トップページへ戻る

建 部 大 社
滋賀県大津市神領
祭神--日本武尊
                                                               2016.07.14参詣

 延喜式神名帳に、『近江国栗太郡 建部神社 名神大』とある式内社で、近江国一の宮。

 京阪電鉄石山坂本線・唐橋前駅(無人駅)の東約1km弱。
 駅改札を出て右(東)へ、瀬田唐橋を渡り直進、二股に分かれた道の左側に「官幣大社 建部大社」との石碑が、左の道をまたぐ形で一の鳥居が立ち、石灯籠に挟まれた参道が延びる。

※由緒
 頂いた参詣の栞には
  「御由緒(官幣大社)
   景行天皇46年神勅により、日本武尊の御妃・布多遲比売命が神埼郡建部の郷に、日本武尊の神霊を奉斎されたのが当社の始まりとされています。
 その後、天武天皇(白鳳4年)今から凡そ1300年前に、近江国国府の所在地であった瀬田の地に遷し祀られ、近江国一之宮と定められました」
とあるが、
 当社公式HPによれば、
  「当社は古来、建部大明神などと称え、延喜式内名神大社に列し、又近江国の一之宮として朝野に崇敬篤く、長い歴史と由緒を持つ全国屈指の古社です。
 御祭神・日本武尊は御年僅かに15才で熊襲を誅し、更に東夷を平定され、遂に32才(書紀には30才とある)にして伊勢の能褒野(ノボノ)において崩御されましたが、父景行天皇は尊の永逝をいたく歎かれ、御名代(ミナシロ)として建部(タケベ)を定め、その功名を伝えられました。これが即ち建部の起源です。
 景行天皇の46年、神勅により、御后・布多遅比売命(フタジヒメ)が、御子・稲依別王(イナヨリワケ)と共に住まわれていた神埼郡建部の郷(現東近江市五個荘付近に比定)に尊の神霊を奉齊されたのが当社の草創であって、その後、天武天皇白鳳4年(675)、当時近江国府の所在地であった瀬田の地に迂祀し、近江一宮として崇め奉ったのが現在の当大社です」
という。
 (御名代--王族の功績を後世に伝えるために置かれた部民いう)

 当社に関する古資料として(抄記)
*近江輿地志略(1723・江戸中期)
  建部大明神  神領村にあり、往還の大路より東に入り北に折れて社あり。社ある地少し高く、後ろの山につづく。宮山と号す。祭る所の神・大己貴命なり。
 延喜式曰、近江国粟太郡建部神社名神大  一宮記に曰、建部神社大己貴命(オオナムチ)三輪一体、按ずるに近江国の一宮也。・・・
 神道名目類聚抄曰、一宮の定は鎌倉北条家之を定むといふ。或記に曰く建部社は大国霊社なり、此社ある故に里を玉造里といふ。・・・
 縁起曰、社司等謂、宮殿二宇、伝言う一宇は正殿、一宇は権殿也。式云、天明玉命(アマノアカルタマ)一座を加へ二座と為す、何れに拠るかは知らず。三井記曰、建部明神の使者は葦毛馬也云々。兼照番神註に曰、天照玉命也。
 天武天皇白鳳4年此処に勧請

*神名帳考証(1813・江戸後期)
  建部神社  書紀景行紀に、日本武尊が両道入姫皇女(フタジノイリヒメノヒメミコ)を娶り妃と為し稲依別王(イナヨリワケノキミ)を生む。是犬上君武部君二族の始祖也云々
   日本武尊薨し功名を録せんと欲し即武部を定む
   古事記景行記に、稲依別王は犬上君建部君等の祖とあり、御母近淡海の安国造の祖・意富多牟和気(オホタムワケ)の女・布多遅比売(フタチヒメ)と云ふも由あり

*神社覈録(1870・明治3年)
  建部神社  祭神大己貴命 或云、天明玉命 神領村に存す 当国一宮也 (以下、考証にいう記紀記録を記す)

*神祇志料(1871)
  建部神社  今瀬田の東神領村に在り 蓋し建部君の祖・稲依別王を祭る 
   是は日本武尊近淡海の安国造の祖・意富多牟和気命の女・布多遅比売を娶て生みし御子也
   之を近江壱宮とす

