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多賀大社
滋賀県犬上郡多賀町多賀
祭神--伊弉那岐大神・伊弉那美大神
付--日向神社(式内社・境内摂社)
祭神--瓊瓊杵尊
                                                                  2016.02.11参詣

 延喜式神名帳に、『近江国犬上郡 多何神社二座』とある式内社、および『同 日向神社』とある式内社。

 JR東海道線・彦根駅から近江鉄道本線・同多賀線と乗りつぎ、その終点・多賀大社前駅の東約600mに鎮座する。

※由緒
 頂いた参詣の栞によれば、
 「祭神--伊邪那岐大神・伊邪那美大神
 古事記によると、この両神は高天原で初めて夫婦の道を始められ、天照大神をはじめとする八百万の神々、我々人間をはじめ草木一切にいたるまで有りとある生命をお生みになりました。
 その後、琵琶湖を望む杉坂山にご降臨になり、多賀の霊地に永久に鎮座になったと伝えています」
とあり、
 また、社頭に掲げる大社概略には
 「この男女二柱の大神は、はじめて夫婦の道をおこされ、わが国土と万物の神々と、その主宰神としての天照大神をお生みになられましたので、昔から、わが日本国の祖神(オヤガミ)さまと仰がれ、奈良時代の初めにできた古事記には、すでに淡海の多賀にご鎮座という記事がみえています」
とある。

 多賀神社記(1933・昭和8)には、
  「この国土に大神達の御霊を留め給うた霊蹟に就いて、古典には左の如く記している。先ず伊邪那岐命は、古事記に
   『伊弉諾尊大神は淡海の多賀に坐す也』
 日本書紀に
  『伊弉諾尊は神業全てを終えられ、あの世に赴こうとしておられた。そこで幽宮を淡路の地に造って、静に永く隠れられた』
と見え、古くより我が近江と淡路との両所にその伝を存した。
 中にも近海(淡海)に奉祀せられたのが我が多賀の御社で、淡路に創められたのを延喜式に見える淡路伊佐奈伎神社一座、即ち今の官幣大社伊弉諾神社とする。・・・神霊を斎祀する神社に関しては、記紀ともに記文を残して居ない」

 続けて、
  「鎮座の年代は茫乎たる上代の世に遡り、今になって之を詳かにすべくもないが、古来の社説には、次の如く伝えている。
 その昔、伊邪那岐大神、多賀宮に鎮まり坐さうとして降臨あせら給ふ途中、杉坂(犬上郡久徳村栗栖)の急坂にかからせられた時、折節耕作中の年老いたる山人が、大神の窶れて立ち給ふ御貌を拝して労り申し、粟の飯を柏葉に清めて参らせたので、大神は老翁の志を愛でて、食後御箸を地上に挿し置き給うたが、後に此の箸成長して矛杉となった。現今、杉坂に立つ神木の杉樹がそれである。
 次で、大神は杉坂を下り麓に至り給ふたが、山路の疲れによって『くるし』と仰せられたので、此処に行宮を造り御足を休めしめ奉った。後人『くるし』を訛って栗栖といった。而して行宮は、栗栖調宮御旅所の基となった。
 かくて大神は移って、日之少宮(ヒノワカミヤ)に入り給うた。これ鎮座の原由である」
という。

 多賀神社記以外の古資料には次のようにある(抄記)
*近江輿地志略(1723)
   多賀にあり。多賀大社と号す。神名帳の所謂多何神社是也。祭神伊弉諾尊、神代の鎮座也。日之少宮(ヒノワカミヤ)と号す。
*神社覈録(1870)
   祭神:伊弉諾尊・伊弉冉尊
   多賀郡多賀村に在す、永万記に田何社。古事記に曰く、伊弉諾大神は淡海の多賀に坐也。
   神書抄に曰く、日之少宮は近江国犬上郡多賀大明神是也。近江は艮方に在り、日の初めて出る所也、故に日之少宮と云う。出雲杵築宮は乾方に在り、故に日隅宮と云う。

