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志呂志神社
滋賀県高島市鴨
主祭神--瓊々杵尊
相殿神--鴨祖神・玉依姫命

付--鴨稲荷山古墳
                                                          2017.04.16参詣

 延喜式神名帳に、『近江国高嶋郡 志呂志神社』とある式内社。
 社名・志呂志は“シロシ”と読む。

 JR湖西線・安曇川駅の南約1.2km、駅西を南北に通る県道23号線を南下、賀茂川に架かる天皇橋を渡って すぐの小道を右(西)へ入った社叢の中に鎮座する。
 なお、鴨稲荷山古墳は、当社南の道を東へ出た交差点の西南角にある。

※由緒
 境内に案内等なし。
 神社明細帳によれば、
  「本社は確證記録等明和7寅年(1770)火災にて村内八分通り焼亡の節悉く焼失依て不詳と雖も、旧古老の申伝に云、杵命(瓊々杵命)諸国御巡幸処々を納給ふ節の御像を奉斎、神像にして御丈五尺有余あり、(中略)
 延喜式内の神社にして往昔川中島の白州に鎮座し、所知食天皇(シロシメス スメラミコト)ゆえに志呂志(シロシ)の天皇と称し奉り、白州の神社とも申せし由。
 此の鴨川往古堤なく、南は永田村北は三尾里までも処々に分流して一ならず。その中央水盛なる処にて魚漁して月次の神供に供す。往古相応の社にして神田神楽等あり。中興只其の他とのみなれり。
 仏教盛なるより以来、社の修補すら比叡山僧供押領の地となり、為に(祭祀)成り難く神社は廃墟同様なり。・・・
 外地より宝亀元戌年(770)藪ケ原の地鎮座奉る。
 地名を天皇と称す。亦地券改正の際地名を稲荷と字す」
とある(式内社調査報告5)

 また、高島郡誌(1927)には
  「鴨の氏神なり。祭神瓊々杵尊・鴨祖神・玉依姫神。宝亀元年(770)藪ケ原の地より今の地に遷座ありしと伝ふ。
 祭神は事代主命なりしを後世吉田家の許状(室町以降、神社界を壟断した吉田家が出した認可状)に瓊々杵尊と誤れりと云ふ。
 又伝ふ、天長中(824--34)鴨祖神・玉依姫命を配祀すと。
 文治3年(1187)源頼朝十貫文の社領を寄付せられしが、永禄年中(1558--70)延暦寺の僧徒に掠略せらる。其後転退したるを天正2年(1573)再建せり。
 明治維新までは天皇社と称し、俗に牛頭天皇(牛頭天王)を祀ると称せり。
 本社を式内志呂志神社と定めし証左詳ならず。猶再調すべし」
とあり、当社を式内・志呂志神社と比定することに疑問を呈している。

 明細帳によれば、当社社名・志呂志(シロシ)は所知食(シロシメス)からくるという。シロシメス→シロス→シロシ
 シロシメスとは領有する・治めるの尊敬語で、所知食天皇(シロシメス スメラミコト)とは“国を統治される(治められる)天皇”をさす。
 ただ、当社祭神が天孫・瓊々杵尊に向かってアマテラスが『この豊葦原水穂国は汝知らさむ国なりと言依(コトヨ)さしたまふ。故 命のまにまに天降るべし』と詔していることから(古事記)、明細帳がいう所知食天皇とは天孫・瓊々杵尊を指すという(資料によっては、所知食皇孫とするものがある)