*特選神名牒(1876)
  建部神社  祭神・日本武尊  所在・神領村(栗太郡瀬田村大字神領)
  一宮記に祭神・大己貴命とあり又一説に天明玉命とあれども、
  日本紀に日本武尊が両道入皇女を娶りて妃となし稲依別王を生ましむ云々 是犬上君武部君凡そ二族の祖也  
  古事記に倭建命近淡海の安国造の祖・意富多牟和気の女・布多遅比売を娶りて御子・稲依別王を生む云々 
  犬上君建部君等の祖とある安国造の近江に由ある 又犬上君の犬上郡に由あるを思ふに、建部神はきはめて建部君の祖・日本武尊なるべし さるは姓氏録に建部公犬上朝臣同祖日本武尊の後也とある証とすべし
などがあり、何れの資料も当社創建を日本武尊に結びつけている。


 当社の祭祀氏族という建部氏について、
 記紀では
 ・景行記(古事記)
   「日本武尊は、近淡海(チカツオフミ)の安国造(ヤスノクニノミヤツコ)の祖・意富多牟和気(オホタムワケ)の女(ムスメ)・布多遅比売を娶りて生みましし御子・稲依別王
   稲依別王は犬上君(イヌカミノキミ)・建部君(タケルベノキミ、書紀:武部君)等の祖」
 ・景行紀(書紀)
   「日本武尊は、両道入姫皇女(フタジノイリヒメノヒメミコ・垂仁天皇皇女)を后とし、稲依別王を生まれた。・・・
   稲依別王は犬上君と武部君二族の先祖である」
とあり(ただ、母の名は異なる)、新撰姓氏録(815)には
 ・右京皇別 建部公 犬上朝臣同祖 日本武尊之後也
  (左京皇別 犬上朝臣 謚景行天皇皇子日本武尊より出る也)
とあって、いずれも日本武尊の後裔という。

 ただ、先代旧事本紀・天皇本紀・成務天皇条には
  「日本武尊は両道入姫皇女を娶って三男一女を生んだ
   稲依別王は犬上君・武部君らの祖・・・稚武王(ワカタケノキミ)は近江建部君の祖」
とあり、同じ日本武尊の後裔でも、弟・稚武王の後裔が近江建部君だという。

 当社創建時期について、由緒は景行天皇46年という。
 景行紀に
 「(日本武尊の)功績を伝えようとして(御名代として)武部(タケルベ)を定められた。この年は天皇が皇位につかれて43年である」
とあり、景行43年に定められた日本武尊の御名代部としての建部君が、3年後にその遠祖を祀って当社を創建したとみれば平仄はあうが、4世紀末(古墳前期)とされる景行朝に恒常的な神社があったとは思えず(仮設の神籬を設けての神マツリはあったであろうが、それが当社の前身かどうかは不明)、日本武尊即ち景行朝と短絡したものと思われ信用できない。

 近江国で御名代部としての建部が置かれた場所は、犬上郡と栗太郡の2ヶ所といわれ、犬上郡は稲依別王の後裔・犬上建部君の、栗太郡は稚武王の後裔である近江建部君の根拠地だともいう。
 ただ、犬上建部君に関しては孝徳天皇即位式(645)において「犬上建部君は金の靫をつけて壇の左に立った」とあり(書紀)、犬上建部君を名乗る氏族が居たことは確かだが、近江建部氏については旧事本紀以外にその名が見えず、その存在・事蹟等は不明。

 今、当社が鎮座する旧栗太郡(現草津市・栗東市及び大津市の一部)は、琵琶湖東岸南部に位置し、その北隣に野洲郡がある(現野洲市・守山市付近)
 一方の犬上郡は琵琶湖東岸中央部にあり(現多賀町・甲良町及び彦根市の一部)、その南に当社が最初に鎮座したという神埼郡がある(現東近江市・彦根市の一部)

 HPは、布多遅比売命と稲依別王が住んでいた神埼郡建部郷に、当社を創建したという。
 とすれば、その地は犬上建部君の根拠地・犬上郡に近く、当社の祭祀氏族を稲依別王の後裔・建部君とみてもおかしくはない。
 ただ、稲依別王の母・布多遅比売の出身氏族・安国造の本拠・野洲郡は栗太郡の北隣であり、神崎郡とはやや離れているが、安国造は琵琶湖東岸一帯を広く支配していたといわれ、布多遅比売・稲依別王が神埼郡に住んだことを否定はできない(古代天皇の皇子は、その母方の里で養育されたという)