 ここにいう日之少宮とは、書紀・神代紀6段に
   「別に云う、伊弉諾命、功既に至りぬ。徳亦大きなり。是に天に登りまして復命したまふ。依りて日の少宮に留まり住みましきといふ」
とある日の少宮を指す。

 覈録は、近江が都の艮方(ウシトラ・東北方)にあり、艮方が陰陽五行説で、天地の陰気が終わり陽気が発する方角であり、太陽がはじめて昇る方角であることから、艮方にある当社が日の少宮だとして、これを当社に充てているが、
 本居宣長は、
  「日之少宮が天上にあることは、イザナギが天上に帰り復命して、そこに留まったとあることから明らかで、これを艮方にあるからとして当社に充てるのは非である。
 現御身(ウツシミ)は天上にある日の少宮に留まられて、淡海と多賀とは、その御霊が鎮まり坐す御社である。幽宮を造り云々というのは、天上の日の少宮になぞらえて、彼の洲に御社を建てたのを、このように語り伝えたものである」(古事記伝・大意)
として、日の少宮とは天上(高天原)にあるイザナギの宮殿であって、近江にある当社ではないという。

*神祇志料(1871・明治初年)
   多何神社二座、今高宮駅多賀村赤土山の麓にあり。多賀大明神といふ。伊邪那岐大神を祭る。
   上古伊邪那岐大神天神の詔のまにまに天下を修理(ツクリ)成して復命し給ひ、後淡海の多賀になも坐ましき、則是也。
*特選神名牒(1876)
   今按、古事記に伊弉諾大神は淡海之多賀也とみえたるにて、祭神明かなれど、二座の内一座は社説の如く伊弉諾命にますこと云うまでもあらず。
などがある。

◎イザナギの幽宮(カクレノミヤ)について
 当社がイザナギ大神を祀るのは、古事記の
   「其のイザナギ大神は、淡海(アフミ・近江)の多賀に坐す」
によるものだが、これは現存する最古の古事記写本という真福寺本(1372頃・南北朝)によるもので、
 それより半世紀後の写本・伊勢本(1424頃の写本・室町中葉)には、
   「其のイザナギ大神は、淡路(アワジ)の多賀に坐す」
とあって、同じ古事記でも、淡海と淡路の二説がある。

 これに対して書紀には、
   「(イザナギ尊の)幽宮を淡路の洲(クニ)に構(ツク)りて、寂然(シヅカ)に長く隠れられた」
とあり、幽宮は淡路にあるという。

 イザナギの幽宮を淡海・淡路の何れとみるかについては、古来から議論があり、主なものとして
 ・本居宣長は古事記伝(1798)のなかで、
  「多賀 式に近江国犬上郡多何神社二座と見ゆ。和名抄に田可郷あり。是なるべし。書紀に、是後伊弉諾尊神功既挙 霊運当遷 是以幽宮於淡路洲 寂然長隠者牟・・・とあるは、此記と合ざるに似たれども・・・
 古事記も本は淡路だったが、路の字を海と写し誤ったとも疑われるが、古くから淡路に多賀の名は聞こえず、近江には今も名高い淡海の御社もあることから、元々は淡海なり」
として、イザナギの幽宮は淡海(近江)にある当社だという。

 これに対して西郷信綱は古事記注釈(1989)で、
 ・古事記写本のうち一番古い真福寺本に「淡海」とあり、古事記伝もそれに従っているが、これは伊勢本によって「淡路」と改訂さるべきであろう
 ・神名帳に“近江国犬上郡多何神社二座”とあり、これを多賀神社に比定しているが、社格は小社である。古事記でイザナギを祭るとの由緒のある社が小社に留まるとは、ちょっと考えにくい
 ・近江の多賀大社がもてはやされ、“お多賀さんには月詣り”などといわれるようになるのは、近世に入ってからであろう(15世紀末-室町初期頃-以降という)
 ・淡路島は、国生みにおいてイザナギ・イザナミ双神が最初に生んだ島であるから、イザナギが淡路に鎮まったというのは、話としても相応しい
 ・書紀の記述と照らしても「淡海」は「淡路」であって、写本時の誤記とみられる
として、イザナギの幽宮は淡路にある伊弉諾神宮(名神大社)だといい、多くの識者もこれを有力視している。