 当社創建は、明細帳にいう古老曰く云々からみると、瓊々杵尊の諸国巡幸のとき当地に来られたので、その時の尊形を神像として造り奉斎したのが始まりとなる。

 瓊々杵尊の諸国巡幸について、高島地方の古代史話(1971当社刊、以下「古代史話」という)には、
  「天孫瓊々杵尊の御代(西紀84--115)尊は天照大神(西紀37--91)より授かった三種の神器(太陽観測器)や銅鐸(彼岸中日観測器)を用いて彼岸中日を測定し、土民に種蒔の適期を教え食料を増産させようと、大神の許しを得てお供を連れて普く諸国を巡幸された。
 尊たちは旅を重ねて北は高志国(越の国・越前越後)から近淡海国(近江国)の高島まで来られたところ、音玉川(今の小田川)の河口まで猿田彦が出迎え、天鈿女命を通じて櫨川(ウガワ・今の鵜川)の仮宮に宴を設けてお待ちしておりますと述べ、前駆して巡幸の前路の障害を排除して案内した。因って尊より猿田彦に幸前駆神(サイノカミ)という賞号を賜った」
という、記紀等を無視した荒唐無稽な話が載っている。

 書紀における瓊々杵尊は、猿田彦の先導で高天原から日向の高千穂に降臨し、その地に宮殿を建てて住まい、吾田の笠狭の御崎(鹿児島県)で木花開耶姫と出会って結ばれたとあるのみで(9段一書2)、筑紫(九州)の地を離れたとの記載なく、ここでいう瓊々杵尊の諸国巡幸あるいは第二次天孫降臨というのは、後世になって作られた伝承であろう。

 なお、当社は嘗て天皇社と称したという。
 テンノウという場合、防疫神・牛頭天王(ゴズテンノウ)を祀る天王社と解するのが普通だが(高島郡誌には「俗に牛頭天王を祀ると称せり」とある)、近江輿地志略(1734)
  「天皇社[頭註--村社志呂志神社 祭神瓊々杵尊]
  鴨村にあり。土俗云牛頭天王を祭ると、此説非なるべし。
  按ずるに、此辺り賀茂社領なるを以て賀茂皇大神宮を祭るなるべし。賀茂皇大神宮は本朝二所の宗廟として神武天皇を祭り奉る所なれば、此地又天皇社と称する拠る所ありか」
とあり、当社が天皇社と呼ばれたのは、当地が山城・賀茂社の社領だったからという(祭神からみて下鴨社領と思われる)

 なお、当社東の鴨川に架かる橋も「天皇橋」と称し、傍らの案内石柱には、
  「この辺りには、この橋の他にも「てんのう」と名がつく田や川があります。
  これは、近くに継体天皇に関係の深い稲荷山古墳や、明治の始めまで天皇社と称していた志呂志神社があるため、この名前で呼ばれてきたと思われます」
とあり、継体天皇とのかかわりからテンノウとの呼称が生まれたという。

 また、当地の地名・鴨について、輿地志略は
  「鴨村  三村あり。宿鴨村・南鴨村・北鴨村也。・・・・・蓋し此地鴨川八田川ここに落ち合うて、山城国鴨川合の形成に似たり、故に村名と為すといふ。按ずるに、此説当に非なるべし。
 鴨社旧記及び東鑑に、此辺りは賀茂別当の社領にして、鯉魚を神供に奉る事見えたり。然れば此村を鴨と称する謂れあり」
として、当地が鴨と呼ばれたのも山城・賀茂社の社領だったからという。

 これによれば、
 ・当社が鎮座する鴨村が賀茂社領であったことから、当社に鴨祖神・玉依姫(下鴨神社祭神)を勧請した(天長年間-、高島郡誌)
 ・山科の賀茂上下社は平安遷都以降国家鎮護の神社として重視され、賀茂皇大神宮と呼ばれたといわれ、故に当社もまた皇大神宮と呼ばれ、そこから天皇社という呼称が生まれた。
と集約される。
 ・因みに、下鴨神社略史には、「延喜式名神大社に列し、伊勢の神宮に準じて“賀茂御祖皇大神宮”と尊称され、云々」とあり、今もって、賀茂上下社が発行する神札には、賀茂皇大神宮(上賀茂神社)・賀茂御祖皇大神宮(下鴨神社)とある。
 ・ただ、輿地志略は、賀茂皇大神宮の祭神が神武天皇であることから、当社も天皇社と称したというが、賀茂上下社の祭神は賀茂別雷神(上賀茂)・建角身命玉依姫(下鴨)であって神武天皇ではない。