 このように、建部君氏とは景行朝に日本武尊の御名代として設けられた氏族で、琵琶湖東岸(近江国東部)を根拠とするが、続日本紀・天平神護2年(766)条に
  「7月26日、近江国の志賀団の大毅(軍団の長)・少初位下の建部公伊賀麻呂に朝臣の姓を賜った」
とあるように軍事集団的性格が強かったといわれ、為に、壬申の乱で近江朝方に荷担して敗れ直系は絶えたという。

 ただ、近江国東部を根拠とする建部君一族の他にも、各地に建部を名乗る氏族があり、これらも朝廷から配置された軍事的集団ではないかといわれ、松前健氏は
  「建部が倭建命の遺業の記念のため設けられた御名代部であるというのは日本書紀の説であるが、出雲・美濃。美作・備前・近江等全国にまたがる建部・武部がことごとくそうした起源を持つとは信じがたい。
 建部君を名乗るものは、武を以て聞こえたから名づけられたものであって、必ずしも倭建には関係ないものがあったことがわかる。
 伊勢・美濃・備前など諸国の建部・建部君も、おそらく最初は別氏であったものが、後世そうした系譜に組みこまれ、それと共に倭建伝承も、これら地方の建部の伝承を取り入れて内容が豊かになり、その英雄の漂泊譚の範囲が東西に拡大されたのであろう」
という(私の一宮巡詣記・2001)

 由緒には、当社は天武天皇・白鳳4年に栗太郡勢多(瀬田)に遷座したとあるが、それは鎮座地が東海・東山両道の要衝であり、且つ瀬田橋に近接した軍事上の要地であり、国府の所在地(当社の東北約1kmで国府跡が発掘されている)に近かったからという。
 近江朝を倒して皇位に就いた天武が、近江国の喉首にあたる瀬田に武神・日本武尊を遷座させたことは有り得ることではあるが、それを証する史料はない。

 しかし、近江国府跡発掘によれば国府が設置されたのは奈良時代中頃といわれ、天武朝に国府はなかったという。当社遷座が国府と関係するのであれば、遷座時期は天武朝ではなく奈良中期以降とみるのが順当かもしれない。

 また通説では、一宮制は律令制による国司派遣にかかわるものでに11世紀~12世紀頃にはじまるといわれ(着任した国司が最初に参詣する国内最有力神社が一宮ともいう)、天武朝(673--86)に近江一ノ宮として奉齊というのは疑問で、当社が一ノ宮となったのは平安後期であろう。

 当社に対する神階綬叙等の記録として
 ・貞観 2年(860)3月辛亥--近江国建部神を官社に列す(三代実録)
 ・ 同 5年(863)6月8日--近江国正六位上建部神に従五位下を授けき(同上)
 ・ 同 10年(868)6月11日--近江国建部神に従四位上を授けき(同上)
 ・昌泰 4年(901)4月13日--近江国正四位下建部神に従三位を授く(扶桑略記裏書)
 ・応和 2年(962)6月9日--近江国坐す建部神栗太郡に正三位を授く(日本紀略)
 ・延久 4年(1072)--正一位昇叙(出典史料不明)
があり、当社が9世紀にあったことが確認できる。

※祭神
 当社参詣の栞には
   本殿 日本武尊
   相殿 天照皇大神
   権殿 大己貴命(大国主命)
とある。

 今、当社主祭神は『日本武尊』というが、古資料には大己貴命説・稲依別王説(イナヨリワケ)などがあり、管見したものとして
*日本武尊説 
  ・特選神名牒(1876・明治9)--一宮記に祭神大己貴命とあり、又一説に天明玉命ともあれど・・・
   思ふに建部神はきはめて建部君の祖・日本武尊なるべし。姓氏録に建部君犬上朝臣同祖・日本武尊の後也とあるを証とすべし
  ・特選近江名所図会(1909・明治42)--景行天皇46年建部稲依別王神勅をうけて祠を神埼郡建部郷に建てて、御父日本武尊の霊を祭り、建部大神と称す

