があり、参詣の栞には
  ・紫式部歌碑--みおの海に 網引く民の てまもなく 立ちゐにつけて 都恋しも
  ・与謝野鉄幹・晶子句碑--しらひげら 神のみまへに わくいづみ これをむすべば ひとの清まる
  ・芭蕉句碑--四方より 花吹入りて 鳰(ニホ)の湖
  ・羽田岳水句碑--比良八荒 沖へ押し出す 雲厚し
  ・中野照子歌碑--吹き晴れて 藍ふかまれる湖の 光となりて かへりくる舟
  ・松本鷹根句碑--鳥雲に 涙ぐまねば 雲なき日
とある。

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