 当社は、イザナギの幽宮は近江の当社だというが、近江には当社以外にイザナギにかかわる伝承等は見えない。
 一方の淡路には、
 ・イザナギ・イザナミによる国生みで、最初に生まれたのが淡路島であること
 ・書紀・履中天皇5年条に、「天皇が狩りのために淡路島へ出かけた時、島に居ますイザナギ神が、『供の飼部(ウマカイベ)たちの文身の血の匂いを憎む』と託宣した」とあること
 ・書紀・允恭天皇14年条に、「天皇が淡路島に狩りに出かけた時、島中に獲物が充ち満ちているのに一匹も捕れなかった。占うと、島の神が顕れ、『明石の海底にある真珠を採って吾に供えれば、獲物は捕れる』との託宣があった・・・」とあり、託宣した島の神とはイザナギを指すという
などの伝承があり、イザナギの原姿は淡路島を中心とする海人たちが崇敬する神というのが大方の理解となっている。
 これらのことから、イザナギの幽宮は淡海(近江)の多賀大社ではなく、淡路の伊弉諾神宮とみるのが順当であろう。
 ただ、“神は死なない、唯隠れるのみ”との理念からいうと、国土をはじめとする万物を生み出された祖神としてのイザナギを奉祀する神社は幾つあってもおかしくはない。

 当社の創建時期について案内は何も記しておらず、それを記した古資料もなく不詳だが、新抄格勅符抄所載の大同元年牒(806)に、
  「山津照神六戸 山田神五戸 田鹿神六戸 日向神二戸 並近江国天平神護二年(766)奉充」
とある田鹿神が当社を指すことから、8世紀に当社があったのは確かだが、何故か、当社に対する神階綬叙記録はみえない。

※祭神
  当社祭神は、古来からイザナギ・イザナミ二座となっており、異論は見えない。
  ただ、イザナギの幽宮が淡海か淡路かについては議論があるものの、当社が古事記(真福寺本)によるものであればイザナミ一座とみるべきで、そこに何故イザナミを合祀したのかは不明(イザナミの葬所について、古事記は出雲と伯耆国の境にある比婆の山、書紀は紀伊国の熊野の有馬村とあり、有馬村にはイザナミを祀る花の窟神社がある)

 この祭神二座説に対して、当社の祭神はイザナギ一座であって、イザナミは当社の末社とされていた胡宮神社(コノミヤ)に祀られていたとの説がある。
 胡宮神社とは、当社の南約1km、多賀町敏満寺にある式外社で、曾て多賀大社胡宮大明神と呼ばれたように、多賀大社と密接な関係にあったという(別稿・胡宮神社参照)

 そこから、多賀大社二座を別けて多賀大社にイザナギ、胡宮神社にイザナミを祀るとの説が出たものと思われるが、特選神名牒は
  「一説に敏満寺村胡宮大明神の祭神イザナミにて、多賀神社二座の一なりと云へど、諸社一覧・総風土記・神社考等を証とするのみにて、確証なければとらず」
として否定している(諸社一覧等の実見不能で、記述内容不明)

※社殿等
 近江鉄道・多賀大社前駅(無人駅)の正面に大きな一の鳥居が立ち、町並み(表参道絵馬通り)にそって進むと左手に大鳥居が立つ。
 鳥居をくぐった先の小川には半円形の石橋(太閤橋)が架かり(両側に普通の橋が架かる)、その先の神門を入った先が境内となる。

 
多賀大社駅前の鳥居
 
多賀大社・大鳥居
 
同・太閤橋

同・太閤橋と奥の神門
 
同・神門

 広い境内の正面に社殿群から突出した形で拝殿(切妻造妻入り・桧皮葺)が、それに直後に幣殿(入母屋造・桧皮葺)が建ち、その左右に廻廊が延びる。
 当社社殿は、南から拝殿・幣殿・祝詞殿・本殿(三間社流造・桧皮葺)が一直線に並んでいるが、廻廊越しに社殿の屋根が見えるだけで、建物の詳細は不詳。