*大己貴命説
  ・大日本一宮記(室町時代)--建部神社、祭神大己貴命也
  ・一宮巡詣記(1697・江戸中期初)--建部と云事は武勇第一の神号、葦原醜男(大己貴の別名)を祭る社也
  ・近江輿地志略(1723・江戸中期)--建部大明神、祭る所の神は大己貴命なり
  ・近江名所図会(1797・江戸後期)--建部明神、近江国一宮なり、所祭大己貴命
  ・神社覈録(1870・明治3)--建部神社、祭神大己貴命、或云天明玉命

*稲依別王説
  ・神祇志料(1871・明治4)--建部神社、今瀬田の東神領村に在り、建部明神といふ。蓋し建部君の祖稲依別王を祭る
などがある。

 これらをみると、祭神が日本武尊となったのは明治以降で、江戸時代までは大己貴命説が有力だったらしいが、出雲神話で国造りし大神と呼ばれる大己貴命(大国主命)が当社に祀られる由緒は不明。
 あえて愚考すれば、近江国では比叡・山王信仰が広がっていることから、天台宗の護法神とされる日吉神社西本社の祭神・大己貴命を持ちこんだのかもしれない(多分に当社神宮寺が関与したと思われる)

 大己貴命祭神説について、神職・桜井勝之進氏(1909--2005)は、
  「当社が建部氏にゆかりの社と考えられる以上、大己貴命は、栗田寛の“神祇志料附考”(1927)がいうように、後世の配祀とみるべきであろう。権殿は本来、空殿であるべきであるからである」
という(私の一宮巡詣記・2001)
 いま大己貴命は本殿右(東)の権殿に祀られているが、権殿は“社殿の造替・修理などの間、御神体を仮に奉安する場所”、所謂“仮殿”で空殿であることが通常だが、江戸時代に祭神とされていた大己貴命を権殿に祀ったのであろう。

 当社が建部氏奉齊の神社であることからみると、祭神は、建部氏の遠祖・日本武尊とするのが順当だろうが、建部氏の直接の祖・稲依別王とみてもおかしくはない。

 今の当社は、祭神・日本武尊を前面に出し、参詣の栞にも書紀に記す尊に関する伝承(征西・草薙剣・オトタチバナヒメの入水・伊吹山の神・白鳥伝説)を並べ記している。
 書紀における日本武尊は、若くして征西(熊襲征伐)・東征(東国征伐)に東奔西走した勇者として記されているが、古事記では征西に続けて東征を命じられたことから、「天皇は我を死ねと思はすのか」と叔母・倭比売命に訴える悲劇の勇者として描かれており、同じ勇者でもニュアンスが異なっているが、当社では書紀にいう日本武尊を表に出している。

 ただ、日本武尊とは
 ・大和朝廷創建時(4~5世紀)に活躍した多くの武将達の事績をもとに創作された架空の人物で
 ・ヤマトタケルという呼称も特定の人物を指す固有名詞ではなく、“大和の勇猛な武将”という意の普通名詞
として、その実在性を否定する現在の見解からみると、当社本来の祭神は別神と思われるが(琵琶湖の水神・龍神か)、それを示唆する史料はない。

 今の当社は、本殿相殿神を天照皇大神(アマテラス)というが、上記古資料にみるように天明玉命(アマノアカルタマ)とする資料がある。
 天明玉命とは、アマテラスが天岩屋に隠れたとき、天香山から掘りとった榊の中の枝に「玉作りの遠祖・イザナギ尊の子・天明玉命が作った八坂瓊の曲玉をかけ、・・・」とある神を指し(書紀・神代7段一書3)、それが何故アマテラスとされたのかは不明。
 アマテラス・アマノアカルタマのいずれにしろ、この神が相殿神として祀られる由縁は不明だが、江戸時代から明治初年にかけての当社祭神をアマノアカルタマとする説があったことから、これを相殿神として祀るのかもしれない。

※社殿等
 一の鳥居からつづく石灯籠が並ぶ参道を進んだ左、参道と直交する形で二の鳥居が立つ。


建部大社・一の鳥居 
 
同・二の鳥居
 
同・社殿配置図(左下が一の鳥居)