 これらからみて、当社が称した天皇とは、郡誌がいうように、牛頭天王を指すとするのが自然かと思われる。

 当社の創建年次について、両資料とも宝亀元年(770)というがそれを証するものはない。
 また、その鎮座地を明細帳は“外地より薮ケ原の地に鎮座”と、郡誌は“薮ケ原から今の地に遷座”として異なっている。
 今、高島市内に薮ヶ原との地名はなく、その地が何処かははっきりしないが、明細帳に“往昔、川中島の白州に鎮座し”ということから、薮ヶ原は現鎮座地の北を流れる鴨川と、その北の支流八田川に挟まれた何処かにあって、其処から現在地へ遷ったと推測される(鴨川・八田川は当社のすぐ東で合流している)

※祭神
  主祭神--瓊々杵尊
  相殿神--鴨祖神・玉依姫

 主祭神・瓊々杵尊は、上記したように、当地が瓊々杵尊巡幸の地であったとする伝承によるものらしいが、高島郡誌が、
  「本来は事代主神であったものを、吉田家が出した認可状で瓊々杵命に誤った」
というように、瓊々杵尊が本来の祭神かどうかは不詳。
 (中世以降の神道界を支配した吉田家は、認可状発行に際し、独自の神道論を以て各社の祭神を変更することもあったといわれ、当社祭神の変更も意図的だったのかもしれない)

 なお、当社祭神については従来から諸説があり、
*鴨祖神(建角身命-タケツヌミ)・玉依姫説
  上記のように、当地が賀茂社領であったことから、山城国賀茂社と結びつけての説だろうが、高島郡誌がいう“天長年間(9世紀前半)鴨祖神・玉依姫を配祀”との記述からみると、後年に合祀されたもので本来の祭神ではない。
  なお、玉依姫が日吉大社(坂本)摂社・日吉三宮に祀られていることから、当社も日吉三宮と呼ばれていたともいう。

*事代主神説
 神名帳考証(1733・度会延経)には
  「志呂志神社 鴨村に在り、永田村の北東に当たる。 事代主神」
とあるが、出雲系の神・事代主を当社に祀る由緒は不詳で、神名帳考証・高島郡誌以外に事代主神とする資料はない。

*牛頭天王・瓊々杵尊説
  江戸時代の当社が天皇社と呼ばれていたことから、テンノウを牛頭天王の天王とみたものだろうが、牛頭天王信仰の流行に伴って勧請合祀された神であって、当社本来の祭神ではない。
 なお、輿地志略は牛頭天王説を否定しているが、江戸時代においてテンノウといえば牛頭天王を指す場合が殆どで(牛頭天皇と記す資料あり)、当社には防疫神・牛頭天王が祀られている、とするのが一般の理解であったと思われる。

*白鬚明神説
  社名・志呂志と白鬚(シラヒゲ)の訓の類似からのもののようで、大日本地名辞書には「志呂志・白鬚の語言は転化付合の余地あり」とあるという。
などがある。

 これらをみると、現祭神・瓊々杵尊を含めていずれの祭神も後世の付会であって、川中島の白洲にあったという伝承からみると、本来の祭神は鴨川に関係する水神かとも思われるが、これとて確証はなく、祭神不詳とするのが妥当かと思われる。

 なお、当社には女神像一躰(像高125cm・檜材)と十一面観音像(本地仏、像高162cm・檜材)一躰があるが(平安後期の作と推測)、式内社調査報告は、この神仏像について、  
 「宇野茂樹氏は、女神が北鴨の薮ヶ原に鎮座したのち、のち現社殿に鎮座したとの記録から、『おそらく現在地は志呂志神の本地・十一面観音像を祀る本地堂であって、何かの事由によって薮ヶ原の志呂志神が本地堂に移され、現在の姿になったのではなかろうか』と推測し、この神の性格として“水の霊”と考えておられる」
と記し、当社の立地条件などから祭神は水神ではないかという。

