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馬路石辺神社
滋賀県守山市吉身4丁目
祭神--素戔鳴尊・大己貴命
                                                                  2016.01.26参詣

 延喜神名帳に、『近江国野洲郡 馬路石辺神社』とある式内社。
 社名は、“ウマヤジイソベ”と読むのが妥当だろうが、“ウマジイソベ”・“マジイソベ”とする資料もある。

 JR東海道線・守山駅の南東約1.1km、駅北側の道を東へ、国道11号線との交差点・吉身3丁目を左折して北へ約200mほどいった右手、民家に囲まれた中に鎮座する。

※由緒
 境内の石碑には、
  「延喜式内 馬路石邊神社(田中大明神)
   祭神  素戔鳴尊(天照大神の弟神)
        大己貴命(大国主の一名)
 当神社の創建は、古く白鳳朱雀年間(皇紀1310年頃、西暦650年頃)の何れも戌年に、この羽賀の地に御降臨になり、田中大明神と崇められ、往古より例祭は4月第2の戌の日に執行され、渡御の神賑わいとして五穀豊穣の古式踊りが奉納された。
 慶長年間、祭礼の際氏子間に闘争があり、神輿を破損し羽賀の田に埋め、神輿塚と称し祭事が営まれてきた。

 当社が田中大明神・田中天王として崇められるのは、馬路郷田中荘(今の吉身・守山・播磨田・金ケ森・小島・市三宅等)の総鎮守にして、この森を天王の森・鶴の森と称した為で、平安朝の延喜式神明帳の中に見える古社であり、神使いは白犬とされる」
とある。

 当社についての資料は少ないが、近江輿地志略(1734・江戸中期)
  【田中大明神社】 吉身村にあり。村の北街道の傍ら平林の中にあり、其社を天王の森といふ。所祭は大己貴命、正一位田中大明神と号す。祭礼毎四月二戌日。土俗云ふ白犬を神使とすと。
 土俗相伝、往古当社は吉身・守山・播磨田・市三宅四村の産土神にて厳重の祭礼ありしに、中古祭儀の節闘争ありて三村離散す。然れども守山は其遺風にて毎歳正月元三には氏人必ず当社に詣づ。
  【神輿塚】 同村社の傍、田の中にあり。往古祭礼闘争の時、神輿を破却し此処に埋むといふ。今少にても此塚を損する事あれば必ず祟りありといへり。

 滋賀県神社庁HP
  「社伝によれば、創祀は白鳳三年(674)、建速須佐之男命を奉齊し、朱雀元年(686)、大己貴命を合祀したことに始まると云う。
 社名の馬路(ウクヤジ又はウマジ)は、平城京跡出土木簡に『益珠郡(野洲郡)馬路郷石辺玉足』、森の内遺跡出土木簡に『馬路首』とみえる地名で、和名抄に『馬家有南北 按に馬路駅家は郷名也』にみえる古郷であり、石辺とは馬路郷の土豪・石辺君氏の姓で、馬道(路)郷の石辺君氏の氏の社である」
などがある。


 当社を氏神とする石辺君氏とは、神饌姓氏録に
 ・左京神別(地祇)  石辺公  大国主[古伝云、大物主]命男・久斯比賀多命之後也
とある氏族で、当地を根拠とした古代の豪族というが詳細は不明。

 その祖神とされる久斯比賀多命(クシヒガタ)とは、櫛御方命(クシミカタマ)・天日方奇日方命(アメノヒカタクシヒカタ)・武日方命(タケヒカタマ)・鴨主命(カモヌシ)など別名の多い神で、
 崇神記・三輪山の大物主神の段に
  「吾は大物主大神、陶津耳の娘・活玉依毘女を娶して生みましし子、名は櫛御方命の子、・・・吾意富多々泥古(オホタタネコ)ぞ」
 また、先代旧事本紀(天皇本紀・神武天皇段)には
  「天日方奇日方命は皇后の兄で、大神氏の祖である」
   神武朝で宇摩志摩治命(ウマシマジ・饒速日の子)と共に申食国政大夫(オスクニノマツリゴトモウスマエツキミ・大連・大臣の前身)として国政を預かった」
とある。

 ここでいう皇后とは神武天皇の皇后・媛蹈鞴五十鈴媛(ヒメタタライスズヒメ)のことで、旧事本紀には
  「(大国主命の子)事代主神が三島溝杭耳命の娘・玉櫛媛を娶して生みし子・媛蹈鞴五十鈴媛」
とあることから、その同腹の兄である天日方奇日方命は事代主神と玉櫛媛の御子となる。