 二の鳥居の先、参道突き当たりに、入口3間をもつ横長の神門(切妻造・桧皮葺)が南面して立ち、中央入口には“御神燈”と墨書した大きな提灯が下がっている。
 広い境内中央に、周囲に数多くの提灯を下げた拝殿(入母屋造・桧皮葺、配置図には祈祷所とある)が建ち、その奥、弊殿を隔てて瑞垣に囲まれた中が本殿域で、瑞垣の正面中央に美々しく唐破風向拝をもつ中門が開く。

 本殿域には2棟の社殿が南面して鎮座し、向かって左が本殿(祭神:日本武尊、相殿:天照皇大神)、右が権殿(祭神:大己貴命)
 両社とも同形で一間社流造・桧皮葺。


同・神門 
 
同・拝殿
 
同・社殿全景(東側より)
 
同・中門正面

同・本殿大屋根 
 
同・本殿
 
同・権殿大屋根
   
同・権殿

◎境内社
 境内の左右(東西)に境内社が並び、ほとんどが日本武尊に関係する人物を祀る。
*境内左手(西側)
 小祠4社(一間社流造・苔むした桧皮葺)--北側(向かって右)より
 ・聖社--景行天皇(ヤマトタケルの父)
 ・大政所社--皇后・播磨稲日大郎姫命(景行天皇の皇后・ヤマトタケルの母)
 ・行事社--吉備臣武彦・大伴連武日(ヤマトタケルの家臣)
 ・蔵人頭社--七掬脛命(料理の神)
   景行紀40年7月16日条に
   「(ヤマトタケルの東征に際し)天皇は吉備武彦(キビノタケヒコ)と大伴武日連(オオトモノタケヒコムラジ)とをヤマトタケルに従わせられ、
    また七掬脛命(ナナツカハギ)を膳夫(カシワデ・料理番)とされた」とある。
   なお、蔵人頭(クロウドノトウ)とは、天皇に直属して勅旨や上奏文の取り次ぎなどを所掌する秘書的役割をもつ蔵人所の長官をいうことから、当社で料理番の七掬脛を祀る小祠を蔵人頭社というのは解せない。


蔵人頭社 
 
行事社
 
大政所社
 
聖 社

*境内右手(東側)
 小祠4社--北(向かって左)より
 ・藤宮社--布多遲比売命(ヤマトタケルの妃)
 ・若宮社--建部稲依別命(ヤマトタケルの御子)
   ヤマトタケルの妃の名は、古事記には“近淡海の安国造の祖・意富多牟和気の娘・布多遲比売(フタチヒメ)”とあるが、
   書紀では“両道入姫皇女(フタジノイリヒメノヒメミコ、垂仁天皇の皇女)”とあり、稲依別命(イナヨリワケ)の母親の名も異なっている。
   当社が近江国にあることから、近淡海の安国造系のフタチヒメとするのであろう。
 ・弓取社--弟彦公(ヤマトタケルの家臣)
 ・箭取社--石占横立・田子之稲置・乳近之稲置(ヤマトタケルの家臣)
   景行紀27年10月13日条に
   「(熊襲征伐出立に際し)ヤマトタケルは『弓の名手を連れて行きたいが、何処かにいないか』と問われた。
   ある人が『美濃国に弟彦公(オトヒコノキミ)という名人がいます』といった。尊は弟彦公を召された。
   弟彦公は石占横立(イシウラノヨコタチ)・尾張の田子稲置(タゴノイナキ)・乳近稲置(チヂカノイナキ)を率いてやってきて、お供をした」とある。

 
藤宮社
 
若宮社
 
弓取社

箭取社 

 *小祠3社
  上記小祠3社の背後に小祠3社が鎮座する。向かって左から
 ・八柱社--表示なく祭神名不明
 ・武富稲荷社--倉稲魂命(ウカノミタマ)
 ・大野社--草野姫命(縁結びの神
   書紀・神代5段に「(イザナギ・イザナミの神生みのなかで)次に草の精・草野姫(カヤノヒメ)を生んだ、野の精と名付ける」とある。
   大野社という社名からみて、この神らしいが、これを縁結びの神とする由縁は不明。


八柱社 
 
武富稲荷社
 
大野社

 なお、社殿配置図によれば、境内南東隅に檜山神社遙拝所があるが気づかず不参詣。

トップページへ戻る