※社殿等
 鴨川に架かる天皇橋の南橋詰めから西へ川沿いに小道が延び、その先の鳥居を入り、木立に挟まれた参道を西へ進んだ先が境内。
 狭い境内の正面に拝殿(入母屋造・瓦葺)が、その背後、低い石垣を積んだ一画に唐破風作りの祝詞殿、弊殿を介して本殿(一間社流造)が東面して建つ。
 なお、訪問時何らかの祭礼が行われるようで、参道に幟が立ち、祝詞殿前に提灯が飾られていたが、社務所・境内は無人で詳細不明。

 
志呂志神社・社叢(参道部分)

同・鳥居 
 
同・拝殿

同・祝詞殿正面 
   
同・本殿


※鴨稲荷山古墳

 当社のすぐ東(交差点西南角)に、滋賀県指定稲荷山古墳(通称・鴨稲荷山古墳)があり、傍らの案内(滋賀県教育委員会)には
  「明治35年(1902)の県道拡幅工事の際に発見されたこの古墳は、後円部に横穴式石室をもつ前方後円墳で、発見当時は、長さ9m・幅・高さともに約1.8mの石室があったとされ、内部には凝灰岩質の刳抜式石棺が納められていた。
  棺内からは金銅製の冠や沓などの装飾品や馬具類などが、棺外からは須恵器類などの豊富な副葬品が出土しており、古墳が造られた時期は6世紀前半と位置づけられている。
  また、この付近は古代の三尾郷に想定され、石棺や副葬品の状況などから、継体天皇の二人の妃を嫁がせた三尾氏に関係する古墳の可能性が高いとされ、滋賀県を代表する古墳のひとつとして注目されている」
とあり、

 日本古代遺跡事典(1995)には、
  「後期初頭の家形石棺をもつ前方後円墳
  現状は径10mほどの円墳であるが、地割りからみると全長50mで、周濠を回らせた前方後円墳だったとみられる。
  道路建設(1902)により露出した横穴式石室内にあった家形石棺(二上山産凝灰岩造)から、金製耳飾・金銅製冠・魚佩(以上3点は舶載品と推定)・沓・鏡・鐶頭太刀・馬具などが出土した。古墳の築造時期は6世紀初頃」
とある。

 なお、古代史話には
  「継体天皇の御父彦主人王は、同天皇が未だ5才の時に逝去されて、安曇川町の牛彦王墓(彦主人王の誤り)の処に葬られたが、同天皇は極めて孝心篤く、天皇即位後これを今の宿鴨の稲荷山に改葬された。(中略)
  出来上がった彦主人王の陵は、長さ25間・幅12間・高さ2間の前方後円墳で、周囲に堀を巡らしてあった」
と、当古墳を彦主人王の墓とするなど、“講釈師見てきたような嘘をつき”的な話を載せている。

 ただ同書は、昭和40年代の状況として、
  「然るに長い年月の間に、何時の頃からか参拝する人もなく荒れ果てて、周囲は桑畑や田圃と化し、僅かに高さ約一間、直径約五間の不正形円塚となって残り、今は土地の人に天王と呼ばれる稲荷山古墳で、石棺が露出し、老桜一本と松数本がある雑草の岡である」
とあり、その状況をを撮した写真が載っている(下写真)

 今、後円部は高さ1mほどの円形に整備され、その中央部を少し掘りこんで石棺が納められ、それを覆う形で小屋が建っている。小屋には大きな窓があり、中の様子がのぞけるが、小屋内部へは入れず壁に掲示された埋葬復元図(想定)はよくわからない。
 また、後円部の南にはバチ形に広いた前方部が復元されているが(想定復元か)、周濠跡ははっきりしない。


鴨稲荷山古墳・標石 
 
同・後円部
 
同・前方部(黄色部分)

同・石棺 

埋葬想定図
 
昭和40年代の鴨稲荷山古墳
(高島地方の古代史話から転写)

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