 
同・社殿正面

同・拝殿 

同・拝殿と幣殿 
 
手前より、廻廊・祝詞殿・本殿の屋根
 
同・本殿(屋根の一部のみ) 

 社殿の造営について、社頭の案内には
 「江戸場代には、寛永の大造営(1633--38)がおこなわれ、本殿・拝殿・庁屋・攝末社・本地堂・僧坊・書院・鐘楼・三重塔・日向社さらに当時の末社であった胡宮神社・大瀧神社・千代神社におよぶ大規模なものであった。
 しかし安永2年(1773)の大火災によって諸堂社のすべてが焼失、直ちに復興にとりかかり、翌年には最小限必要な建物が再建され、文化5年(1801)には三間社流造の本格的な本殿が造られた。
 この本殿は、昭和の造営に際して豊郷町の白山神社に移築され現存している。
 明治に入ると神仏分離令により仏教的な建物は取り除かれたが、建物の再建・撤去が無計画になされ統一性に欠けた配置となっていたが、大正8年(1919)から明治神宮造営局技師の大江氏の設計により本格的な再建がなされ、昭和8年(1933)に昭和の大造営事業が完成した」(大意)
とある。

◎摂社--日向神社
 延喜式神名帳に、『近江国犬上郡 日向神社』とある式内社。
 当社境内の西端に鎮座し、寛永の大造営記録に中に日向社があることから(上記)、それ以前からあったのは確で、昭和9年(1934)に摂社となったという。社名はヒムカ。
 ただ本来は式内社として独立しているはずの日向神社が、何故多賀神社の末社(今は摂社)になったのかは不明。
*由緒 
 社頭の案内には、
 「祭神 瓊瓊杵尊
 御祭神・瓊瓊杵尊は天照大神より神勅をうけられ、三種の神器を奉じて日向高千穂の峯にご降臨された神である」
と簡単に記し、
 多賀神社史(付属社の項・1933)にも、
  「鎮座の年代は詳かでないが、称徳天皇の天平神護二年(766)、神封二戸を寄せられ、延喜式に一座小社として登載せられている。
 何時の頃より本社被摂に入ったかも明らかでないが、一説に本社の地主神にましますであろうといふ。
 例祭は、もと四月・十一月の中申日であったが、明治18年現制の如くなった」
とあるだけで、鎮座由緒等は不明。

 その他の資料として
 ・近江輿地志略(1723)
   日向神社(ヒウガ) 伊勢両宮の西にあり。南向きの社殿。多賀の末社是。延喜式神名帳にいう日向神社是也。
 ・神名帳考証(1733)
   日向神社(ヒムカヒ) 多何神社の西に在り
 ・神社覈録(1870)
   日向は比牟加比(ヒムカヒ)と訓べし。祭神:瓊瓊杵尊、多賀神社西方南向きに存す、則ち多賀神社末社也
 ・神祇志料(1871)
   日向神社 今多賀村 多賀社域の西にあり。称徳天皇天平神護二年近江地二戸を充て神封とす
などがあるが、創建由緒に触れたものはない。

 当社の鎮座時期を示唆するものとして、多賀神社記に称徳天皇天平神護2年・神封二戸を賜ったとあるが、これは新抄格勅符抄所収の大同元年牒(806、奈良時代以降社寺に与えられた封戸記録)
  「日向神 二戸 並近江国 天平神護二年(766)奉充」
とあることから、当社はそれ以前(7世紀~8世紀前半)の創建であることは確かといえる。

*祭神
  天津日高日子火之瓊々杵尊(アマツヒタカヒコホノニニギ
 この瓊瓊杵尊とは、葦原中国に天降った天孫・ニニギ尊を指すが、そのニニギ尊が何故当社に祀られるのかは不明。