 櫛御方命(天日方奇日方命)の出自は、古事記と旧事本紀では親神の名が異なっているが、いずれにしろ大国主命の後裔で大神氏・賀茂氏等の祖といわれ、櫛御方命の異名同神である久斯比賀多命を祖とする石辺君氏は、大神氏・賀茂氏等と同族となる。

 当社の創建時期は不詳だが、案内には“白鳳朱雀年間の戌歳に祭神御降臨”、神社庁HPには“白鳳3年(戌歳)にスサノオ奉齊、朱雀元年(戌歳)にオオナムチ合祀”とあるから、白鳳3年を創建年とみているらしい。
 案内は白鳳朱雀年間を西暦650年頃というが、白鳳は西暦672--82年の間の年号で、朱雀(朱鳥)は西暦686年だけの元号であり西暦表記は間違っている。
 ただ、白鳳が白雉(650--54)の誤記だとすれば、白雉元年(650)が戌歳であり平仄はあうが、神社庁HPに白鳳3年(674)戌歳にスサノヲを奉裁という記事と整合しない。

 当社創建を7世紀後半とすれば、恒常的な神社があってもおかしくはないが、その創建が白鳳3年(あるいは白雉元年)の戌歳であったことを証する史料はない。

 社名・馬路は、和名抄に「駅家有南北 按馬路駅家は郷名也」とあるように、
  「当地に南馬路(ミナミノウマヤジ)と北馬路の綜合駅が置かれていたためで、馬路という地名には、東西の行き来も激しい駅路(エキヤジ・ウマヤジ)が置かれていた土地柄をよく示している」(式内社調査報告)
という地で、吉身の地は旧中山道沿いであったという。
 駅家とは、大化改新以降、五畿七道の駅路(都と国府を結ぶ主要街道)沿いに整備された施設(今のドライブイン)で、30里毎(約16km、今の1里=4kmとは異なる)に置かれたといわれ、駅路をウマヤジ(又はウマジ)と呼ぶのは、往来する官使に供する馬が常備されていたことによる。


※祭神
 今の祭神は、素戔鳴尊・大己貴命の二座となっているが、当社奉祀氏族・石辺氏がその祖・クシヒカタの祖の二柱を祀ったとみればおかしくはない。

 ただ、延喜式には祭神一座とあり、式内社調査報告には、
  「この神社の起源から考えると、第一次の祭神は石辺氏の祖神を祭祀した古代信仰に発するもので、いまの祭神はいづれも第二次的な奉祀、或いは祭神名の変更だと考えられる。
 近江輿地志略にいう田中大明神がこの地本来の神、つまり石辺公の祖神として奉祀されたもので、大己貴命は後に天台系の神として合祀されたものと考えられる」
として、当社本来の祭神は当地の産土神である田中大明神で、それは石辺氏の祖・クシヒカタ命に擬したのではないかという。

 なお、大己貴命を祀るのは、曾て当社の神宮寺(別当寺)であった益須寺(ヤステラ、石辺氏の氏寺)が天台宗系寺院で、本山である比叡山延暦寺の鎮守・日吉神社西本宮の祭神である大己貴命を勧請したためと思われる。

 祭神・素戔鳴尊も石辺氏の遠祖であることから、祭神として不都合ではないが、当社鎮座地一帯が古く“天王の森”と呼ばれていたことから、元々は、防疫神・牛頭天王であったのが、明治の神仏分離によってゴズテンノウから同じ神格をもつスサノオへ変更されたものと思われる。

※社殿等
 細道路脇の鳥居を入った参道の途中に、茅葺単層という珍しい楼門が建ち境内に入る。
 境内中央に多くの提灯で囲まれた拝殿(入母屋造・瓦葺)が、その奥、堂々たる唐風破風を有する透弊で囲まれて本殿が鎮座する。
 本殿は、高壁と木立に邪魔されて詳細は見えないが、屋根の形から流造とみえる。

 
馬路石部神社・鳥居

同・楼門 

同・拝殿 
 
同・本殿域正面中門
 
同・本殿

同・内陣正面 

 境内右手の林の中に、朱塗りの鳥居が立つ興福稲荷社、その右に小祠5宇が鎮座し、少し離れて愛宕社2宇が鎮座する。
 小祠5宇は、左から山王社・八幡社・事代主社(やや大きい)・住吉社・神明社と並ぶ。

 
同・末社群
 
末社・愛宕社

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