 この祭神については異論として、
*多賀神の御子神説
  ・神祇志料(1871)
    按ずるに、延喜式内蔵寮式大神祭の項に、日向王子幣料とある。(この日向王子は)大三輪神の御子神と聞ゆるを思ふに、此(当社)の日向神も多賀神の御子神なるべし
  ・特選神名牒(1876)
    今按ずるに、旧彦根藩神社取調書に祭神天津日高日子番能瓊瓊杵命とあれど、多何神社の境内にあるを思ふに必ず同社の御子神なるべし

 神祇志料がいう延喜式内蔵式云々とは、内蔵式・諸祭幣帛条に
  「大神祭(奈良大神神社の祭礼) 夏祭料 日向王子幣料 盛筥一合」
とあって、奈良・大神神社の夏祭りに際して、摂社・日向神社の祭神・日向王子命に盛筥一箇を幣帛料として奉ったことを指し、この日向王子が大三輪の神(大物主命)の御子神だから、当社の日向社の祭神も多賀大社の御子神だろうとするものだが、三輪の日向王子とは、その社が三輪山山頂にあって日の出を拝する場所にあることから日神(太陽神)の御子としての神格が強く、三輪の神(大物主命)の御子というのは疑問がある(別稿・神坐日向神社参照)

*天日方奇日方命(アメノヒカタクシヒカタ)
  ・神名帳考証(1733)
    三代実録云・仁和元年条に近江国犬上郡少初位下神人氏岳(ミワヒトノウヂオカ)、内蔵寮式云・大神祭日向王子幣、大和国城上郡坐日向神社、
    姓氏録云・神人(ミワビト) 大国主命五世孫大田田根子之後也、・・・
    按日向神は天日方奇日方命 大和国卒川阿波神社同
  ・古史伝(1825)に云
    大和国城上郡にも大三輪神社に並びて神坐日向神社(ミワニマスヒムカ)あり、三代実録仁和元年の処に近江国犬上郡少初位下神人氏岳と云人ありて、姓氏録に、神人 大国主命五世孫大田田根子之後也と有るは由ありげなり
がある。

 天日方奇日方命とは、先代旧事本紀に
  「天日方奇日方命は、天皇(神武)の后の兄で大神君(オオミワノキミ)の祖」
とある神で、神武の后の系譜に
  「事代主神が三嶋溝杭耳命の娘・玉依媛を娶って生まれた子・姫蹈鞴五十鈴媛は神武天皇の后」
とあることから、この神も事代主神の御子で、大神氏(オオカミ・三輪氏)の祖神という

 神名帳考証・古社記がこの天日方奇日方命を祭神とするのは、
 ・延喜式内蔵式に「日向王子幣」
 ・姓氏録に、「摂津国神別(地祇) 神人 大国主命五世孫大田々根子命の後也」
とあり、これらが三輪氏と関係すること
 ・三代実録・仁和元年7月19日条に、
  「近江国検非違使権前犬上郡大領従七位上犬上春吉、太政官に赴いて、権医師犬上郡少初位下神人氏岳(ミヤビトノウジタケ)、官物を姧盗すと愁訴しき」
とあることから、当地・犬上郡に住んでいた大神氏の同族・神人氏が、その祖とされる天日方奇日方命を祀ったのが当社とするもののようだが、傍証なく、これを採用するには疑問がある。

 日向を冠する神社は幾つかあるが、式内社では奈良県・三輪山山頂の神坐日向神社(ミワニマスヒムカ)・同春日山山頂の大和坐日向神社(ヤマトニマスヒムカ)があり、両社ともヒムカと呼んでいる。
 これをヒムカと読むのは、その社が山頂にあって東から登る朝日を拝する位置にあるからで、そこに祀られる神は太陽信仰における日神の御子で天照魂神(アマテルミタマ)ともいう。
 当社の社名・ヒムカからみて、祭神は在地の豪族が尊崇した日の神(天照魂神)で、多賀神社史がいう地主神とするのも一考に値する。

*社殿
 西(多賀神社前駅)から表参道(絵馬通)を約400mほど進んだ左手の小道(多賀大社大鳥居の手前約200m程手前)の奥に鳥居が立ち、その先の神門の奥に本殿(一間社流造・桧皮葺)が建ち、拝殿などはない。
 多賀大社境内社の中で独立した鳥居・神門を持つのは日向神社のみであり、それだけ重視されているのは感じられるが、それが式内社だからなのか、他に特別の理由があるのかは不明。

 
日向神社・鳥居

同・神門 

同・本殿 

◎その他の多賀大社末社
*子安神社
   祭神--木花開耶姫命(コノハナサクヤヒメ・皇孫ニニギの后)
   日向神社社殿の右に鎮座
*神明神社
   祭神--天照大神・豊受大神
   子安神社の右に鎮座
*夷神社
   神明神社の右、少し離れて鎮座
 この3社は、他の末社と離れて日向神社の脇に鎮座することから、本来は日向神社に関係する神社ではないかと思われる。

 
子安神社
 
神明神社

夷神社 

*熊野新宮社・天神神社・熊野神社合祀殿
   本殿廻廊の外・右側に鎮座する小祠
*聖神社・三宮神社合祀殿
   熊野新宮社等合祀殿の右に鎮座する小祠
   聖神社・祭神--少彦名神(スクナヒコナ) 神徳;医療医薬
   三宮神社・祭神--角杙神(ツノクヒ)・活杙神(イククヒ)・大戸之道神(オオトノジ)・大戸之辺神(オオトノベ)
                ・面足神(オモタル)・惶根神(カシコネ)  神徳:土木建築
*金咲稲荷神社
   熊野新宮合祀殿と聖神社合祀殿の間の小道を北に入った先にある稲荷社
   祭神--宇迦之御魂神(ウカノミタマ) 神徳:食物の神
*竈神社・年神神社2社合祀殿
   聖神社合祀殿の南・能舞台の裏に鎮座する小祠
   祭神--竈神(カマドカミ)・年神(トシガミ)
*愛宕神社・秋葉神社
   神門外の右手(東側)に鎮座する小祠
   愛宕神社祭神--火産霊神(ホムスヒ)・伊邪那美神(イザナミ)
   秋葉神社祭神--火産霊賀具都知神(ホムスヒカグツチ) 神徳:火伏せ
*天満神社
   神門外の左手(西側)に鎮座する小祠
   祭神--菅原道真

 
熊野新宮・天神神社
熊野神社3社合祀殿
 
聖神社・三宮神社
2社合祀殿
 
金咲稲荷神社
 
竈神社・年神神社
2社合祀殿
 
愛宕神社(左)・秋葉神社(右)

天満神社 

◎その他
*寿命石
 境内の右手、石柵に囲まれた中に長径1m程の寿命石と称する石がある。
 之については
  「平重盛の南都攻略(1180)で焼失した東大寺の再建勧進職に任じられた(1181)俊乗坊重源(1121--1206)が、神助を求めて伊勢大神宮に参籠祈願したところ、大神より『近江の多賀社の神に祈願せよ』との夢告をうけ当社に参籠祈願した。
 その時、神殿から一葉の木の葉が舞い来て面前に止まった。よく見ると、その葉に虫食いの跡があり『莚』と読めた。重源は、この“莚”の字を“廿延”(二十延)と読んで、吾が寿命を二十年授け給う神意であろうとして大神に謝し、全国を回って勧請し、その功あって建久6年(1195)東大寺再建を成し遂げた」(大意)
との伝承があり、重源の寿命が20年延びたことから、“寿命石”又の名を“命乞の石”と呼ばれる。

 傍らの案内にも、この伝承と同意文が記され、続けて
  「重源上人が得た柏葉莚字(柏の葉の御神託により延年をえたとこと)という故事に因んで、昔から白石に諸々の願いを込めて祈願することが絶えない」
とあり、石の上や廻りには祈願文を記した平たくて白い小石が奉納され、お賽銭もあげられている。
 なお、古く当社の末社であったという胡宮神社にも同じ伝承をもつ寿命石が残っているが(別稿・胡宮神社参照、何れが本家なのかは不明。
 なお、東大寺再建の勧請僧・重源が当社に籠もったとする史料はない。


寿命石・石碑 
  寿命石 

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